3104丁目の哀愁と感傷の記録

日々生きてます。自分なりに。感じた事を徒然に書きます。素直に。そんな人間の記録。
since 2008.4.4

音に埋まりたい

2011-02-28 19:08:25 | 音楽
日記の順番が前後してしまったが、先週の金曜日に渋谷へ行った。

訪れたのはライブハウス。
某インディーズバンドのライブを見に行ったのだ。

はじめは結構大き目のハコでやるのかと思いきや、大きさとしては故高円寺のギアよりも狭いんじゃないかという様なところだった。

けど内装はおしゃれなかんじだったな。
パンクスとかはあんま出てないんだろうなーと思う。

俺が昔出ていたライブハウスは主に故高円寺のギアと下北沢の屋根裏だからライブハウスと言えば、壁中にきったねーフライヤーとかパスとかがベタベタと貼り付けてあって、何か常にタバコ臭くて、床はなぜかべた付いてて、何より薄暗かった。

演奏も狭いライブハウス特有の爆音で心地よかった。広い会場だと音がおかしい事になる。
特に今回見たバンドは空間系というか、エフェクター音が重要な雰囲気がとても大事になるバンド。
空間系の音使うバンドは、野外よりもドームよりもやっぱり狭いライブハウスに限る。


若いバンドでとても将来が楽しみ。あと何年かしたらフェスとかにも出てくるんじゃないだろうか。

バンドやってたころの情熱がまたもや少し甦った。
そろそろ本格的に楽器に触れようかな…

ありがとう。本当に楽しかったよ。

超現実

2011-02-28 00:47:47 | 徒然
今日はちょっと早起きして(と言っても起きたのは10時だが)、美術館に行った。

電車のなかでシュルレアリスム展が開催されているということを知り、これは是非とも見てみたいと思っていたのだ。
以前の恐竜展や、哺乳類展と異なり、今回は思い立ったら直ぐに行くことができた。

そして何の疑いも無く、上野に向かった。
シュルレアリスム展がどこで開催されているのかを確認することもなく。

そして上野の券売所に着いてようやく気づいた。
何の疑いも無くここに来ちゃったんだけど、シュルレアリスム展ってどこでやってるんだろうか?
本来ならば来る前に確認すべき疑問が浮かぶ。が、とき既に遅し。

券売のおばちゃんにシュルレアリスム展やってますかとか恥ずかしい質問をしなくてよかったと心から思う。

国立西洋美術館ではレンブラント展が開催されていた。
これはこれで面白そうな気がするのだが、やはりここまでシュルレアリスムを見ようと意気込んで来たのだ。ここで妥協するわけにはいかない。
今日は絶対にラーメン食べようって気分のときに、蕎麦が食べたくないのと同じだ。

調べてみると、シュルレアアリスム展は国立新美術館で開催されているとのこと。
場所は六本木である。

検索してみると上野⇒浜松町(大門)⇒六本木とそう遠くは無かった。
無駄にしたのはちょっとの電車賃くらい。安い勉強代だ。

軽くトラウマが残る土地である浜松町を歩き、程なくして六本木に着いた。

東京ミッドタウンの横を歩き、ラーメン食っていざ国立新美術館に。



これがなんともまあ、洗練された建物で、一気に惹かれた。
最近訪れた土地で、また是非とも訪れたい場所№1だ。

六本木の街に相応しい、スタイリッシュな建物。

チケットを購入し、中に入ると…

ロンドンのテートモダンにそっくりであった。
本当に似てる。絶対に国立新美術館はテートモダンを参考にしたに違いない。
中の吹き抜けになっている感じや建物の構造も本当に似ていた。

凄くいい空間だった。

まずは、東京の美大生たちの卒業制作が展示してあったので、見てみた。



もう、感化されまくった。
刺激を受けたなんてもんじゃない。

俺は一体何をやっているんだろうと思った。

彼らは一体日常何を考えているんだろう。どんなことを考えているんだろう…
この作品をどういうコンセプトで、何を感じながら、どう伝えようとして創ったんだろう…
中には作品の下に名詞を置いたり、ノートを置いて次の展覧会の案内をしていたり、ファイルに過去の作品を閉じてある人もいたり…

何か生活してる次元が違う。
それに比べて俺は一体何をしているんだろう…
自分の日常が情けなくなった。

そう思えるくらい、作品は個性に富み、そして俺の目からして水準が高い作品ばかりであった。こんなハイレベルな作品を創っている人たちがこんな所に大勢いるとは。
個人的にはテートモダンに引けをとらない。

