はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

視点の固定化(3)

2009年09月23日 07時59分42秒 | たんたか雑記
 もちろん、短歌の解釈に違いは付きもの、その食い違いを楽しむのも短歌の妙のひとつ、ということは承知している。
 しかし、こうまですっぱりと違う解釈が並び立つと、さすがに唖然としてしまう。
 180度違う、なんてもんじゃない。そもそもの立脚点が違うのだ。

 思うに、これが「視点の固定化」なのだろう。
 短歌に限らず、様々な視点から見るのは鑑賞の基本だが、立脚点があまりにも離れていたため、思いもよらなかったらしい。
 ひとつには、これらの歌の(見せかけの)分かりやすさにも依るだろう。


  み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ

  海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり


 両歌とも、難解な言葉も捻ったテクニックも使わずに歌われているので、すらっと読んだだけで「あ、分かった」となってしまったようだ。

 不覚。

 しかしまあ、負け惜しみを言わせてもらえれば、こんな思わぬ角度からの読みを「ぽん」と目の前に出されると、予期せぬラッキーに出会ったような気がする。
 ちょうど、珍しい野球カードが偶然に手に入ったときのように。

視点の固定化(2)

2009年09月23日 07時58分31秒 | たんたか雑記
 そういえば、ともう一つ思い出したが、『本の雑誌 平成21年10月号』で古屋美登里が寺山修司の歌について書いていた。
 正確には、古屋氏が受け持っている講義で現代短歌を学生に読ませ、その反応を書いたのだが、寺山の


   海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり


について学生が
「この歌の意味が最初はピンとこなかったが、両手で海を表していることを知って、急にイメージが湧いた、寺山に興味を抱いた」
と反応してくれて嬉しかった、とあるのを読んで「えっ!?」と思った。

 僕は、これを「通せんぼ」の歌だと思っていたのだ。
 海を初めて見に行こうとする少女の前に両手を広げ、
「へっへっへ、ここは通さないよ」
ってこれじゃちょっと危ない人だが、そんなカラッとした意地悪を描いた歌なのだと、何の疑問も無しに。
 他の解釈が存在するなんて、思っても見なかった。

視点の固定化(1)

2009年09月23日 07時56分44秒 | たんたか雑記
 『近代短歌論争史 上下巻』(篠弘著 角川書店刊)は、明治中期から昭和30年代までの歌壇に起こった論争を詳細に検証した面白本だ。
 本自体についてもいろいろ語りたいが、それはともかくその中に「おや?」と思う論争が載っていた。
 歌人斎藤茂吉と文学者谷鼎の間で繰り広げられた「花紅葉論争」だ。

 詳細は本書を読んでほしいが、要するに新古今和歌集にある藤原定家の


  み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ


の解釈が、二人の間で分かれたのだ。

 茂吉が
「花も紅葉も無く、寂しい風景だ」
と読んだのに対し、谷は
「こんなに味のある風景には、花も紅葉も不要だ」
と解釈した。
 様々な用例や資料を用いて激論が交わされたが、最終的には谷の優勢で幕を閉じる。

 僕が「おや?」と思ったのはこの結末の部分で、僕は当然茂吉が勝つと思っていたのだ。と言うより、それ以外の読み方があるなんて思っても見なかった。