◎武内義雄による『曾文正公家訓』の紹介
今月3日のブログで、清末の政治家・曾国藩に『曾文正公家訓』という著書があること、同書には、武内義雄(1886~1966)による翻訳があることについて触れた。
本日は、武内義雄訳『曾文正公家訓――児らへの手紙』(1948)の「はしがき」を紹介してみたい。出典は、武内義雄全集第6巻『諸子篇一』(1978)である。
はしがき
この書は清朝末期の偉人曾国藩【そうこくはん】が児らに与えた手紙をあつめて家の訓としたもので、原本は「曾文正公家訓」と題しているが、今は便宜上「児らへの手紙」と改題した。
曾国藩、字は泊涵【はくかん】、滌生【じようせい】と号し、文正公と諡【おくりな】された。湖南湘郷の農家に生まれたが、はやくから学問に志し、官途について礼部侍郎にすすんだ。咸豊二年〔1852〕、母の喪に服して郷里に引き籠っていると、たまたま太平天国の乱が起こって、広東から北上して湖南に入り、長沙を陥れて岳州にすすみ、長江を下って武昌・漢陽・九江・安慶・蕪湖・太平を屠【ほふ】ってついに南京を占領した。これをみかねた曾国藩は慨然身を挺し、義勇軍を募ってその平定にのり出した。この大乱は咸豊十一年〔1861〕南京の恢復で終結したが、公はその後も捻匪の粛清に従事して前後十三年間を戦陣の間に過ごした。ここにあつめられた手紙はみなこの戦陣から送られたもので、一つ一つの手紙はすべて遺言状ともいわるべきもので、真情の発露するところ、熱涙の迸【ほとばし】るところ、読者を感泣せしめるものがある。
かつて京都大学に学んだころ、友人山崎君が病のため休学を決意して、恩師狩野君山〔直喜〕先生を訪ねたとき「何か心の糧〈カテ〉になるような書物がよみたい」と訴えると、先生はしばらくお考えになったのち、「これでもよんで見ては」とこの本を頂いたと、この本を前にして君はかたった。そこで私もまたこの書一部を購【あがな】い求めてよんでみた。よみえないところも少なくはなかったが、なるほどよい書物だと感じた。爾来この書は私の愛読するところとなった。
その後大阪につとめて吹田〈スイタ〉に住んだとき、土地の有志とこの書を輪読し、後また懐徳堂の講本にこれをつかって聴講の諸君からよろこばれた。中の一人はこれほど面白い本はかつてよんだことがないとまでいってくれた。しかし私はこの書を講了しないで仙台にうつった。昭和三年〔1928〕仙台放送局が設けられて間もないときのことであった。私は局のすすめにしたがって、この書の十一篇を選んでマイクに向かったが、その間数通の手紙をもらった。中の一通に「自分の家では夕食を終った食卓のまわりに全家族があつまってあなたの放送をきくのをたのしみにしている、どうか家訓全部をつづけてきかせてもらいたい」という意味がかかれてあった。私はいまさらながらこの書の価値と曾公の偉さを知った。そうしていつか全書を邦訳して世に送りたいものだと考えたが、それは容易に実現されなかった。
終戦後、私は東京にうつりすんで、ある世家の二階に寄寓したが、そこには永く居られなくなり、百方手をつくして家をさがしたが見つからず、ついに家族を国元にかえして単身石神井学園長堀文治君の世話になることとなった。ここに私は毎晩の日課としての手紙一通ずつを翻訳して無聊〈ブリョウ〉を慰めようと決心した。全体で百二十通、半年あまりで完了して、私の素願はみたされた。
私はこの書によって三つのものを学び得た。第一に親たるものは児等の教育に、これほどまで熱心であらねばならぬかということを、第二にこれによって学問の仕方、読書の順序階梯を、第三に手本の選び方、字の習い方を悟ることができた。私は終生この書を愛読するであろう。そうしてこの翻訳ははなはだ拙いものではあるが、これによって同好の士が一人でもふえれば幸いである。
私は翻訳にあたっていかなる体裁をえらぶべきかに迷うた。最初は口語体で行こうと考えたが、かくてはせっかくの名文をダイナシにする恐れがある、私はやはり原文のままよみ下した方が無難だろうと考えて遂にその方法に従った。そうして用語の意味はなるだけふり仮名ですませて、内容と引用文について少しばかり注を加えることとした。ただ慢然とよんでいるとさして難しくもないようだが、さて翻訳となると疑義が百出して、いまさらながら自分の読書力がなさけなくなる。どうしてもよめないと思ったところは注の中で断わっておいたが、よめたつもりのところにも誤をつたえるものがないとはかぎらない。こうした点は大方の教を仰いで他日の修正を期したい。
昭和二十三年十二月 武内義雄
『曾文正公家訓』という本の魅力を、あますところなく伝えている。それにしても、武内義雄という学者は、文章がうまい。
