3104丁目の哀愁と感傷の記録

日々生きてます。自分なりに。感じた事を徒然に書きます。素直に。そんな人間の記録。
since 2008.4.4

Dirty Numb Angel Boy

2009-07-30 22:52:02 | 徒然
ワッティン、メガメガ。
ワッティン、メガメガ。

ワッティン、メガメガ。
ワッティン、メガメガ。

underworldで一番有名な曲って言ったらborn slippyだと思う。
もうワッティン、メガメガのところばっかり聞いてるとどうしようもなく笑えてくるから。


一体いくつの日記が闇に葬られてきたのだろう。
日記を書こうと思っていたんだけど、
mixiを開いて、更新してる皆様の日記を見たりして、
じゃあ、俺もって気にはなっていた。

で、ちょっと書いてみる。

見直すとちっとも面白くないんだ、これが。
そもそも面白さなんて求めちゃいないんだが、
それでもこれを公開してどうする?って思う。

で、消す。

消す時はEscキーで一発。スカッと一発。


どうも今晩は。
本日も脊髄反射で徒然に行きませう。

世間は気づいたら夏だった。
俺はいつも一人で公園のベンチに座って音楽聴きながら昼飯を食っている。
いつも来るメンバーは既にお互い顔を覚えているレベルである。
なぜ一人で飯を食っているのかというと、俺は会社でタバコ吸って無いから。
塾にいた頃はあんなに吸ってたのに、
今じゃ会社にいる時間帯は全く吸わない。

午前中の3時間と、仕事終わるまでは吸いたいと思えなくなってきた。
けど、終わったあとの一本は更にうまく感じるようになってしまった。

今日はコンビニで激辛のマーボー豆腐丼を買ってしまった。
今日の昼は暑かったね、全く。

外は唯でさえ暑いし、丼は熱いし、やたらと辛いし、
気づいたら汗がぼたぼたと滴ってました。

今日はとうとうゲラをお持ち帰りしてしまった。
調子に乗った俺が悪いんですけど。
7月中には著者校出せますよって豪語してしまったんだけど、
気づいたら7月は明日で最後だったんだ。

けど俺なんかまだいい方。
係長のS氏は、ゲラを家に持ち帰ってやろうと思ったんだけど、
言語活動が充実してきた2歳の娘にパパかまって~と迫られ、
全然できないからって、
風呂場で編集業務をやったらしい。
しかもその後睡魔に負けて、ゲラは水没。
何をやっとるんですか、あなたは。

そんな感じで仕事でアタマの中が一杯になると、
どこかふらっと旅に出たくなる衝動が俺の中で膨らんできちゃって困る。
しかも沢木耕太郎の本なんか読んじゃったので、
影響されやすい俺にはとてもよくなかった。

今まで散々ふらふらしてきたくせに、
まだどっか行きたいとか相当に俺は腐ってるんですけど、
日本でも海外でも何処でもいいから行きたい。
この際狭山湖でもいい。
狭山湖ならこの日記を書いている時間にいけた。

今年も海外行きますけど、
その前に今一番行きたい国はダントツでペルー。

夢を馳せています。
ペルーは有名どころが揃ってる。
まずマチュピチュ。
あと、ナスカ。
ナスカの地上絵。
あのレッチリのアンソニーに入ってるtatooね。
あと、イースター島のチリもいい。

モアイで有名。

モアイって結構でかいんだよね。
でかいやつは20メートル以上あるらしいから、奈良の大仏より全然でかい。

って想像したらめちゃでかいな。

あと、渋谷のBunkamuraでだまし絵店見てきました。
マグリットの絵はいいなあ。
油絵の具べたっ、って感じの質感が大好き。
単行本のレイアウトにぱくってやる。

