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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

京都からは大将も大臣も出ていない

2015-04-21 09:23:06 | コラムと名言

◎京都からは大将も大臣も出ていない

 安田徳太郎著『天孫族』(カッパブックス、一九五六)から、「明治維新」を論じた部分を紹介している。昨日は、同書第一章第2節の第一項「民衆を裏切った明治維新」を紹介したが、本日は、それに続く第二項「無一文から世界一の金満家に」を紹介してみたい。
 ただし、この項は非常に長いので、本日、紹介するのはその前半である(二八~三一ページ)。

 無一文から世界一の金満家に
 さて、御一新に成功した薩長は、十七歳の天皇をかついで、江戸に進駐したが、江戸の市民はもちろんのこと、日本人のすべても、将軍は知っていても、京都の天皇族というものは知らなかった。だから、その当時の日本人の頭からいうと、藩閥政府の宣伝する天皇というものは、じつに奇妙なものであった。ある老人がわたくしに、こういう話をしてくれた。明治十何年までは、東京の絵双子紙屋〈エゾウシヤ〉の店先に、まんなかに大きく江戸城を描いて、その隅っこに小さいチンがすわっている絵があって、その上に「江戸城は、朕の城には広すぎる」と書いた錦絵〈ニシキエ〉が大びらに飾ってあったし、日比谷練兵場で、はじめて観兵式がおこなわれたときは、薩摩出身の巡査が長い竹竿〈タケザオ〉をもって、うしろの土手にずらりとならんで、天皇が通るときに、見物人の頭をうしろから竹竿でポンとたたいて、最敬礼を強制したという。つまり、明治十何年でも、日本の国民は、まだ天皇に最敬礼をすることを知らなかったのである。
 この話がウソでない証拠に、『ベルツ日記』の明治十三年十一月三日のところに、「日本の天皇の誕生日、東京の市民が君主にたいして関心のないのを見るのは悲しい。家の前に国旗を出すのは、警察力によらねばならないしまつである。自発的に国旗を出した家は、ほんのわずかしかなかった。」と書いている。ベルツはドイツ人で、天皇の侍医だったから、日本人のこういう傾向を悲しんだのも、むりはない。
 以上のような、いろいろの話にたいして、それでも日本を近代国家に引きあげたものは、やはり明治天皇を中心とした薩長の革命家だという人があるかもしれない。しかし、こういう意見を吐く人は、その身元を洗うと、たいてい士族の出身で、明治維新にあやかって立身出世したえらい人の子孫である。
 ほんとうをいうと、倒幕派の中には、封建制度を根こそぎぶっつぶすために命をかけた人もたくさんあったが、そういう人は意見のちがいで、途中でのぞかれたり、殺されたりしてしまった。たとえば、大村益次郎〈マスジロウ〉は周防〈スオウ〉の田舎医者であったが、長崎に出て、蘭学と西洋医学を学び、毛利藩に抱えられて、サムライに西洋の兵学を教えていた。維新のときは、サムライでなしに、ほんとうの庶民を集めて奇兵隊を組織して、江戸に乗りこみ、上野に立てこもる彰義隊を、一晩でかたづけてしまった。この人はフランス革命を理想として、職業軍人のサムライではなく、庶民を中心としたフランス式の兵制を採用して、封建制度を根こそぎつぶして、日本を民主主義にしなければならないとさかんにとなえて、それを実行に移そうとした。
 ところが、この人の説を入れて、日本を民主主義にすると、かつぎあげた天皇はもちろんのこと、サムライは全部メシの食いあげになってしまう。そこで薩長の保守派が合同して、明治二年に進歩派の人気者であるこの大村益次郎を殺してしまった。靖国神社の入口に銅像が立っているが、殺して銅像とは、おかしな話ではないか。
 明治維新は、けっきょく薩長の下級武士と幕府の官僚が妥協して、将軍と天皇の首をすげかえた中途半端な革命であった。これによって、薩長を中心として各藩の士族は官僚階級に成りあがって、これまでどおり、一段上から国民を支配するようになった。だから、百姓も職人も町人も、御一新によって、べつに解放されたわけではなかった。京都から大将や大臣がひとりも出なかったのは、京都出身の天皇がたんなるロボットで、革命の中心でなかった、りっぱな証拠である。だから、小学校の先生が、「京都の人間はアカン。」と、いくら叱りつけても、町人が立身出世するイモヅルなどは、はじめからなかったのである。この意味でも、御一新はブルジョア革命ではなかった。【以下、次回】

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