静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

政治資金は、誰がどのくらい負担すべき? 世界と比べてみたら(原口和徳)  要旨転載

2024-06-11 08:52:33 | 時評
 「選挙ドットコム」というサイトに注目すべき記事が出ていた。自民党の石橋氏が漏らすだけに終わっている『金がなるべくかからない仕組みの政治』を考えるにあたり、有権者として知っておく必要があるので転載する。
【1】政党はどのくらい公的な資金に支えられているのか?
 政治資金収支報告書から、日本の状況も確認すると、国政政党の収入のうち、政党交付金が占める割合は2022年41%、2021年44%でした。ただし、国政政党のうち、日本共産党は政党交付金を受け
 取っていません。そこで、対象から日本共産党を除外して計算をし直してみると、政党交付金が占める割合は2022年55%、2021年61%となります。(表左)
 
人口一人当たりの負担額を並べたのが(表中央)で、日本で問題になっている匿名寄付の扱いを比較したのが(表右)。
  ドイツは、1回500ユーロ(1ユーロ170円とすると、8.5万円)を超える出所不明または匿名の寄付の受領を禁止しています。一定の金額を超える寄付については、現金での寄付を禁じることで、寄付者を明確にしている国もあります。フランスでは150ユーロ(2.55万円)を超える寄付については小切手や銀行振り込み等によるものとしており、現金による寄付を禁じています。同様の規制は、アメリカやスロベニアでも適用されています。寄付をする側の会計書類への記載を義務付けることで、寄付行為を可視化している国もあります。

イギリスでは2,000ポンド(1ポンド200円とすると、40万円)を超える寄付をする場合には、貸借対照表等とともに提出する取締役報告書に寄付先と金額を記載する必要があります。同様に、アイルランドでも一定金額以上の寄付をする法人はその企業の年次報告書に記載する必要があります。金額によらず、匿名での寄付そのものを禁じている国が複数あることも確認しておきましょう。表右にある通り、OECD加盟国の中で、半数を超える20か国で政党に対して匿名で寄付することが禁止されています。
【2】政治資金に関する情報は見つけやすい?
 政治と金をめぐる報道によって、日々、情報が更新されていくのを目の当たりにして、「なにが起きているのかが、どうしてこんなにわかりにくいの」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
 政治資金に関する情報の公開方法やその使い勝手にも、日本と他国との間で違いが生じています。アメリカやイギリスでは、政党や政治家による収支報告書が選挙管理委員会等のwebサイトに掲載され、
 データの集計や抽出を行うことが可能になっています。  ← 日本の政治家はこれを嫌い逃げまくっている。
 
 日本では政治資金収支報告書をオンラインで提出することが可能ですが、日経新聞の報道によると、その利用率は2022年分で5.7%、24道県において1件もオンライン提出がありませんでした。
 その結果、インターネット上で公開されている政治資金収支報告書は紙をPDF化したものがほとんどとなり、スムーズにデータを読み取り、分析等することができなくなっています。
  また、政治資金収支報告書が公開される場所も、対象の政治団体の活動範囲によって総務省となるのか都道府県の選挙管理委員会となるかが分かれています。そのため、必要な情報を取得するには、
 利用者に一定の知識が求められる状況になってしまっています。損なわれてしまった「政治への信頼」を回復していくためにも、他国の取り組みなどからもよいものは柔軟に取り入れ、より実効性のある
 仕組みや運用ルールを作り、実行していくことが求められます。 
   (原口和徳)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 政治活動、選挙活動とは人件費支出が最大の出費だからゼロにはできない。費用を抑えるには議員数削減しかあるまい。削減しないならば、透明性の向上に真摯に向き合うしか信頼回復の道はない。 
 大事なのは、カネをかけなくても活動が進められる仕組みだけでなく、「個人情報」「企業秘密」「言論の自由」を言い訳に活動資金透明性向上を妨害させないことが遥かに重要だ。

