「飛行(ひぎやう)」
チベットの高原越えて鹽運ぶき駄獸を寫せる寫眞
かりかりと噛ましむる堅き木の實なきや冬の少女は皓齒(しらは)をもてり
酒煮ることまれにだになきわが家ぬち沁み入るごときゆふぐれはきつ
「卵のひみつ」といへる書(ふみ)抱きねむりたる十二の少女にふるるなかれよ
荒涼と書架を荒せりひもじさがわが快感のひとつとなれば
深夜の井戸水湛へくる暗きゆらぎくれなゐの鳥の風切羽(きりは)捲きつつ
押し默り人はみてをり食べる時寢(い)ぬる時のずれゆくわれを
燻製の鮭を吊らむとせしときに窓いっぱいに月はありたり
淨まりしゆふ明りにてわがうさぎかたく乾きし餌食みこぼす
夫がかたへにものを食しをるしばしなりつめたき指(おゆび)に箸をあやつり
殺鼠劑食ひたる鼠が屋根うらによろめくさまをおもひてゐたり
かかへ切れぬほどのくらやみ碎氷の音絶えしのち氷置場は
夕なづむ硝子のあをみおそれをり一つの椀(もひ)に湯氣をたてつつ
曇る硝子うしろにありて血を切ると吊りし鯨肉(くぢら)のしたたりやまず
鯨の血白きタイルに流るるをみてゐきしづかにちからを溜めて
夏のくぢらぬくしとさやりゐたるときわが乳(ち)痛めるふかしぎありぬ
さながらに鯨肉(くぢら)の暗きわが臟(ぞう)の一つに充ちくるものの質ならむ
肝臟(レバー)を食ひ強き酒飲む年の怒りをのぞく暗きハッチより
かがやける白布裁たれつわれは置く熟する前の濃のレモン
布の上にみどりのレモンを置くなれば陽はさわさわといま搖れたたん
皿と壺、果實の引ける長き影見入れるこころ歪(ひず)みをもてり
生野菜に白き鹽ふるさらさらと粒子こまかに乾ける鹽を
き肝臟(レバー)の血をぬく仕事に耐へむとすもの溶けにじむごときひぐれに
きよき泉喫すをののきそのそびら怒濤のごとく夏雲あらん
こゑ透り氷菓呼ぶなり水打ちし薄暮のホームすでにちかづき
窓下の溜水(りうすゐ)に夜々吻(くち)ふるるけものといふべくすでにしたしき
おそき月羊齒むらに射す酸の匂ひしづかにかもしゐるらむ
死の豫感ありといふべし甲蟲の食ひあらしゆく白き花みれば
栗の花の異臭たちたる葉がなか鎭まりゆくも神讚(ほ)むるうたは
貧しき音たちのぼる廚の窓よりぞひぐれなほあをきあをき山脈(なみ)
貸馬らき草食む山麓のゆふべしづまりがたきわれあり
聖水とパンと燃えゐるらふそくとわれのうちなる小さき聖壇
ひぐらしのただいまを啼くと胡桃(くるみ)割る手をとめよわれのをさな少女よ
美しからざるいまはのさまに胡桃散りき山家の戸は閉(さ)さるべし
膨るるうみまなぶたにありふふみゐるかぎりなき魚卵をわれは怖るる
巨きぶだうの房となるなり累りし卵にあをき月射すなれば
無色なるくすりに暗紅を着色し毒藥の印(しるし)と人はするなる
天窓より秋のひかりの降りきたりひと○(つか)の鹽きらめきにけり
(○は漢字)
鹽甕にいつぱいの鹽を充たすとて溢るるはなにのゆゑのなみだぞ
美しき徒(むだ)のひとつと秋の日の漏水は飛沫(しぶ)く鉛の管より
ガラスの鐸(すず)鳴らし家族を食事に呼ぶはかなかる日のわたくしごとと
ひしひしとかなしきまひる陽の散斑(はらふ)落ちたる卓布にパン屑を掃き
一輛の人みなねむりわが剥きしき蜜柑の高き香は滿つ
けづめのごとき唐辛子を吊す白き厨冬の亂射を瞑(めつむ)りうけん
雪穴のごとき茶房あり深夜にてき珈琲煮立ちてゐたり
強き酒くだけし(かめ)より流れゐむ破片のあひを素迅く縫ひて
雨衣透きつ葡萄の種子めく處女のむれもてる生理をかなしみ思ふ
アムバーといへる濃厚なる香料を補ひとせり女體爪の如し
ここあいろの乳房を垂れし犬歩み既知にいそげるもののごとしも
(「ここあ」の三字に傍点が付く)
油澱む水のおもてに浮びたる卵白の太陽をわれはまたぎつ
(原本 葛原妙子全歌集(二〇〇二年 砂子屋書房))