だまし絵界では超有名人みたいなんだけど、
エッシャーって人の絵が凄かったです。

トリックアートって言われてるやつね。

絶対に存在し得ない建物なのに、
一見普通に見えたり、
階段を登ってるはずが、気づいたら下りてたり。
面白かったです。

けどちょっと嬉しかったのが、
物販でBanksyの写真集があったこと。

Banksyは私が最も好きな画家?アーティスト?テロリスト?です。

去年の夏にイギリスに行ったんだけど、唯一の自分へのお土産が彼の本。

ケンブリッジタウンの本屋で20£位だったかな。
向こうでも現代社会の授業でBanksyのことを勉強してました。
『Piece and Walls』ってやつです。

最後に、
H氏賞と言う詩の賞をご存知でしょうか。
H氏で正式名称。伏字がそのまま正しい。

またwikipediaから引用↓
H氏賞(エイチししょう)は日本現代詩人会が主催する、新人のすぐれた現代詩の詩人の詩集を広く社会に推奨することを目的とした文学賞。詩壇の芥川賞とも呼ばれる。

富岡多恵子、吉岡実、黒田喜夫、入沢康夫、白石かずこなど多くの逸材を輩出。協栄産業の創業者・平澤貞二郎(1904年1月5日 - 1991年8月20日)の基金により1950年(昭和25年)に創設。当初の呼称は「H賞」。プロレタリア詩人でもあった平澤が匿名を強く希望したため、賞の名はHirasawaの頭文字だけを冠する。


で、実は私が今、担当している単行本の、
著者の一人が何と上記の賞を受賞しました。

小学校の先生です。
凄いよ。小学校の先生であり詩人ってどんなプロフィールでしょうか。

授業も何かリリカルなのかな。
んなわけなく、その人の書いてくれた実践は非常に楽しそうな授業でした。

でもよく考えたら、
国語が専攻らしいんだけど、
国語の先生だったら常に言葉に鋭い視点を持っていなきゃならんだろうね。
色んな側面から言葉を見て、研究しなきゃなんないだろうね。
子どものどの言葉に立ち止まるかってのも。

そういう意味じゃ、非常にクリエイティブな感性がつくのかも知れません。



よし、書きたいこと書いた。

てか、全然面白く無いでしょ。

ここまで読んでくれた人、どうもありがとうございました。

Audrey

2009-07-19 22:59:31 | 徒然
オードリーって思ってたより面白かった。
しかもがたい良い方は所沢出身だって。
所沢出身って意外と身近なトコに居たんだな。


久しぶりにテレビ見て笑ったので取り急ぎ報告させて頂きます。

『オルトロスの犬』
っていうドラマをご存知でしょうか。
ご存知でしょうかって言ってもまだやっていないんだけど。

今日は久しぶりに昼くらいにのそのそと起きて、
腹減ったらお湯沸かしてカップめんを啜ったんですけど。
で、飯食ってる間、下らない昼のワイドショーでも見ようかと
何の気なしにテレビをつけたら、
何と『オルトロスの犬』ってドラマの宣伝がやっていました。

その宣伝の中で、このドラマがこれほど凄いんだぞ!
ってのを視聴者に伝えるためだと思うんですけど、
映画で有名なワーナーブラザーズと提携、みたいなこと言ってまして。

ワーナーブラザーズって言ったら映画興味ない人でも知ってるような
超有名な映画制作会社である。
そして、ワーナーブラザーズの社長がかっこいい英語で
インタビューを受けていた。

何がおかしかったのかというと、
そのワーナーの社長が汗びっちょだったんだよ。

エアコン無いのか?
ワーナーブラザーズは。
テレビにあんなに汗にまみれて出る人は始めてみた。
それが何故か無性に笑えてしまいまして。

それだけ。
別にオチもクソも暇もついでに金もないんですけど。

オルトロスってギリシア神話の
首が二本ある魔犬のことらしいが、
オルトロスって聞いたら紫色のタコを思い出してしまうのは俺だけではないはず。


明日にでも大久保に教科書を買いに行ってきます!

