礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

金子頼久氏評『維新正観』(蜷川新著、批評社)

2015-08-13 03:18:05 | コラムと名言

◎金子頼久氏評『維新正観』(蜷川新著、批評社)

 一昨日の深夜、金子頼久氏から、蜷川新著『維新正観』(批評社、二〇一五)に対する書評をいただいた。ご本人の了解を得たので、本日は、これを紹介させていただくことにしたい。

『維新正観』を読んで  金子 頼久
 
 明治維新が無法なクーデターであったということは、すでに『攘夷と憂国』において把握していましたが、この本はこの「いかに無法であったのか」ということについての実態に迫るものと言えます。
 筆者の蜷川新氏は、旗本の家に生まれ、戦後の昭和27年にこの『維新正観』を発表したわけですが、当然治安維持法による検閲などもなく、戦後になってはじめて氏の把握せる「事実」を如実に物語ることができたのだと思います。
 筆者の一番言いたかったことは、そも明治維新とは何だったのか、その真相といわゆる「明治維新」が日本の民主主義の萌芽であると述べている人々(徳富蘇峰や、また当時歴史学者として高名だった諸氏)がいかに当時の政府に迎合的な言説を用いていたかという点について鋭く批判し、幕臣には反逆者扱いされた小栗上野ノ介などの優秀な人材が豊富であり、反動的な頭目とみなされた井伊大老を始めとする人々の名誉回復ということもあったと思います。
 さて、本書の内容に入りますが、まず一番印象に残ったことは、西郷が五百人に上る大強盗団を組織して江戸市中に放ち、民の財物を掠奪し、その盗みとった金品を芝の薩摩屋敷に運び込んでいたこと、これが計三回ほど本書の中で触れられており、筆者も強調したい部分なのかと思いましたが、上野戦争で彰義隊の遺骸を腐敗するにまかせ野晒しに放置したこと、王政復古の大号令の際の御前会議中に、岩倉が西郷のすすめによって山内容堂を刺殺せんとしていたこと、孝明天皇の暗殺については以前から耳にしていましたが、家茂の毒殺については初耳で、大坂出陣中に俄に急病にて亡くなったいう説に妙なものを感じてはいましたが、岩倉が妹なる人物を差し向けて毒殺し、一度目は失敗し、二度めに成功したことがリアルに描かれており、その岩倉の妹が直後に薩摩藩士によって口封じのために斬られたことを考えると、まことに岩倉は強悪非道の奸物と思わざるを得ませんでした。
 極めつけはなんといっても、相楽総三が偽官軍として下諏訪で処刑された真相に迫るものであり、これは新政府の変わり身の早さという点で、明治維新そのものの正当性が問われるという「ネジレ」をいわば象徴する事件だったように思います。
(高等学校の教科書には「相良等が年貢の半減を謳っておきながら、財政難のために実現出来ず民の批判をそらす意図で処刑した云々」と書かれていますが、そのような公約違反程度のことでどうして処刑されなければならないのかよく判りません。相良等が例の強盗団の一味に加わっており、そのことが明るみに出ることをおそれた西郷が手を回して処刑したという理由の方がしっくり来ます。)
 それは、尊皇攘夷を唱え、朝廷の勅許を得ずにアメリカと条約を結んだという理由で井伊大老の対応を批判し、暗殺までしたことに対し、新政府は幕府が倒れるや否や外国と交渉を始めたこと然り、昨日まで手足として使っていた手下(西郷隆盛の組織せる強盗団の一味)の者を口封じのために処刑する手法がまさにそうであり、いわゆる明治維新というものの立役者が卑劣な策士揃いだったことが浮かび上がります。
 また徳川慶喜に関しましては、「朝令暮改の人」とあるように非常に無責任で頼りない人物だったことが明らかとなっており、大政奉還にしても周到さを欠き、遠慮して退いたところを却って策士・岩倉、西郷、大久保らに付け込まれ、窮地に追いこまれるという失態を犯し、鳥羽・伏見の戦いでは、「最後の一兵卒になってでも戦うように」と言い残し、自分は側近のものを引き連れてサッサと江戸に逃げ帰るなど、そういった部分が会津藩士をして、「朝令暮改の人」と言わしめたのだと思います。
 この徳川慶喜を「英邁な君主」と仕立て上げたのは司馬遼太郎さんの小説によるところが大きく、かつて放映されたNHKの大河ドラマ(本木雅弘さん主演の徳川慶喜)では、14代将軍家を決める後継者選定について井伊大老が非常にワンマンに描かれており、周囲の反対を押し切って勝手に決めたように描かれていました。
 井伊大老亡き後、安藤老中が、皇女・和宮の江戸降嫁に際する舵取りを取り仕切り、会津藩主・松平容保が京都守護職を任じられ、孝明天皇の信任厚くお墨付きを得るなどして公武合体が成功し、事態が丸く収まりかかっていたところで、己が権力奪取のため孝明天皇、次いで家茂を毒殺し、ブチ壊しにしたのが岩倉・西郷らだったということができると思います。
 それは恰も、将棋やマージャンの卓を勝負が決まりかかっていた時にひっくり返すというような暴挙であったということができ、そのような無法なクーデターがその後の幕末・維新黎明期における血なまぐさいテロルに次ぐテロルを生んでいった構造が読み取れます。

