礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

木畑壽信氏を偲んで・その4(青木茂雄)

2017-10-29 07:17:40 | コラムと名言

◎木畑壽信氏を偲んで・その4(青木茂雄)

 本日未明、青木茂雄氏の「木畑壽信氏を偲んで」の四回目の原稿が届いた。坂口安吾の文章の紹介は後回しにして、本日は、これを紹介する。以下、すべて、青木氏の文章である。

木畑壽信氏を偲んで(4) 青木茂雄

 ……
 わが心は恐れと喜びとを内におぼゆ。
 恐れの惹きおこさるるは、わが心、神の高きを思い見、
 その深き奥義に分け入りえざる身の程を知り、
 理性を尽くすともこの高き御業(みわざ)を悟りえぬ時ぞ。
 ……
(J.S.バッハ『教会カンタータ180番、“装(よそお)いせよ、おお わが魂よ”』 より、杉山好訳)

(Ⅳ)「喫水(きっすい)」
『ことがら』誌は8号で終刊した。発行日は1986年11月10日とある。7号が1985年3月10日とあるから、1年半のブランクがあったことになる。この1年半に起こったことが、『ことがら』終刊の導線となっていくのである。なにぶんにも遠い昔のことなので、記憶が定かではない。その前後のことで憶えているのは、1984年4月に事務所を高円寺から高田馬場に変えたことと、その年の8月に編集同人で宮城県の鳴子(なるこ)温泉に2泊旅行したことである。鳴子は長崎浩氏の勤務場所に近かったためである。長崎氏は小阪氏がかねてから私淑している数少ない人物の一人である(『叛乱論』『政治の現象学』などの著書がある)。宿舎の温泉で長崎氏を交えて語りつくし、思えばその頃が同人の共同性の最高潮であった。2日目にはそれぞれに自由行動したが、私は木畑ともう2人で少し離れたところにある山(高松岳)のふもとまで車で出掛け、鄙びた温泉につかって、それから山を登った(木畑は途中で脱落)。思い返すに、そのときの行動グループが集団のその後に微妙に影響していたかもしれない…。
 編集とその後の実務は国立市富士見台の公団住宅にある小阪氏の住居で行った。しばしば酒盛りもそこでやった。85年の4月には井の頭公園で「ことがら」同人周辺の人物にも呼びかけて「花見」の酒宴もやった。こういう催しの口火はたいてい小阪氏が切った。彼にとって「思想」と「生活」は一体のものであるし、あらねばならなかった(だから、「制度論」の第1章は「実践論」であった)。
『ことがら』終刊への経緯は8号の「後記」の小阪氏の文章に書かれている通りである。それで過不足がない。ただ、私なりに少し付け加えるならば、生活感覚やモラルなどの微妙な差異が集団に微かな亀裂を生み、それが大きくなっていったこともまた事実である。私の位置はおそらく、戦後民主主義的な感性への執着である(それが「後記」の小阪氏の文章にある「タイプへのフェティッシュ」として象徴されたのであろう)。私の「左翼倫理」にせよ「70年代記」にせよ、底に流れているのは戦後民主主義的感性とモラルの、救抜であり再生である。そう評価されて少しの異論もない。
 小阪氏たちはまた別の歩みを進めた。しばらく後に新雑誌『オルガン』(これも哲学的なタイトルだが)を始めた。進んで「現代思想」の渉猟に出たように見えた。少なくとも私の向かおうとしているのとは別の方向を目指しているように見えた。
『ことがら』終刊号の「後記」に私は次のように書いた。

 〈恣意〉的であることは、本当は集団にとっては無限の拡散を生み出すのみである。それが集団の結集軸たり得たとすれば、それが集団にとって理念的な象徴と成り得た時に於てである。たしかに一時期、それが存在し得た。
だが、幸か不幸か、その時期は非常に短く、瞬時的なものであるにとどまった。
時は移ろった。
 同人は、それぞれの場所で、それぞれの経験を積み重ねていた。それぞれの経験の違いは、交錯させることが時を経るにしたがって困難の度合いを増していった。
 (…)いつの日か、またあい見ることを期したい。