今月3日のブログで、清末の政治家・曾国藩に『曾文正公家訓』という著書があること、同書には、武内義雄(1886~1966)による翻訳があることについて触れた。
本日は、武内義雄訳『曾文正公家訓――児らへの手紙』(1948)の「はしがき」を紹介してみたい。出典は、武内義雄全集第6巻『諸子篇一』(1978)である。
はしがき
この書は清朝末期の偉人曾国藩【そうこくはん】が児らに与えた手紙をあつめて家の訓としたもので、原本は「曾文正公家訓」と題しているが、今は便宜上「児らへの手紙」と改題した。
曾国藩、字は泊涵【はくかん】、滌生【じようせい】と号し、文正公と諡【おくりな】された。湖南湘郷の農家に生まれたが、はやくから学問に志し、官途について礼部侍郎にすすんだ。咸豊二年〔1852〕、母の喪に服して郷里に引き籠っていると、たまたま太平天国の乱が起こって、広東から北上して湖南に入り、長沙を陥れて岳州にすすみ、長江を下って武昌・漢陽・九江・安慶・蕪湖・太平を屠【ほふ】ってついに南京を占領した。これをみかねた曾国藩は慨然身を挺し、義勇軍を募ってその平定にのり出した。この大乱は咸豊十一年〔1861〕南京の恢復で終結したが、公はその後も捻匪の粛清に従事して前後十三年間を戦陣の間に過ごした。ここにあつめられた手紙はみなこの戦陣から送られたもので、一つ一つの手紙はすべて遺言状ともいわるべきもので、真情の発露するところ、熱涙の迸【ほとばし】るところ、読者を感泣せしめるものがある。
かつて京都大学に学んだころ、友人山崎君が病のため休学を決意して、恩師狩野君山〔直喜〕先生を訪ねたとき「何か心の糧〈カテ〉になるような書物がよみたい」と訴えると、先生はしばらくお考えになったのち、「これでもよんで見ては」とこの本を頂いたと、この本を前にして君はかたった。そこで私もまたこの書一部を購【あがな】い求めてよんでみた。よみえないところも少なくはなかったが、なるほどよい書物だと感じた。爾来この書は私の愛読するところとなった。
その後大阪につとめて吹田〈スイタ〉に住んだとき、土地の有志とこの書を輪読し、後また懐徳堂の講本にこれをつかって聴講の諸君からよろこばれた。中の一人はこれほど面白い本はかつてよんだことがないとまでいってくれた。しかし私はこの書を講了しないで仙台にうつった。昭和三年〔1928〕仙台放送局が設けられて間もないときのことであった。私は局のすすめにしたがって、この書の十一篇を選んでマイクに向かったが、その間数通の手紙をもらった。中の一通に「自分の家では夕食を終った食卓のまわりに全家族があつまってあなたの放送をきくのをたのしみにしている、どうか家訓全部をつづけてきかせてもらいたい」という意味がかかれてあった。私はいまさらながらこの書の価値と曾公の偉さを知った。そうしていつか全書を邦訳して世に送りたいものだと考えたが、それは容易に実現されなかった。
終戦後、私は東京にうつりすんで、ある世家の二階に寄寓したが、そこには永く居られなくなり、百方手をつくして家をさがしたが見つからず、ついに家族を国元にかえして単身石神井学園長堀文治君の世話になることとなった。ここに私は毎晩の日課としての手紙一通ずつを翻訳して無聊〈ブリョウ〉を慰めようと決心した。全体で百二十通、半年あまりで完了して、私の素願はみたされた。
私はこの書によって三つのものを学び得た。第一に親たるものは児等の教育に、これほどまで熱心であらねばならぬかということを、第二にこれによって学問の仕方、読書の順序階梯を、第三に手本の選び方、字の習い方を悟ることができた。私は終生この書を愛読するであろう。そうしてこの翻訳ははなはだ拙いものではあるが、これによって同好の士が一人でもふえれば幸いである。
私は翻訳にあたっていかなる体裁をえらぶべきかに迷うた。最初は口語体で行こうと考えたが、かくてはせっかくの名文をダイナシにする恐れがある、私はやはり原文のままよみ下した方が無難だろうと考えて遂にその方法に従った。そうして用語の意味はなるだけふり仮名ですませて、内容と引用文について少しばかり注を加えることとした。ただ慢然とよんでいるとさして難しくもないようだが、さて翻訳となると疑義が百出して、いまさらながら自分の読書力がなさけなくなる。どうしてもよめないと思ったところは注の中で断わっておいたが、よめたつもりのところにも誤をつたえるものがないとはかぎらない。こうした点は大方の教を仰いで他日の修正を期したい。
昭和二十三年十二月 武内義雄
『曾文正公家訓』という本の魅力を、あますところなく伝えている。それにしても、武内義雄という学者は、文章がうまい。
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