 概して日本の近現代史は、今までイデオロギー的に論じられることが多かったということであり、さらに、政治と歴史が密接に結びついており、不可分だった(不可分である)と言えると思います。
 例えば、保守主義者と革新主義者とでは同じ「事実」を語るにしても、聞く側にとってはまるで違うことのように感じられ、両者の認識の違いがそれを聞いた人の歴史観にまで影響を与えるということについては甚大なものがあると思います。
 その代表的なものが司馬史観であり、司馬さんはある点で保守的、またある点で革新的であると思いますが、司馬さんの書いた小説がNHKの大河ドラマで放映されるなどして、あるいは坂本龍馬の小説が非常に売れてテレビでも放映されたことによって、さらにそれを読んで感銘を受けた武田鉄矢さんなどがさもそれが本当の事実であるかの如く、「金八先生」の中で熱く語ることによって、いまや日本国民の大部分が司馬史観をそのまま明治維新の実像だと思って何の疑いもなく受け入れているということが問題であり、本書はそれに疑問を投げかける一石を投ずるものであると思います。
 武田さんは別の番組で、司馬さんの『竜馬がゆく』という小説を読んで坂本龍馬の大ファンになったと語っていますが、それを読んだ武田さんの、音楽界における「海援隊」を率いた活躍があり、司馬さんの小説も、武田さんそのほか多くの人々のいわゆる「明治維新」に対する輝かしいロマンを掻き立てて魅了して止まない力量には相当なものがあると思います。
 しかし、それは同時に事実のみを集積する作業が非常に地道な作業の積み重ねであり、どうしても史料が見つからないときは、類推や憶測、仮説に頼らざるを得ず、時としてその時作り上げた壮大な仮説(フィクション)が司馬小説のように多くの人の心を動かす場合もあるということだと思います。
 翻って見れば、「事実のみ」を記述するということは大変労力のいる作業ということが言え、そこに歴史学と歴史小説との違いがあると思われます。同じようなことは民俗学においても言えることであり、最近は社会学的な言説・手法を用いて民俗学を解説したりする人もいますが、その多くは立場・認識の違いでどうとでも言えるレベルに留まっているように見受けられます。
 そこで、民俗学が真に学問的(実証的)であるためには、どうしても歴史学的な手続きを踏まえざるを得ず、その点で、民俗学は、学問的な手続きとしては歴史民俗学としてのみ可能であるということが言えると思います。また、それと同様に歴史学もまたイデオロギー的なものから離れるためにはどうしても民俗学的な手法を取らざるを得なくなるのだと思いました。
 総じて、この『維新正観』は特に幕末維新史好きを自認する人たちにとっては必見の書であり、特に薩摩のファンの人たちにとっては、ショックが大きいかもしれませんが、会津や新選組のファンの人たちは興味深く読めると思います。

*このブログの人気記事 2015・8・13(8位に珍しいものがはいっています)

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