3104丁目の哀愁と感傷の記録

日々生きてます。自分なりに。感じた事を徒然に書きます。素直に。そんな人間の記録。
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南千住訪問、再び…

2023-02-12 19:31:00 | 
20230212

以前書いた夏のショートトリップの日記、吉原•山谷編。

行きそびれた場所が幾つかあったので、完結させる為に今日行ってきた。
日曜の昼下がりに吉原•山谷とはなかなかディープな休日の過ごし方ではないか。

南千住から歩く。

先ずは山谷のいなりやに向かう。

通称ジブリハウス、とネット上には書かれていた。

安宿が犇めき合うドヤ街山谷の中でも、一度見たらもう忘れられないインパクトがある。

どう、これ?




特筆すべきは営業中って事。廃墟じゃないからね。通常運転だからね、ここ。

自然に飲まれているという意味では、カンボジアで見たベンメリアやタ•プロームと通ずるものがある。ベンメリアは天空の城ラピュタのモデルになったとも言われている。なるほど繋がったぞ。ジブリハウス。

外から見ることしかできなかったので、前に佇んで写真を撮りまくる。不審者だ。

しかし、ここ山谷はやはり刺激的な場所である。公道に座り込み、宴会をしていたり、堂々と寝転んでいる爺さんまで。
高齢化が進んでいるとは聞いたが、殆どが高齢者であった。そして酔っ払って大声だ喚いている爺さんをまた濁声で注意する声。中々刺激的である。

その後は玉姫公園を見たくなって検索してみると近い事が判明。向かう。

道すがら、玉姫稲荷神社という神社を発見する。思わぬ収穫である。



俺しか人がいない。喧騒から隔たれ、ここはとても静かで、時の流れがゆっくりに感じられた。

残念な事がひとつあるとしたら、社務所が建て替え工事のために、御朱印が用意できないと言われてしまったことか。ここ玉姫稲荷神社は靴市というものがあり、その時は頂けるらしい。行ってみるか、その時に。という事で、山谷の旅を完結させる為に来たのに、またここに来る口実ができてしまった。

で、すぐ隣にある玉姫公園。
ここは俺が入ってはいけない場所だと思った。流石に入って見学してはいけない場所だと思った為、外観をぐるっと眺めてその場を後にした。

その後は歩いて三ノ輪へと向かう。
距離的には駅一駅分くらい。15分くらいかな。

俺がまたもう一度この南千住に来た大きな理由。

三ノ輪の浄閑寺を訪れたかったのである。

ここを訪れずして、吉原、山谷の旅を終わることはできない。




浄閑寺、通称投げ込み寺。
名前を聞けばわかる通り、ここは多くの吉原の遊女が文字通り投げ込まれた寺。
身寄りのない遊女の遺体はここに運ばれ、供養もされずに葬られたという。

かつてはこの辺りには川が流れており、小船で何台もの死体を運び、ここに投げ入れていたらしい。
物凄い歴史であるが、その歴史の断片をを今なおこのように見れるという事はとても大事な事であると思う。

行ってみて分かったのだが、ここはかつての遊女達の投げ込み寺というだけでなく、当時の歴史を垣間見る様々な見所があった。

マジで勉強になった、ここ。

そして何より、住職の方が本当に色々な事を語ってくれて勉強になった。御朱印を待つ時間の雑談から始まったのだが、随分と色々な事を教えてもらった。




新吉原総霊塔
〝生れては苦界 死しては浄閑寺〟
こんな悲しすぎる詩が刻まれていた。
そしてここには中に入っている骨壺を実際に格子越しに見ることができる。


何とも言えない気持ちになる。当時の遊女達の遺骨はもう既に残ってはいないらしいが。




欅の木が植っているが、ここの根本から遊女達の遺骨が出てきたらしい。当時は衛生上の観点から、土葬から火葬にと移行していた過渡期だったそうである。


この辺の話も全て住職さんに聞いた話である。



山谷のひまわり地蔵。
これは孤独に死んでいった山谷の労働者達を供養するもの。


そして住職さんが是非行ってみたほしいと言っていた、首洗い井戸へ。父本庄助大夫の仇である平井権八を討ち果たそうとした助七と助八。この兄弟の兄助七は吉原田圃で返り討ちにあってしまう。弟の助八はこの井戸で兄の首を洗っているところを、無残にも権八に打ち果たされてしまったそう。


そしてここも住職さんが是非とも見てほしいと言っていた谷豊榮と盛紫の墓。一つだけ他の墓石とは違って朽ちたものがあるので見てほしいとのこと。実際、何故この二人の墓がこんなに名所になっているのかと言うと、これにも遊女に関する歴史を垣間見る事ができるからである。

この谷豊榮という人物と遊女盛紫は心中したそう。当時はまだ心中という言葉もなかったらしい。
そして、この谷豊榮という人物は当時の警察官であったそう。つまりは当時の役人ともあろう人物が、遊女と心中するという、当時はセンセーショナルかつスキャンダラスな事件であったのである。
この事から分かることは、当時の遊女達がどれだけかつての東京の街を賑やかせ、楽しませていたか。彼女達がどれだけ文化風俗的に高いポジションにいたかを知る事ができる。

まぁ全部住職さんに教えてもらった話だけど。




最後に若紫の墓。
この若紫も遊女で悲劇的な最期を遂げたことで有名である。遊女の墓で、この様に一つの墓を作って供養されている遊女はとても珍しいらしい。
この影に一体どれ程の供養されずに葬られた遊女達がいたのだろうかと思う。

マジで勉強になった。

繰り返しになるが、陰と陽の部分。華々しい発展を遂げた東京の影の部分というか、タブー的な面。これも立派な歴史の一部分である。

今回の旅で色々な事を知る事ができた。



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