◎全人民を軍隊組織とし、国費の三分の二を費す
加田哲二『日本国家主義の発展』(慶応書房、一九四〇年改訂九版)を紹介している。
本日は、第二篇「国家主義の政治的発展」の第二章「現代の社会的政治的傾向」から、その第三節「五・一五事件・神兵隊事件」を紹介してみたい。
三 五・一五事件・神兵隊事件
わが軍部、殊に陸軍は明治初年以来常に大陸政策の主張者であつた。それは、西郷隆盛以来のことである。明治初年の陸軍中将鳥尾小彌太〈トリオ・コヤタ〉は、征韓論当時において、西郷隆盛に献策したことがあると自ら記してゐる。それによると、当時の国内における騒擾〈ソウジョウ〉的状態を鎮静せしめ、殊に士族の不平を慰する〈イスル〉ためには、先づ征韓の途に出で〈イデ〉、次いで大陸政策を行ふべきであり、すべての人民を軍隊組織となし、このために国費の三分の二を費すべきであるといつてゐる。鳥尾の献策は、国内的不平の国外的転換であるが、一種の軍国的社会編成の主張である。これは遠い明治初年のことに属するが、わが軍部の根柢には、常にかくの如き大陸政策の思想と国家編成の理想が流れてゐるやうに思はれる。
満洲事変〔一九三一〕に続いて起つた五・一五事件〔一九三二〕の如きも、その一種である。いま同事件の公訴状によると「昭和五年〔一九三〇〕軍縮会議問題に付随して統帥権干犯〈カンパン〉問題起り、世論沸騰するや、之を以て政党財閥及君側重臣の結束に依り、斯る〈カカル〉非違を敢てしたるものとなし、大に之を憤る〈イキドオル〉と共に、現代日本に於ては、政党政治家、財閥及特権階級孰れも〈イズレモ〉腐敗、堕落して国家観念なく、日本をして政治、外交、経済、軍備、思想等各種の方面に行詰りを生じ、 国家滅亡の虞〈オソレ〉あるに至らしめたりとし、之が革新の要ある旨を説き」とある。これは、論告にも判決にも、被告達の陳述にも、同じく現はれてゐる。その第一の動機は、わが国の対外外交、主としてワシントン会議以来の軍縮会議におけるものと、対外政策における幣原〈シデハラ〉外交と称せられるものが、これである。而してその主動的役割を演じたものは、政党・財閥・重臣である。五・一五事件の青年将校達は、この認識を基礎として、更らに国内を観察するとき、そこに「国家滅亡の虞れ〈オソレ〉」を発見し、その原因をまた政党政治家・財閥・特権階級の腐敗・堕落といふ点に置いてゐる。そして、これらを除き、所謂革新政策を実行することによつて、日本国家の発展を期待し得るものとした。彼等の見るわが国民大衆の状態は窮迫の状態であり、殊に農山漁村の状態の悪化を憂へてゐる。この事実は、五・一五事件に対する民間側参加者に愛郷塾〈アイキョウジュク〉関係の一派があつたことでも判るのであるが、五・一五事件当事者が社会問題として解するところは、こゝにあつた。しからば、農山漁村経済改善の具体策は、彼等によつて提供されたかといへば、この点は、明確にされてゐない。彼等は現在の政治経済機構を構成する人々の反省を促すのを、主要目的としたのであつた。この目的のために五・一五事件は起ったのである。
事件後、この認識は、如何に取扱はれたか。内閣主班について、まづ政党は斥け〈シリゾケ〉られた。しかし、政党が政党機構の中から姿を消したのではない。それは、これまでと同様に齋藤内閣に参加して、その政治的一要索たるの地位を得てゐた。しかし、主要な内閣の椅子が政党に廻らず、官僚勢力の勃興となつて現はれて来た事実は、否定することは出来ぬ。大正初年以来の政党の指導的地位は、その多年の不信用によるのであるが、この事件を契機として喪はれた〈ウシナワレタ〉。而して、この政党華かなりし時代に多くの官僚の指導者は、政党政治家へと転身した。民政党並に政友会には、これらの官僚転向者の多くを見出すことが出来る。加藤高明・浜口雄幸・若槻礼次郎・伊沢多喜男などは民政党に、陸軍大将田中義一・鈴木喜三郎・床次竹二郎〈トコナミ・タケジロウ〉などは政友会に転身した軍人・官僚の主要なものであり、内閣の更迭に際して、その進退を共にした次官・局長・知事級の官僚が、政党に身を投じたものは、更らに多数である。これらの政党転身者は、華かなりし、官僚政治の凋落〈チョウラク〉を見て政党に転じ来つた〈キタッタ〉ものであろが、いまや、彼等は多くの収穫を得ずに、政界の一部に取り残されねばならぬ運命にある。
齋藤内閣は、政党・軍部・官僚の妥協内閣であり、五・一五事件の鎮静作用を主要目的とするものであつた。その故に彼等は、政党政治への復帰をいひ、非常時事態から平常状態への復帰を常に唱道してゐた。かくの如き政策が現政治機構の改変を主張する人々に満足を与へ得ないことはいふまでもない。処士横議、政党と財閥とは常に攻撃の中心であつたかに見えた。事件として、昭和八年〔一九三二〕七月十一日の神兵隊事件がある。司法省発表(昭和十二年九月十六日発表)によれば、それは次の如きものであつた。
「被告人天野辰夫は、かねてより現下のわが国は、明治維新以後欧米の物質文明と共に輸入せられた自由主義、個人主義、唯物主義の思想により、政治、経済、法律その他社会諸般の組識、制度は蠱毒〈コドク〉せられ、日本精神は忘却せられ、日本民族の将来は、危殆に瀕し、一大改革を要するものと思考してゐた。而して、いはゆる血盟団、五・一五事件の同志が、相次いで蹶起したにも拘らず、政党、財閥、特権支配階級は、ますます相結び国家を紊り〈ミダリ〉、国威を失墜したものと断定し、ロンドン条約の締結、国際連盟の脱退等により惹起せらるゝものと予想すべき未曽有の国際的非常時局に直面し」て、國體の本義を紊つてゐるので、これを芟除〈サンジョ〉するために、直接行動に訴へんとしたものである。
神兵隊事件は、発表によると、五・一五事件の出発点と、殆んどその認識を同じくしてゐるといふべきであらう。しかし,神兵隊事件においては、五・一五事件に強調されてゐた農村窮乏の問題は、既定の事実とされたためか、この発表には記されてゐない。それは事件が主として、政治的方法による国家革新運動とされてゐるためであらうと思はれる。この事件は、運動者の連絡の齟齬から、幸ひにも未然に防遏〈ボウアツ〉せられたのであつた。しかし、かくの如き事件の存在は、齋藤内閣におけるが如き政治的編成をもつてしては、多少の政党の後退が行はれたことは事実であるとしても、国家革新運動を満足させるものでないことが明瞭である。
この節で最も引象に残ったのは、征韓論の当否が争われていた当時、鳥尾小彌太が西郷隆盛におこなったという「献策」のことである。その献策とは、国内における騒擾的状態を鎮静せしめるため、大陸政策をおこなうべきで、それに国費の三分の二を費してもかまわない、というものであった。
昭和前期の日本が採用した国策は、まさに、その通りのものとなった。
加田哲二は、鳥尾小彌太の「献策」の典拠を示していない。このあと調べてみて、その結果を、このブログで報告したい。