礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「早く掘ってくれ」と叫ぶ声が聞えて来る

2024-01-20 02:41:41 | コラムと名言

◎「早く掘ってくれ」と叫ぶ声が聞えて来る

 上原文雄『ある憲兵の一生』(三崎書房、1972)の第三章「戦渦」を紹介している。本日は、同章の「艦砲射撃下の浜松」の節の後半を紹介する。

 壕を出て地下壕に通じる階段を降りながら
「どうだ! 皆んな無事か?」
 と怒鳴った。
「分隊長生きていましたか。分隊などふっ飛んでしまいませんでしたか?」
「分隊も残っている。もう砲撃はやんだから早く出て来い」
 というと、三十名程の隊員がぞろぞろと出て来た。
 地下壕に待避した連中は、掩蔽壕〈エンペイゴウ〉に居るよりも大変であったという。
 鹿谷〈シカタニ〉公園の山腹に着弹する砲弾がさく裂するごとに、側面から地響きの振動をうけて、壕内の杭木や土止板〈ドドメイタ〉が揺れて、土砂がぽろぽろと落ちる、坑道を伝わって響いてくる爆発音は耳から腹の中へ射し込むようで、文字通り生き心地がしなかったという。
 砲撃が終ったので隊員を区署〔区処〕して被害地域の取締に出動させ、自分は車で静岡銀行に急行した。静岡銀行支店の裏別館は、憲兵分隊の分室として借用しており、隊員数名を分駐させてあるので、これ等部下の安否が気がかりだったのである。
 静岡銀行支店の前まで行くとすぐ前の道路に大きな弾痕の穴があった。松菱百貨店の棟屋には大きな貫通痕が見えた。銀行の裏側に回って、分室を呼んでも返答がない、階下の小使室を見たが誰も居ない。本館の地下室の方で、ピシャピシャと水音がするので地下へ降りると、先般の大空襲で地下室は水が溜まって、帳票の白い紙片が浮いている。
「誰れか居らぬか?」
 と叫ぶと、腰丈もある水溜りの中から憲兵五六名と小使の親娘が、じゃぶじゃぶと出て来て、 
「もう砲撃は止んだでしょうか?」という。
「大丈夫だ、確かりせい」と喝を入れた。
「駅の付近に被害があるようだからすぐ行くよう」と浜松駅に行ってみた。
 駅前広場には、ヨの字型に盛りあげ式の待避壕が造ってあった。その壕の前で砲弾二発が破裂したので、壕がつぶれて中に待避した人、数十名が生埋めになってしまった。
 到着してみると、まだ手が着けられない状態で中から 
「助けてくれ!」
「早く掘ってくれ!」
 と叫ぶ声が聞えて来る。前後して飛行部隊から派遣された救援兵のトラックが到着し、豪口から掘り始めた。
 壕口に居た者は砲弾をあびて、負傷しており、すでに死亡した者が多かった。
 絶命している者はそのままそこに並べ、負傷者は応急手当もそこそこに衛戍病院に運んだ。
 壕の奥では、腰まで砂に埋って助けを求めている。
「生存者を早く掘り出せ」
 と作業員はスコップを振って掘り進むが、土を除けて掘り出すと、ぐにゃりとして倒れてしまう者が多かった。
 罹災者の中に軍人の遺体が一人あったのみで、あとは一般男女であった。
 四十余りの遣体を並べたが、その情況はまことに悲惨の極みであった。
 夜も明け始める頃であった。被害状祝巡察中の部下からの報告で、
「駅の東方千米の地点で、列車が砲撃をうけて立往生し、死傷者多数が出ております」
 というので、すぐまたそちらに急行した。
 線路を二米ばかり高く盛り上げた、土堤〈ドテイ〉のようになった場所で、十数輛の旅客列車が停って、乗客や警防団にやじ馬もまじって大混雑雑をしている。
 乗客ははじめ空襲と思って、列車の下や、両側の土堤に避難した。線路の北側に避難した乗客に死傷者はなかったが、列車の下や、南側(海岸側)に避難した者は、砲弾の破片をうけて死傷者が多かったのである。
 もう救援隊のトラックも来ていて、負傷者を病院に運んでいた。
 救援隊に連絡して負傷者を先に収容し、死者は後回しにすることにして、全線を回って見ると、北側の被害をうけない乗客は、そのまま土堤に這っており、気の抜けた顔でじっとしている。中には軍服を着た兵隊も相当混じっているので
「軍人は卒先して、負傷者の救助を手伝え、なにをぼやぼやしている」と怒鳴り散らした。
 私の声を聞いて、憲兵の志内少佐が飛んで来て、「この列車で大阪へ帰える途中だ」といわれた。暫らく救護活動を続けて、負傷者全部を病院に運搬を終ったので、志内少佐と自動車で分隊に帰えってきた。
 地下壕で志内少佐と昼食をしながらの話しでは
「東京へ行って知った情報では、いまポツダム宣言が出てそれをうけるかうけないかの話も出ており、上部には戦争終結の気運もかなり濃くなっているようだ」
 とのことであった。
 この艦砲射撃について、白羽〈シロワ〉海岸監視所の話によると、『敵艦四隻が発砲しつつ、浜松に接近し、浜名湖々口付近から引返えしつつ、再び砲撃して大平洋上に去った』ということであった。
 浜松飛行場には特攻機を持つ特攻隊が駐屯していたのであるが、何故か出撃しなかった。

 浜松大空襲関係の話は、ここまでとし、明日は話題を変える。

*このブログの人気記事 2024・1・20(9・10位になぜか種樹郭橐駝伝)

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