日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

 (御法主日顕上人猊下御講義「創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す」※転載)

 御法主日顕上人猊下御指南

 「創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す


       日蓮正宗宗務院

      発刊に当たって


 第四十六回全国教師講習会第一日の八月二十八日、総本山広布坊において、御法主日顕上人猊下による特別御講義が行われた。
 この日、全国から参集した教師僧侶、および特別に聴聞を許された法華講代表信徒七百余名に対し、御法主上人猊下は、邪教・創価学会の作成と見られる「日寛上人の御本尊下付の正義の証明」と「日顕宗の邪義を破す」と題する両書を題材として、これを完膚なきまでに破折されるとともに、血脈法水伝持の御境界から種々、甚深の御指南を賜った。
 このうち、前者に対する破折の内容を一書にまとめ、過般、『創価学会の偽造本尊義を破す』と題して発刊した。
 そして今回、後者の「日顕宗の邪義を破す」なる邪論についての、同日の御指南、および時間の関係で同日の御講義から外された御指南をまとめ、さらに御法主上人より一部補充の御指南を頂き、発刊する次第である。
 同邪論では、日蓮正宗の宗是である「血脈法水」の深義を軽視・蔑視し、ついにはこれを葬り去ろうと企むとともに、僣聖増上慢の池田大作をして「末法に入って以来、大聖人に続く二人目の『法華経の行者』になった」と誇示するなど、下種三宝背逆の趣旨を得々と述べ綴っている。
 創価学会員は、本年九月二十九日の「日蓮正宗宗規」一部改正により、十一月末日を限って日蓮正宗信徒の資格を失ったが、つい最近まで同信の徒として信行に励んできた各会員が、このような邪論にたぶらかされて地獄への坂道を転げ落ちていくのは、まことに哀れと言うほかはない。
 本宗僧俗各位におかれては、本書に説き示される御法主上人猊下の甚深の御指南を拝し奉り、これをよく信解して、もって創価学会員の折伏に活用されることを望むものである。

   平成九年十二月十五日

                          日蓮正宗宗務院

 目 次

  序 「日顕宗」という架空の呼称を用いて誹謗を繰り返す自己矛盾の愚行を破折する

 第一項 血脈相伝を否定し、下種仏法の正意から外れた「御書根本」の妄説を破折する

 第二項 「総別の二義」をはき違え、中心・肝要である「法体の血脈」否定を企てる邪義・妄説を破折する

 第三項 『本因妙抄』の後加文を「人師の説」と下し、唯授一人の血脈相承を否定する邪推・短見の妄説を破折する

 第四項 血脈相伝による三大秘法の仏法を破壊し、池田大作を末法二人目の「法華経の行者」と崇める愚昧・妄想の珍説を嗤う

 第五項 『百六箇抄』の相伝を疑い、すべての後加文を軽侮する独断・慢心の妄説を破折する

 第六項 『日興遺誡置文』の「極理師伝」の文を否定する仏法破壊の妄説を破折する

 第七項 血脈法水に具わる僧宝の意義を否定する、下種三宝破壊の妄説を破折する

 第八項 『御本尊七箇之相承』に関する邪難、ならびに『一期弘法付嘱書』中の「国主」を池田大作とする誑言を嗤う

 第九項 「偽造写真」を根拠とした人間性無視の卑劣な讒言・誣告を破折する

 第十項 『化儀抄』の御供養取り次ぎに関する条項を「ネコババ防止の化儀」と冒涜する妄言を破折する

第十一項 「手続の師匠」を精解した『化儀抄註解』の文意を歪曲し、血脈相伝の師を謗ずる妄説を破折する

第十二項 本門戒壇の住処を煩わしきものとする悩乱・顛狂の暴言を破折する

第十三項 御本尊への御供養を「謗施」と誹り、僧侶を侮蔑する我見・忘恩の妄説を破折する

第十四項 『化儀抄』に制誡される僧俗の筋目を否定し、日蓮正宗僧俗の広布前進を怨嫉する醜説を破折する

第十五項 僣聖増上慢・池田大作を大聖人に擬する大邪説を破折する

  (読者の便宜に資するため、創価学会文書に引用する日蓮大聖人御書名を、必要に応じて添加した。)

 

※『序 「日顕宗」という架空の呼称を用いて誹謗を繰り返す自己矛盾の愚行を破折する』へつづく

 

 

 


序 「日顕宗」という架空の呼称を用いて誹謗を繰り返す自己矛盾の愚行を破折する

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

 

 序
  「日顕宗」という架空の呼称を用いて誹謗を繰り返す自己矛盾の愚行を破折する

 


 『ニセ本尊』に関する創価学会の愚かな弁明に続いて、さらに創価学会には「日顕宗」などと、ありもしない架空の妄言によって、現日蓮正宗の法主と血脈相伝を否定し、その教義を誹謗する一連の偏論が存します。これはやはり、今日における池田破法団体の大体の主張を述べていると思われますので、先の『ニセ本尊』弁明への破折に引き続き、これについても、その主張の一々にわたって撃破を加えるものであります。
 まず、「日顕宗」という呼称ですが、このような名称の宗団は、日本にも世界中のどこにも存在しません。架空の呼び名です。彼等はこの架空の名を喜んで使っているのですが、実体がないもの、実在しないもの、架空の議論の一切は、虚偽の論と断ぜられます。つまり、創価学会は、こういう架空に基づく虚偽を平気で語る、ウソつき団体なのです。
 もし、学会員がひとことでも「日顕宗」と言ったら、直ちに「ないものを言う、創価ウソつき団体だ」と責めましょう。もし学会員が「日顕宗とはあだ名だ」などと言ったら、「あだ名には必ず実名がある。実名はなんだ」と質しましょう。詰まって「実名などどうでもよい。あだ名でたくさんだ」と言ったら、それこそ「だから学会員は池田と同じウソつき、傲慢、恥知らずなのだ」と追求してよいのです。
 ともかく、この世の中に全くない「日顕宗」という言い方は、創価学会が、日蓮正宗に帰依しきれず、また、日蓮正宗から離れきれない矛盾を抱えているからです。すなわち、一つには慢心・大謗法の池田大作に率いられる創価学会は、もはや日蓮正宗の仏法を信仰できる状態ではないからです。二つには、「創価学会規則」に、
  「この法人は(乃至)日蓮正宗の教義に基づき、弘教および儀式行事を行ない……」
とあって、規則上、日蓮正宗を正面から攻撃できないことと、長年、日蓮正宗を信仰してきた学会員の心情を無視して、あからさまに日蓮正宗を誹謗できない事情があるからです。
 したがって、「日顕宗」という呼び方は、それらの矛盾を覆い隠そうとする、目暗ましの謗法から来ているのです。

