◎陸軍省、二・二六事件につき国民全体に猛省を求める
加田哲二『日本国家主義の発展』(慶応書房、一九四〇年改訂九版)の紹介に戻る。
本日は、第二篇「国家主義の政治的発展」の第二章「現代の社会的政治的傾向」から、その第五節「軍部のイデオロギー」を紹介してみたい。ここで加田は、二・二六事件のあとの「軍部の態度」について解説している。すなわち軍部は、二・二六事件のあと、その独自な「イデオロギー」に基づいて、いよいよ、政治に関与しはじめたのであった。
五 軍部のイデオロギー
二・二六事件以後廣田〔弘毅〕内閣が成立した。三月一日午後陸軍省では、局長会議を開き、事件善後処置を研究したのであつたが、その結果を川島〔義之〕陸相から、軍事参議官に了解を求めたといはれてゐる。その一節にいふ。
「今回の事件は軍内より惹起した不祥事件ではあるが、事件発生の原因については広く一般が猛省を加ふべきで、後継内閣に関しても、陸軍としては國體の明徴、国民生活の安定、国防の充実、外交の刷新等当面の我〈ワガ〉国政一新的重要国策遂行に当り、名実共にこれが実行を期し得る強力内閣の出現を要望する。後継内閣にして世上の噂に現はるゝ顔触れの如き旧態依然たる内閣であるならば、今回の如き不祥事件の根本的解決を期するものにあらずと確信してゐる。」
これが事件直後の陸軍の態度であつた。而して廣田氏の組閣最中、寺内〔寿一〕大将は、有名な自由主義排撃の声明を出した。
「此の未曽有の時局打開の重責に任ずべき新内閣は、内外に亘り真に時弊の根本的刷新、国防充実等積極的強力国策を遂行せんとする気魄と其の実行力とを有することが絶対に必要であつて、依然として自由主義的色彩を帯び、現状維持又は消極策により妥協退嬰〈タイエイ〉を事とする如きものであつてはならない。」
といふのが、その主文をなしてゐる。閣員候補者の入替、組閣直後における馬場〔鍈一〕蔵相の高橋〔是清〕財政修正声明、その後における内閣の秕政〈ヒセイ〉一新に関する声明は、この軍部の態度によつて、動かされ、発せられたものであらう。
この軍部の態度は、当然その広義国防の観念から来たもので、二・二六事件以後の主張ではない。既に軍部では、新聞班を通じて問題となつた注目すべき小冊子を二冊出してゐる。「国防の本義と其強化の提唱」(昭和九年十月十日)と「非常時に対する我等国民の覚悟」(昭和十年三月)がこれである。後者は、軍部の非常時の時代史観を論究したもので、欧米社会の近代的発展の様相を論じ、それが個人主義・自由主義・民主主義を基調とする資本主義社会の体制の完成であることを指摘した。わが日本は、明治維新以来欧米の個人主義的資本主義を輸入し、日露戦役において世界の舞台に上るまで、彼等に追ひつくため、熱心にこれを輸入模倣した。大正時代から昭和の初期にかけては、この個人主義文化の爛熟時代であつて、世界大戦の経済的発展とともに、欧米の廃頽的風潮は、わが良風美俗を害し、国民思想動揺の時代を生んだ。こゝにおいて、満洲事変が勃発して、国民精神の覚醒を促した。日本は自覚し、日本独自の立場における国家完成の道に進まんとするものである。しかるに、従来の翻訳的文化・施設は、この障害である。軍縮条約・国際連盟がこれであり、更に日本商品進出に対する列強の妨害がこれである。日本の非常時はこゝにある。列強の帝国主義政策を排し、道義的世界観に立脚する日本の国策を実行せんとするとき、非常時的危機が存在する。小冊子「非常時に対する我等国民の覚悟」は、かくの如くわが国の現段階を解釈してゐる。
この時代観を基礎として、軍部としての政策である国防の強化が論究せらるゝ。「国防の本義と其強化の提唱」は、その論究であつて、従来屡々論議せられたところであるから、その全貌をこゝに轺介する必要はない。この小冊子は「たゝかいは創造の父、文化の母である」といふへラクリトス〔Hērakleitos〕流の闘争社会観から出発して、「国防は国家生成発展の基本的活力の作である。従つて国家の全活力を最大限度に発揚せしむる如く、国家及社会を組織し、運営する事が、国防国策の眼目でなければならぬ」といふ国防第一義的軍部的国家観を強調し、この目的のために、国内の再編成を実行すべしといふのにある。かゝる見地から、この小冊子は、現在の経済機構を次のやうに批判してゐる。
「1、現機構は個人主義を基調として発達したものであるが、其反面に於て動も〈ヤヤモ〉すれば、経済活動が、個人の利益と恣意〈シイ〉とに放任せられんとする傾〈カタムキ〉があり、従つて必ずしも国家国民全般の利益と一致しないことがある。
2、自由競争激化の結果、排他思想を醸成し、階級対立観念を醸成する虞〈オソレ〉がある。
