日本男道記

ある日本男子の生き様

51:水口(名物千瓢)

2010年10月10日 | 広重東海道五十三次
51:水口(名物干瓢)
 鈴鹿峠を境に東海道は近江路に入り、草津までは下り一方となる。水口は土山から12.2里。野洲川の支流、横田川沿いである。この宿では、一年中いつでも、どじょう汁を出すことで知られていたというのも平凡な村落であったらしく、広重もここを描いて明るい近江路の、静かな田園風景を描いている。題して「名物干瓢」とある。
 この地の名産の干瓢作りをする女たちの作業姿が面白く、残暑の乾いた街道を肌を脱いだ飛脚が行くのも、炎天下の暑さを示しているのが注目される。 

絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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