 

 ※『第一項  血脈相伝を否定し、下種仏法の正意から外れた「御書根本」の妄説を破折する』へつづく

 


第一項  ①血脈相伝を否定し、下種仏法の正意から外れた「御書根本」の妄説を破折する

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

 第一項

   血脈相伝を否定し、下種仏法の正意から外れた「御書根本」の妄説を破折する


創価学会資料(二)
  日顕宗の邪義を破す
 平成2年の池田総講頭罷免の直後に、創価学会から脱会して法華講に走った方が若干おられます。これらの方々にお会いしていく中で、いくつかのことに気がついたため、今後同じような過ちを繰り返してほしくないとの思いからこの文章を書いてみました。
 なぜ脱会されたかについてその動機を伺ったところ、それぞれがいろいろな見解を述べられたのですが、ほとんどの方に共通していたのは次のどちらか又は両方でした。
  ①以前から池田先生に対して、また学会の人間関係や運動論に対して反感を持っていた。
  ②日常的に御書の研鑚を行っていなかったため、日蓮正宗の教義の変化に気がつかなかった。
 したがって、御書を手に取って引用すると多くの法華講員の方が反論不能になり、教義ではなく執念か怨念のようなものを根拠として主張されるようになられたのです。
 そこで、正しい大聖人の仏法を求める観点から、根本となる教義の面と、制度や運動論、人間関係の面とを区別し整理しながら、正しい信心を目指した研鑚の糧にしていただきたいとの願いを込めて一文をしたためます。

 まず初めに「平成二年の池田総講頭罷免」ということを言っていますが、この「罷免」という語は正しくありません。罷免とは、辞令をもってはっきり職を免ずる処置を取ることです。
 しかるに、この場合は「宗規」の一部改正に伴う付則による資格喪失でありました。故に、総講頭であった池田大作のみならず、法華講員を含む大講頭十四名も、すべて資格を喪失したのです。
 また、罷免の場合は免職ですから復職の可能性はありませんが、資格喪失は爾後において復職の可能性が充分にありました。しかし、池田や秋谷は、その以前よりの敵対意識をいよいよ強め、盛んに宗門への謂われない悪口誹謗を重ねて、復職の可能性を自ら失ってしまったのです。
 したがって、これについて「罷免」と言うのは、間違った、不正確な表現であることを述べておきます。
 また、次に「日蓮正宗の教義の変化に気がつかなかった」と言っていますが、これも彼等の偏見であり、色眼鏡で見るからであります。日蓮正宗の教義は相伝に基づいて万古不変であり、池田や創価学会こそがクルクルと、恥ずかしげもなく変節し、珍説を次から次へと立てているではありませんか。
 また、彼等は「御書を手に取って引用すると多くの法華講員の方が反論不能になり、教義ではなく執念か怨念のようなものを根拠として主張」云々と述べていますが、むしろ日蓮正宗の正しい信仰と教学を身につけた法華講員から破折され、形勢不利になると、恥も外聞もなく論点のスリ替えを図り、それも不能と見るや、怨念と狂気の固まりとなって罵倒か嘲笑で逃れようとするのが創価学会員の常套手段ではないか、と言ってあげましょう。


 まず、大聖人の仏法の中に生まれた異なる主張を、本来の教えに正していくためには、絶対に外してはならない大原則があります。それは末法の御本仏・日蓮大聖人の経文である御書を根本としなければならないということです。この原則は、我々自身がそうであるだけでなく、相手にも求めなければなりません。なぜなら、御本仏が繰り返しそう断言されているからです。