3、富の偏在を来し、国民大衆の貧困、失業、中小産業者農民等の凋落〈チョウラク〉等を来し、国民生活の安定を庶幾〈ショキ〉し得ない憾〈ウラミ〉がある。
4、現機構は、国家的統制力小なる為め、資源開発、産業振興、貿易促進等に全能力を動員して一元運用を為すに便ならず、又国家予算の甚しき制限を受け、国防上絶対に必要とする施設すら、之を実現し得ざる状態に在る。」(四一~四二頁)
これによれば、現機構は、経済活動が個人の恣意に放任され、競争の結果、階級対立を激化し、国民の生活を不安定ならしめる。而して、国家統制力の過小もまた問題である。これが、現資本主義に対する批判的認識であるが、これを如何に修正または革新することが要求されるか。個人主義に対して、道義的経済観念としての全体主義、国民生活の安定、金融諸制度の改善、公租公課の公平、国家的利害に反せざる範囲内においての個人の創意と企業欲との満足などが挙げられてゐる。この小冊子は、諸批評家のいつたやうに、具体的政策を挙げてゐないが、何等かの意味において、資本主義殊に自由主義的資本主義に対する修正または革新が要求されてゐる。而して、この修正または革新要求の動因は、それが広義国防の運営のためであることはいふまでもない。この小冊子の筆者の注意を最も惹いたものは、農山漁村の問題であつて、現下の最大問題であるといひ、結局において、都市と農村との対立にその原因があるといひ、これらの諸要素を包含する全体観によつて、その窮乏不安を匡救〈キョウキュウ〉すべきであると論ずる。
陸軍省がまとめた「事件善後処置」によれば、陸軍は、二・二六事件のあと、この不祥事件を起こした責任を猛省することなく、「事件発生の原因については広く一般が猛省を加ふべき」といって、事件の責任を「広く一般」、すなわち「国民全体」に転化している。しかも、「不祥事件の根本的解決を期す」と称しながら、積極的に政治に関与しはじめた。例えば、「国政一新」を実現しうる「強力内閣の出現」を要望するという形で。
まさに、これこそが、二・二六事件の「影響」だったと言えるのではないか。
二・二六事件の約一年前にあたる、一九三五年(昭和一〇)三月一日、陸軍省新聞班は、『日露戦後三十年 非常時に対する我等国民の覚悟』という小冊子を発行した。そこには、大正時代から昭和の初期にかけては、個人主義文化の爛熟時代であり、「欧米の廃頽的風潮は、わが良風美俗を害し、国民思想動揺の時代を生んだ」という認識が示されている。
そうした欧米的個人主義文化に替るものとして、陸軍省が提示したのが「国民精神」であった。軍部による、こうした国民精神の強調は、二・二六事件を契機におさまるどころか、むしろ、さらに強力なものになっていった。
また、二・二六事件の約一年半前にあたる、一九三四年(昭和九)一〇月一〇日には、同じく陸軍省新聞班から、『国防の本義と其強化の提唱』という小冊子が発行された。
加田によれば、この小冊子には、「現在の経済機構」を批判した記述が見られるという。その主張は、必ずしも明確なものではないが、階級宥和を志向し、社会政策の必要性を説き、国防体制の構築などを訴えていることは、間違いない。
すでに、二・二六事件前に見られた、こうした「軍部のイデオロギー」と、二・二六事件との関係については、加田の文章を読んだだけではよくわからない。
おそらく、二・二六事件を引き起こした「皇道派」と呼ばれるグループも、彼らが敵視していた「統制派」と呼ばれるグループも、ふたつの小冊子が説いているようなイデオロギー、すなわち、欧米的個人主義の批判、国民精神の強調、階級宥和の志向、社会政策の導入、国防体制の構築等に関しては、大きな相違はなかったと考えてよいだろう。
しかし、そうしたイデオロギーを具体的に実現する方法については、深刻な対立があった。「皇道派」は、クーデターによって、天皇側近の重臣を排除し、「天皇親政」を目指すことによって、イデオロギーの実現を図った。一方、「統制派」は、合法的な手段を用いながら、日本の国家体制を「総力戦体制」に移行させようと図っていた。
皇道派によるクーデターが失敗に終わったことにより、「統制派」による「総力戦体制」移行路線が、軍部の主流を占めることになり、そうした軍部の動向が、かなりダイレクトに、政治や経済に及んでくることになった。
――今のところ礫川は、そんなふうに理解している。なお、「統制派」のイデオロギーは、イタリアやドイツの「ファシズム」と親和性が高く、一方で、「皇道派」グループは、「ファシズム」に対する反発があったのではないかと思われる。