礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

家永三郎、「歴史の教訓」を語る(1961)

2017-10-04 02:58:19 | コラムと名言

◎家永三郎、「歴史の教訓」を語る(1961)

 本日も、岩波新書『憲法と私たち』(一九六三)に収められている文章を紹介したい。本日、紹介するのは、家永三郎の「歴史の教訓」という文章である。一九六一年(昭和三六)五月三日に、「憲法記念講演会」でおこなった講演記録(講演の原稿、もしくは講演内容を起こしたもの)である。
 家永三郎の生前、短いスピーチを聞いたことがあるが、講演というものは聞いたことがなかった。しかし、この講演記録から推察する限り、家永三郎は、聴衆の関心を引きそうな素材を用意した上で、わかりやすく説得的な議論を展開できる学者だったようだ。
 ともかく、家永三郎の講演記録の一部を引用してみよう。

 明治維新当初におきましては、明治政府は、あるいは大教宣布〈タイキョウセンプ〉運動など、神道の国教化をめざす復古的な国民教育を推進しようとしたこともありましたけれども、世界の大勢と歴史の発展の方向をよく考えまして、富国強兵の目標を達成するためには文明開化の政策をとらなければならないと考え直し、かなり思い切った文明開化政策を採用することになったのであります。それに件って、教育政策においても、相当に開明的な方向をめざす教育の方針が打ち出されたのであります。たとえば、その当時広く行なわれていた教科書には、福沢論吉の『学問のすすめ』であるとか、あるいはその種本〈タネボン〉のウェイランドの『モラル-サイエンス』の訳本であるとか、あるいはオランダの法律学者フィッセリングの説いた自然法の理論を神田孝平〈タカヒラ〉が翻訳して『性法略〈セイホウリャク〉』と題して出版した本、同じフィッセリングが法律全般について述べたものを津田真道〈マミチ〉が訳して『泰西国法論』と題して出した本であるとか、近代憲法意識を豊富にふくんだところの書物が、学校で教科書として使用されたのであります。これらの教科書の中には、今日の言葉でいう基本的人権に当る観念が詳しく説明されておりましたし、また議会制度や権力分立機構のようなことも説明されておりまして、今日の用語をあてはめれば一種の社会科教科書とでもいうべきものだったのであります。そのような教科書を使っての教育が明治十年前後に行なわれていたということは、これは今日から顧みまして非常に意義の深いことではないかと思います。
 はなはだ個人的なことを申しまして恐縮でありますが、私にとって忘れられない一つの記憶がございます。すでになくなりましたが、明治六年〔一八七三〕の生まれであった私の父は、明治十二、三年〔一八七九、一八八〇〕前後に小学校に在学したのだろうと思いますが、私にたびたび、自分の使った教科書には「神は天地の主宰にして、人は万物の霊長なり」と書いてあったと語っておりました。これはキリスト教の思想を述べた教科書を使っていた事実を示すものでありまして、それがどのような意味を持っていたかということはなお考えなければならないとしても、明治後期から昭和の初年にかけて教育を受けてきた私たちの世代の者からは想像もできないような違った空気が教育界に流れていたことは、否定できないのではないかと思うのであります。
 ところが、自由民権運動が高まってまいりまして、民主主義的な憲法を作ろうとする要求が抑えがたいものとなってまいりましたときに、政府は一方であるいは出版条例、集会条例――これはちょうど今日の公安条例のようなものでありますが、そうした、表現の自由を抑圧する法律を次々と作り出しまして、権力をもって民権運動を弾圧すると同時に、他方教育を強く統制することによって国民意識を根本的に切りかえようとするにいたったのであります。
 その手段はいろいろありましたが、たとえば教科書統制などが行なわれております。すなわち、このころまで盛んに使われておりました、さきほど申し上げました『泰西国法論』であるとか『性法略』であるとか、また加藤弘之という学者が立権政治のすぐれていることを説いた『国体新論』という本であるとか、そういうようなものを教科書として適当でないとしてその使用を禁止したのであります。単にこれらの学者の個人の著書を禁止したばかりでなく、その前に文部省がこしらえて発行したところの『威氏修身学』、これは福沢も使いましたウェイランドの『モラル-サイエンス』を翻訳したものでありますが、そんなものまでをふくめて、すべて近代的憲法思想を豊かにふくむ書物をことごとく教科書として使用してはならない、としてしまったのであります。そうして、このような本のかわりに、元田永孚〈モトダ・ナガザネ〉のような儒学者や、あるいは西村茂樹のような道徳学者の作りました、儒教主義的な色彩の濃い修身教科書が新たに採用されまして、教育の内容に大きな転換が生じてきたのであります。これに対しては、福沢諭吉などは大いに反対をしたのでありますが、効果なく、学校では、基本的人権について教えるよりも、むしろ権力者に対する国民の従順な気持を養成しようということになってしまったのであります。
 明治十六年〔一八八三〕に文部省は『小学作法』という本を出しまして、小学校の児童に今日の道徳教育のような教育を施そうとしたのでありますが、その中には、たとえば、「大臣、参議等を見る時は、必ず敬礼を行ふべし」「此外〈コノホカ〉卿輔、議官、将校、書記官、又は府知事、県令、其の他すべて官位ある人に対する時は、かならずこれに敬礼することと心得べし」「警部、巡査及び憲兵は、皆吾がともがらを護りて、難儀災厄等を救ふ職分なれば、途中に於ても道を譲りて失礼すべからず」というようなことが書かれております。こういう考え方を小学校の児童に植えつけることが、どういう意味をもつか、説明するまでもありますまい。【以下、次回】

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