「たかはら」
昭和四年
酒によわくなりたる吾を寂しとぞ思はむ折もなかりけるかな
朝々にわれの食(たう)ぶる飯(いひ)へりておのづからなる老(おい)に入るらし
はかなごとわれは思へり今までに食ひたきものは大方(おほかた)くひぬ
あたたかき飯(いひ)くふことをたのしみて今しばらくは生きざらめやも
章魚(たこ)の足を煮てひさぎをる店ありて玉(たま)の井町(ゐまち)にこころは和(な)ぎぬ
まむかうの山間(さんかん)に冷肉(ひやにく)のごとき色の山のなだれはしばらく見えつ
ビステキの肉くひながら飛行士は飛行惨死のことを話(はなし)す
晝のまの勤(つと)め果てつつ一息(ひといき)をつかむころには何を食はむか
あげつらふ餓鬼(がき)は居りともひたぶるに竹の里人(さとびと)を我は尊(たふと)ぶ
昭和五年
新しき年のはじめに貧しきも富めるも食ひたきものを食ふらむ
春さむき紙帳のなかに飯(いひ)も食(く)はず風のなごりの身はこもりけり
きさらぎはいまだ寒きに石かげの韮(にら)は群がり萌えいでむとす
味噌汁をつつしみ居りし冬過ぎていまこそは食はめやまの蕨を
芍藥はすでにふふむにかたはらの柘榴の赤芽(あかめ)いまだまず
身にひそむ病しあればこの春はき韮さへ剪(き)ることもなし
山かげの水田(みづた)にものの生きをるは春ふけにしてひそむがごとし
妙高の山路(やまぢ)を來れば土くろしみぎりひだりに蕨もえつつ
吾の如く細谷(ほそたに)がくりおりくればこのきみづ人は飲むらむ
山のべにくれなゐ深き白頭翁(おきなぐさ)ほほけしものは毛になりにけり
常蔭(とこかげ)の山といはなくにおきなぐさはつはつふふむ寒きにやあらむ
雪きゆる谷川のべに養(やしな)ひしアスパラガスをわれに食はしむ
はざま路に入りつつくれば若葉して柿の諸木(もろき)は皆かたむけり
朝々(あさあさ)に味噌汁にして食ふ蕨は奥山より採りこし蕨にあらず
けふの朝買ひし蕨は淺山より採りきて賣りたるものならむ
雨のひまに谷に入り來て胡桃(あをぐるみ)いくつも潰(つぶ)すその香なつかし
弟と弟の子と相寄りて夕餉(ゆふがれひ)鯉こくのたぎれるを食ふ
淡々(あはあは)しきものとおもへど山中にこもらふ如く夏蕎麥(なつそば)の畑(はた)
午飯(ひるいひ)を此處に濟ますと唐辛子の咽(のど)ひびくまで辛(から)きを食ひぬ
午(ひる)過ぎにはやも宿かり親しみて油揚げ餅食ひつつ居たり
はしばみの實をまだ若(わか)み道すがら取りて食へどもその味(あぢ)無しも
ほほの木の實はじめて見たる少年に暫しは足をとどめて見しむ
○(ぶな)の實のおちゐる道を踏みながらやうやく明けし峽(かひ)にかかりぬ
(○=漢字 木偏に無)
般若坊(はんにやばう)水(しみづ)にたどりつき汗あえし顔も眼(まなこ)も浸(ひた)してあらふ
水芭蕉山煙草などいふものをわが子の茂太(しげた)もわれも見てをり
烏川(からすがは)谿をながれぬ下(お)りたちてきよき川原に飯(いひ)くひにけり
わが家より持ちて來たりし胡瓜漬を互(かたみ)に食ひぬ谿の川原に
小屋見れば兎の足が六十餘りあり冬に來たりて狩せるらしも
月山の山の腹より湧きいづる水は豊けし胡瓜(きうり)を浸(ひた)す
わが子にも鹽をもて齒を磨かしむ山谷(やまだに)の底に夜(よる)は明けつつ
湯殿谿に飲食物(のみくひもの)をはこぶ馬がこの山道を通ふさびしさ
田麥俣(たむぎまた)を眼下(まなした)に見る峠にて餅(もちひ)をくひぬわが子と共に
山道に少し許りの平(たひら)あり水いでつつ店に油揚げを賣る
山中のかすかなる店に油揚げにて午飯(ひるいひ)食ひぬその握り飯(いひ)
たふとくも見ゆる白鷺このやまの杉のうへにして卵を生みつ
南谷(みなみだに)ふりにし跡(あと)にわが來ればかすかにのこる河骨(こうほね)の花
雨はれし羽黒の山にのぼり來て餅(もちひ)を食ひぬ食へども飽かず
あまつ日の照りきはまれる道のへに西瓜(すゐくわ)を置きぬあたたまるらむ
淋しさに堪へたりといひしいにしへの人の食ひけむ物おもひつつ
風のおと川わたり來るみやしろに栴檀(せんだん)の實のおつるひととき
山ふかき村のはづれにいささかの鹽(しほ)賣る家の前を過ぎつつ
石龜(いしがめ)の生める卵をくちなはが待ちわびながら呑むとこそ聞け
み寺なる朝のいづみに槇(まき)の木實(このみ)きがあまた落ちしづみけり
(原本 齋藤茂吉全集第二巻(昭和四八年))