 小阪氏の「後記」にもあるように、終刊への最初の契機は編集方針をめぐってのささいな見解の差異であった。しかし、同人解散の意味は当時の時代状況と無関係ではあり得なかった。今にして思うのだが、1980年代の時代思潮の動向が影響していたのである。
 そこに一本の線を引くならば、やはり吉本隆明の1980年代の転変(或いは変節)である。吉本の言う「高度資本主義」或いは「超資本主義」という状況認識、その下における文化思想現象への対応如何を巡ってである。コム・デ・ギャルソンの衣装を身にまとって、モデル・チェンジをしたごとくさっそうと80年代型知的大衆の前に登場した「知の巨人」の姿は、吉本の影響圏の中にいた我々にとってちょっとした“事件”であった。端的に言って、この線に沿うか、或いは背くかである。この対応が迫られ、小阪氏らは前者であり、私は後者であった、ということになる。
 思想の土着化、転向、知識人と大衆、思想のコスモポリタニズムとナショナリズム…、あの系列の問題意識はどうなったんだ、それを放擲して「高度資本主義」も「超資本主義」もないだろう。これは昔から幾度となく再生産されてきた《巨大な現実への拝跪》そのものではないのか。或いは「君子は豹変」するのか。それともただ単に営業用のモデルチェンジなのか…。
 1960年代後半から1970年代まで、私は吉本隆明に対しては常に吸引と反発の、同調と違和の境界線上にいた。しかしまた、彼の引いた線の偏差の範囲内にもいた。その偏差の構造の描写が先にあげた「左翼倫理」であり「70年代記」であった(これについては、また稿を改めたい)。しかし、1980年代の初頭を飾る『マス・イメージ論』は、当時の私がもっていたどのようなシェーマにも外れたものだった。私は当時、吉本が《共同幻想》の構想をより深化させ、さしずめヘーゲルで言えば、「客観的精神」の展開の如きものから国家の発生を理論的に解き明かせれば、それはすごい、吉本だったらやってくれる、そう期待していた。そのくらい『共同幻想論』は、基本的な構えでは了承しつつも、粗削りであり、未完成であった。何しろ、序文でヘーゲル以来の試みと謳っている以上、完成させようとするのが「学」としての責任であろう。
 当時、笠井潔氏によれば吉本は『共同幻想論』の続編を構想中であり、それが柳田国男論として実現されつつある、という予測だった。しかし、できあがった『柳田国男論集成』は作品解説以上のものではなかった。代わって登場したものは似て非なるものであった。私は頭がくらくらして『マス・イメージ論』を最後まで読み通すことができなかった。それに加え、特定の対象を定めた罵詈雑言(「反核異論」等)は相変わらずで、これを境に私は吉本の文章とリアルタイムで付き合うのは一切やめた。しかし、小阪氏の吉本との関わりはこの頃から本格化していったようであり、1987年に行われたイベント「吉本隆明25時」にも小阪氏は壇上に発言者として登場しており、さらにそのしばらく後には紀伊国屋ホールで「吉本隆明・栗本慎一郎・小阪修平」で鼎談の催しが行われた。私が小阪修平の姿をじかに見たのはそれが最後であり、吉本の姿をじかに見たのもこれが3度目でかつ最後だった。

『ことがら』は1986年11月で終刊し、同人も解散した。短い期間ではあったが、私はひとつの時代が終わったという思いに襲われた。ちょうどそのころ、私は地域(川崎市麻生区)で地権者を支えて環境保護運動に取り組み始めた。自分が発起して運動を手掛けるという体験はこれが最初であった。この現実の重さに比して、すべての「思想」がとめどもなく軽いものに思われた…。また、吉本からすれば、私はさしづめ「反動的なエコロジスト」であり「ソフトスターリニスト」的な市民主義者というようなレッテルの対象となろう、とも考えていた。
 私は何かを清算しなければならない、と考えて、しばらくのち、1995年に創刊された『歴史民俗学』誌上に「吉本隆明『共同幻想論』批判」を書き、5回にわたって連載した。それを機会に再度、その前後の彼の文章を含めてかなり精読したが、私の見立てはそれまでと変わらなかった。私の「批判」以上に『共同幻想論』を精読した文章に今までのところまだ出会っていない。私の文章はおそらく吉本はもとより、誰の目にもとまらなかった。反応はゼロであった。しかし、これを私は吉本の存命中に書いたのであり、それがどれほどの決意を要したかは当時でなければわからないであろう。今読み返してみても、それほど的外れのことは書いてないはずだ。
(吉本の文章でいちばん好きなのは評論集『詩的乾坤』に収録された二つの短文「誰に 向かって読むか」「何に対して書くか」である。この二つの短文があれば他のすべての膨大な文章は不要である、とさえ思える。また、彼の著作の中で、歴史の評価に耐えるものを一冊だけあげるとすれば主著『心的現象論』となるであろうか。日本の思想史の中で、コギト・エルゴ・スムを実践した唯一無二の著書として。)

