◎教育者は最も陰湿なやりかたで人を殺す
昨日は、戦時中、大日本青少年団の「少年団員」用に作られた「われらは大君のもの」という「問答」を紹介した。典拠は、長浜功氏の『教育の戦争責任』(大原新生社、一九七九)の二五七~二五九ページである。
長浜氏によれば、大日本青少年団の「問答」には、三種類のものがあった。男女青年団用の「大東亜戦争」、女子青年団用の「銃後の誓」、そして、昨日、紹介した少年団用の「われらは大君のもの」である。長浜氏の『教育の戦争責任』には、これら三種の問答の全文が紹介されている。
昨日は触れなかったが、長浜氏は、これらの「問答」を、矢川徳光の論文「『戦時教養問答』について」(『青少年指導』一九四二年三月号)から引用している。
矢川徳光(一九〇〇~一九八二)といえば、ソビエト教育学の第一人者であり、日教組教研集会の講師を務めていた。そうした「左派」の教育学者であった矢川であるが、戦時中は、大日本青少年団の初代教養部長を務めていた。期間は、一九四一年(昭和一六)八月から、ほぼ二年間。「『戦時教養問答』について」という論文も、その間に発表したものであった。
そして、長浜功氏によれば、これらの問答は、大日本青少年団教養部長たる矢川徳光が、みずから作ったものだという。長浜氏は、このことを、同書で怒りを籠めて告発している。長浜氏の言葉を聞こう。
とりわけ、少年向けの「問答」は考えさせられる。ひとつには、内容が青年向けよりも煽動的である。ふたつには、とくに少年であれば、この問答を繰返すうち、身体の芯までどっぷりと、しかも早くつかっていったろうということからである。肉体も心も「大君のため」と信じきって軍隊にはいり、満州に渡った少年たちは決して少なくないはずであり、それゆえに、生きて故郷の土を踏むことができなかった若い肉体も多かったのである。
そのことを思うと無性にこんなくだらぬ「問答」を作った「教養部長」に対して腹がたってくる。軍人は人を直接殺す。教育者は人を直接には殺さないが、もっとも陰湿なやりかたで人を殺す。教育は間接的殺人を犯すことが多い。文字通り、矢川は戦時下における青年と少年の敵であった。考えようによってはその罪、まさに万死に価する。
激しい怒りである。矢川徳光に限らず、日本の高名な教育学者の多くが、戦中は、戦争に協力し、あるいは国民の戦意を煽ったのである。そうした事実を告発したのが、『教育の戦争責任』という本であった。
特に、矢川徳光の場合は、戦中、大日本青少年団教養部長という要職についており、「戦時教養問答」を作るなど、その影響力が大きかった。
しかも戦後は、そうした戦中の経歴や活動を隠し、「左派」の教育学者として活躍した。当然、戦中の活動についての自己批判などはなく、それどころか、同じ教育学者である篠原助市〈スケイチ〉が戦中に発表した『教育学』(岩波全書、一九三九)を、「死の教育学」と酷評したという(矢川徳光『国民教育学』明治図書出版、一九五七)。
ところで、長浜氏は、前掲『教育の戦争責任』の二五二ページで、大日本青少年団から『戦時教養問答』と題する本が出されたかのように書いている。これは確かなのだろうか。そういう本が出ているのだとすれば、編者、発行所、発行日などを知りたいところである。