日本男道記

ある日本男子の生き様

52:石部(目川の里)

2010年10月17日 | 広重東海道五十三次
52:石部(目川の里)
 街道は平坦な路が続く。水口から石部宿まで9.3里。この間に広重の描いた「目川里」がある。ここは菜飯と田楽が有名で、その店「伊勢屋」を描いたのが、この絵である。春の景色らしく、遠く見える山、三上山も春霞の彼方に薄鼠に眠っているように、おだやかである。海道には伊勢参りの連中のさんざめきが賑やかである。この一群の人物の描写が実に巧みで、名物店の前の旅情を表現して遺憾がない。旅人達には一切構わずに行く、二人の荷を背負った農夫の姿が、また得もいわれない村落の情趣となっている。
 石部の宿は、画題にも乏しかったので、広重は、この目川の里を描いたのであろうが、石部で思い出されるのは、浄瑠璃や歌舞伎でも知られた「お半長右衛門」の心中話である。二人の馴れ初めはこの石部の宿であったし、「伊勢まいり石部で堅い仲となり」の川柳もある。それを考えてか、広重は「隷書東海道」で旅篭屋の図を描いて、保永堂版の「赤坂」とはまら別な味わいを見せている。また石部には道中薬として和中散を売る是斎という店があった。

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
佐渡へと戻りました。 (地理佐渡..)
2010-10-17 16:49:27
こんにちは。

もうご自宅へと戻られましたでしょうか?
今週末は大切なプロジェクトに望まれた
訳ですが、全力を尽くされたものと思い
ます。また、その合間に旧来の友との交
友も予定されるとありました。なには
ともあれ、充実した週末だったことでしょ
う。当方も久しぶりにマル二日間を自由に
過ごしました。
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Re:佐渡へと戻りました (日本男道記)
2010-10-19 12:41:42
こんにちは!

昨夜、岡山に帰って来ました。

試験の結果発表は11月の初旬です。
それまで、気が揉めます。

久しぶりに異なった環境で過ごしてきました。
今日から大学へ初出勤しています。
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