もちろん、短歌の解釈に違いは付きもの、その食い違いを楽しむのも短歌の妙のひとつ、ということは承知している。
しかし、こうまですっぱりと違う解釈が並び立つと、さすがに唖然としてしまう。
180度違う、なんてもんじゃない。そもそもの立脚点が違うのだ。
思うに、これが「視点の固定化」なのだろう。
短歌に限らず、様々な視点から見るのは鑑賞の基本だが、立脚点があまりにも離れていたため、思いもよらなかったらしい。
ひとつには、これらの歌の(見せかけの)分かりやすさにも依るだろう。
み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
両歌とも、難解な言葉も捻ったテクニックも使わずに歌われているので、すらっと読んだだけで「あ、分かった」となってしまったようだ。
不覚。
しかしまあ、負け惜しみを言わせてもらえれば、こんな思わぬ角度からの読みを「ぽん」と目の前に出されると、予期せぬラッキーに出会ったような気がする。
ちょうど、珍しい野球カードが偶然に手に入ったときのように。
しかし、こうまですっぱりと違う解釈が並び立つと、さすがに唖然としてしまう。
180度違う、なんてもんじゃない。そもそもの立脚点が違うのだ。
思うに、これが「視点の固定化」なのだろう。
短歌に限らず、様々な視点から見るのは鑑賞の基本だが、立脚点があまりにも離れていたため、思いもよらなかったらしい。
ひとつには、これらの歌の(見せかけの)分かりやすさにも依るだろう。
み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
両歌とも、難解な言葉も捻ったテクニックも使わずに歌われているので、すらっと読んだだけで「あ、分かった」となってしまったようだ。
不覚。
しかしまあ、負け惜しみを言わせてもらえれば、こんな思わぬ角度からの読みを「ぽん」と目の前に出されると、予期せぬラッキーに出会ったような気がする。
ちょうど、珍しい野球カードが偶然に手に入ったときのように。