 この愚論は、その初めに池田や秋谷が口癖とする「御書根本」という語を一つ覚えとし、大聖人の正義は御書に依るべきであるというところから、御書の十七文を抜粋して、これによって、宗門の主張は御書に依らない、わがまま勝手な相伝・口伝による邪義である、などと論じております。したがって、まず彼等の言う「御書根本」について、その是非を述べることとします。
 第一に、「御書根本」などということは、何も池田や創価学会のみならず、日蓮宗の各門下教団においても同様であり、皆、御書のお示しによって宗義を立てているのです。ただし、その拝し方が違うから多くの宗派が分かれるのであり、御書に依りつつ、御書の意に背く邪義となるのであります。創価学会も、根本の血脈不信によって異解を生ずることは同様です。故に、「御書根本」の主張には独りよがりの我見の誤りがあるとともに、御書中の浅深、立て分けを弁えない咎が存しています。
 さて、次に、彼等の「御書根本」と言う、それこそ根本的欠陥を示しましょう。
 彼等は御書の文々について、それぞれ所対による意義があるのを無視し、極めて短絡的に、文字だけを取って自分達の短見に結びつけ、「文証だ、文証だ」と誇示します。しかし、その文証の一切は、これら創価学会と会員の主張には全く当てはまりません。これは仏法の法体、教義、行法、利益、成仏等のすべての御文について言えることですが、一つには御書全体の浅深・次第の立て分けに暗く低見であることと、二つには自己中心の専断解釈があるのです。
 一例を挙げると、『諸法実相抄』の、
 「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」(御書六六五)
の文の「凡夫」とは、直ちに題目を唱える創価学会員のことだ、などと直結します。そこに創価学会独特の、仏教における根本の尊敬を忘れ、深意を無視した能所混乱による機根中心の我田引水があり、池田の雑言のすべてがこれを顕しています。
 右文の「凡夫」とは、単なる創価学会員などのことではなく、久遠元初凡夫即極の自受用身を指されることは、仏(釈迦・多宝)に対する一連の御文から明らかです。いわゆる能化(仏)に約して拝すべき文を、所化(衆生)の、それも破法だらけの身に約して短絡するところに摧尊入卑の誤りがあります。このように御書の勝手読み、我見読みをするのが創価学会であり、その見方はことごとく狂っています。
 しかも、それで「御書根本、御書根本」と言うのですから、あきれ果てた素人論法でもあり、大聖人の御正意からは遠く隔たっている、と指摘しておきます。
 第二に、今さら創価学会が「御書根本」と言っても、その見解は彼等が初めて立てたものではなく、日蓮正宗から学んだ日興上人以下歴代上人の相伝による判釈をかなり用いています。それを、いかにも創価学会独自の御書の正解であるかの如く「御書根本」と言うのは、僣上・傲慢の沙汰であります。さらに、御書の解釈の大綱を、他門にない本宗歴代上人の相伝による判釈に依っておきながら相伝を否定するのは、枝葉に執して根を截る大莫迦者であります。
 彼等自身、「御書根本」と言うことの中味は血脈相伝の利益なくしてはありえないにもかかわらず、その元を忘れて血脈を否定する愚癡を知るべきです。いったい、「御書根本」とは、唯授一人の血脈相伝による歴代上人の判釈教義に依るのか、それとも彼等が独自に開発する教義に依るのか。前者ならば、血脈相伝の正義を認めるべきであります。後者ならば、新興宗教として一線を引くべきです。そのいずれにも足を掛ける如く、掛けざる如く、怪物・鵺の如き妖怪教学は、まさに創価学会の外道の論であります。
 第三に、大聖人の御法門には、釈尊の権実二教のけじめを示す権実相対の法門が各所に拝せられますが、これは天台、伝教の助言であって、大聖人独自の本門の法門ではありません。そこには各宗の異義を整理するため、文証をもって示される所が多くあります。
 さらに進んで、本門付嘱の法体を顕すための本迹、種脱、底上の相対においては、権実相対に使用する経釈の文証は、直接には挙げられていません。特に、文上に対する文底とは、文、義の奥にある意の重である。すなわち、文上の権実二教の諸文証よりさらに立ち入った本仏大聖人の証悟であり、それは日興上人への口伝法門(御義口伝)その他の相伝として伝えられたものであります。これはまさに相伝であり、口伝である。このなかで、既に文献化され出版に至った分と、唯授一人の相伝・口伝が今に至るも未公開の肝要部が存します。
 要するに、大聖人の仏法の一切を文上の法門の通軌によって論じようとすること自体、本門甚深の綱格に暗い輩であり、それが創価学会の「御書根本」説なのであります。既に出版されている相伝文書を含め、あらゆる文献を正しく拝するには、血脈相伝への信心があって初めて可能なのであります。日興上人の『遺誡置文』にも、
  「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事」 (同一八八四)
とあり、御書を心肝に染めるとともに、極理を師伝することが最も大切である、と教示されています。師伝による極理とは言うまでもなく、唯授一人の法体血脈に基づく宗義の根本にほかなりません。この血脈を否定し、かつ、浅深不弁の低劣な自己の見解をあくまで正しいとする皮相的な「御書根本」説こそ、日興上人の御教示に反逆する邪見教の最たるもの、と言っておきます。
 第四に、池田と創価学会の血脈否定の謗言、そして派生団体にもかかわらず仏法弘通の中心であるとの思い上がりによる仏法破壊は、宗祖大慈大悲の三大秘法の功徳をことごとく消滅せしめています。故に、あらゆる御書の文証の功徳と成仏については、学会と学会員には一切、該当せず、かえってそのまま、御本仏よりの破折に当たっているのです。これは、全く仏法の中心たる血脈相伝に対する我意・我見による不信謗法があるからです。この根本の信解に狂うところ、いかなる御書の文証の徳も、彼等には存在しません。いわゆる「日蓮が弟子・檀那」は創価学会員ではなく、かえって悪しく敬うことにより、自他を亡ぼす仏法の醜敵となっているのです。
 さて、次に、以上の正義に基づいて、彼等の挙げた一々の文証について批判・検討をしてみましょう。


 ①『仏法の邪正は経文の明鏡による』(P.170) (※北条時宗への御状)
 (通解:仏法の邪正は仏の経文という明鏡=判断基準による。)
 ②『所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり』(P.502) (※如説修行抄)
 (通解:結局のところ、仏法を修行しようとするならば、他人の言葉を用いてはならない。ただ仰いで仏の金言を守らなければならない。)
 ③『経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり』(P.482)(※聖愚問答抄)
 (通解:経文に明らかである主張を用いなさい。文証が無いものは捨てなさい、ということである。)
 ④『菩薩・人師の言には依るべからず仏の御定を用いよ』(P.544)(※法華初心成仏抄)
 (通解:菩薩や途中の師匠の言葉を根本としてはならない。仏の定められたものを用いなさい。)
 これらの御本仏の御金言とは逆に、経文を無視したり、経文以外に正しい教えがあるというような主張をする者がいれば、「天魔・外道である!」と責めなければならないのです。
   (注・各引用文先頭の丸数字は、読者の便宜のため、文責者が挿入した。)