 何度も言っているが「正面から課題や質問に向き合わない・答えない・曖昧答弁で誤魔化す」即ち<Why ?>に向き合わない日本の政治家たちの狡い態度。これが政治不信の根源にある。
   この政治家の態度を、有権者はどうすれば国会の場で矯正できるのだろう? 答えは? 選挙で落とすしかない、それが日本のデモクラシー(=主権在民)だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

≪ 終 活 と お 墓 ≫

2024-06-11 06:57:33 | トーク・ネットTalk Net
 先日、某雑誌に目を通していたら、老いた親をもつ子供世代へのアンケート<両親の終活で、あなたがしてほしいことは?>の集計結果が書かれていた。子供側の目線でみた「望ましい終活とは?」だ。
最も多かったのは「遺言書作成と説明」次に「エンディングノートの作成」そして「墓についての希望表明」の順だった。

 私も周囲の同年配の人たちと「終活」がそれとなく話題になることが増えてきた。話を聞いていると「終活」のありようは貯蓄などの金銭的側面よりも(子供との地理的距離及びこれまでの親子関係、
子供の自立度合い、祖先供養の意識)に大きく左右されることが判る。当たり前の事だが、子供との関係や自立度合いは、老年に至るまで自分の為してきた選択と行いの結果でもあるから、「終活」は、
まさに鏡で己の姿をまじまじと見るに等しく、厳しく辛い作業だ。

 例えば、30歳を過ぎても子供が完全に自立できず、親が囲っている『パラサイト状態』の人は「終活」どころではない、との心境だろう。私の周りにもそういう親子関係は何組も居る。まして自分の親が長寿で同居ともなれば、心の余裕はない。『老々介護』のさなか、自分の「終活」をやれるのは、よほどタフな人だろう。そういう立場だと、過去の自分を総決算するのは決して心地よい時間ではないから目をつむり、逃げがちだ。だから子供の側が明示を望む<遺言書・エンディングノート・墓の扱い>を避ける/やり残す人は、キチンと準備している人の何倍も多い事になるのだろう。

 『パラサイト状態』も『老々介護』も世の中が変わったため出現したもので、個人の裁量で賄いきれる負荷ではない。また、転職・海外を含む転勤が増えたので、親と子供が離れて生活するパターンが
主流となった。これが『今後、墓をどうしたいか?』について意見が割れる原因となっている。その背景には葬儀の形態が変わり、寺院の減少で仏事との親しみも遠くなった流れがある。
今では、墓地あるいは檀家寺は親族が大勢集まる場としての存在意義しか持たなくなり始めており、それも大家族世帯の減少で風前の灯火である。

 では、故人を偲ぶのに墓石の墓標は必須不可欠か?・・と問い直すと<墓地に行って墓石の前で拝むのでなければ供養・追悼したことにならない>と感じない人も居るだろう。私は感じない一人だ。
私は親が使っていた小さな仏壇に両親の写真を飾り、毎朝、お茶やコーヒーを供え(チーン)と鐘を鳴らして一礼。墓地でなくても故人を思い出すことは普通にできるので、墓の維持は必須ではない。
 
 無論、墓地そのものに思い入れがあるとか、故郷と繋がる親との記憶を持つ人は墓石が無いと物足りないのだろう。・・・唯、その記憶を我が子が同じように共有しているか? そこだろう。
私の親が育った土地にあった墓は墓地の消滅で無くなってしまい、墓地にまつわる記憶は夏休みの帰省の記憶と共に消え去っている。そして私自身は樹木葬を選び、息子が日本に来られる時に訪れてくれたら良いと伝えている。 私は考え得る店仕舞いは全て終えたつもりなので、まさに「終活」は余生を生きるための活動に替わった。
  『老々介護』『パラサイト状態』のどちらも招かなかった両親と息子たちに感謝し、これもまた「運に恵まれた」のだと、毎日かみしめて居る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする