◎どうして燃料がなくなったのか、おかしな話だ
河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(時事通信社、一九六二)から、第五章「大東亜戦争」第六節「マニラへの使節」の末尾、緑十字機不時着事件に関わるところを紹介している。本日は、その後半。
機体の沈下するにともない、私は膝の前の座席をかたくつかんで、のめらぬようにと頑ばっていたが、そのうちに、機体前部の着地を感ずるとともに、相当に強い惰力的の衝撃を受け、それと同時に、頭上の闇の中から、何物かガタコトと転落する響きがきこえ、瞬時の後急激な一撃突とともに機体が静定停止した。その刹那私は、「助かった」という一種の安心感を得、同時に、「この状況では怪我したものはなかろう」と推定した。
乗務員が前から、〝どなたかお怪我がありませんか、代表閣下は如何ですか?〟とたずねてくれた。私が、〝ありがとう、何のことはない〟と返辞をしたところが、左前方に岡崎〔勝男〕局長の声で、〝怪我した〟ときこえた。しかしその語勢も元気があり、立ち上がっているすがたも見えたから、大きな心配はなかろうと思う中に、乗務員の方から〝どうぞ出口に出て下さい〟といわれるので、後部の出入口の方に歩くと、扉は故障なく開かれ、海水に足を浸している乗務員の一名が、私を背負う姿勢で迎えてくれた。
見れば、波の全く静かな砂浜のなぎさで、機体の前半部は砂の上に、後半部は海水の中に、頗る具合のよい不時着ぶりである。私は背負われて数メートル、浜におろしてもらった。
月はまだ水平線上にある。機体を見れば、プロペラはみじめに曲がっているが、そのほかの部分には破損の個所は見当たらぬ、機体の後半部は静かに寄せてくるさざなみに洗われている。一行は機体を離れ、携行品も浜に運ばれた。岡崎氏の頭の微傷以外誰一人として怪我したものはおらず。
不事着の原因を聞いて見ると、燃料が尽きたのだという。陸地を見て平塚海岸と判定したとき、木更津までは行き得られると思ったが、どうも怪しくなったから不時着を決意したのだという。どうして燃料がなくなったのか、いささかおかしな話だが、私は追及する気にはならなかった。
そうこうするうちに急に月が落ちて暗くなりはじめた。あたかもそこへ一名の老人が浜づたいに来たので、〝ここはどこかネ〟とたずねたところ、天竜川河口の左岸に程近い場所であることを説明してくれた。平塚海岸などとは大きな誤測で、ここは遠州灘の海浜〔静岡県鮫島海岸〕なのである。
この老人の語るところによれば、彼はで乾魚〈ホシウオ〉の夜番の勤めにあたり、ひとりこの浜にいたところ、飛行機が降りてきたから、アメリカのものと思い、浜に曳き上げてある舟の陰にかくれていた。ところが飛行機から出た人たちの言葉が日本語にまちがいないので、出て来たという。
天竜川河口付近といえば、私が浜松飛行学校在勤時代の因縁で、一応私は地理も心得ている。この老人にも依頼して、近所のの警護団を煩わし、ついで天竜飛行部隊のトラックを寄越してもらい、一同これに乗って元の浜校へ行くこととし、東京への報告については警察系統に頼る処置をした。
月は全く消えて暗瞑の世となった。米軍艦の直射弾をも食って、焼土化した浜松市街を通り過ぎ、浜松部隊に辿り着いた。
私は元浜校の門の中へ車を進めたが、元の本部建物は壊滅の跡が残るだけ、周辺森閑として人の気はおろか、まさに猫の子一匹いる気配がなかった。私は、かねてこの部隊の営舎が付近の森林内あちこちに疎開散在していることを聞き知っていた故、近所にたずねる人家とても見つからず、大体かつての記憶にたよる感じでもって、車を走らせたところ、幸いに閃光が見えそれを目標として辿りついたら、それは航空通信隊の部隊で、一人の中尉が数名の兵とともにこの夜中に何か器材の修理のようなことをしていた。
この将兵に事情を話して、それらの助力を得、それによって浜松飛行部隊の大平少佐が軍医一名をつれて駈けつけてくれた。そしてわれわれの休宿所や岡崎氏の傷の手当てなどの世話をしてもらった。
大平少佐に、なんとか東京へ帰り得られる方法がないかと、相談したところ、この地の飛行機は全部富山に転居しているのであるが、ちょうど昨日富山から連絡に来た重爆機一機が小故障のため、当地に滞留している。只今からすぐに整備員をおこし、明朝六時半までには必ず東京まで私を送り得るように手配するという大平氏の答であった。
以上のようにして、東京への連絡も、帰任の見込みも確定したので、われわれは、明朝まで休むこととし、元の工員宿舎の一隅で寝た。
復 命
約二時間の仮眠後、八月二十一日の早朝兵隊さんのこしらえてくれた兵食に舌鼓を打ち、飛行場に行き、そこでわれわれを待っていた四式重爆〔飛龍〕に乗り込み、七時やや前、快晴の浜松飛行場を離陸した。箱根付近まで空路一碧〈イッペキ〉、富士もまことに奇麗な姿であった。東京の西郊やや断雲があったが、八時頃調布飛行場に着いた。
宮崎〔周一〕中将が一人出迎えに来ていてくれた。同氏から東京では昨夜以来総理殿下〔東久邇宮稔彦王〕以下大いに心配していたこと、現在総理官邸に関係者多数集まって報告を待っていることなどを伝えられた。そこでともかくさっそく総理官邸に行こうと、私は、岡崎、天野〔正一〕、横山〔一郎〕三氏とともに永田町に走った。
総理官邸には、総理殿下以下、外務(重光〔葵〕)海軍(米内〔光政〕)両大臣、近衛〔文麿〕国務相、梅津〔美治郎〕豊田〔副武〕両総長のほか関係省部の課長級まで多数参集して私たちを待ち受けていた。
総理および両総長に申告、ついで参集諸員一同の前で復命報告を終えたのがおおむね十一時であった。
午後一時十五分から総理侍立〈ジリツ〉のもとに、私だけ拝謁し、簡単に復命上奏を終わった。
そのあと更に要求され、木戸〔幸一〕内大臣および蓮沼〔蕃〕侍従武官長に対し、やや詳細にわたって報告をした。
『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』の第五章第六節「マニラへの使節」は、ここまで。第五章も、ここまで。
文中、「浜松飛行学校」とあるのは、正式には「浜松陸軍飛行学校」。同校は、一九四四年(昭和一九)六月に閉鎖されていた。河辺が、文中で「元の浜校」と述べているのは、このことを踏まえている。
明日は、また、話題を変える。