◎カタキウチは健康でないと仕遂げられない
最近、現代のエスプリ『忠臣蔵と日本人』(至文堂、一九七九)に載っていた、長谷川伸の「敵討考〈カタキウチコウ〉」という文章を、興味深く読んだ。
長谷川伸〈シン〉という人は、作家として有名だが、歴史を素材とした評論にも、見るべきものがある。文章が平易で、記述は素材中心、読みやすく説得力がある。この、「敵討考」という文章についても、もちろん、そうした特色が指摘できる。
少し、引用してみよう。
さてここで石井源蔵兄弟の場合はこうなる。源蔵が幼く、弟半蔵がさらに幼いとき、大坂城代の青山侯の士である父の石井宇右衛門〈イシイ・ウエモン〉が暗殺された。殺したのは赤堀源五右衛門〈アカボリ・ゲンゴエモン〉で、殺害の原因は逆恨み〈サカウラミ〉であった。
敵討〈カタキウチ〉の作法のごとく、父宇右衛門の敵討に、長男の三之丞〈サンノジョウ〉と次男の彦七〈ヒコシチ〉とが、家来の庄太夫と孫助とをつれて大坂を出た。これからは主従四人が一体となって探偵に従事するので、四人とも旅行中の町人に変装し、変名し、敵〈カタキ〉の源五右衛門を探したが知れない。そこで敵の養父を殺した。「わが父を殺すにあたって謀議にあずかった者」という理由である。これから後、敵の源五衛門と討人の三之丞兄弟との間に、追うものと追われるものの手段と謀略の競争が八か年つづいた。その間じゅう、敵の方がいつも討人の方を翻弄した。八か年とは敵討出立〈シュッタチ〉の延宝元年(一六七三)十月から天和〈テンナ〉元年(一六八一)一月までのことを大ざっぱにいったのである。
敵討の費用一切は自弁である。収入なしの支出ばかりなので、二、三年とはたたないうちに、手持ちの費用が乏しくなる。そこで親族縁者から援助を乞うのだが、それにも限度がある。敵討出立のとき有縁無縁のものが寄せた餞別〈センベツ〉のごときは、とッくになくなっている。芝居にある「大晏寺堤〈ダイアンジヅツミ〉」「天下茶屋〈テンカジャヤ〉」に討人が乞食〈コジキ〉になっているのは、本物の討人の窮迫を端的にみせたものである。
前にいった八か年の間に、弟の彦七は敵討に絶望したのだろう、失踪した。従者の庄太夫も彦七について出て行ってしまった。この二人の消息はこれで絶えた。
三之丞は親類の美濃不破〈ミノ・フワ〉の室原〈ムロハラ〉村の豪農犬飼清雲〈イヌガイ・セイウン〉方で、広島の親類へ借金」にやった忠僕孫助が、帰り着くのを待っている天和元年一月下旬、武装した敵の源五右衛門に襲われ、風呂から出たばかりのところを斬殺された〈キリコロサレタ〉。
三之丞の弟源蔵は、兄が返討〈カエリウチ〉になった翌年(一六八二)の秋、父と兄の敵討のために広島を出て、以来五か年のうちに、自力で一切の費用を稼ぎ出し生き抜いた。これを別な方面からいうと、源蔵は一日十五里ずつ連日歩いて平気だ、暑中に炎天下を歩きつづけて日射病などに罹らない〈カカラナイ〉、寒中に野宿をつづけても病気しない、食い溜め〈クイダメ〉ができて、飢渇〈キカツ〉に参らない、熟睡と仮眠のつかい分けができるから、眠り不足ということがない。ひとりこれは石井だけのことではなく、敵の討人〈ウッテ〉はすべてこうであった。言葉も数か国の方言と訛り〈ナマリ〉とを自在にコナせ、小間物〈コマモノ〉行商・鏡磨き・茶売り・人足・紙売りを一人前にやり、博徒の群れにはいっても一人前であった。三之丞・彦七の敵討出立からいうと、ながきにわたるのだから、親類縁者の協力も、そうそうは続けられなくなる。そこで源蔵は自力で生活し、単独で敵を探索するのである。
十八歳になったとき半蔵は、広島から京都に出て、京の外れにある忠僕孫助方で、江戸から引返してきた兄源蔵に会ったとき、孫助が探知した敵の源五右衛門が百五十石で伊勢亀山藩に仕え、赤堀水之助といっていることを兄弟に知らせた。これで敵討にあたって、最も厄介な敵の所在探しが一応のところ終った。
源蔵・半蔵兄弟は敵の居どころが判明してから、亀山城内で敵討をするまでに、十三か年かかった。そのあいだ兄弟は、人足となり行商人となって自活し、江戸の亀山藩邸の御長屋住居の藩士の使用人になるのに、弟半蔵は八か年かかり、兄源蔵は十二か年かかり、兄弟二人が亀山に同時に居られるようになったのがその翌年であるから、半蔵からいえば九か年、源蔵からいえば十三か年かかって、ようやく敵に近づいた。
敵討の作法として、敵に対したときまず、犯罪を認めさせることである。源蔵・半蔵兄弟の場合は、亀山城二の丸〈ニノマル〉石坂門で赤堀水之助を待受けて、兄源蔵が「我は石井宇右衛門の伜〈セガレ〉ども、親兄の敵」と呼びかけてから勝負にはいっている。徳川期といえども、敵討は証拠と証人なくしては成立せず、さらに大切なことは、勝負の場に突入するとき、討人は敵に自供させなくてはならない。
兄弟が京都へ一たびは引揚げ、ついで江戸へ行ってたことは前にいった。
敵討のうちこれは極端な例だが、遠藤竹太郎の敵討は父子二代にわたって三十年かかり(文化十三年・一八一六)、山崎善六は十五歳から、四十六歳までかかって敵討した(寛保二年・一七四二)、久米幸太郎は十八歳で出立して四十八歳で敵を討った(安政四年・一八五七)、とませ〔女性の名前〕の相馬の敵討は五十三か年後のことだという(嘉永六年・一八五三)。二十余年とか十余年とかはザラだ。つまり健康でないと仕遂げ〈シトゲ〉られない。それと同様に、敵が健康でないとひどいことになる、その例がちょいちょいある。【以下、次回】
敵討〈カタキウチ〉を仕遂げるためには、自分もカタキも健康でなければならないという指摘には、なるほどと思った。また、長谷川伸は、ここでは、あえて強調していないが、敵打を仕遂げるためには、仕遂げる側が「勤勉」である必要もあると思った。
勤勉には、それを支えるエートスというものがあるというのが、マックス・ウェーバーの説だが、敵討にも、それを支えるエートスが必要不可欠なのではないだろうか。石井兄弟が健康であり、勤勉であったのは、敵討という目標があり、その目標を達成することに全てを投入するという生きかたを支えるエートスがあったからに違いない。【この話、続く】