はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

心に残った言葉

2010年03月13日 17時40分50秒 | インターミッション(論文等)

  『ぼくの交友録』 岡井隆(ながらみ書房 2005年刊)から


 こうした、次々におきる球つき現象というか、人と人との交遊(仲よしばかりではなく、相当にはげしい対立もする)の連鎖というか、それが、イベント(行事)の形をとったり、本の出版の形をとったりするのだが、その中に混って作品を作ったり議論をしていると、本の出版とかイベントはあくまで結果ということがわかってくる。
 大事なのは、同時代の詩歌人(韻文家といってもいいが、現代詩人も含めての意味でつかう)と、そこで相見〔あいまみ〕えるということである。相手が、一首の歌、一句の俳句、一篇の漢詩について、どんな眼をして、どんな挙措と共に、どんな言葉で、それを批評するか。その批評について、ほかのメンバーがどう絡んでいくのか。それが大事なのである。そこで自分が、どんな作品をつくって提出したのかということさえ、忘れ去られてしまう。対立し、妥協し、また反転して自説に立てこもったりするさまは、その場にいたものだけが知っている。その中から、自分の現代の文学状況についての漠然とした印象や感想がうまれ、それが自分の作る作品や書く批評に影響して来る。

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 さまざまな会や集いを主催し、参加してきた、岡井隆の言葉。

 会とは、批評の内容だけがすべてではない、ということ。
 むしろ、その過程に参加することこそが、自分の血肉になるのだということ。
 当たり前なのだが、正直、見過ごしていた。

 結社、同人等に悩む人へ、鍵の一つがここにある。
 無論、自分に対して言っている。


心に残った言葉

2010年03月07日 13時49分59秒 | インターミッション(論文等)

  岡井隆の言葉

《一体定型が定型として生きている場合には、定型が、単に、限定する枠として、重苦しい錆びたタガとして在るのではないのは言うまでもない。詩型は単なる器ではない。内から外へ向う詩精神-ポエジーの遠心力と、外から内へ向って濃縮してくる詩型の求心力とが、一瞬バランスを保つ、この白熱する力学的平衛を定型が可能にする》
(「伴奏楽譜」、『韻律とモチーフ』所収)

《歌人は、表現を、五、七、五、七、七、三十一音の定型の水際まで追い込んでいく努力を、少なくとも一度はしてみた上でなければ、字余りその他の例外を許すべきではないのです》
(「定型の水際まで」、「短歌」昭36・7より引用。後に『現代短歌入門』所収)

《定型は定型をもたぬ場合よりも、作者に自在感を与える場合にのみ生きています》
(同上)

《定型詩型は、つねに、その型へと、あらゆる内容を還元せねばならぬ、集約せねばならぬという意味では、日常語の自然なリズムと闘い、それを断ち切り、また強引に接続するというエネルギッシュな作業を、詩人に要求するものではありませんか。定型は、その意味では、かたちの上から、外から、非日常的な詩の世界を支えるバネ仕掛のワクとも言えましょう》
(「韻と律」、「短歌」昭36・8より引用。『現代短歌入門』所収)

《短歌定型の特徴の一つは、外形上の「約束性」が弱いということである。あるにはあるが、厳然たる規範として臨む、というほどの規制力をもってはいない。発生期において短歌がもっていた、字余り、字足らず等の拍数規約の寛容さ(中略)、また、現代短歌の破調横行の現況をみれば、そのことは明らかである》
(『短詩型文学論』)

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『佐々木幸綱の世界7 評論編2』(河出書房新社)より孫引き。
〈定型〉に関する岡井語録の数々。

定型、って、なんだろう?