礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

安田徳太郎が聞いた孝明天皇暗殺説

2015-04-19 09:18:10 | コラムと名言

◎安田徳太郎が聞いた孝明天皇暗殺説

 数日前、何となく、安田徳太郎著『天孫族』(カッパブックス、一九五六)という本を書棚から取り出した。この本を最後に開いたのは、おそらく四〇年ぐらい前だと思う。
 この本は、同じ著者による『万葉集の謎』(カッパブックス、一九五五)の続編にあたるもので、いわゆる「日本語レプチャ語起源説」を説いた本である。
 当然、そういうことが説かれているわけだが、冒頭部分には、なぜか、「明治維新」を論じた部分がある。読んでみると、これが実におもしろい。本日は、そのうちの、「孝明天皇は薩長派に暗殺された?」という一節を紹介してみよう(二三~二六ページ)。

 孝明天皇は薩長派に暗殺された?
 わたしは少年時代に、孝明さんが御一新のときに、薩長から暗殺されたことを何度も聞いた。そのとき、大人が「じぶんの親のカタキも討たずに、そのカタキの薩長にかつがれて、江戸に乗りこんだとは、ケッタイな話ドスな。」といった言葉が、いつのまにか、わたくしの頭にこびりついてしまった。中学校にはいってから、ある年、孝明天皇祭の日に、全校あげて泉涌寺〈センニュウジ〉に参拝したことがあった。その途中で、同級生たちが、孝明天皇が暗殺されたことをこそこそしゃべり、暗殺しておいて、孝明天皇祭とはおかしな話だ、というのを耳にして、京都の子どもはみんな暗殺の話を知っているのかと、わたくしのほうがびっくりした。
 明治時代の京都の市民は、天皇族が御一新にさいして、薩長にかつがれて、権力の道具にされたことをはっきり知っていた。だから、京都の市民は薩長の藩閥政治にひじょうな反感を持ったが、かつがれた天皇族にたいしては、むしろ気の毒だなあ、と同情した。これがどうも京都の市民のほんとうの気持であったらしい。
 わたしの子どものころに、「会津(相手)殺して、よい加賀(嚊〈カカ〉)もろて、長州(銚子)酒ずき、えやないか。」という歌があった。会津は、長州に反抗した白虎隊〈ビャッコタイ〉の会津藩のことで、加賀は百万石の加賀藩のことである。つまり、「相手の会津を殺して、金持の女房〈ニョウボウ〉と三々九度〈サンサンクド〉の酒ずき〔杯〕をあげるとは、結構な話だなあ。」という、長州藩にたいする風刺であった。
 もう一つ、わたくしは幼年時代に近所の子どもといっしょに手マリをつきながら、「ボンさん頭に、キンカンのせて、のるかのらんか、のせてみよ。」という歌をうたっていた。そのころはなんの意味だか分からなかったが、大きくなってから、ある老人が、こういう話をしてくれた。
 薩長派が孝明さんを殺して、その子どもをむりやりにかついで、明治二年に江戸に乗りこもうとした。それにたいして、天皇族の賀陽宮〈カヤノミヤ〉が大いに憤慨して、ひそかに同志を集めて薩長派にたいする反対勢力をつくろうとした。賀陽宮は京都の粟田口〈アワタグチ〉にある青蓮院【せいれんいん】のボンさんであったが、この計画がバレて、とうとう広島の浅野家におあずけになってしまった。つまり、手マリ歌のボンさんはこの青蓬院の宮さんのことで、キンカンはくだもののキンカンでなく、天皇の金冠のことで、賀陽宮の失敗を風刺した、薩長派の歌であった。
 このボンさんはこのために薩長の藩閥政府からさんざん虐待されたが、のちに久邇宮〈クニノミヤ〉と改名して、皇族の仲間入りがゆるされた。このボンさんが、いまの皇后〔追号は香淳皇后〕のおじいさんである。
 京都の天皇族が神主〈カンヌシ〉でなく、すべてボンさんであったのはおかしな話である。北白川宮〈キタシラカワノミヤ〉も江戸・上野の寛永寺のボンさんであった。有栖川宮〈アリスガワノミヤ〉も京都・紫野〈ムラサキノ〉の大徳寺のボンさんであったらしい。明治天皇も薩長にかつがれるまえは、奈良の興福寺のボンさんであったということを、最近聞いたが、ここではわたくしが子どものときに、じぶんの耳で聞いた話だけにとどめておく。
 わたくしは七歳のころに、一時、京都御所の近くに住んでいたことがある。そのころの京都御所は、二条城や本願寺にくらべると、じつにみすぼらしいものであったから、安政二年の改築以前の御所はもういっそうひどいものであったにちがいない。御苑〈ギョエン〉もそんなひろいものでなかった。紫宸殿〈シシンデン〉と大宮御所〈オオミヤゴショ〉はあつたが、これは神社とはなんの関係もなかった。神社と関係のあったのは、むしろ明治天皇の皇后の実家にあたる一条家〈イチジョウケ〉だけで、これは京都の賀茂神社の宮司で、賀茂の社家〈シャケ〉さんとよばれていた。天皇族がお寺から神社に乗り移ったのは明治維新以後である。
 そのころ、つまり明治三十七年に、わたくしの家の前を明治天皇の行列が通ったのをおぼえている。天皇旗をささげた儀仗兵〈ギジョウヘイ〉が先頭に立って、そのあとに菊の紋のついた馬車が一台ついていった。みんな、おもてに出て、見物したが、そんなものものしいものではなかった。ただ、そのときに、隣の人が二階から行列を見物したために、警察に呼び出されて叱られたという話を聞いたが、べつに不敬罪にはならなかった。

 ここに出てくる「賀陽宮」とは、賀陽宮朝彦(かやのみや・あさひこ)親王のことで、文久三年(一八六三)の「八月十八日の政変」を主導した中川宮朝彦(なかがわのみや・あさひこ)と同一人物である。元治元年(一八六四)に、宮号を中川宮から賀陽宮に改め、さらに明治にはいってからは、久邇宮家を創設して、久邇宮朝彦(くにのみや・あさひこ)親王となる。敗戦直後に首相を務めた東久邇宮(ひがしくにのみや・なるひこ)王は、久邇宮朝彦親王の第九子にあたる。
 青蓮院の読み【せいれんいん】は、原ルビである。

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