 学会の「御書根本」という主張の邪義は先にも述べましたが、その「御書根本」という主張によって引く彼等の「文証」なるものは、ほとんどが「スリ替え」の文証です。
 要するに、正しい文証とは、引く文とその言わんとする趣旨とが合致していなければなりません。合致していない文証を、スリ替えと言うのです。学会で引くこれらの文証は、それに当たっています。その理由について、以下に少々述べておきます。
 まず、御書のなかに佐前と佐後の別があることは、『三沢抄』に、
「又法門の事はさどの国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(御書一二〇四)
と示される如くであります。また、御書全篇にわたって権実、本迹、種脱の所対があって、ただ文の平面的な見解をなすべからざることは、涅槃経の法四依に、
  「義に依って語に依らざれ、智に依って識に依らざれ」
と説かれ、また、『開目抄』に、
「一念三千の法門は但法華経(権実相対)の本門寿量品(本迹相対)の文の底にしづめたり(種脱相対)」(御書五二六)
とある如くであります。創価学会の者どもは、ただ「文証、文証」「御書、御書」と騒ぎ立てますが、御書には所対によって浅深・軽重が存することを教えてあげましょう。
 大聖人は『法華取要抄』に、
  「所詮所対を見て経々の勝劣を弁ふべきなり」(同七三二)
と示され、日寛上人も『文底秘沈抄』に『文句記』を引いて、
  「諸の法相は所対に随って同じからず」(大石寺版六巻抄四七)
と述べられています。ただ、めくら滅法に御書を引いても、それが正しく当たっていなければ道理に反することになるのです。
 さらに、御書全体を総括して正しく拝する規準として、『一代聖教大意』の、
  「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書九二)
の御金言が存します。「御書、御書」と言っても、相伝の眼力をもって正しく拝さなければ、我意・我見に陥り、正義を没すること創価学会の如くなるのであります。なお、この御文については彼等の偏見があとに出てくるので、その所で充分に破折します(本書119※「第四項 血脈相伝による三大秘法の仏法を破壊し、池田大作を末法二人目の『法華経の行者』と崇める愚昧・妄想の珍説を嗤う」を参照)。
 さて、彼等の引文の①、「仏法の邪正」以下は『北条時宗への御状』であります。しかし、一概に「経文の明鏡」とはいっても、『開目抄』に、
  「経の中にも了義・不了義経を糾明して信受すべきこそ候ひぬれ」(御書五五八)
と仰せの如く、正しい経文の引き方、拝し方があり、了義、不了義のけじめをつけるべきなのです。創価学会の「御書根本」の語は、そのけじめを無視した言であります。
 引文の②、「所詮・仏法を修行せん」以下は『如説修行抄』の文でありますが、仏にも小大、権実、迹本、脱種の別があり、金言もまた、しかりです。彼等にはそれが判っているのでしょうか。この文の前後始終はすべて権実相対の趣旨で、この、
「人の言を用うべからず」(同六七一)
とは、権経をもって実経に背く謗法の人師の言を破されているのであります。日蓮正宗に対する文ではありません。筋違いの解釈をするなかれ、と言っておきます。
 引文の③、「経文に明ならんを用いよ」の文は『聖愚問答抄』の、これも明らかに念仏宗破折の権実相対の文であります。ここでは、
  「文証無からんをば捨てよ」(御書三八九)
と仰せられていますが、例えば、あらゆる経文には明らかに「仏法僧の三宝に知恩、報恩せよ」とあり、創価学会の如く僧を無視し、軽蔑するのは、これらの文証に背いています。僧を無視してよいなどという文証は、どこにもないのです。また、創価学会の如き在家が本尊を下附してよいという文証もありません。よって、この文の趣意はそっくり、大聖人様が池田と創価学会を指して破折された文なのであります。また、仏の金言としては、経文・御書を中心として、宗門七百年の化儀・化法の文証、明らかなること天日の如く、仏法の本義が存在しているのであります。
 引文の④、「菩薩・人師の言には依るべからず仏の御定を用いよ」は『法華初心成仏抄』の文でありますが、涅槃経の法の四依を説き給うなかの一文で、これも文の前後は全く権実相対の趣旨であります。その義からは、宗門の血脈とは全く次元の異なる筋違いの盲引です。もし、この文を依義判文すれば、大聖人の御書の正義は、古来の宗門の伝承法義に厳然たるものであり、創価宗も、かつてはそれを受けてきたのです。しかるに今、本仏日蓮大聖人のお定めに背き、他宗他門に擦り寄り、正系の血脈を否定するに至っています。つまり、この文の破折に当たるのは、まさに創価学会なのであります。
 さらに、これらの四文を挙げたあと、「経文を無視したり、経文以外に正しい教えありと主張する者は天魔・外道だ」との旨を言っていますが、経文云々と言ってその浅深の義に依らないことこそ、経文に背き、日蓮大聖人に違背する大邪義であります。御本仏の金言は、そのような浅薄・皮相のものではない、と破しておきます。


 『仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり』(P.181) (※行敏訴状御会通)
 (通解:仏の遺言には、私の経文の外に正法が有ると言うならばそれは天魔の説である、と言っている。)
 この文を引用すると「それは禅宗を破折しているだけだ」と、思いつきの愚かな言い逃れをする者がいますが、それでは大聖人が「禅宗の教外別伝はダメだが、我が正法では教外別伝は許されるのだ」とでも言われているというのでしょうか?それこそ大聖人に対する冒涜ではありませんか。そんな文証があったら出してみなさい!と攻めましょう。やはり禅寺に墓を建てた日顕の手下らしい発想ですが、大聖人はまさに日顕のような輩を天魔・外道だと破折されているのです。

