「薔薇窓」
錠劑は覺めざるねむりもたらさむめぐりくれなゐ薄き紫陽花
闇の中に放てるちひさき石つぶて傷つきし樹皮高く匂はん
てのひらに餌をのせつつ鳥を寄する老婆よ寺院のごとくに昏れぬ
堀割の崖の上なる厨房のしばしばも開き芥を落しぬ
燐光をうちに藏する冷藏庫もの蔭に立つ中華飯店
籐の椅子遠き蝉ごゑを呼びてをりふとしも肉身の匂ひをうしなふ
その酸味鮮紅ならむよ原生の茱萸は雲疾き斷崖(きりぎし)の上
蕎麥畑先端しらみそめるのみ霧卷く信濃の朝を目覺めず
苦き菊ほぐるる匂ひとわが寡默宵々にして人を冒しぬ
胡桃を食ひ夜更かす少女きらきらときらめくまなこしばたたきをり
かすかなる搖れをみたしし一杯の水あり師の君死にたまひけれ
越の國の曇り寒きに冷水を灑がむとして一基の墓石
水仙の葉むら直ぐ立つところより酒賣觀音あゆませたまふ
赤きかぼちや火(エルフ)となりてころがれる西風吹ける夜の長椅子
なんぢ居る部屋のたそがれ食後に年よ一本の蠟を燈(とも)せよ
ぬくき冬をはらむとしてとり出でし皿に割れたる雙生の卵(らん)
おびただしき貝沈みつつ薄ら目をあきをり雨の夜の水鉢
發眼の魚卵、羊齒の胞子見え 雨夜蟠るものをおそれき
わだつみのいろこの宮魚の宮ま(さを)なりけむ鱗(いろこ)ひかりて
忽然と人ゐぬ厨水口に赤きトマトの相寄りにけり
碎氷のさやげるコップ耳に當てつかのまの鋭きいのち私語せん
水充つる玻璃にいちはやき感度あり遠き市街に雷(らい)の起れる
赤き手に碎く音する錐をもてにぶき氷を飛散せしめよ
冷たき風かよへる空にかざさるるアムプルは秋の眸となれり
軋み戸を引けるときしもあな供華は氷菓のごとくこぼれ落ちたり
冷水ほとばしりいで水仙のき葉を洗ふ 指(おゆび)を洗ふ
Death More(もっと死を)なる褐色のくすり冬の夜のねずみを取らむ藥なれども
いたましき器(うつは)なるらむ薄き玻璃くれなゐのぶだうの液充つるとき
虹鱒の燻製を裂く手もとより歸巢の性(さが)のごときをうしなふ
氷室(ひむろ)は雪明りせりき柚子純潔の種(しゆ)の匂ひ放ちて
山驛のガラスケースに蜂蜜の薄黄(はくわう)あさなあさなに凍る
風吹ける夜赤葡萄色(クラレツト)の硝子片透しあそばんき瞳あり
葡萄蔓あるひは胞衣のごときもの椅子に居睡る少女を捲きぬ
はつかなる傾斜あるらむ皿の上ころがりゆきし卵靜止す
硝子戸に透きゐる斜面山栗の毬は星のごとくまろびぬ
われの目にふとしもあかるき洞ありてたかはらのき木の實墜つるを
山蟻の引きゆく破れ蝶々にサタンの色の混りゐき
褐色の珈琲の中におこりゐる乳の雲あり 降りゐる木の葉
肉焙る火の嵐聽こえ 夜の雨聽こえ 厨に人は居ざるも
をみならは曇るガラスの中に立ちゆふぐれの食(しよく)になにを混ぜあはす
専横なる愛の證(あかし)と一頭の鹿撃たれけむ雪原の上
淡黄のめうがの花をひぐれ摘むねがはくは神の指にありたき
鮎のごとき細身の鐘塔を作りたるジオット・ディ・ボンドーネ麗はし
晩秋の深き皿にて影竝ぶ美しき配分を待つものにして
日本の梨淡くして透きとほる肌に貼りたる黄金(きん)のれってる
人の手にかち合ふ祝杯を受くるもの愕然とわが生みの子なりし
とほそけばなほもしるきか熱したる鍋(パン)を拭きゐる油布の匂ひよ
汝實る勿れ、とキリスト命じたる無花果の實は厨に影する
毛の抜けるほど辛き辛子を溶きてをり硝子の微光かぎりしられず
(原本 葛原妙子全歌集(二〇〇二年 砂子屋書房))