「繩文」
炭酸水のごとくさわだつ水が見ゆ奔流は木小屋を過ぎて右折す
豆腐二丁水に沈めてあることの深き安堵よ山水に澄む
羊齒の根に腐れし牛乳(ちち)をこぼしをりなまあたたかきものを斷ち切れ
花瓶(がめ)にときをり捨つる吸殻は落葉(らくえふ)の影となりて溜りぬ
アラスカのくれなゐの鮭の罐を切る山棲みのひとりの夜を更かしゐて
海になだる四ヘクタールの芝生の闇人吸ふ煙草ひとつ赤きかも
餘の錨 尺餘の錨 砂に摺りひさげる町は魚臭に滿ちぬ
縞あらき海魚は粗き籠にゐたりそこのみ暗き魚の町ゆく
生貝(いきがい)を沈めし桶のかたはらにまて貝のさびしき汐吹をみし
にはとりは厨に吊るさるるのみレグホンの鶏冠赤く垂るるのみ
むしり了ふれば一羽の痩せし鶏となる眞白き羽毛散亂の中
銀杏(ぎんなん)の實まろべりをとめ子の疲れし眦かすかに笑ふ
人氣なき山屋(さんをく)の扉押しゐたり凍れる牛酪とマッチを持ちて
牡丹色の肉を焙りて亡き父を追憶し呉るる會の終りぬ
午後一時うすら雪舞ひ舞ひて消ゆ食ひ足りし猫もわれもねむたき
腹張りてにぶくなりゆく猫の目をみつつかなしゑしづかに吾は
晝餉前魚の血液を流しゐる人なるわれにうつろふ葉
キャベツの葉無限に刻まれ茫々と刻まれ刻みゐるわが放心をさそふ
炊飯を案ずる厨房に柘榴みゆ滅すれど火は涼しからぬを
煮沸器に大き湯玉ののぼりそむ潜めるは坊主地獄のたぐひか
飽食ののちを水飲む猫の舌きららにひかる月の水の上
影なせる幼兒水を欲しゐて水あらざりし網のごとき夜
緋柘榴は消毒藥の匂ひしておさなごはつね痢(り)を病みてゐき
水を禁じられたる子供さすらへる墓處(ど)に花筒の水涸れてゐし
金米糖にちひさき赤き角(つの)あるは壺に透きゐて怒るともなし
香ひ木の一葉二葉の散り込みしたまゆらのスープ澄みにけらずや
つま立ちし猫の目人をみあげをり伸べし手肉片をふるまふ
てのひらに葛粉きしきしきしめる新雪をゆくごとくさびしき
ちらばりて昏れのこりたる皿の上魚の骨の木の葉形なす
まづものを食ひたるのちに手にとりし赤黄(せきわう)滑らなりし陶土か
たうべたる柑橘の香のするどきはかたはらに立つ硝子を傳ふ
(原本 葛原妙子全歌集(二〇〇二年 砂子屋書房))