日本男道記

ある日本男子の生き様

46:庄野(白雨)

2010年09月05日 | 広重東海道五十三次
46:庄野(白雨)
石薬師から3里で庄野の宿であるが、ここを描いて、広重は一代の傑作を残している。保永堂版東海道全五十五枚中、蒲原の「夜の雪」、庄野の「白雨」、そして次の亀山の「雪晴」の三図は役物と称して傑作とされているが、その内でも、この庄野の図は最傑作で、独り保永堂のみでなく、広重全作品中で最高の作品となっている。
ひたひたと坂路を走り、上下する人々の足音と、藪をざわめかしてはサアッと降る夕立の音、しぶき、緊張した筆でよくこの調子と動きを描くつくして、見るものの、耳に眼に、充分感じさせている。ことに、風に向かっている二人の姿の力ある筆には驚嘆せずにはいられない。斜めに走る坂道の草色は、えもいわれない版画の味で、また鼠色を基調とする全幅を、きっかりと区切ってこの画面を引きしめている。絵はどこまでも情趣に生きていて、決して感傷に堕してはいない。しかも奔放で健全で粗野でなく厚みもある。まさに広重一代の傑作である。
この絵で傘に「竹のうち」「五十三次」の文字のないもの、雨脚、竹藪の摺や人物、地面の色彩などにいろいろ変わったものがあるが、それらはいずれも悪版である。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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