興味あるひとは大久保にある、
教科書供給株式会社っていう倉庫みたいなトコ行くと面白いとおもう。
国語の教科書とか今、読み返すとメッチャ面白いから。
本当によく考えてつくってんな~って感じる。

てか、東京の中学校って俺らが慣れ親しんだ開隆堂のサンシャイン使ってるとことは
殆ど無いんだね。なんか残念…

では。


Audrey is more laughing than I have expected.
Moreover, the stouter of the two is from Tokorozawa.
He was an unexpectedly familiar person...

Please let me report hastily what I watched on TV because it was so laughing after a long time.

Do you know the drama titled“Orutorosuno inu”?
I have written “Do you know?, but it has not broadcasted yet...

I waked at day time slowly, boiled water, and ate cup noodles.
Because i wanted to watch trifling gossip program at meals,
turned the television on without any meanings.
And the advertisement of “orutorosuno inu” was broadcasted on the TV.

In the advertisement, to tell a large audience that this drama is so amazing,
it was reported that this drama had an association with Waner Brothers.

Waner Brothers is so famous movie making company that even a person who is not interested in movies knows it.
And, the president of Warner Brothers had received the interview with stunning English.

What was laughing?
The Warner's president was sweating too much.

Doesn't the Waner Brothers have air conditioners??
I have not seen the person who appears to the television being covered with sweat so much ever before.
I can't understand the reason, but I couldn't help laughing at the picture.

That's end.
There is no ending point, no shit, moerover I don't have free time and also money...

According to the heard story, Orutorosuno inu is a satanic dog which has two heads in Greek Myth.
But, this word reminds many people including me of octopus with purple skin.

I'll went to Shinokubo to buy textbooks tomorrow or so.

If you are interested in textbooks,
go to the place like storehouse named Providing text book company in Shinokubo and you'll find it very interesting.

Read a textbook of Japanese and you'll find it very interesting at this point.
I have had a feeling that it is made very well with lots of thoughts and ideas.

Bythe way, There are few junior high schools in Tokyo using the sunshine published by Kairyudo for us to be accustomed and familiar.
It is regrettable...


See you.

言の葉

2009-07-18 00:20:32 | 徒然
言葉って素敵ねって話をします。
そろそろ眠気が限界に近づいているような気がしますが、
頑張って書いてみます。

僕は言葉が好きです。文学部出身なもんでね。
最近言語学的に言語の機能をいろいろな側面から、見て行くのが好きだったんだけど、最近はもっと言葉って何なのかっトコにもっと焦点を絞って考えてみた。
考えた事を書いて見ます。最近コーヒーのみながら考えた事をね。

あ~うっとうしい、って思った人はココから先読まないほうがいいよ。
相当長くなったからさ。

言葉って、話し言葉に関して言えば、本質は“音”じゃん。
音ってことは単純に声帯を振動さることによって、
空気が振動して聞こえるものでしょ。

その音に私達はこの世のあらゆる概念を乗せているわけ。
その空気の振動で人を狂わせることだってできるし、
世界を変えることだってできるし、
2000万人の人間を殺す事ができる。

言葉は行為と結びつくと同時に既に力を持っている。
これは言語学では有名な話じゃん。

書き言葉も然り。
二次元における単なる線だよ、所詮は。
が、所詮は線という以上の力を持ってしまっている気がする。
当たり前なんだけど。普段あんまり意識する事じゃねーけどな。

「3回転5000ポッキリ!」なんて看板があったら、
(本当にあるんだよこういう店が)
性的に興奮させるという力が働いており、
店に向かうという行為を約束させるかもしれない。

ってことはこから私達はある種の記号として認識して
その中に含まれる概念を読み取っているわけだ。
これがどれほどの速さの過程を経てるのかはわかんないけどね。
殆ど無意識レベルでしょう。