久しぶりに表現の意欲がめらめらと燃えた。
俺も何か作ってみたい。一年くらい懸けた大作を。
昔は表現意欲だけは無駄に高くって、毎日その表現活動に没頭できていたのに。
この気持ちを忘れていたみたいだ。

表現意欲にビシビシと刺激を受けただけでなく、ちょっと新しい世界を覗いてしまった気分だ。

そいてここは本当にロンドンの美術館のように、無料で見ることができる。
ふらっと来て、見ることが出来るのも、国立新美術館は非常にポイントが高い。


そしてお次は目玉のシュルレアリスム展。
結構人が多かったのが少し残念。人の多さってのは時に、展示方法と同じくらい重要だったりすると俺は思う。
とはいえ、ぎゅうぎゅうで作品も見えない、なんて状態ではなかった。

内容的には非常に充実していたと思う。
なんせ展示作品の数がとても多かった。昼過ぎに入ったのに出てきたときには夕日が沈みかけていた位。
欲を言えば、シュルレアアリスムの代名詞的存在のダリの作品が少なかったのは残念だったか。マグリットは結構見れたな。
とにかく集中して見ていったので、一巡した後は非常に疲れた。

後から聞いた話だが、今回は彼女と一緒に行ったのだが、その彼女の近くに、作品ごとにいちいち“これ訳分かんねー”とかブランドで身を固めた彼女と難癖つけながら歩くブランドで身を固めた半笑い男がいて非常に鬱陶しかったらしい。

あー…いるいる、絶対ひとりは。そういう奴…とか思う。あと薀蓄おじちゃんも鉄壁。

だが、今回はちょっと訳が違ってくるように思う。シュルレアリスム展を見に来ているんだ。騙し絵やトリックアートを見ているわけじゃない。

理解なんてそもそも求められていない。
いや、理解を求められていないというか、理解するという考え方がそもそも存在していない。そこには理解という観念が存在していない。

それを受け入れるしかないのだ。それをそれとして受け入れるしかない。

人がその絵を見て、解釈と言うプロセスを経て考えるものではなく、それがそれとして存在しているそのものを受け入れるしかないのだ。

理解なんて出来るものじゃないし、それをきちんと理解した気になっていたらそれは作者に足して非常に傲慢な考えだと思う。

なんてことをふと思った。別に美術館の作品なんて人それぞれ好きに見ればいいんだけど。

フロアを出るとどっと疲れた。ずっと立ちっぱなしだったのに加え、やはり集中していたためだろう。
目の前にはカフェが。図ったようなロケーションだ。てか考えてるんだろうな。
入ったときには、大勢の客がカフェで話をしていて、お前ら美術館に来て何でカフェで話してるんだよ…何しに来てんだ…なんて思ったものだが、その時になって彼らの気持ちが非常によく分かった。美術館には座って、感想を言い合ったりしゃべれるスペースが必要だって痛感した。

二人して表現意欲を刺激され、よし(数年も遅れた)卒業制作を創ろうって盛り上がりながらコーヒーを啜り、ショップを見て回った。

帰りは東京ミッドタウンの横の並木道(名前分からん)を散歩した。ライトアップが本当に綺麗だった。ドラマに出てきそうだ。俺ドラマ見ないけど。

その後もミッドタウンの中に侵入して、写真撮ったりして帰路へ。


国立新美術館は最高の場所だ。

気に入ったので、今回は珍しく今回のシュルレアリスム展の図録を買ってしまったんだから。


また絶対行く。







天と地の狭間で

2011-02-24 19:39:46 | 徒然
大阪梅田スカイタワー
空中展望台にて

ティカル

ボロブドゥール

ミナレット

プランバナン

ダルガイヤ


これらは一体なんだったんだろう。
と言うか何を意味していたんだろう。

ボロブドゥール、ミナレット、ティカルは知ってる。

それ以外も何かどこかで聞いたことのある言葉な気がする…

何か惹かれたのでメモっておいた。

神様って余りに残酷だ

2011-02-23 23:02:58 | 徒然
ニュースをつけると、ニュージーランドの大地震の報道で大騒ぎになっている。
本当に大惨事だと思う。

やはり、今回ニュースをずっと見ていて、痛々しい映像が流れ、身内の方々の安否を心配する映像、血に塗れた現地の人たち、
恐怖に怯えている被害者の顔を見ると、以前、ハイチの地震の時と同じような暗澹たる気分になる。

