日本男道記

ある日本男子の生き様

48:関(本陣早立)

2010年09月19日 | 広重東海道五十三次
48:関(本陣早立)
 亀山を出て街道は鈴鹿峠へ向かう。その麓にある宿場が関で、亀山から6里。ここで伊賀・大和へ向かう伊賀路と分かれ、また京都から伊勢参宮をする街道もここを通る。古くは、逢坂・関・不破の関とともに、ここは鈴鹿の関があって、これを三関といって有名であった。その関所の遺跡もあり、この地名となったのである。鈴鹿峠にかかる手前の宿場で、宿場女郎や飯盛女も多く、かなり繁栄を見せていたらしい。
広重の絵は「本陣早立」とあって、本陣から未明の早立をする大名の一行の慌ただしさを描いた図である。本陣は大名の泊まる旅館で、その宿場は最も格式の高い旅館であった。大名の泊まる日は、玄関に定紋の幕を張り、提灯をかかげ、本陣の主人は袴姿で宿外れまで出迎える。こうした本陣の有様、出立前のざわめきを、この絵はよく描いている。玄関にいる袴姿の男は本陣の主人であろう。すでに大名の乗る駕篭は玄関口に置かれている。供廻りの仲間や侍は早、旅装を整えて待っている。空はまだ暗い。

 この絵の幔幕の定紋は、広重の父の実家の姓、田中の二字を図案化して大名の紋として描いたという説がある。また玄関に下がっている木札に、当時坂本という店から巷間に売り出されていた化粧品「顔の薬仙女香」「しらが薬美女香」の名を記して、画中宣伝をしているのも、いかにも庶民の絵としての面白さである。


絵の出典:食るり愉るり知多半島

※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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1 コメント

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今は東京 (地理佐渡..)
2010-09-19 08:19:38
おはようございます。

今朝の佐渡は曇り空です。遠くから
時を見に来てくれたブログ友を今朝は
案内しました。喜んでもらえました。
さて、お孫さんとの楽しい一時。
もう少しですからたっぷりとですね。
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