昭和十年
かすかなる御民(みたみ)のわれも若水(わかみづ)を汲みつつまうせけふの吉事(よごと)を
納豆もちひわれは食ひつつ熊本の干納豆(ほしなつとう)をおもひいでつも
富人(とみびと)は富人どち貧しきは貧しきどちと餅(もちひ)をぞ食(を)す
春川のながれの岸に生(お)ふる草摘みてし食へば若(わか)やぐらしも
磯におりてかすかなる水の湧くを見つ水にちかく磯の浪のおと
わたつみの海にむかひて屯(たむろ)せる家居(いへゐ)にはみな鰯を干せり
川原茱萸(かはらぐみ)やうやく赤く砂丘(すなをか)の麓(ふもと)のところ二木(ふたき)ばかりあり
利根河の河の水近く大規模(おおきも)に醤油(しやういう)をつくる一劃(いつくわく)を來し
あたたかき飯(いひ)をゆふぐれ食ふときに天(あめ)の命(いのち)も怖(お)ぢておもはず
燠(おき)のうへにわれの棄てたる飯(いひ)つぶよりけむりは出でてく燒けゆく
つつましくして豚食はぬ猶太族(ユダぞく)のをとめとも吾は谷をわたりき
かぎろひの春逝きぬればわれひとり樂しみにして居る茱萸のき實
くれなゐのこぞめの色にならむ日をこの鉢茱萸(はちぐみ)に吾は待たむぞ
谷間(たにあひ)に行かむ閑(ひま)あり三たり等は蕨の餅(もちひ)もとめつつ行く
赤々と色づきそめし茱萸(ぐみ)の實は六月二日(ふつか)に十(とを)まり七つ
くもり日の二日(ふつか)經(ふ)れども茱萸の實の色づく早し悲しきろかも
まどかなる赤(あけ)になりつつ熟(う)みし茱萸六月五日にも吾は數(かぞ)へつ
うつせみの吾(わが)見つつゐる茱萸の實はくろきまで紅(あけ)きはまりにけり
をさなごの吾子(わがこ)は居れどくれなゐの茱萸の木(こ)の實を食ふこともなし
百(もも)あまり濃きくれなゐにしづまれる茱萸の實こほし朝な夕なに
あしびきの山路(やまぢ)せまめてむらがれる車前草(おほばこ)のうへに雨の降る見ゆ
いたどりの白き小花(こはな)のむれ咲くを幾たびも見て山を越え來ぬ
飲食(のみくひ)にかかはることの卑しさを露(あら)はに言ひし時代(ときよ)おもほゆ
嫩江(のんこう)のほとりに馬が草食(は)むといふ短文にも心とどろく
デパートを上(のぼ)り下(お)りして精米の標本のまへに暫し立ちけり
朝な朝な味噌汁のこと怒(いか)るのも遠世(とほよ)ながらの罪のつながり
のみ食ひのあけくれに君のみとめたる「人生物理」をいまはおもはむ
人に云はむことならねどもいつの頃よりか抹茶(ひきちや)のむこと吾ははじめぬ
秋しぐれ降るべくなりて樹のもとに白く露(あらは)なる銀杏(いちやう)の實いくつ
霜ぐもる朝々子等と飯(いひ)を食ふひとり兒(ご)だにもなき人思(も)ひて
梅の實は黄にいろづきてこの朝明(あさけ)すがしき庭に一つ落ちをり
とよさかにさちはふ君のいでたちを味よろし魚(うを)くひて送らむ
故(こ)先生がハバナくゆらしゐたまひしみすがた偲ぶこよひ樂しも
みづからの子に毒盛りて殺さむとしたる現身(うつせみ)を語りぐさにす
昭和十一年
大阪の友の幾たりわがために命のべよと牡蠣を食はしむ
春川(はるかは)のほとりに生(お)ふるつくづくし生ふれば直ぐに摘みて食(たう)べむ
もろこしの大き聖人(ひじり)もかくのごとへる木(こ)の實食ひしことなし
酒にみだれて街頭をゆく人少(すくな)しいかなるところにて人酒飲むや
ひととせの勤め果(はた)して新らしき年に餅(もちひ)を食へど飽かなくに
鉢植の茱萸(ぐみ)にもえたる新芽(にひめ)らののびつつありと今夜(こよひ)おもへり
鼠等を毒殺せむとけふ一夜(ひとよ)心樂しみわれは寝にけり
楢(なら)の葉のあぶらの如きにほひにもこのわが心堪へざるらしも
たわたわと生(な)りたる茱萸を身ぢかくに置きつつぞ見るそのくれなゐを
この茱萸を買ひ求め來て夏の日を樂しみしより三年(みとせ)經につつ
海のかぜ山越えて吹く國内(くぬち)には蜜柑の花は既に咲くとぞ
毒のある蚊遣(かやり)の香(かう)は蚊のともを疊におとし外へ流るる
いま少し氣を落著(おちつ)けてもの食へと母にいはれしわれ老いにけり
味噌汁を朝なゆふなにわが飲めば和布(わかめ)を入れていくたびか煮る
赤土(あかつち)のなかよりいでて來る水を稀々(まれまれ)にして人は掬(むす)ぶも