 この「仏の遺言に云く」云々は『行敏訴状御会通』の文です。これはまさに、禅宗の教外別伝を破する文であります。それも涅槃経の取意の文です。「思いつき」でも「愚か」でもなく、まさしく禅宗破折の文そのもので、それ以外ではありません。
 すなわち、法門で言えば権実相対であり、この経の文をもって下種仏法に当てはめるなら、その明確な証拠を出しなさい。その論理もなく、飛び越して、「日顕のような輩を天魔・外道だ」云々と言うのは、まさしくスリ替えであり、無慙この上もない、卑怯・狡猾な論法であると駁しておきます。
 そもそも、この文を下種仏法に短絡すること自体、法門の段階・筋道も弁えぬ愚かな者どもではありませんか。


 『仏教には経論にはなれたるをば外道という』(P.152) (※蓮盛抄)
(通解:仏教では経文や論から離れた主張を外道と呼ぶ。)
 したがって、経文に明確に書かれていることに対して、歴代法主も含めて後世のどんなに立派そうな人がそれと異なることを言っても絶対に信じてはなりません。また多くの法華講員の方がそうだったのですが、大聖人の言葉を無視して途中の法主の言葉ばかりを主張する者は仏法者とは呼べないというのが大聖人のご断言なのです。

 これも『蓮盛抄』の文で、教外別伝の禅宗破折の文であります。臆面もなく、こういう所対の異なる文をもって歪曲の解釈を構え、宗祖以来の血脈に基づく歴代法主の御指南を否定する池田らの輩こそ、まさしく『聖愚問答抄』の、
  「正理を以て前とすべし」(御書四〇二)
との大聖人の教えに背く仏敵であります。また、彼等の言う「創価仏法」や、池田の吐き散らしている数々の雑言こそ、経論からも御書の正意からも離れた、外道そのものであります。
 日蓮正宗の教えは、歴代法主の言も含め、いささかも経論、ことに下種仏法の正意より離れていません。離れていると言うならば、具体的にその証拠を挙げてみよ、と言っておきます。
 大聖人出世の本懐たる本門三大秘法の法体を血脈相伝するのが日蓮正宗であり、そこから離れ、仏法に背くのが創価学会なのです。


 ①『仏の遺言に依法不依人と説かせて候へば経の如くに説かざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か』(P.9) (※唱法華題目抄)
 (通解:仏の遺言には、法に依って人に依らざれと説かれているので、経文のとおりに教えを説かない人をどんなに素晴らしい人であっても信用してはならない。)
 ②『設い天台の釈なりとも釈尊の金言に背き法華経に背かば全く之を用ゆ可からざるなり、依法不依人の故に』(P.529) (※立正観抄)
 (通解:たとえ天台の解釈であっても、釈尊の金言に背き法華経に背いていれば、まったくその言葉を用いてはならない。法に依って人に依らざれ、との原則があるのだから。)
 ③『唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり』(P.462) (※持妙法華問答抄)
 (通解:ただ途中の人の解釈ばかりを根本にして、仏の言葉によらなければ、どうして仏法という名前を付けることができようか。言語道断のことである。)
 ④『仏法の邪正をただす事・皆経文を先とせり、今当世の道俗・貴賎皆人をあがめて法を用いず心を師として経によらず』(P.1207) (※星名五郎太郎殿御返事)
 (通解:仏法の邪正をただすことは全て経文を根本とする。ところが今の世の出家も在家も、みんな法を説く人をあがめて法を用いない。心を師匠として経文に依らない。だから誤るのである。)
 ⑤『仏法は強ちに人の貴賤には依るべからず只経文を先とすべし身の賤しきをもつて其の法を軽んずる事なかれ』(P.481) (※聖愚問答抄)
 (通解:仏法は決して説く人の貴賤によってはならない。ただ経文を根本としなければならない。説く人の身が賤しいことを理由にその法を軽んじてはならない。)
 したがって、法華講員の方々は歴代法主の言葉を引用する場合は、併せて「経文(御書)にもこう書いている」と示さなければならないのです。御書を引用した主張に対して、歴代法主の言葉を引用して意見を主張する方は、経文に照らせば自らが道理に合っていないことを証明しているようなものです。
   (注・各引用文先頭の丸数字は、読者の便宜のため、文責者が挿入した。)