 閑話休題。
「ことがら」同人は解散したが、高田馬場のアパートの一室はそのままであり、そこを使って月に3、4度「講座」を企画した。木畑を含む同人の残存グループ数人で始めた。そのうちの一人高野幸雄氏の命名で「テクネ社」とした。講師としてよばれたのは、笠井潔氏(フランス現代思想の解説)、三上治氏(吉本『重層的な非決定へ』の講読)等々であった。ほかにもいろいろと企画があったが、詳しいことは憶えていない。「テクネ社」は1年くらい続いたが、そののち消滅した。「テクネ社」の終了とともに、私と木畑との関係も疎遠になった。
 そのあと私は職場の方が忙しくなり、また、地域の活動や組合活動などでも多くの時間を割かれるようになり、思想表現の活動全般からは遠ざかった。その間私が書いた文章は、大体が、組合運動その他の関係で必要に迫られて書いたものか、自分の仕事(高校社会科教員)に関するものか、2004年から始まった「日の丸・君が代」強制反対の裁判闘争に関するもの、それと「映画論」など趣味的な文章にとどまった。必要もないのに書く(書くことを目的として書く)などということがおよそ考えられなくなった。10代の後半から断続的に続けてきた「日記」を書く習慣(というよりも書かずには済まない衝動のようなもの)もこの頃に消滅し、あとはただその日に起こったことを事後的に振り返るメモを残すだけとなった。この頃、確かに何かが変わった…。30歳代の後半にさしかかっていた。
 私は、実生活的にはまったく充足していた。そのうちに、待望の子供もできた…。
 さて、木畑は「ことがら」同人解散後しばらく経って、新宿区役所を退め、そしてアメリカにわたって大学で勉強したという話などが聞こえてきた。その頃だったか、彼自身で綴った手書きの分厚い冊子が、時折私のもとへも郵送されてきた。その言わゆる「木畑文書」は、彼の学術的な精進の証しであることは間違いないのだが、とうに関心のなくなっている私などには到底読み通せるものではなかった。そのうちにそれも送られて来なくなった。〈木畑はまだ「学術的なもの」にこだわっているのか、私はもうとうに捨てたのに…。〉
 その後は約20年間、彼とはまったく連絡が途絶えていた。私の定年退職を2年後に控えた2006年から、水道橋の「アソシエ」で子安宣邦氏の日本思想講座に出るようになった。つまり、これからの定年後の自由な時間のために言わば「思想的なリハビリ」と自称した。
 その「アソシエ」の講座で、20年ぶりに木畑と出会った。これが三度目の出会いである。帰りに何回か喫茶店などで話したが、まったく変わっていない、そして考えていることも昔とまったく同じで、私は彼といるとタイムスリップしたような気さえした…。

 長々と続いたこの文章もそろそろ終わりとしなければならない。「偲ぶ」文章がその範囲を大幅に逸脱してしまった。人を思うのが「偲ぶ」の字義であるごとく、木畑壽信を偲べば当然周辺のことも思い出されてくる。良きにつけ、悪しきにつけ…。
 最後に。彼はよく「喫水」(きっすい)という言葉を使った。〈『ことがら』は「喫水」は良い…。〉それが『ことがら』に対する彼のイメージだった。船首の切っ先がさっそうと水を切っていく姿、つまりそれは彼の浮かべる“前衛”のイメージなのである。その姿勢は最後まで変わらなかった。
 木畑壽信の遺作となったのは『流砂』11号(2016年7月)に掲載された「知の政治―共産主義の誕生」という長めの文章である。彼が以前からテーマとしていた「権力論」の集大成である。一見すると、全編にわたって引用とカタログの集成で、木畑自身の地の文があまりないという、読むのに骨が折れる文章ではあるが、ここには明らかに木畑自身のモチーフが貫かれている。その一本の線は、「知の政治」から「言語の政治」へという太い糸であり、そこには木畑自身の〈何か〉が凝縮されている。ここに、先行する《思想家》からの引用を指摘することもまた容易いものではあろう。しかし「引用する」そのスタイルこそが木畑壽信のイメージする「喫水」なのである。「喫水」する木畑壽信の姿をイメージしつつ、思わず長くなってしまったこの文章を終わりたい。(了)

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