第二外国語で難しい単語が出てきたときなんかは
その記号を読み取ろうとしている過程が体現できるけど。

逆に言ってしまえば何の概念も含まれていない言葉なんてものは
すでにそれは言葉ではなくて、今度は音になる。
外国語を学んでいて自分の知らない単語が、あるいはリスニングが
単なる音に聞こえる状態なんていうのは、
そういう状況だろうと思う(多分ね)。

うんちって言葉を見たときに、
われわれがアタマの中で思い浮かべられるあの物体をリンクさせないような「うんち」は言葉ではない。
うんちという音。
この際うんち音(おん)といってもよい。それは違う意味になるか…

私達は言葉を知ってしまっているので、
うんちという言葉を見てあの物体をイメージできるが、
その逆の方向の機能は一体どうなっているのか。

あの思い描く(まあ、別に思い浮かべるもんでもないけど)物体が、
「うんち」となるには一体どのようなプロセスを経ているのだろうって思う。

逆はそもそも概念が先にあるっていう状況だ。
ことばとは結び付けられていないある概念が先に来て、
そこからその言葉(名前って言ったほうがわかりやすいか)を付ける。
概念から言葉に行く時には絶対にリンクはしない。
これはまず先に概念が生じた時にはそうであろう。
リンクするのではなく、名前を付ける。
概念が先の場合はリンクするわけじゃないじゃん。
必ずその概念に対して言葉をつける。

これが単純に言葉の獲得とするならば、
われわれはこの世の全ての概念に対しての言葉(名前)という記号を付けているという解釈もできるかもしれない。
だから概念がまず先に来て、
そこに記号として言葉をつけて、
それを母国語の人間ならばものすごいスピードでその記号を解読し、
イメージとリンクさせていると考える事ができる。

この過程を一度経験した上で、
再び、うんちという言葉に対して瞬時にあのトイレに流れ行く物体をイメージできるわけである。

まあ、ココまではいいとして。
問題は先の概念が先に来る状況だ。

概念が先に来る時はことばが後に付帯されるという事を上に書いてみたんだけど、
果たしてそんな事が起こりうるのかをちょっと考えてみた。

残念ながらそれはあり得ないんじゃないかな。
もっと言ってしまうと、そもそも言葉をみた時に、
記号を読み取って瞬時にイメージとして思い浮かべられるけど、
そのイメージは単純に先に述べたような最初からあった概念ではないということ。
それは既に言葉によってつくられた概念であって、
最初からあった概念なんていう存在が既に言葉ありきのもの。
単純に言葉が存在していない世界では最初からあった概念なんてものは必要ないし、存在しない。
てか「最初からあった概念」なんてのもそもそも言葉だし、表すこと(存在する事)が不可能。
つまりは先に概念が存在するためにはもう既に言葉が必要であるということよ。
分けわかんないね。

その「概念が先に来る状況」ってのが言葉の存在なしに語れないってこと

俺らが言葉をみて、単純にイメージを思い浮かべる。
言葉と純粋なイメージがリンクしているように思えるけど、実は違う。
そのイメージそのものが言葉の存在の上に成り立っているものであると思います。
先に概念がくるって状況も言葉が存在していなかったら概念はない。
「先にくる概念」っていうものになれないでしょ。
必要ないって言ってしまったほうがいいか。

