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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ハルビン特務機関は「ソ連の宣伝機関」に転化した(尾形昭二)

2025-04-14 00:22:46 | コラムと名言
◎ハルビン特務機関は「ソ連の宣伝機関」に転化した(尾形昭二)

『人物往来』第5巻第2号(1956年2月)、「昭和秘史・戦争の素顔」特集号から、尾形昭二執筆の「謀略の陥穽・日ソ中立条約」という記事を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

  ソ連にしてやられる
 太平洋戦争の緒戦の戦果がまだ花々しいある日のこと、重光〔葵〕大臣から、欄外に「意見を求む」とかきいれられた一通の書類が私のところにまわされてきた。私は一読して、ああこれかと即座に、「一顧の価値なし、むしろ百害あって一利なしと思考す」と記入して返送した。それは哈爾賓〈ハルビン〉の特務機関が入手したソ連とアメリカの間に極東開発の合弁会社の設立の話合いがすすんでいるという対ソ情報の写しであった。
 軍・外務の重要な任務が情報活動にあることはいうまでもない。ことに戦時、軍がこの点に力をいれたのはもちろんで、このため、関東軍の哈爾賓特務機関に対ソ情報の拠点として、その惜報網は一段と強化していた。そしてそのひとつにかかったのが、この「極東における米ソ協力」の「重大」情報だったのである。
 凡そ諜報活動で大切なことは、その「確度」の判断である。私はこれを「一顧の価値なし」とした。なぜなら、外国利権の排除は、経済的独立をめざすソ連の国策の基本であり(ソ連は日ソ中立条約の締結にあたって、日本の漁業利権を放棄させた)、かりにアメリカと提携するにしても、このような国策の基本にもとる形をとるはすはなかったからであ る。加えて私はこれを「百害あって一利なし」とした。なぜなら、右の判断から、それは けっして偶然の「誤報」ではなく、故意に「つくられた」もの、いいかえると,その背後に謀略がひそんでいるとみたからである。ではその謀略とはなにか。それは、対独援助を公然と言明し、満洲に一〇〇万の精鋭を終結して、対ソ・バスにのりおくれまいと狙っている日本軍部を架空な「米ソ協力に進展」で牽制しようとするものであった。
 哈爾賓特務機関からはつぎつぎと「重大」情報がおくられてきた。それは「米ソ合弁」 の進展から、極東飛行場の「米ソ共同利用」への発展をつたえた。中央へ報告するほどだから、「確度」は少くとも「乙」と銘うたれていた。びょう〔眇〕たる一課長の私の見解のごときは、もちろん問題にはならなかった。情報は外務・陸海・参謀本部・軍令部等々の幹部の手許へ「大手をふって」ながされていった。かくて哈爾賓特務機関は「対ソ情報機関から、完全に「ソ連の宣伝機関」に転化してしまったのである。まさに勝負ありで、してやられたのは、いうまでもなく日本で、開らきなおった松岡外交も、巧みなソ連外交に軽くいなされたのである。しかしそのおかげで日本はソ連に戦争をしかけ、中立条約に真向うから違反する汚名だけはまぬがれたのである。

  罷り通る謀略の〝極秘電〟
 このようにして、ソ連はひとまずさしせまる日本からの脅威を切りぬけることに成功した。だがソ連としてはもちろんこれで安心することはできなかった。ヨーロッパでは米独和平工作が行なわれていた。戦況しだいに不利な日本が同じ途、対米妥協をえらばないとはかぎらなかった。そしてそれはとりもなおさず日米の対ソ共同戦線に転化する可能性があった。しかもソ連はヤルタで対日参戦を約束し、日ソ中立条約の廃棄を通告しているのである。ソ連のこの意図を気づかれてはなおさらである。ここでソ連はいっそう対日警戒を厳重にする必要があった。しかしそのためには、こんどは日本を「おどす」べきではなく、反対に、「安心させる」ことが大切であった。そしてソ連はこの手にでたのである。 そしてこんども日本外交は完全にしてやられたのである。
 ソ連の日ソ中立条約廃棄通告後のある日、哈爾賓の日本総領事から電報がはいった。市内の某レストランで、酩酊したソ連総領事館員が、居あわせた日本総領事館員に、ソ連は日本の中立のおかげで助かった、深く感謝している、ソ連もあくまで対日中立を厳守するつもりであるとのべたという内容である。私はやったなと思った。ソ連の外交官が街の料亭でよっぱらい、しかもこうした重大な政治的発言をすることは、私の対ソ知識と経験から、凡そありえないことだったからである。と思っていると、こんどはアフガニスタン駐在の日本公使から、ついでスウェーデン駐在の日本公使から、いずれもあるレセプションの席上でソ連の公使がかたったと、ハルピンのソ連総領事のそれと大同小異の「内話」を電報してきたのである。
 もはやソ連の謀略であることに間違いはなかった。しかしこの種「重大極秘電報」の写は、陸海はもちろん、当時のしきたりで、総理、枢密院議長、内大臣にまでくばられるのである。国際情勢にうというえに、ソ連の仲介にまですがろうとしていた矢先のことである。日本の戦争指導者たちが、鬼の首をとったように、うれしくて、胸をなでおろしたのはいうまでもない。こんどもソ連に完全にしてやられたのである。
 一九四五年の八月九日ソ連は対日戦に参加した。日本の戦争指導部と関東軍が腰をぬかしたのはもちろんである。そして今日にいたるまで、日本の指導的な人物までが、ソ連にいたく腹をすえかねているのは、ひとつにはこのためである。
 だが「歴史上の事実」は、以上で明らかなように、日本は日ソ中立条約をむすぶそもそもの最初から、これを守る気はいささかもなかったこと、そして日本はそのことを、その後まもなくはっきりとソ連に公式に言明し、それどころか、数々の眼にあまる中立違反の行為を公然とくりかえしたこと、したがって腹にすえかねるのはむしろソ連の側であり、そしてこのためソ連としては、たとえば、あの松岡言明以後は、必要と考えるときはいつでも、中立条約違反の責を問われることなしに、連合国の対日戦に参加する権限をもっていたことを示しているのである。なぜなら、相手が中立を守る意思がなく、また現に守ってもいないのに、ソ連だけが中立を守る義務はないからである。もしソ連がだましたというなら、そのまえに日本がソ連に「中立」の名のもとになにをしようとしたかを想起すべきであろう。  (元外務省調査局長)  〈98~99ページ〉

 後半に出てくる「ハルピン」の表記は、原文のまま。厳密には「ハルビン」(哈爾賓:Harbin)とすべきだが、「ハルピン」となっている文献が多いのは、日本語では、そのように発音されてきたからであろう。

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