昭和四年
酒によわくなりたる吾を寂しとぞ思はむ折もなかりけるかな
朝々にわれの食(たう)ぶる飯(いひ)へりておのづからなる老(おい)に入るらし
はかなごとわれは思へり今までに食ひたきものは大方(おほかた)くひぬ
あたたかき飯(いひ)くふことをたのしみて今しばらくは生きざらめやも
章魚(たこ)の足を煮てひさぎをる店ありて玉(たま)の井町(ゐまち)にこころは和(な)ぎぬ
まむかうの山間(さんかん)に冷肉(ひやにく)のごとき色の山のなだれはしばらく見えつ
ビステキの肉くひながら飛行士は飛行惨死のことを話(はなし)す
晝のまの勤(つと)め果てつつ一息(ひといき)をつかむころには何を食はむか
あげつらふ餓鬼(がき)は居りともひたぶるに竹の里人(さとびと)を我は尊(たふと)ぶ
昭和五年
新しき年のはじめに貧しきも富めるも食ひたきものを食ふらむ
春さむき紙帳のなかに飯(いひ)も食(く)はず風のなごりの身はこもりけり
きさらぎはいまだ寒きに石かげの韮(にら)は群がり萌えいでむとす
味噌汁をつつしみ居りし冬過ぎていまこそは食はめやまの蕨を
芍藥はすでにふふむにかたはらの柘榴の赤芽(あかめ)いまだまず
身にひそむ病しあればこの春はき韮さへ剪(き)ることもなし
山かげの水田(みづた)にものの生きをるは春ふけにしてひそむがごとし
妙高の山路(やまぢ)を來れば土くろしみぎりひだりに蕨もえつつ
吾の如く細谷(ほそたに)がくりおりくればこのきみづ人は飲むらむ
山のべにくれなゐ深き白頭翁(おきなぐさ)ほほけしものは毛になりにけり
常蔭(とこかげ)の山といはなくにおきなぐさはつはつふふむ寒きにやあらむ
雪きゆる谷川のべに養(やしな)ひしアスパラガスをわれに食はしむ
はざま路に入りつつくれば若葉して柿の諸木(もろき)は皆かたむけり
朝々(あさあさ)に味噌汁にして食ふ蕨は奥山より採りこし蕨にあらず
けふの朝買ひし蕨は淺山より採りきて賣りたるものならむ
雨のひまに谷に入り來て胡桃(あをぐるみ)いくつも潰(つぶ)すその香なつかし
弟と弟の子と相寄りて夕餉(ゆふがれひ)鯉こくのたぎれるを食ふ
淡々(あはあは)しきものとおもへど山中にこもらふ如く夏蕎麥(なつそば)の畑(はた)
午飯(ひるいひ)を此處に濟ますと唐辛子の咽(のど)ひびくまで辛(から)きを食ひぬ
午(ひる)過ぎにはやも宿かり親しみて油揚げ餅食ひつつ居たり
はしばみの實をまだ若(わか)み道すがら取りて食へどもその味(あぢ)無しも
ほほの木の實はじめて見たる少年に暫しは足をとどめて見しむ
○(ぶな)の實のおちゐる道を踏みながらやうやく明けし峽(かひ)にかかりぬ
(○=漢字 木偏に無)
般若坊(はんにやばう)水(しみづ)にたどりつき汗あえし顔も眼(まなこ)も浸(ひた)してあらふ
水芭蕉山煙草などいふものをわが子の茂太(しげた)もわれも見てをり
烏川(からすがは)谿をながれぬ下(お)りたちてきよき川原に飯(いひ)くひにけり
わが家より持ちて來たりし胡瓜漬を互(かたみ)に食ひぬ谿の川原に
小屋見れば兎の足が六十餘りあり冬に來たりて狩せるらしも
月山の山の腹より湧きいづる水は豊けし胡瓜(きうり)を浸(ひた)す
わが子にも鹽をもて齒を磨かしむ山谷(やまだに)の底に夜(よる)は明けつつ
湯殿谿に飲食物(のみくひもの)をはこぶ馬がこの山道を通ふさびしさ
田麥俣(たむぎまた)を眼下(まなした)に見る峠にて餅(もちひ)をくひぬわが子と共に
山道に少し許りの平(たひら)あり水いでつつ店に油揚げを賣る
山中のかすかなる店に油揚げにて午飯(ひるいひ)食ひぬその握り飯(いひ)
たふとくも見ゆる白鷺このやまの杉のうへにして卵を生みつ
南谷(みなみだに)ふりにし跡(あと)にわが來ればかすかにのこる河骨(こうほね)の花
雨はれし羽黒の山にのぼり來て餅(もちひ)を食ひぬ食へども飽かず
あまつ日の照りきはまれる道のへに西瓜(すゐくわ)を置きぬあたたまるらむ
淋しさに堪へたりといひしいにしへの人の食ひけむ物おもひつつ
風のおと川わたり來るみやしろに栴檀(せんだん)の實のおつるひととき
山ふかき村のはづれにいささかの鹽(しほ)賣る家の前を過ぎつつ
石龜(いしがめ)の生める卵をくちなはが待ちわびながら呑むとこそ聞け
み寺なる朝のいづみに槇(まき)の木實(このみ)きがあまた落ちしづみけり
(原本 齋藤茂吉全集第二巻(昭和四八年))