詳しくは以前の日記に書いたので詳述しないが、もう前を向くしかないという状況が彼らにとっては本当に辛いことだろうと思う。

こんなことが起こるのは誰にも予期できず、誰にも止められなかった。
にも拘らず、そんなことを言えるのは無事にテレビでニュースを見ている人間だからこそ言えることなんだ、ということは重々承知の上である。
実際に被害にあった人はこのやり場のない怒り、不条理をどこかにぶつけたくなってしまうのは当然のことである。

しかし、今回の事件の原因をどこに起因させればよいのか。
そして、何か原因をぶつけるものが見つかったとして、では果たしてそれは今回の惨事を防ぐことが出来たのか。
今回の地震を誰かが防ぐことが出来たのであろうか。

不条理な災害などが起こると、いつもこのような余りにも不条理な事柄に対する何とも言えない悲しい感情を抱く。

だからとりあえず今は、ひとりでも多くの人が救われることを祈ろうかと思う。

語学留学には俺も行ったことがある。
俺なんか何ヶ月も前から本当に楽しみで楽しみでしょうがなかった。
実際イギリスにいた一ヶ月間は夢のような時間だった。一生忘れられないような貴重な時間だ。

その最中というのが本当に痛ましい。

とはいえ、俺がこんな所で悲しがったり、同情したところで、被災者に何のプラスになるわけでもないので、
何か自分に出来ることを探してみようかと思う。


そのニュースの痛ましすぎる映像の間に、“美咲ナンバーワン”とかいうクソみてぇなドラマのCMが挟み込まれていた。
本当に空気読んでない感じで、どれほど下らないものかってのを露呈しているようだった。

これからもあんな番組を一生見ない人間としてしっかり生きていこうと思った。

The Map of Countries I have been to

2011-02-20 23:26:37 | 


よく旅のブログなんかで見る、“行ったことのある国”世界地図が急に欲しくなり、大した数行ってないのに真似てしまった。

う~ん、こうして見ると本当に真っ白だな、これは…
ちょっとヨーロッパがごちゃっとしてるくらいで…

アメリカは本土に行ったことが無いので、白にした。
行ったことがあるのはハワイのみ。ハワイ行ったからアメリカ塗るのはちょっとねぇ…
なので小さくて見えないかもしれないが、ハワイは赤くなっている。
だからもし将来アメリカに行くことがあったとしても、アラスカを訪れなかったらここは塗らないつもり。一気に赤くしてしまうのは何か違うする気がするだけ。
まあ、アメリカが赤くなるだけで、随分変わって見えるんだろうけど。

あ、その法則で行くと、北アイルランドは塗るべきじゃなかったか…
って気づいたが、修正するなんて面倒くさいのでそんなマネはしない。
その程度のポリシー。そんなこと厳密にルール作ってどうすんだ。

まだまだ悲しいくらい真っ白なので、どんどん赤く塗りつぶしていきたい。

国を訪れる旅に、更新して赤を増やしていくつもり。


まぁ、俺がこの記事のことを覚えていればの話だけど。

このブログのどっかにこの地図を乗っけられたらいいな、と思った。
そうしたら忘れないだろうから。

けど流石に今夜その方法を探していたら夜を明かしてしまいそうなので、今晩はひとまず大人しく寝るとしよう。

過去にすがって生きる生き物

2011-02-09 20:55:14 | 徒然
最近“断捨離”という言葉を耳にした。
先日ふらりと書店に足を運んだ際にもこの本が平積みされているのを目にした。


俺はこの言葉を断固拒否する。
なぜなら俺が人一倍過去を大切にしたいと思っている人間だからだ。

こう書くと過去にすがっていると言われるかもしれない。
ご丁寧な方なら、過去に留まっていてはいけない、そこから前に進むことによって新たな道があるんだよ、なんて力説してくれてるかもしれない。

俺は思うのだが、過去にすがって生きることがそんなに悪いことなのだろうか。

確かに考え方としては一理あるとは思う。ただ、過去を大切にするが余り、過去にすがって過去から抜け出せない生き方の何がいけないのだろうか。

その本が流行り、なるほどと感化され、よし、この思い出は捨てよう。
そう行って簡単に手放せるような思い出ばかりが詰まっている人間なんて果たしているのだろうか。その程度の思い出ならば捨てていい。無いに等しいからだ。