言葉をまったく必要としない生物が何かを概念として必要とするかって考えると解り易い。
例えば猫が、うんちして(どんだけうんちって書いてんだよ)
これはなんだろうと(この言葉はもちろん便宜上ね)いう疑問という概念を持ったとするよね。
けど、言葉が無かったらその疑問って言うものを言葉にはしないし(必要ないし)、
なんだこれは(これも便宜上)という気持ちはあるかもしれないけど、
「なんだ、これは」という気持ちの存在が「なんだこれはという概念」になるための手段が一切存在していない。
ただ、その猫がみている事実だけ。(まあ、見るってのも事実ってのも当然言葉だけど、ってきりが無い…)
そのなんだこれはって言う気持ちから、「疑問」という言葉に行くことはないし、
その過程が無ければ間違いなく疑問という言葉をみてなんだろうこれはという気持ちを思い浮かべる事もない。
言葉が存在している条件下でのみ、あのちゃいろい物体はうんちという言葉になりえる。
つまりは、双方のリンク(と言葉を与える行為)はまず言葉が無くては始まらない。
“これはなんだろうと(この言葉はもちろん便宜上ね)いう疑問という概念を持ったとするよね”
なんて仮定を立てること自体が不可能。

全く言葉というものを知らない人がいるとする。
その人が何か熱いものを触って反射的に手を引っ込めたとする。
この様な状況は十分にありえるけど、それは手を「反射的に手を引っ込めた」という言葉を一切排除した行為だけである。
そもそも「反射的に手を引っ込めた」なんて言葉によるものであって、
彼にとって「反射的に手を引っ込めた」ことにすらならない。ただ、それだけ。
そっから熱いなんて言葉が生じるわけがない。
概念に名前をつけるとかいうはるか以前の問題。

そもそも「熱い」も「痛い」ない。
その感覚(事実というか)は確かにあるけど、それを「これが熱い」というものか、と認識することは不可能。
だって「熱い」なんて概念がそもそも無いんだから。
ただ、その事実が存在するだけ。

俺が悪かったみたい。
そもそも文章という形で言葉を使って言葉のない世界のことを書こうとしてるんだから。



次に考えたのは、

純粋な言葉の誕生は今書きたいことではないし、
言葉の純粋な誕生よりちょっと視点を変えて、
先の「反射的に手を引っ込める行為」がどうやったら「熱い」になったのかではなくて、 なぜ、「熱い」なのかということ。

てかココまで読んでるやつはちょっと人生を振り返ったほうがいいぞ。
君にはもっとやるべき事があるぞ。

言い換えると、なんで概念としての熱いが、日本語では「熱い」なんだよ。
っていう話。
別に熱いじゃなくてもいいじゃん。音や記号なんだから。

あの「熱い」って概念は「寒い」じゃだめじゃん。今のご時世。

なんで「熱い」は「熱い」なんだよ。


ぼくが思ったのは言葉って基準性をもっているからかなあ、と。

言葉は全てのものの基準である。
言葉の基準を通じて僕らは感覚やら、概念やらを言葉の基準性を使って表現しているわけです。
言葉は森羅万象のあらゆることの基準になっていると言い換えてもよい。
うんちがウンチであるのは、言葉が絶対的な基準を持っているからです。
うんちが別の単語でもそれはいいかもしれないが、
うんちという概念の基準がうんちという言葉であるから、
このご時世では、うんちを表現するためには、うんちという言葉を使わなくてはいけないんです。
その基準は世界各国変わるかもしれないし、
時間と共に変わるかもしれない。
ある組織の中、コミュニティーの中だけでもっている基準かもしれない。
英語と日本語でうんちに対する言葉が異なるし。

しかし、言葉が概念に対してもっている基準性は変わることは無い。
100年後にうんちのことをうんこと表す時代が来ているかも知れない。
しかし、うんちがうんこに変わったからといって、
そのうんこがもっている、言い換えればうんこという言葉が持っている基準性は変わらない。
うんちという概念はうんこという言葉が基準になり、
われわれはうんこという言葉であの物体を表現するのだろう。
逆にうんちはうんこという言葉が無ければうんちとして存在し得ない。

極論してしまえば言葉じゃなくたっていい。音楽でもジェスチャーでも。
その音やジェスチャーが例えば不快感を表すだとか、
快感を表すだとかいう基準を有していればことばと同じような働きをするだろう。

