3104丁目の哀愁と感傷の記録

日々生きてます。自分なりに。感じた事を徒然に書きます。素直に。そんな人間の記録。
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20年越しの夢 6 ―高山病と世界遺産で入院編―

2015-04-03 22:08:38 | 
2014年8月3日

クスコのホテルに着いてからは意識が朦朧としてくる。
立っていることができないくらいに気持ちが悪い… 頭がくらくらする。

当然、夕飯も食べることができず…
インスタントの味噌汁を何とか流し込んだのを覚えている。

夜の7時くらいだっただろうか…
早すぎる時間に寝ようとし、食事も風呂も入らずにベッドにもぐりこんだ。

しかし、寝ることができない。吐き気がひどすぎて眠ることができないのである。
吐き気に襲われるたび、大量の水を流し込み、紛らわす。
この一晩でペットボトルを5本を空にしてしまった。

自分を無にするかのごとく、姿勢を変えず、ベッドの中でただただ時間が時間が過ぎるのを待つ。
気持ち悪くて寝れない状態での一晩って気が遠くなるほど長いことを知った。

テレビをつけ、怪しい番組をつける。
こういう番組なら気がまぎれるんじゃないかと思ったが、一向にそんな気配はなく、ただただ時間が浪費されていくばかり。
寝れない恐怖にどんどん蝕まれていく。

とうとう寝れないのを諦めたのは5時くらいだったろうか。
この日はプーノへ行く予定で、移動はひたすらバスである。
この移動の時間にひたすら寝よう。そう決めて起き上がることを決心した。

帰り道で貰った酸素缶も使用したが、自分の分、奥さんの分、そしてコーディネーターさんの分の三本をあっという間に使いきってしまった。


朝ご飯を食べにホテルのレストランへ行くだけですでにくらくらして気持ち悪すぎて倒れそうになった。
吐き気がひどすぎてパンなんてとてもじゃないが、食べられない…
なんとか胃に入れたのは、ジュースと何かけらのフルーツのみ。

そしていよいよ出発の時間が来た。
ホテルのロビーで待っているだけで死にそう。立ち上がったら意識飛びそうになった。


そしてバスに乗って数分後…

手足が徐々にしびれてきた。
どんどん麻痺して感覚がなくなってきた。

手足の感覚が全くなくなってしまったのである。
そしてその後は徐々に顔にまでしびれが及んできた。
どんどん自分の顔の感覚がなくなっていく恐怖は忘れられない。

これは流石にやばいって自分でも気づき、途中リタイア。

俺はプーノへ行くことができなかった。

そしてホテルに戻り、即入院。

なんと世界遺産の町クスコで入院するという世にもまれな経験をすることができた。
今となっては笑い話でネタにできるけど、その時は絶望感しかなかった。

俺はある程度英語が話せるので、ホテルでのメディカルチェックは難なくこなすことができた。

しかし、今回奥さんには多大なる迷惑をかけてしまった。

病院に入ってから、鼻にチューブを差し込まれ、酸素を注入された。
血中の酸素濃度を測ったら、通常の半部以下になっていたらしい。そりゃ気持ち悪くもなるって。
こっから5時間以上酸素注入。

そっからあまりの疲労感からか深い眠りに入ってしまう。

そこから奥さんは保険屋とか病院のドクターとか、現地のコーディネーターさんとから必死にやり取りをしてくれた。
本当に申し訳ない。


お昼の異常な山盛りパスタは半分くらい食べることができた。
昼くらいにはほとんど回復し、血中酸素濃度も通常に戻っていた。

なんか今回ばかりは本当に海外保険に加入しておいてよかったと言わざるを得ない。
いろいろとやり取りが面倒くさかった。ってか現地の保険の対応の悪さには驚く。


病院を後にし、とにかく高度を下げようということになり、一刻も早くリマに戻ろうとする。

クスコの空港で予約をしてなかった飛行機だったので、高い。
けど、これも保険で払えるはずだし、もし万が一払われなかったとしてもとにかく低地に戻りたかった。




リマに戻り、初日に泊まったホテルに再度戻ってきた。
この時の安心感はやばかった。

まだ本調子ではないだるい体で、ポストカード40枚を書き上げた。


夕飯は、近くのショッピングモールでケバブを食べる。

そこの兄ちゃんがすごく優しくて、つけるソースを選ぶときに、言葉が通じなくてあたふたしていると、
小さなトレイに全部のソースを乗せてくれて、ほら、なめてみろって感じでくれた。
こういう旅の醍醐味っつうか、旅の楽しさを感じて、ちょっと今まで落ちまくってた気分が回復した。


いま思い出してもとんでもない一日だったな…