 彼等は右五文を引いて、歴代法主の言と御書の言とに相違があると言い、大聖人の御書の文証をもって証明すべしと主張しますが、彼等の引く文をよく見ると、これらはすべて、創価学会の言い分を証明する文証にはなっていないのです。
 また、彼等が日蓮正宗を攻撃せんとして引用する文も、全く的を射ていないのです。ここで引用している五文は、本宗への破折には当たらず、むしろ池田創価学会が自らの邪義を破折する文証なのです。
 まず、①の『唱法華題目抄』の「仏の遺言に依法不依人と説かせて候へば」以下の文は、依法不依人の明規を示された文でありますが、この「法」とは、外道に対すれば内道たる一代仏教であります。また、爾前権経に対すれば法華経であり、迹門に対すれば本門であり、文上に対すれば文底深秘の妙法蓮華経であります。さらに、宗教に対すれば宗旨の三大秘法であり、これは相伝によって万代に伝承される歴代上人伝承の法体であります。これはすべて、日蓮正宗にこそ正しく伝わるところです。
 これに対し、「人に依らざれ」の「人」とは、まさに創価仏法という外道義を提唱し、血脈を否定し、三大秘法の大義を変更せんとした池田大作であります。この池田を師とする創価学会は、まさにこの文の宗祖大聖人の破折に当たっているのです。
 次に②の『立正観抄』の「設い天台の釈なりとも」以下の文は、この文中の釈尊の金言について、その浅深に背いていること、法華経についてその文・義・意の大綱に反してこれを論ずることは、天台にあらずして、すべて御仏意に背く池田創価学会を破折された文であります。大聖人の金言の正意に合致するのが日蓮正宗であり、 これに背くのが、法に依らずして池田らの人に依る創価学会なのであります。
 次の③の『持妙法華問答抄』の「唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば」以下の文は、この仏説に依らざる「人師の釈」とは、権実相対に約せば弘法、法然、達磨、得一等であり、本迹相対に約せば天台の末流、種脱相対に約せば不相伝の日蓮門下、日蓮大聖人の三大秘法の化導に約せば、まさに池田大作の外道義であります。池田らの邪義・我見はまさにこの文に当たり、言語道断の次第です。故に、この文はそのまま、創価学会に返します。
 次に④の『星名五郎太郎殿御返事』の「仏法の邪正をただす事・皆経文を先とせり」以下の文を挙げていますが、この文中の、
  「当世の道俗・貴賤、皆人をあがめて法を用ひず」(御書三六四)
とは、まさに創価学会員が池田を崇めて、本門戒壇の大御本尊に参詣しないことを指摘されている文ではありませんか。また、
  「心を師として経によらず」(同)
の文も、自らの立場のみを正しいと執着する我見・偏見の心により、宗門七百年の道理、文証、現証に背いて、クルクル猫の目のように変わる創価学会の非を示される文であります。
 次の⑤の『聖愚問答抄』の「仏法は強ちに人の貴賤には依るべからず」以下の文も、要は経文の道理によって示される法の大切なるを述べ給う文であり、その法とは三大秘法の正しい伝承にあります。下種仏法の血脈と三宝を軽賤する池田や創価学会への強い誡めであります。『ニセ本尊』を敢えて配布する創価学会は、その法が全く謗法である故に、この、
  「経文を先とすべし」(同三八九)
との御文の正意には全然、当たらず、かえって背いているのであります。
 故に、仏法の正義を示す論証の方法は、経文、御書と歴代法主の言を一々に並べて引くという形式に囚われることが正しいのではなく、その文理が正しく、論旨の浅深・勝劣の趣意が明確であることが大切であります。権実相対に示された文をもって全く場違いの証明に当てることは、法理から言うも、許すべからざることであります。めくら滅法の愚論は通用しないことを、はっきり指摘しておきます。


 『問うて曰く経文は分明に候・天台・妙楽・伝教等の未来記はありや、答えて曰く汝が不審逆なり釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ経文に分明ならば釈を尋ぬべからず、さて釈の文が経文に相違せば経をすてて釈につくべきか如何、彼云く道理至極せり』(P.259) (※撰時抄)
 (通解:問うて言うには、経文には明確に書かれているが天台・妙楽・伝教等の言葉に未来について記したものはあるのだろうか。答えて言うには、あなたの不審は逆さまである。天台等の釈を引こうとした時こそ経文には書かれているのかと不審を持つものであって、経文に明確ならば釈の文章を質問してはならないのです。そうすると、釈の文章が経文と異なっている場合は、経文を捨てて釈につくべきでしょうか。彼が言うには、まさにそのとおりである。)
 当然のことですが、法主とか特別の人間に対する口伝さえも大聖人は明らかに否定され、経文という、文字によって誰にでも確認出来る教えのみを認めるのが正しい仏法の大原則だと御指南されているのです。

 この『撰時抄』の文は、経文と天台等の釈との重要性を比較せられ、経が釈より重いことを言われたものであります。しかし、これは大聖人が「釈を捨てよ」と仰せられた文ではありません。そう取るのは、まさしく切り文であります。質問者が釈の所在を尋ねたのに対し、釈より経が元であり、大切であると注意された所であります。故に、経が根本であることを寸示されたあと、天台、妙楽、伝教の釈を引かれて、重ねて経の趣意を述べられているではありませんか。したがって、大聖人は正しい釈を少しも否定されていないのであります。
 ところが、この文をそっくりそのまま悪用して「法主とか特別の人間に対する口伝さえも大聖人は明らかに否定され……」などと言っているのは、まさに趣意のスリ替えであり、

捏造の代物であります。
 日蓮正宗においては、法華経と宗祖大聖人、日興上人の教えを素直に拝して、その相伝に基づいて、歴代上人がそれぞれの時に応じて教えを垂れておられるのです。本宗における血脈相伝の大事は、天台、妙楽、伝教等の釈などとは全く異なったものなのです。
 また、仏法は難信難解であります。大智・舎利弗すら、なお信をもって入ると言います。しかるに、彼等の「経文という、文字によって誰にでも確認出来る教えのみを認めるのが正しい仏法の大原則だ」などの主張は、まさに仏法の深意を蔑ろにする摧尊入卑の偏見です。大聖人の仏法は従浅至深、そんな簡単なものではありません。そこに創価学会の仏法に対する浅識と軽視と不信が存するのであります。


