礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

土肥原賢二大将を弁護して(太田金次郎)

2021-08-31 00:23:37 | コラムと名言

◎土肥原賢二大将を弁護して(太田金次郎)

 太田金次郎著『法廷やぶにらみ』(野口書店、一九五九)という本がある。
 著者の太田金次郎(一八九七~一九六九)は、早稲田大学法学部出身で、ベルリン大学に留学したのち、弁護士となった。戦後の東京裁判で、陸軍大将・土肥原賢二(どいはら・けんじ、一八八三~一九四八)の弁護人を務めたことで知られる。
『法廷やぶにらみ』には、「東京裁判について」という章があり、土肥原賢二という人物についても、若干の情報を提供している。この章を、前後二回に分けて紹介してみよう。

東京裁判について

土肥原大将の弁護して  第二次大戦はまさに人類の悲劇であった。わたくしは荒漠たる焼土にたたずんで、ただ戦争の罪悪に悲憤した。
 ところで、わたくしが東京裁判の弁護人になったイキサツについては、不思議な因縁がある。それは遠く大正十二年〔一九二三〕、わたくしがドイツに留学したときに始まっている。
 当時、この裁判に関係のふかい坂西〈バンザイ〉〔一良〕中将が、ドイツ駐在武官補佐官をしており、また石原莞爾中将や被告の武藤章中将なども陸軍省から留学生としてドイツにあり、まだ大尉であったが、青年将校として羽ぶりをきかせていた。
 一同はわたくしと逢うたびに世界を談じ、日本の将来を論じて意気けんこうたるものがあったが、はからずも彼らの論じた日本の夢が、満洲事変、支那事変、太平洋戦争とつぎつぎと実を結び、そして破れて被告席に坐ることになった。そしてわたくしが弁護人として再びあいまみえるとは何たるめぐりあわせであろうと思った。
 元来わたくしがドイツに渡ったのも、帰朝とともに政界に打って出ようというひそかな野望をいだいていたからであった。しかし、
「政治家なんかつまらんぞ。日本の将来は政治家ではおさまらん」
 などと彼らによってクソミソにこきおろされたのである。その急先鋒は石原大尉だった。おかげでわたくしは弁護士に切りかえてしまったのだが、坂西大尉の厳父の坂西利八郎〈リハチロウ〉中将は、わたくしの担当している土肥原〔賢二〕大将の北支時代における上官だったと知って、わたくしは因縁のつながりは不思議なものだと思った。
 さて、土肥原陸軍大将の弁護人に選任されたのは、大先輩の塚崎直義〈ツカサキ・ナオヨシ〉先生の推せんと、背後にあって力強くわたくしを支持し激励してくださった法学博士乾政彦〈イヌイ・マサヒコ〉先生のご後援の賜物である。
 さて、いよいよお引きうけはしたものの、世界歴史始まって以来の裁判である。当時社会党関係の弁護士は「東京裁判の弁護人はご免」との声明を出し、国民の多くもまた、戦犯に対して憎悪の目を向けているという時なので、わたくしはつくづく考えた。
 それまでわたくしは二十年来、犯罪者の弁護に身を捧げてきたのだが、正は正とし、邪を邪とし、裁判所をして正義の殿堂たらしめ被告の寃を救い、屈を伸ばさんとする信条に生きてきたのである。
 いま国を誤り、世界の平和を攪乱〈コウラン〉したるものとして訴追されている東条〔英機〕大将はじめ、A級の被告の行為は、いろいろ非難されるであろうが、しかし彼等にも正しい主張があるに違いない。かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれずして立った被告もあり、その衷情は買ってやらねばならぬ。
 いかに戦勝国が戦敗国の指導者を裁く軍事裁判でも道埋に二つはないはずである。正はあくまでも正であらねばならぬ、邪はあくまでも邪である。勝てば官軍では、正義は根底から破壊され、裁判所は正義の殿堂でなくなる。
 殊に起訴状をみれば、昭和三年〔一九二八〕以来、日本は侵略戦争に終始してきたかのようになっているが、果してその真相はどうであろうか。事件の核心をついて其根底をきわむれば、連合国の判官諸公も、なるほどと肯いてくれるに違いない、日本国民もまた納得がゆくであろう。事は極めて重大であるが、本件の弁護こそ、日本人弁護士の使命なりという考えのもとに、わたくしは弁論をすすめていったのである。
 東京裁判の結果は、諸君のよく知るところである。そこで、わたくしは幾つかのエピソードを伝えるだけにとどめる。【以下、次回】

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