コトバに七五のリズムがあると、強い自己主張があると錯覚されるが、それを剥ぎとってみれば、備忘録に類する内容のものが多い。それではなぜこれらの歌の作者たちは、五七のリズムに固執するのかといえば、コトバのマナリズムを信じているからであろう。体験を五七の定型に投げこむと、自己が自己を超える存在になるように思われるのだ。それは原始的心性に通じている。マナリズムとはマンネリズムのことで、定型における安定した技法と表現を信じているということであろう。
(「つぎの段階の定型-池田・石川論争にふれて」関根弘『短歌』昭和35年9月号)
『現代短歌史Ⅲ 六〇年代の選択』(篠 弘著 短歌研究社刊)から孫引き。
詩人である関根弘が、1960年代の短歌の時事詠について言及したものの一部。
篠弘はこれを
「はなはだ外側からの抽象的な意見であったと言うほかはない。」
と言っているが、ここだけ抜き出すと、定型の力強さと、それに安易に頼ろうとする歌人への警告とも取れ、とても興味深かった。
自身への戒めと備忘の意味を込めて、ここに載せておく。
(「つぎの段階の定型-池田・石川論争にふれて」関根弘『短歌』昭和35年9月号)
『現代短歌史Ⅲ 六〇年代の選択』(篠 弘著 短歌研究社刊)から孫引き。
詩人である関根弘が、1960年代の短歌の時事詠について言及したものの一部。
篠弘はこれを
「はなはだ外側からの抽象的な意見であったと言うほかはない。」
と言っているが、ここだけ抜き出すと、定型の力強さと、それに安易に頼ろうとする歌人への警告とも取れ、とても興味深かった。
自身への戒めと備忘の意味を込めて、ここに載せておく。