 『仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ』(P.219) (※開目抄)
 (通解:仏の説を根本にして、口伝を信じてはならない。)
 『設い慈覚・伝教大師に値い奉りて習い伝えたりとも智証・義真和尚に口決せりといふとも伝教・義真の正文に相違せばあに不審を加えざらん』(P.307) (※報恩抄)
 (通解:たとえ慈覚が伝教大師に会って習い伝えたと言っても、智証が義真和尚から口決相承したと言っても、伝教・義真の残した正しい文証に相違するならばどうして不審を加えないでいられようか。)
 『師の口より伝うる人必ずあやまりなく後にたづね・あきらめたる人をろそかならば経文をすてて四依の菩薩につくべきか、父母の譲り状をすてて口伝を用ゆべきか、伝教大師の御釈無用なり慈覚大師の口伝真実なるべきか』(P.1258) (※妙一女御返事)
 (通解:師匠の口から伝えた人が必ず間違いがなく、後で調べて明らかにした人が愚かであれば、それを理由にして経文を捨て四依の菩薩につくべきであろうか。父母=仏からの譲り状を捨てて、口伝を用いるべきであろうか。伝教大師の解釈も無用である。慈覚大師の口伝が真実であろうか。仏の言葉を根本にしなければならないのである。)
 そして、世間や信徒たちから敬われている法主のような存在の誤りを指摘する時には、経文根本という原則に従って、自分勝手な主張ではなく御書に基づいて指摘しなければならないとも御指南されているのです。

 この創価学会のくどくどとして、ただ文証さえ引けばよいというような主張は、要するに、権実相対の範疇の道理、文証をもって大聖人の甚深の血脈口伝を同一に論じ、法義の所対を混乱する暴論・邪論であります。創価学会の引くこれらの大聖人のお言葉は、すべて権実相対に限っています。故に「経文根本という原則」が大聖人の御法門の如く言うけれども、大聖人の正意の御法門では、経文根本という執着を、かえって否定されていることを知らないのでしょうか。その証拠は、
  「文の底にしづめたり」(御書五二六)
との、いわゆる文底の御指南であります。すなわち、一代経の文に執われず、法華経を基準とせよ(「一念三千の法門は但法華経」権実相対)。迹門の文に執われず、本門を基準とせよ(「但本門寿量品」本迹相対)。本門の文に執われず、文底の意を拝せよ(「但文の底にしづめたり」種脱相対)と、明らかに仰せです。これでもなお「経文だ、経文だ」と言う者こそ、大聖人の御正意の法門に暗い謗法者であります。
 この創価学会で挙げる三文について言えば、初めの文は『開目抄』の権実雑乱の各人師に対する伝教の破折の文でありますが、これもその範囲の趣旨であります。また、次の『報恩抄』と『妙一女御返事』の文も、慈覚・智証と伝教大師・義真和尚、慈覚と伝教大師の、真言と法華の関係の正義を論じ給う権実の上の文であります。
 これに対し、例えば『法華行者値難事』の追伸に、
  「追って申す。竜樹・天親は共に千部の論師なり。但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまはず有り。」」(同七二〇)
と記され、また『曽谷入道殿許御書』にも、
 「問うて曰く、要法の経文如何。答へて曰く、口伝を以て之を伝へん」(同七八五)
等と仰せられているように、大聖人御自身、時に随い、機に応じて、本迹、種脱等の内容にかかる御指南を、口伝をもってなされていたことも事実であります。したがって、御自身の文底の義をこれらの文によって否定されたなどの莫迦げたことは、全く存在しません。
 そして、この文底の意より、大聖人の口伝、すなわち『御義口伝』等が述べられているではありませんか。かえって、大聖人が御自身の法門の口伝をもって正義を顕されていることが明らかです。この口伝法門のさらに精髄・肝要が、日興上人、日目上人、日道上人と続く、歴代上人への相伝であるのです。故に『御義口伝』に、
  「秘すべし秘すべし、唯授一人の相承なり、口外すべからず」(同一七九六)
と、明瞭にその趣意が記されているではないですか。しかも、これは学会が、相伝書の性格や意義も判らず、ただ、やみくもに排除しようとする、いわゆる後加文ではありません。れっきとした日興上人筆受の本文です。
 文上に対する文底、すなわち、下種仏法の肝要の口伝法門は、まさに『開目抄』という御書の御文に依るのであり、御書に基づくものであります。権実、本迹、種脱、宗旨の深奥の区別もつかぬ低劣な頭で当たらない文証をいくら挙げても、暗夜の礫の如しなのであります。このような輩に対し、大聖人は「不相伝の僻見」と断じられていることを知るべきです。


 『かくの如きの上人を豈に邪見の人と云うべきや、答えて云く此の事本より私の語を以て是を難ずべからず経文を先として是をただすべきなり』(P.1207) (※星名五郎太郎殿御返事)
 (通解:このような世間から敬われている上人をどうして邪見の人と言うことができようか。答えて言うには、このことは本来自分の勝手な言葉で非難してはならない。仏の経文を根本にしてこれを糾さなければならない。)
 これほど繰り返して大聖人が御指南されていることを守らない者は、まさに天魔であると断言しても良いでしょう。千葉県のある法華講員は、何の証拠も無く「御書以外にも真実が伝えられている。例えば南無妙法蓮華経の読み方は、日蓮宗では『なムみょうほうれんげきょう』だが、日蓮正宗では『なンみょうほうれんげきょう』だ。」と光久諦顕あたりが言い触らしていた言葉を鵜呑みにして主張していたのです。
 ところが、実際に邪宗日蓮宗の寺の経本を確認したところ、はっきりと「なンみょうほうれんげきょう」と書かれていたのです。要するにその方の主張はウソ八百だったのです。
 こうした例を見れば理解できるように、法義を正すための対話においては、相手の主張する内容は、経文も含めて証拠を一つ一つ確認する作業を絶対に行わなければなりません。また、証拠を示せない者は邪教なのだというのが大聖人の御指南なのです。