その基準は誰がつくったかとか知りません。
社会が決めているのかもしれないし、自然と決まったのかもしれない。
しかし、少なくとも言葉が何であついじゃなきゃダメなのかなんて疑問は消える。
言葉が基準であるならば。言葉にある一定の基準性をもたせないことには言葉はここまで発展し得ない。

絶対的な権力を持っているのが、基準だ。
基準は客観的に図られることができない。
例えば、上野クリニックがだしている絶対的な「包茎」の基準が存在したとする。
とすればこれが絶対的な基準になるため、それ自身を相対的に図る事ができない。

グリニッジの時計台も同じだ。
あぁ最初からこっちの例を出しておけばよかった。
この時間が基準ですと言われれば、
それ以外の全ての時間が基準ではなくなる。
つまりは基準を決めた段階で基準以外のものはその概念になることはできない。

うんこはうんこという概念を表すと同時に、
うんこという概念をあらわさなければならない、
むしろ、基準という言葉を強調するなら、
どうやったってうんこという概念を表してしまうんです。

うんちという言葉が基準であるかぎり、
うんちがどれほどうんじゃなくなっても(意味解らない)、
それはうんちであってしまう。
で、それがうんちなんだから、それをうんちじゃないという視点で見ること自体が不可能になる。

言葉が基準性を有しているからこそ
そもそも言葉を使っていま、この世界を見ているんです。

だから僕は言葉がこの世の中の全ての森羅万象の基準であると思います。
われわれが見ているこの世界の全てだけでなくて、
精神世界ももちろん、眼に見えない抽象的なものも全て。
本当にこの世の全て。
デカルトに倣えば、自分が考えているって状況も言葉を基準にしていると思います。

言葉では表せないっていう状況があると思いますが、
もし本当に言葉が無かったら、
その情景に感動する事もないし、
そもそも感動というものがなくなります。

誰かを好きになったりするなんてとてもロマンチックですね。
言葉で表現できないような気持ちも言葉を解して体感しているのであって、
言葉が無かったら、その気持ちを抱く事は絶対に不可能です。

こんな凄いものだと思います。言葉は。

だから、僕は言葉が好きなんです。


来年度もよろしく的な

2009-07-12 19:16:10 | 英語
まあ、おそらくミクシーに書いてた日記が大量にこっちに移って来るんだろうが、
ちょっとその前に。

別にいいことがあった訳じゃないが、
書いておかないとこの気持ちを忘れてしまいそうなので。
自分の戒めのためにも書いとく。
どうしようもなく馬鹿な自分のために書いとく。


今日は、実は東京都の教員採用試験だったんだ。

もちろん俺も受けに行った。
俺の家は関東のとてつもなく都会的なところにあるんだが、
(夜8時以降は物音一つしないが。)
朝早く起きて、気合入れて相模原線の南大沢まで行ってきた。
片道二時間…

で、まあ、タイトルから解るとおりやらかしてしまったんだ。
絶対落ちた気がする。
敗因はたった一つ。
専門がボロクソであった。
模擬試験とか受けたりしたし、過去問も解いた。
そこまでヒドイ点数じゃなかったはず…

これが本番の魔力ですか…

てか最後まで終わらないとか考えられん…

あ~悔しいとか言う前に、
それでももしかしたら、もしかしたら、って考えている自分がいてムカつく。
やたら合理化、合理化しようとしてる。
もしかしたら皆もできてないかもしれないし、だとか、
今回は問題が難しかったからボーダーが下がるかもしれないし、だとか。

まあ、こんなザマでも希望は全く捨ててはいけないようですので、
二次対策もします、一応。

まあ、落ちてるとは思うけど、
もし、万が一、何かの間違いで受かってたらって話で。

ココにちゃんと書いとかないと、
全て希望をポイってどっかに捨ててしまいそうなんで。

もう終わっちゃったしね。
こっから結果が変わるわけじゃないしね。


とりあえず疲れたから、
明日、明後日位はゆっくりしようかな。