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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

当時はまだ日本という国の確立がなかった

2017-10-30 02:40:56 | コラムと名言

◎当時はまだ日本という国の確立がなかった
 
 坂口安吾の『安吾新日本地理』から、「高麗神社の祭の笛」という文章を紹介している。本日は、その二回目。引用は、『定本 坂口安吾全集 第九巻』(冬樹社、一九七〇)より。
 一昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 戦後の今日、朝鮮からの密輸や密入国は発動機船を用いているらしいが、それは監視船の目をくぐるに必要な速力がいるための話で、まだ沿岸に監視の乏しかった終戦直後には大昔と変りのないアマ〔海人〕の小舟でさかんに密輸や密入国が行われ、それで間に合ったのだ。別に監視のあるわけでもない大昔には、アマの小舟で易々と〈ヤスヤスト〉、また無限に入国して、諸方に定住し得たのは自然であろう。
 遠く北鮮の高句麗には、南鮮と北九州北中国を結ぶような便利はないが、今日、密輸入密入国の一基地はウラジオストックに近い北鮮の羅津〈ラジン〉あたりにもあって、小舟によって潮流を利用したり、または潮流を利用して荷物を流す方法もあるという話であるが、荷物を流すのはとにかくとして、潮流を利用するというカンタンな航海法、もしくは出航後自然に潮流に乗ってしまったという航海の可能性は十二分に考えられるのである。
 この潮流は季節によって異るかも知れないが、たとえば、裏日本の海辺に於ては太平洋戦争前から再々ウラジオストックの機雷の漂流に悩んでいたのであった。ウラジオのものらしい機雷が津軽海峡にまで漂流し、本土と北海道を結ぶレンラク船の航海にまで危険が起ったのは今年〔一九五一年〕の話である。東京はじめ太平洋岸の人々にとってウラジオの機雷という物騒な漂流児が話題にのぼったのはようやく今春来のことである。
 けれども裏日本の海辺〈ウミベ〉がウラジオからの漂流機雷に悩みはじめたのは太平洋戦争の起る前からのことだ。私が昭和十七年〔一九四二〕の夏に新潟市へ行ったとき、博物館(であったと思う。あるいは別の場所だったかも知れない)でドラムカンの化け物のようなこの機雷を見た。それはその年かその前年ごろ新潟の浜へ漂着し工兵が処理したものであったが、すでに当時から裏日本の諸方の浜ではこの機雷に悩んでいた。もっともそのタネは日本がまいたようなもので、支那で戦争を起したりノモンハン事変などもあったから、ロシヤはウラジオ港外に機雷網をしいて用心しはじめたのであろう。それが冬期の激浪にもまれ解氷時に至ってロビンソン・クルーソーの行動を起すもののようである。
 この日本海の漂流児は能登半島から福井方面へ南下するのもあるが、富山方面へ南下して佐渡と新潟間より北上を起して途中の浜辺でバクハツせずについに津軽海峡にまで至り、そこから更に太平洋にまで突入して行方をくらますという颱風の半分ぐらいも息の長いのが存在しているのである。そして、能登半島から山陰方面へ南下するのと、富山新潟方面へ南下して更に北上するのと、どっちの方が多いのか知らないが、富山新潟方面へ南下して更に北上する漂流横雷が決して少数ではなく、敗戦後元海軍の技術将校にきいた話では、そッちへ流れるのが春夏の自然の潮流だという話であった。ともかく多くの漂流機雷が能登半島の北岸沿いに新潟秋田方面にまで北上していることは事実なのである。
 日本の原住民はアイヌ人だのコロポックル人だのといろいろに云われておるが、貝塚時代の住民はとにかくとして、扶余族が北鮮まで南下して以来、つまり千六七百年ぐらい前から、朝鮮からの自発的な、または族長に率いられた家族的な移住者は陸続としてつづき、彼らは貝塚人種と違って相当の文化を持っておったし、数的にも忽ち先住民を追い越す程度の優位を占めたものと思われる。先住民が主として海沿いの高台に居を占めて原始生活をしていたのに比べて、彼らは習性的に(または当時の彼らの科学的考察の結果として)山間の高燥地帯に居を占め、低地の原野を避けるような生活様式を所有しておった。大昔の低地は原始林でもあるし洪水の起り易い沼沢地帯でもあって毒虫猛獣の害も多く、それに比して山岳地帯の盆地の方が居住地としての安全率が高かったのであろう。そこには先住民たる貝塚人種の居住もなく、全てに於て山間に居住地を定める方が他とのマサツや獣虫天災の被害が少なかったのであろう。またコマ、クダラが亡びて後は特に密入国的な隠遁移住が多かったであろう。
 つまり天皇家の祖神の最初の定着地点たるタカマガ原が日本のどこに当るか。それを考える前に、すでにそれ以前に日本の各地に多くの扶余族だの新羅人だのの移住があったということ、及び当時はまだ日本という国の確立がなかったから彼らは日本人でもなければ扶余人でもなく、恐らく単に族長に統率された民として各地にテンデンバラバラに生活しておったことを考えておく必要がある。
 つまり今日に於てもウラジオストックからの漂流機雷が津軽海峡のレンラク船をおびやかす如くに、当時に於ても遠く北鮮からの小舟すらも少からぬ高句麗の人々をのせて越〈コシ〉や出羽〈デワ〉の北辺にまで彼らを運び随所に安住のを営ませていたであろうということを念頭にとどめておくべきであろう。
 むろん馬関海峡から瀬戸内海にはいって、そこここの島々や九州四国本州に土着したのも更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島宮崎と九州を一巡して土着の地を探し、または四国を一巡したり、紀伊半島を廻ったり、中部日本へ上陸したり、更に遠く伊豆七島や関東、奥州の北辺にまで安住の地をもとめた氏族もあったであろう。そして彼らは原住民にない文化を持っていたので、まもなく近隣の支配的地位につく場合が少くなかったと思われる。【以下、次回】

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