ものなべて終(をは)りしごときおもひにて夜半(よは)の桑畑(くははた)とほりて行きつ
草いちごの幽(かす)かなる花咲き居りてわが歩みゆく道は樂しも
車前草(おほばこ)は群れひいでたるところあり嘗(かつ)ての道とおもほゆれども
こころ和(のど)に馬が草食む音をききなほみづうみにそひて吾(あれ)ゆく
せまり來(こ)しかの悲しさも天(あま)ゆ降(ふ)る甘露(あまつゆ)のごと消えか行くらむ
幾たびかこの道來つつ葛(くず)の花咲き散らふまで山にこもりぬ
・谷々(たにだに)の夏はふけしとおもふにしここの流(ながれ)にうろくづを見ず
鯛を飼ふ水のみなもとは硫黄ふく谿と異(こと)なれる山山(やまやま)のかげ
たたずめるわが足もとの虎杖(いたどり)の花あきらかに月照りわたる
木香(もくかう)の赤實(あけみ)を採りて手(た)ぐさにすわが穉(をさな)くてありし日のごと
つぎつぎに起る國際の事件(ことがら)も顎につきし飯粒(めしつぶ)ひとつと言ふかも知れず
箱根路の山をくだりし幾日(いくか)めに納豆食ひたく思ひし日あり
あらくさに露の白玉かがやきて月はやうやくうつろふらしも
ひさかたの乳(ちち)いろなせる大き輪の中にかがやく秋のよの月
れとほる空をかぎりて黍(きび)立てりある一時(ひととき)は音さへもなし
蜀黍(もろこし)はあかく實(みの)りて秋の日の光ゆたかに差したるところ
秋の日のそこはかとなくかげりたる牛蒡の畑(はたけ)越えつつ行けり
煙草やめてより幾年なるか眞近(まぢか)なるハバナの煙なびきて戀(こほ)し
われひとり秋野を行けば草の實はこぼれつつあり冬は來むかふ
蓬生(よもぎふ)は枯れつつゐたり吾等ふたり蓬生の中に入りてやすらふ
きみづ湧きかへるそばに米(よね)とぐを木曾路(きそぢ)の町にたまたま見たり
朝鮮の人の妻等がうら安く山の茸(きのこ)を手に取り見つつ
秋茱萸(あきぐみ)のくれなゐの實は山がはの淵に立てればこの夕べ見つ
桑の葉の黄にもみぢたる畑(はた)のべを心むなしきごとくに行きつ
蕎麦の畑(はた)すでに刈られて赤莖(あかぐき)の殘れるがうへに時雨(しぐれ)は降るらむ
山椒の實が露霜(つゆじも)に赤らみて山がは淵(ぶち)にのぞみつつ見ゆ
深淵(ふかぶち)にのぞみて居(を)れば朴の葉のいまだきが向岸(むかぎし)に立つ
鞍馬(あんば)よりのぼり來(きた)れる途(みち)の上の蓼(たで)は素(す)がれて山峡(やまかひ)さむし
つゆじもは幾夜降りしとおもふまで立てる唐辛子のくれなゐ古(ふ)りぬ
一夜(ひとよ)あけて時雨のあめの降り過ぎし菜(あをな)が畑(はた)にわが歩みいる
時雨(しぐれ)のあめ降りくるなべに砂のへに山○(やまたら)の實のきが落ちぬ
(○は漢字)
藥賣(くすりうり)この狭間(はざま)まで入り來つる時代(ときよ)のことを語りあひけり
上松(あげまつ)より四十二基(キロ)を入り來つつこころ靜かに晝(ひる)の飯(いひ)食(を)す
歩みつつ烟草(たばこ)のむことを警(いま)しめて山の茂木(しげき)を人まもり繼(つ)ぐ
せまき峡に稻田(いなだ)がありてゆたけしとおもほえぬ稻なかば刈られぬ
この淵に見ゆる岩魚よあな悲し人に食はるなとわれは思へり
赤き實はすき透りつつ落ちむとす雪ふるまへの山中(やまなか)にして
よつづみのくれなゐ深くなれる實を山の小鳥は樂しむらしも
渦(うづ)ごもり巖垣淵(いはがきぶち)のなかに住む魚をしおもふこころしづけさ
山葡萄のく沁みとほる實を食(は)みてひとのあはれに遠そくがごと
友あまた今宵つどひてわがために豊酒(とよみき)飲みぬ豊酒の香や
松楊(ちしや)の葉は黄にとほりつつもみぢたりいつの日よりのその黄なるいろ
人ひとり横(よこや)をさして行かむとす日暮(ひぐれ)に著(つ)きて蕎麥食ふために
わが側(そば)にくれなゐ深く動きゐし山葡萄の葉はしづまらなくに
朝の茶の小つぶ梅の實われひとり寂しく食ひて種子(たね)を並べぬ
あたたかき鰻を食ひてかへりくる道玄坂に月おし照れり
うづたかく並べる菓子を見てをれど直ぐに入りつつ食はむともせず
冬の陽のしづかに差せる野のうへに高き蓬(よもぎ)はうら枯れにけり
山こえて藥もらひに來る老(おい)はときどき熊の肉を禮(れい)に置く
(原本 齋藤茂吉全集第二巻(昭和四八年))