◎敵討は、公権力に代わって法と正義を実現する行為
昨日の続きである。長谷川伸の「敵討考〈カタキウチコウ〉」という文章を紹介している。本日は、その二回目(最後)。
昨日、引用した部分のあと、改行した上で、次のように続く。
敵討〈カタキウチ〉には探偵的なカンが必要で、これがないからだろう、敵討に出立〈シュッタチ〉して、それなりになった例もちょいちょいある。探偵的なカンが悪いために返討〈カエリウチ〉になった例もある。それから敵討とは前に説明したごとく、収入なしの支出ばかり、しかも期限などいつ終るとなきことである。
敵討は成功するか不成功におわるか最後のドン詰りまでわからない。健康で探偵のカンがあって、とにかくも生抜いてきて、名乗りかけて勝負に突入したら返討になったということがある。越前の雑賀新五左衛門〈サイガ・シンゴザエモン〉が返討したのがそれだ。大坂の松本雅楽ノ助〈ウタノスケ〉がまたそうで、江戸で討手〈ウッテ〉を六人返討にした金田利兵衛〈リヘエ〉もそうである。この種の例はほかにまだある。闇から闇へ消えた事実もまたすくなくないだろう。
そうして幸運にも敵討に成功すると、ブームが来る。石井源蔵兄弟でも江戸の評判、諸国の評判、なかなか盛んなもので、詩歌を贈られ文章を贈られ、当時としての小説にもされた。だがプームはやはりブームで、たちまち忘れ去られる。それは石井兄弟に限らない。敵討の名声はブームに過ぎないといっても失当でない。そンなことよりも敵討に長くかかった者の最大の不幸は、世事は知ったが知識を磨がく〈ミガク〉時間をもたない、経験はするが学間を究める時間をもたない、つまり中学・高校・大学とこの学校経歴の年ごろを、自活と探偵と闘争仕度〈ジタク〉に、全部つかうということである。
手ッとり早くこれをいえば、敵討ぐらい間尺〈マジャク〉に合わないことはない。物語などでは敵討したものは諸侯が争って抱えたとなっているが、それは話を芽出度く〈メデタク〉したのに過ぎない。敵討したということよりも、討人その人の人物と、紹介者の力しだいで就職できたろうが、敵討のために大禄〈タイロク〉で抱えられたり、栄達の道へのッかるということはない。
しかし、間尺に合わないだらけの敵討に、没頭して悔いないのは、スリルを味うためでは勿論ない。〝法〟の代行者として死刑の執行に、自分の生命を賭けて闘うことに、深く重い意義を感ずるからである。石井兄弟の場合でいえば、幕府は殺人犯の源五冶衛門を検挙せず処刑もしない。犯罪が行われた大坂でも町奉行所は手が出せない。亀山の板倉家の士となっていたのではどうも出来ない、亀山城下で町人になっていたとしても、そのころの制度では大坂の町奉行所の権限外である。しからばどこに犯人処刑の権限があるかというと、どこにもない。あるはただ被害者の子のみ。だから敵討とは〝法〟の実行者である。法とは正義ということだから、討人〈ウッテ〉は満足して青春を犠牲にした。前髪のある若衆で敵討の旅に出て、目的を遂げて戻ってきたときは禿頭〈トクトウ〉であった例は久米幸太郎だけではない。
そしてその人たちはそうなった事を後悔していないのである。
日本の敵討は諸外国にあった復讐とは、根本義が異っているので、私は敵討に復讐という文字をつかわない。讐〈アダ〉を復すのではなく、罪を正したのだから、報復の感じが出ているこの言葉をつかわないのである。
松平伊豆守(信綱)が仙台藩に人を推薦したとき、「妻敵(めがたき)討ちなどせぬ者に候」といった逸話が、基本的な価値をもって昔はひろく伝わっていた。
私の集めた妻敵討ち〈メガタキウチ〉記事はわずかに十一件に過ぎない。その中で、近松門左衛門の取材するところとなると、後世におよび、京都堀川の妻敵討ち、大坂高麗橋〈コウライバシ〉の妻敵討ちなど、甲乙丙丁いろいろの作家によって作り換えられ、それぞれの二人の男と一人の女とは、なんとかかとか、思わぬ擁護をうけ、同情を寄せられている。山城葛野〈ヤマシロ・クズノ〉の妙成寺の妻敵討ちは、討たれる男が緋縮緬〈ヒヂリメン〉の下着、綾縞〈アヤシマ〉の袷〈アワセ〉の上着で決闘して殺され、女は夫のために刺殺された。多分そのとき女は、駆落ち相手の男とおなじ衣裳であったろうと思える。近松が取材したら、これなど今も作者がいろいろに作り換えることだろう。
妻敵討ちなどせず、手際よく離縁するのがよろしいとされたからだろうか、私の集めた限りでは安永九年(一七八〇)の渡辺金十郎のことからアトの妻敵討ち記事はない。
敵討の禁止は明治六年(一八七三)二月七日布告され実施された。法が日本全国で十分な秩序をとられたとき、敵討などあるべきでない、禁止は当り前である。であるから法的秩序が不十分であった時代には敵討が役立ったのである。
その敵討が日本独特の発達と実践とをみたことは知っていてもらいたいものである。
(読売新聞社刊「日本の歴史」第八巻、昭和三十五年六月所収)
昨日、紹介した部分も興味深かったが、本日、紹介した部分は、それ以上に興味深い、というより、非常に考えさせられる指摘を含んでいる。
長谷川伸の指摘によれば、敵討〈カタキウチ〉という行為には、法的な手続きによっては死刑の執行がなされないカタキを、被害者の親族が、その死刑の執行を代行する意味があったという。いわば、敵討の討手〈ウッテ〉とは、公権力に代わって法を執行し、正義を実現する者ということになる。
ここから、ふたつのことを考えた。敵討の討手が、その全人生を敵討のために犠牲にすることがあったという。こうした討手の生きかたを支えたものは、敵討という行為が、法の代行であり、正義の実現であるという使命感であったのかもしれない。この使命感は、一種のエートスといってよいだろう。昨日も述べたが、人は、何らかエートスなしには、みずからの健康を保ったり、勤勉性を維持したりするのは、難しいように思う。石井源蔵・半蔵兄弟の健康と勤勉を支えたのは、こうした使命感=エートスだったのではないだろうか。
もうひとつ、考えたのは、このように、江戸期数百年の長きにわたって、公権力が、個人に「法の代行」を委ねたということは、日本人の意識やメンタリティに、多大な影響を及ぼしたのではないかということである。
「天に代わりて不義を討つ」というのは、昭和期の軍歌の一節だが、こうした発想は、日本人には特異なものではない。つまり、公権力が正義を実現できない場合は、個人あるいは結社が、その正義を実現することが許される、いや、実現すべきだという発想である。
江戸時代のカタキウチ、「忠臣蔵」事件、幕末期に続発したテロル、明治初年の要人暗殺、昭和維新という名のテロル、今時大戦中の軍部の独断専行、等々の背後には、つねに、そうした発想があったのではないだろうか。