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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「勤勉」に内在する「非合理性」という問題

2015-04-18 05:17:51 | コラムと名言

◎「勤勉」に内在する「非合理性」という問題

 昨日の続きである。浅野誠氏のブログ「沖縄南城・人生創造・浅野誠」に載った、拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書、二〇一四年八月)の書評を、浅野氏のお許しを得て紹介している。書評は三日分に分かれているが、本日は、その三日目(最後)の分を紹介させていただく。

勤勉と働き過ぎ 勤勉と怠惰 働き過ぎ本3 浅野 誠 2015年03月29日

 前回26日の続きで、連載最後だ。
仮説12 高度成長期に、日本人労働者は働きすぎるようになり、その傾向は、今日まで変化していない p217
仮説13 近年の過労死・過労死自殺問題には、日本人の勤勉性をめぐるすべての難問が集約されている。p225
仮説14 日本人は、みずからの勤勉性を支えるものが何であるかについて、深く考えようとしていない。p142-3
 これらに対する回答として、「終章 いかにして「勤勉」を超えるか」が書かれている。
 その小見出しに、「「怠惰」は許されないのか」p228、「怠ける勇気、怠けの哲学」p238という言葉がある。
 それらでは、勤勉の反対語、ないしは対語として、怠惰が使われている。
 問題を倫理ないしは道徳として捉えようとする人は、「怠惰」になることを拒否したり、「怠惰」と見られることを嫌い、「勤勉」から逃れることが難しい。身体がいうことをきかないときまで「勤勉」であるように頑張るということになる。
 こうした枠組みから超えるためには、「勤勉―怠惰」という対語の囚われから脱け出ることが必要なのだろう。それは、前回紹介したことにかかわっていうと、「働きすぎ」と「勤勉」との混同から脱け出るということだろう。「働きすぎ」を止めることは「勤勉」をやめ「怠惰」に陥ることとは異なるのだ、という論理を使い、異なる倫理、道徳を生み出すことになるだろう。「働きすぎ」を止める倫理、道徳が必要なのだ。
 このあたりを深めてみたいと思う。
 思いついたことを並べよう。
・「働きすぎ」には、長時間労働の象徴される量的過剰と同時に質的過剰もある。
・「勤勉」にする時間と、そうでない時間を区分する論理にはどのようなものがあるのか。区分することは難しい面があるが、それでもなお区分し、自分の持ち時間を自己のコントロール下に置くことの意味と方法を考える。
・それらの例として、他のことで楽しむ時間、休む時間、自然の流れのなかで過ごす時間などがあげられる。
・生活の必要量をこえては仕事をしない、あるいは、自然および自然の流れを生命・生活の必要量以上にはこわさない。
・自然(自己の身体を含む)を大切にする道徳、過剰を抑える道徳、これらのことと勤勉の道徳との折り合いをつけるありようの探求。
・集中の時間と拡散の時間 緊張の時間と弛緩の時間。
・楽しむ活動と楽しめず苦役と感じる時間、これらと仕事の時間とそうでない時間との関係。
などなど。考えたい問題は多い。 

 以上、浅野誠氏のブログ「沖縄南城・人生創造・浅野誠」から、引用させていただいた。転載をお許しいただいたことに対し、改めて御礼申し上げます。
 浅野氏は、「二日目」の記事(昨日引用)で、拙著の一五三ページから、次の文章を引用されていた。
《農民を「勤勉」に駆り立てたものは、いわゆる「倫理的な雰囲気」としてのエートスではなかった。むしろそれは、当時の農村に蔓延しはじめていた、「非倫理的な雰囲気」としてのエートスであった。すなわち、生存競争に生き残るために、ひたすら自家の利益を追い求めようとする雰囲気であった。》
 自分で書いておいて言うのもどうかと思うが、ここで、ことさらに「非倫理的」という言葉を使ったのはなぜだろうと、一瞬考えてしまった。おそらく、エートスに導かれて「勤勉」になるということは、必ずしも「倫理的」とは言いがたく、そもそも、その「エートス」自体、「倫理的」な性格を持っているとは限らないのだ、ということを言いたかったのだと思う。
 さらに、ここで、「非倫理的」という言葉を使うことによって、拙著の結論部(終章、特に二四一ページ以降)における、「勤勉」に内在する「非合理性」という問題の指摘に向けて、伏線を張るという意図もあったように思う。
 いま結論部を読み返してみると、忙しい展開があったあとに、いきなり「怠ける勇気を持とう」というアピールがある。それまでの議論とのつながりが、わかりにくく、読者に対する配慮が欠ける感は否定できない。終章にいたった段階で、すでに主張や構成は、それ以上いじれない状態になっていたが(これは、紙数や納期の問題というより、能力的な問題である)、なおかつここで、遡って伏線的な記述を増やすなどの工夫があっても、よかったのではないか、などと反省している。
 浅野氏は、その書評を、「考えたい問題は多い」という言葉で結ばれている。物書きの私としては、これを、「もっと精進せよ」という励ましの言葉として受けとめた。いずれにしても、うれしく、ありがたい言葉であった。

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