コンピュータゲームは、ファミコン(初代)以降ほとんどやったことがなかったのですが、なんか一口で言えない紆余曲折によって、初めてDVDゲームソフトなるものが手に入りました。
もっとも、これは正確に言えばゲームではなく「ビジュアルノベル」なのだそうです。違いがよく分かりませんが。
『Fate/hollow ataraxia』(フェイト/ホロウ アタラクシア)。
直訳すれば、「運命/虚ろなる平穏」となるのでしょうか。
ある大人気ゲームの続編で、魔法戦争モノだとか。
続編なので、その世界観等は当然前作より引き継がれています。つまり、前作をやったことがない人は、なんだかよくわからない。
ウィキペディアで検索してみると、
「第五次聖杯戦争の終結から半年後。そこには再び現界したサーヴァントとの穏やかな日常が存在していた。ありえない現実でありながら、それらに疑問を抱かない前聖杯戦争参加者たち。繰り返される四日間と暗躍する魔術師。夜にのみ進行する新たな聖杯戦争。空虚なる平穏の先にあるものは……?」
…余計、分からなくなったような。
まあ、やっていくうちに分かるだろうと、軽い気持ちでスタートしました。
まいった。見事にはまりました。
魔法や戦闘、英雄譚など、マニアックな味付けが散りばめられていますが、幹はシンプルで太いものです。
「正義と日常」。
主人公であるマスターと、ヒロインであるサーヴァント。
ヒロインは先の戦争後に消えるはずだった。なのに、未だに主人公と幸福に暮らしている。かすかな違和感を抱きながら、平凡に、幸福に。
ありえない日常に気づいた主人公は、その虚偽を正しにゆく。
誰一人、その世界の終わりを望んではいないのに。それが、幸せな生活を終わらせるのみならず、最愛の人を消すことになると分かっていながら。
ヒロインは、そんな主人公を肯定し、全面的な協力を誓う。
それが、最愛の人との生活を終わらせるのみならず、自分自身を消すことになると分かっていながら。
物語内では、様々な理屈や解釈が付けられていましたが、要するにヒロインが「消える」とは、「死ぬ」ということです。
もう二度と、その人に会うことは出来ない。残される側にとって、死とはそういうものです。
誰ひとり望まない「正義」のために、「日常」を、最愛の人を殺すことが出来るのか。自らを殺すことが出来るのか。
正義と日常は、どちらが重いのか。
この物語は、「あなたなら、どうしますか」と、まっすぐ問うてきます。
語られる日常の部分が、コミカルで幸せそうであるだけに、余計に切なさが染みわたる。
「ええ。ですがもう少しだけ眺めていたいのです。この景色を、ずっと覚えておくために」
物語の終盤、ヒロインが主人公とともに、坂の上から夕暮れの街を眺めるシーンでは、不覚にも涙が止まりませんでした。
「そうでしょう?この、誰も失われていない理想郷で。貴方だけは、失われたものに価値を見いだそうとしている」
放っておけば、いつまでも続けられる幸せ。その一つひとつを噛みしめながら、ヒロインは穏やかにほほえみます。
「そんなに悲しい顔をしないでください。大丈夫。仮に終わりがあるとしても、それは別れではありません」
「別れではない?」
「ええ-私たちはそれぞれ、望んだ未来に還るのです」
もし、部屋で第三者が僕を見ていたら、とっても異様に見えたでしょう。
四十過ぎの男が深夜にひとり、パソコンの前でうつむいて涙をこぼしているんですから。
さすがに人に見られると恥ずかしいですが、幸いにして一人だったので、思い切り泣きました。
その余韻は今も残っていて、こうして恥ずかしい文章を書かせています。
何年かに一度、自分の心を大きく揺さぶる本や映画などに出会います。
この『Fate/hollow ataraxia』(フェイト/ホロウ アタラクシア)も、どうやらその一つのようです。
万人に薦められるかというとちょっと考えますが、機会がありましたら、どうぞ。
もっとも、これは正確に言えばゲームではなく「ビジュアルノベル」なのだそうです。違いがよく分かりませんが。
『Fate/hollow ataraxia』(フェイト/ホロウ アタラクシア)。
直訳すれば、「運命/虚ろなる平穏」となるのでしょうか。
ある大人気ゲームの続編で、魔法戦争モノだとか。
続編なので、その世界観等は当然前作より引き継がれています。つまり、前作をやったことがない人は、なんだかよくわからない。
ウィキペディアで検索してみると、
「第五次聖杯戦争の終結から半年後。そこには再び現界したサーヴァントとの穏やかな日常が存在していた。ありえない現実でありながら、それらに疑問を抱かない前聖杯戦争参加者たち。繰り返される四日間と暗躍する魔術師。夜にのみ進行する新たな聖杯戦争。空虚なる平穏の先にあるものは……?」
…余計、分からなくなったような。
まあ、やっていくうちに分かるだろうと、軽い気持ちでスタートしました。
まいった。見事にはまりました。
魔法や戦闘、英雄譚など、マニアックな味付けが散りばめられていますが、幹はシンプルで太いものです。
「正義と日常」。
主人公であるマスターと、ヒロインであるサーヴァント。
ヒロインは先の戦争後に消えるはずだった。なのに、未だに主人公と幸福に暮らしている。かすかな違和感を抱きながら、平凡に、幸福に。
ありえない日常に気づいた主人公は、その虚偽を正しにゆく。
誰一人、その世界の終わりを望んではいないのに。それが、幸せな生活を終わらせるのみならず、最愛の人を消すことになると分かっていながら。
ヒロインは、そんな主人公を肯定し、全面的な協力を誓う。
それが、最愛の人との生活を終わらせるのみならず、自分自身を消すことになると分かっていながら。
物語内では、様々な理屈や解釈が付けられていましたが、要するにヒロインが「消える」とは、「死ぬ」ということです。
もう二度と、その人に会うことは出来ない。残される側にとって、死とはそういうものです。
誰ひとり望まない「正義」のために、「日常」を、最愛の人を殺すことが出来るのか。自らを殺すことが出来るのか。
正義と日常は、どちらが重いのか。
この物語は、「あなたなら、どうしますか」と、まっすぐ問うてきます。
語られる日常の部分が、コミカルで幸せそうであるだけに、余計に切なさが染みわたる。
「ええ。ですがもう少しだけ眺めていたいのです。この景色を、ずっと覚えておくために」
物語の終盤、ヒロインが主人公とともに、坂の上から夕暮れの街を眺めるシーンでは、不覚にも涙が止まりませんでした。
「そうでしょう?この、誰も失われていない理想郷で。貴方だけは、失われたものに価値を見いだそうとしている」
放っておけば、いつまでも続けられる幸せ。その一つひとつを噛みしめながら、ヒロインは穏やかにほほえみます。
「そんなに悲しい顔をしないでください。大丈夫。仮に終わりがあるとしても、それは別れではありません」
「別れではない?」
「ええ-私たちはそれぞれ、望んだ未来に還るのです」
もし、部屋で第三者が僕を見ていたら、とっても異様に見えたでしょう。
四十過ぎの男が深夜にひとり、パソコンの前でうつむいて涙をこぼしているんですから。
さすがに人に見られると恥ずかしいですが、幸いにして一人だったので、思い切り泣きました。
その余韻は今も残っていて、こうして恥ずかしい文章を書かせています。
何年かに一度、自分の心を大きく揺さぶる本や映画などに出会います。
この『Fate/hollow ataraxia』(フェイト/ホロウ アタラクシア)も、どうやらその一つのようです。
万人に薦められるかというとちょっと考えますが、機会がありましたら、どうぞ。