◎永山則夫との交流を回想する柏木隆法氏
昨三月三一日の午前中、柏木隆法氏から、「隆法窟日乗」が送られてきた。三月一五日から、三一日までの分である。「3月31日」の日乗が、三一日のうちに届いたことに驚いた。とにかく本日は、その「3月31日」の分を紹介させていただこう(通しナンバー336)。
毎年年賀状を書く季節になると拙の住所録を整理している。ところが昨年の暮れには身辺が忙しくてそれができなかった。やっと暇になったので今それをやっている。思えば随分記載する人が少なくなった。皆黄泉〈ヨミ〉へ旅立った。一番多いころと比べると3分の1になった。1度も会わない儘に死んだ人もいた。12年文通した永山則夫もその1人だった。『無知の涙』を読んで感動し、小菅刑務所に手紙をだしたのが最初だった。「わたしは生きる。せめて二十歳のその日まで、罪を最悪の罪を犯しても残されたこの金で生きると決めた。せめて二十歳のその日まで」この短い詩を見て拙は石川啄木の面影をみた。拙がロシアに旅立つ1週間前である。拙は正直にいってこのころはなにをやっていいのかわからなくなっていた。そこでこの本を読んだことは衝撃であった。「大きすぎて見えない神は云った。こりゃ汝凶悪犯よ、汝がしでかした事、悪いと思っているのか、アタマを上げるな。下げたまま申してみよ。凶悪犯は構わずアタマを上げた。あんたが神という奴か。一度会いたかったぜ。あんたは俺が何をやっても黙って見てきてこうなってからいやがる。あんたは精神界一番の無責任者だ。俺が育ってきた1日でも見てきたのかよ。それっきり力なく頭を垂れる凶悪犯に去った。黙って聞いていた神は云った。いうことはそれだけか。」拙の記憶で書いたから正確ではないがこういう詩だった。永山にはいわなかったが、拙の父と永山の父とは妙な縁がある。父が南宮神社の氏子代表で垂井の本山にいったとき、名鉄垂井駅のベンチで隣り合わせに行倒れ人を発見して警察に届けた。遺体の引取り手がなく検視のあと、駅員と協力して駅前の馬小屋に菰〈コモ〉で包み藁の中に安置したのが拙の父だった。後にこの話は新藤兼人が『裸の十九歳』を撮ったとき新藤から直接聞いた。因みに行倒れになった父を演じたのは拙の友人草野大悟だった。世の中狭いものだ。この映画について永山は不快に思ったようで裁判沙汰になった。その内永山は誰からも相手にされぬようになった。そのころ拙は『遺言』というミニコミを引き継いでいたので、永山の稿『パロール・パロディストの一日』という原稿の連載を頼まれた。「イワン・デニソビッチの一日」のパロディだが面白くない原稿で小見出しのないために随分苦労した。やっと完結したら本にしたいから出版社を紹介してくれといってきた。これまた苦労して昭和出版に頼み込んで出版に漕ぎつけたが、全然売れず、社に大変な迷惑をかけた。その上、印税の要求があり、拙もこの男には愛想が尽きた。長引くかと思ったら48歳の時、遂に死刑が執行され拙は助かった。永山の本で売れたのは『無知の涙』と『木橋』くらいで『人民を忘れたカナリア』なんか合同出版からだったが、全くだめだった。理由ははっきりしている。「無知」だったはずの永山が獄中で勉強してアタマが良くなったこと。いやよくなり過ぎた。書くものが観念的でさっぱりわからなくなった。人民をバカにするようになったとき、読者は永山から離れた。それでも懐かしいから獄中書簡は全部残してある。永山の弁護は『遺言』同人の遠藤誠弁護士がやったが、遠藤とも喧嘩別れをした。拙の顔を潰し続けた。
インターネットで調べてみると、草野大悟さんは、新藤兼人監督の映画『裸の十九歳』(一九七〇)に、「山田半次郎」という役で出演している。これが、主人公・山田道夫(モデルは永山則夫)の父親ということなのだろう。