本当に大切にした思い出を、今、必要無いから捨てて、一体何になる。
過去の思い出なんて、暫くすると実際不必要なものばかりである。

だがしかし、そのものに関わる思い出は確かに存在したはずだ。
物を捨てたところで、その過ごした日々や思い出は決して否定できない。
なぜなら確かに過去に自分はその瞬間を過ごしていたのだから。

確かに、本当に大切にしてあったはずの思い出の品が、今じゃ部屋のどこにあるのかも分からない。それは果たして取っておく必要があるのかと思うかもしれない。

俺はそれでも取っておいていいと思う。
現在、今必要でないから捨てる、離れるという考えが俺には理解できないからだ。

埃に塗れた記念品が本当に偶然、見つかった。
それを見た瞬間に、そのときの記憶が走馬灯のように蘇ってくる。この様な経験は誰しもがあると思う。
俺はこの瞬間は人間にとって途方も無く貴重なものであると思う。
絶対に、二度と戻らない時間の引き金となってくれる。
余りに詩的で恥ずかしい表現を使えば、それを見たときにちょっと時間を取り戻せる。
風化する記憶の中で唯一時間をまき戻せるのだ。

その物自体なんてどうでもいいんだ。
物自体にではなく、その物に関わる自分の人生が刻み込まれている。
その人生記憶こそが本当に過去という概念の遺産ではないだろうかと思う。

そしてそれは人の大きな財産になると信じている。人間は過去を美化する生き物だ。その過去にすがって生き、そこから生まれるものだってある。それを捨てることだけを美化して、新たな道を求めるという考え方が余りに単純で、そんな簡単に出来るものかと疑問に思う。そんな単純に思い出の品を手放したくらいで、新たな物を見つけられるのだろうか。人間はそこまで単純じゃないと思う。

何かを捨てたからといって、果たしてそれで離れられるものではない。

物を捨てた。けどどうしても捨てられない思い出だけが残る。
もう全てものは無くした筈なのに、どうしても記憶からは離れない。

これが真実じゃないのか。


もちろん、意識としてのレベルで考えればいい事なのかもしれないとは思う。
しかし、俺は多分、人より“過去”ってものに対して敏感なんだと思う。

けれども俺が“断捨離”実践者に劣った人生を歩むとはどうしても思えない。

枯渇

2011-02-09 20:24:24 | 徒然
俺はちょっと前までは文章を書き散らすことが大好きだった。

大学時代、暇さえあれば(今考えると、殆どの時間が暇だったが)日記を更新していた。
日記といってもその日の出来事を羅列していくような日記ではない。

いわばテキストといったところか。考えたことや、思うことを中心として、分野も問わず徒然に書き散らしていた。


最近、俺の持っていた感性が枯渇したとつくづく思う。

最初から大したもんがあった訳ではないことは重々承知の上だが、それでも今、俺の頭の中には何もない。頭が腐っていくのを感じる。

歴史を見ても、文化が発展するのは暇なとき、戦争がない時期だという話を聞いたことがあるが、大学時代の俺は相当に暇だったんだろう。
よくもあんなに種々様々なくだらないことを考えていたものだ。
そしていちいちそれを文章にしていく様な時間までがあった。

大学時代に比べれば、俺の今の立場は社会的に認められる立場になったのだと思う。

ただ、俺の頭の中も間違いなく変わった。
何かが枯渇した。その意識だけは妙にはっきりと感じる。


忙しいとかそんな下らない次元の話をしているのではなくて、俺が今書いているのは単に俺の脳味噌の奥にあった僅かばかりの感性の話。

感性なんて誰にでもある。甲乙をつけるようなことをしなければ、当然、万人に万人の感性がある。俺は昔の俺の感性が非常に好きだった。
当然、感性なんて変わる。非常に影響されやすい分野だと思う。

俺が失ったのはもしかして、感性なんて抽象的なものではなく、

色々な下らないことを、自分なりに真剣に考え、そしてそれを毎日のように文章にするような圧倒的に現実的な時間と余裕なのかもしれない。この二つは密接に関係しているように感じる。

当然今でも暇な時間なんて幾らでもあるが、大学時代のそれとは何か大きく違う。その時間にテキストを書こうなんて勢いづくことはさらさらない。残るのはただ何も出来ずに過ぎ去っていった時間の残骸に溺れたあとの罪悪感だけだ。

枯渇したのは俺の感性か。
それとも文書を書き散らす余裕と時間なのか。

どっちにしろ、当時の俺がちょっと羨ましい。