礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

宮本さんたちと漁村研究会をもった(船山信一)

2024-02-09 02:28:17 | コラムと名言

◎宮本さんたちと漁村研究会をもった(船山信一)

『未来』第179号(1981年8月)の特集「宮本常一先生=追悼」から、船山信一の「宮本常一さんとの交流に関しての回想」と題した追悼文を紹介している。本日は、その二回目(最後)。

 当時はアチック・ミューゼアムが日本唯一の漁村民俗いな漁村研究機関であって、ほかの漁村研究家といえばただ地理学者の青野寿郎〈ヒサオ〉氏、それから京都大学経済学部の山本美越乃〈ミオノ〉氏→蜷川虎三〈ニナガワ・トラゾウ〉氏(水産講習所出身)がおられる位のものであった。そして奇しくも蜷川さんの弟子である岡本清造〈セイゾウ〉氏(水産講習所助教授)・津田雄一君(帝国水産会技師)・宮城雄太郎君(水産雑誌や水産図書を出版していた水産社理事)等が東京で水産の学校・団体・出版社につとめ漁村の研究をしておられた。私は宮本さんおよびこれらの先輩たちと相談して漁村研究会をしばしばもった。そしてそれには、宮本さんと同じく民俗学者であって全漁連にも勤めておられた桜田勝徳〈カツノリ〉さん、それから宮本さんといっしょにアチック・ミューゼアムに勤め漁業経済を研究しておられた伊豆川浅吉〈イズカワ・アサキチ〉氏、さらに農林省漁政課で協同組合の指導をしておられた森田真弘氏、全漁連で指導部の仕事をしておられた山田幸次君・片柳左右吉君・本多英男君などにも漁村研究会に参加してもらった。(鈴木〔善幸〕さんも含めた水産講習所出身者たちには、やはり私といっしょに大日本水産会に勤めていた古川東助君を除いて、この研究会に参加してもらえなかった。もしこの人たちがこの研究会に参加してくれていたら、ただ私たちや民俗学者たちにとって有益であっただけでなく、水講〔水産講習所〕出身者たちも眼界がいっそう広くなり、漁村研究がいっそう多角的総合的になったであろう。)
 水産関係者たちは主流である水産講習所出身者たちを含めて、漁村の古い民俗について、そして漁村・漁民の生活の奥底までよく知っているわけではなかったので、宮本さん、桜田さんなどの民俗学的研究によってたいへん多くのことを教えられ、また宮本さん、桜田さんなども現代の漁村経済などについて水産関係者たちから参考になることを知られたことも少なくなかったはずである。
 しかし民俗学者たちと水産関係者たちとの交流も範囲は狭く、且つ一時的表層的なものであった。しかも、民俗学に多少の関心をもっていたところの、私たち京大卒業者で水産に関係していた者たちの「狂(京)水会」は、水産界での主流である「水講派」に比してはまことに微力なものであった。
    ○
 私は昭和十九年〔1944〕に疎開を兼ね、しかし島木健作の『生活の深求』という気持をもちながら単位漁村まで降りて行く勇気がなく、中央水産業会仙台支所に転勤させてもらい、敗戦で東京に呼び返されたときもその気にならず、中水を辞職し、仙台で宮城県水産業会→宮城県漁業協同組合連合会の仕事にたずさわり、常務理事にされたときは単に指導事業だけでなく、経済事業や金融事業の面でも責任者になることはその任でないと考えて、昭和三十年〔1955〕に壮年時代の十八ケ年にわたる私の「水産時代」に終止符を打ち、四十七歳にして始めて立命館大学で哲学の教職についた。
 私は仙台疎開の際に、伝通院〈デンヅウイン〉にある静かな料亭で渋沢〔敬三〕さんに、ささやかではあるが心のこもった送別の宴〈ウタゲ〉を開いていただき、それには宮本さんも出席して下さった。そして今考えて見ると、この宴はただ渋沢さんとの永久のわかれになっただけでなく、宮本さんとも永久のわかれになってしまったのである。
 この宴の席で私は二高〔仙台〕出身の渋沢さんから「さんさしぐれを唄えないうちは仙台から帰ってくるな」といわれた。私は仙台に十一年いたがさんさしぐれはついに一人では唄え切れないでしまった。そのためでもないが私はあれから三分の一世紀たって関東に帰って(?!)来ても東京ではなくて横浜に住んでいる。渋沢さんは敗戦後大蔵大臣になられたりして、私は伝通院での送別会以後渋沢さんに一度もお会いできずに終ってしまった。宮本さんも私が仙台にいるうちに三陸地方には来られなかったようで私が宮本さんに御あいしたのはやはり伝通院での送別会が最後になってしまったわけである。
【以下、割愛】

 文中、「仙台疎開の際に」とあるのは、「仙台に疎開する前に」の意味であろう。「伝通院」は、東京小石川にある浄土宗の名刹だが、ここでは寺院名でなく、地名として用いられているようだ。
 民俗学者・宮本常一とマルクス主義哲学者・船山信一との間には、「漁村」という共通項があったわけだが、そのことを知る人は少ない。
 なお、宮本常一は、1907年(明治40)8月1日、山口県に生まれており、船山信一は、同年7月29日、山形県に生まれている。生まれた日は、船山のほうが三日早い。

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