礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大川周明逮捕の顚末(木内曽益)

2024-02-11 00:08:39 | コラムと名言

◎大川周明逮捕の顚末(木内曽益)

 当ブログでは、2014年2月4日に「5・15事件の黒幕・大川周明を上野駅で逮捕できず」という記事を、翌5日に「大川周明を土浦から自動車で護送(1932・6・16)」という記事を載せたことがある。
 この記事は、直接、逮捕に当たった清水万次(当時・警視庁刑事部捜査第二係長)の回想を紹介したものであった。このブログ以外では参照できない貴重な史料を発掘できたと思っていた。しかし、ごく最近になって、東京地裁検事(当時)の木内曽益(つねのり)もまた、この逮捕事件を回想した文章を残していることに気づいた。
 その回想文は、木内曽益著『検察官生活の回顧(再改訂版)』(私家版、1968年11月)の「あの人この人訪問記(再改訂版)」の中にあった。本日以降、「あの人この人訪問記」のうち、「大川周明逮捕の顚末」など、いくつかの項を紹介してみたい。

     大川周明逮捕の顚末
――ところで大川〔周明〕の逮捕には、ずい分苦労したようですね。
 「なにしろ、大川といえば当時有力な右翼団体であつた神武会〈ジンムカイ〉を主宰し、且つ、満鉄を背景として多額の資金を擁する東亜経済調査局の理事長として実権を握つているばかりでなく、多年にわたつて陸軍の首脳者と密接な連絡があり、殊に陸軍統制派の若手連中の間には非常な信望があつて陸軍部内においても、右翼団体の間においても、その勢威〈セイイ〉及ぶものなしといつても過言でない位でした。その大川を逮捕するということになれば、その影響するところ大であり、場合によつては一波瀾も二波瀾も起りかねまじき状況でした。従つて、いかにして彼を逮捕するか、また逮捕後の影響ということも十分考慮の内に入れておかなければならなかつたわけです。
 私は、当つて砕けろという気で、〔1932年〕六月十五日の午前中〔品川区〕上大崎の大川博士の宅に電話をかけ〝大川さんに明十六日私のところへ出頭してもらいたいのですが〟というと大川博士自身が電話口に出て来て、
 〝私は、今夜上野発の汽車で青森の八戸〈ハチノヘ〉に講演に行かねばならぬから、明日は出頭出来ない〟
 という返事でした。
 私は内心〝占めた〟、とよろこびながら早速警視庁の幹部と協議して裁判所から強制処分による勾引状(現行の逮捕状と同じ)をもらい、上野駅を出発するところを逮捕することに相談が決まりました。もうこの当時は警視庁の幹部も替り、警視総監が藤沼庄平氏、刑事部長は橋本清吉氏で、藤沼総監も橋本刑事部長も、法の威信保持の為には身を捨てる覚悟で五・一五事件の後始末をしようという考えで登場して来た人々ですから、これからの仕事は私も一層気強くなつて来てました。
 その晩、五・一五事件の警視庁側主任であつた清水万次警部(後の東京区検副検事)が先頭に立つて、部下の刑事とともに上野駅に向い、私は新聞記者の眼を避けるために当時麹町区隼町〈ハヤブサチョウ〉にあつた警視庁捜査第二課長官舎の二階座敷で電灯を消して頑張り盛本(完)課長(この当時は石森勲夫〈イサオ〉氏は本所両国警察署に転出し、盛本完〈モリモト・ユタカ〉氏が牛込早稲田警察署長から捜査第二課長になつていた)渡辺(啓三郎)係長とともに清水警部からの報告を待つていた。時間は刻々と過ぎるが、いくら待つてもなんの音沙汰もない。いささか気になつて来たので上野警察署に電話で問合わすと、上野駅では別に変つたことはなかつたといい、大川博士は二十人位の壮漢に見送られて、午後十時半発の青森行急行で出発したということでした。さては清水警部らは、見送りの壮漢の目をさけるため、車中で大川を逮捕し、日暮里〈ニッポリ〉で下車するのかと一縷〈イチル〉の望みをかけていたけれども、汽車が日暮里を過ぎたと思われる時間になつても何の音沙汰もない。どうしたのかと心配でたまらない。
 ところが、夜更けて、土浦から清水警部が電話をかけて来た。大川を車中で無事逮捕し直ぐ自動車で帰京するという報告であつた。私たちは、これでホツとした。
 その日の真夜中に、清水警部ら一行が、大川とともに自動車で警視庁に無事着いた。清水警部の話によると、上野駅には大川の身辺を護衛する大勢の屈強な壮漢が見送りに来ており、ここで逮捕することは却つて面倒なことになると思つたので日暮里駅までの間の車中で逮捕する考えで乗車した。汽車が発車すると間もなく、二等車(今の一等車)に入り、大川の様子を見ると、随行もおらず、大川ただ一人であつたので、事情を告げて警視庁に同行を求めたところ、さすがは大川、動ずる色もなくこれに応じたが、さて日暮里で下車しようと思うと日暮里には急行が停らないことがわかつたから、やむなく次の停車駅である土浦でやつと下車したわけだ。しかし、もともと土浦まで来る考えがなく、また急いだので、日暮里から土浦までの乗越料金を払うだけの持ち合せの金はなく、土浦警察署に頼んで立替えてもらい、土浦から自動車でやつと帰庁したのだとのことでした。

 以上は、「あの人この人訪問記(再改訂版)」のうち、「大川周明逮捕の顚末」の項の全文である。
 清水万次警部(肩書きは木内による)とその部下は、青森行き急行の車中で大川周明を逮捕したあと、日暮里駅で下車するつもりだった。同列車が土浦駅まで停車しないことを知らなかったのである。そのことを知った清水警部は、車掌に会い、土浦駅に自動車二台を用意してもらいたい旨の鉄道電話を依頼した。土浦駅で下車すると、今度は、駅前にあった交番の巡査に、東京の宮城長五郎検事正に宛てて、「今土浦を発つ」と電話するよう依頼したのである。
 清水万次の回想によれば、青森行き急行が上野駅を発ったのは、1932年6月15日の午後11時、土浦駅で下車したのは、日付が変わった16日の12時過ぎだった。また、細かいことだが、清水万次らは、入場券を買って上野駅構内に入ったという。

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