 この『星名五郎太郎殿御返事』の文の「上人」とは、弘法大師、善導和尚、法然上人を前文に挙げられ、それぞれ金剛薩、阿弥陀如来、大勢至菩薩の化身と崇められている人々が邪見なるや、との問いに対し、「経文を先として是をたゞすべきなり」(御書三六四)との指南であり、この「経文」とはなんの経文か知っているのでしょうか。これは、すべて権実相対の重であり、法華経の経文を先として糾すべし、という趣意なのです。また、御書中にその例が多いのは、当時の権実雑乱が数多い状況より当然であります。「これほど繰り返して大聖人が御指南……」などの浮言は、その本末の法門の所対を忘れた低見に過ぎません。この文の「上人」とは、まさしく真言、念仏等の祖師であり、日蓮正宗の歴代法主とは全然、異なっているにもかかわらず、この語をもって「上人」とは正宗の法主のことの如く重ね合わせ、なんら具体的事実を挙げず、無智の者をだまそうとする奸計は、許し難い卑劣者であります。
 以上の文証はすべて「スリ替え」であり、御文を冒涜する創価学会の邪論です。このように、彼等の出す文証はスリ替えや切り文が多いので気をつけましょう。
 次に、証拠の確認という例証に、唱題の「ナン」と「ナム」のことを挙げていますが、過去から現在に至るまで、日蓮宗で「ナムミョウ」と発音していることは、まぎれもない事実で、常識です。故に、当宗法華講員の言が正しいのであって、言うところの日蓮宗の経本などは、どこで手に入れたのか。インチキなニセの経本でありましょう。このようなことまで挙げて素人を欺こうとするウソつき集団が創価学会なのです。


 『若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり』(P.1355) (※祈祷抄)
 (通解:もし証拠が無ければ誰が信じることが出来ようか。このような歪曲したことばかりデッチ上げて言うから、そういう輩を邪教と呼ぶのだ。)

 したがって、前の唱題の件を受けて、わざわざ『祈祷抄』の文を引いているが、この文の、「僻事を構え、証拠もない誹謗を繰り返す邪教」とは、前述のウソとでっち上げの主張よりしても、創価学会が自ら、その僻事に当たることを暴露しているのです。


 なお、たまに「それは学会の主張か」と質問する法華講員もいますが、この論文で示していることは、与えて言えば「本来の日蓮正宗の教義」なのです。なぜなら日蓮正宗の憲法とも呼べる「宗規」に「宗綱(宗義の根本)」として定められていることに基づいた主張なのですから。

 これも、こずるい言葉でひとひねりして、初心の方をだまそうということでしょう。彼等は、彼等の論が「与えて言えば」本来の日蓮正宗の教義だと言いますが、それなら「奪って言えば」どうなのでしょう。まさにそれは、日蓮正宗から逸脱した邪教・創価学会の狂義であることを自ら暴露するような文の流れです。
 しかし、与えても奪っても、彼等創価学会の主張は、徹頭徹尾、日蓮正宗の宗綱に反逆していることが、次第に明らかとなります。日蓮正宗の「宗規」やそのなかの宗綱を正しく読む眼力もなく、誤った見解と、ただ誹謗心による狂学では、日蓮正宗宗綱に基づくなどの言い草は、おこがましい限りです。たわけた虚言であると評しておきます。


 宗規には、第1章に宗綱(宗義の根本)を定めていますが、その第5条第2項には、「経釈章疏の所依」という表現で教義として採用する文証を定めています。その中でも根本とする文証である「正依(=正しい依文)」としては、法華経開結とともに「宗祖遺文」(御書)が挙げられているのです。
 この「正依」について更に詳しく説明すれば、宗規では続けて「日興上人、日有上人、日寛上人遺文」が掲げられています。このことは、大聖人の御金言(御書)が根本で、その大聖人の言葉どおりに口伝を書き残し、法を伝えた日興上人(僧宝の中でも信仰の対象である「久遠元初の僧宝」と呼びます。詳細は日寛上人の六巻抄に明らかです。)の言葉も正依、また、徹底して御書に基づき依義判文して日蓮正宗の教学を体系化した日寛上人の言葉も化法の上で正依とするのです。おかしくなった法主の言葉を根本としてはならない、というのが正しい日蓮正宗の教義なのです。
 また、教義には「化法」と「化儀」とがあることを知らなければなりません。
 では「化儀」についてはどうかと言えば、日有上人の言葉が「化儀抄」としてまとめられているとおり、日有上人の遺文は化儀のうえでの正依とするのが本来の日蓮正宗の教義なのです。なお、日寛上人の「当家三衣抄」も化儀に関して定めた正依と言えます。
 したがって、後の法主が言った仏法の解釈が、御書やその他の正依に照らして正しくなければ、当然ですが決して信じてはならないというのが、大聖人の仏法の正しい考え方・教義なのです。

 ここでは、要するに「宗制宗規」を取り上げ、そして「正依、正依」と言って、それ以外の御法主の文献について「自分達に都合の悪いものは採らない」という予防の煙幕を張っておるのであります。つまり、「宗規」に「正依」として、法華経開結十巻、「宗祖遺文、日興上人、日有上人、日寛上人遺文」と記されていることをことさらに挙げ、相対的に他の歴代上人の御指南の重要性を薄めようとしている、あるいは否定しようとしているというのが、この底意であります。
 しかし、日有上人、日寛上人の遺文が正依であるということは、そのまま、他のすべての歴代上人の遺文も正依であるということなのであります。
 なぜなら、日有上人は宗開両祖のあと、三祖日目上人、そして四世、五世乃至、八世と伝えられた御相承を継いで第九世となられた方であります。また、同様、第二十六世日寛上人も、二十五世まで承継された御相承を受けて登座された方であります。けっして個々に「大聖人直結」とやらで存在された方ではないのであり、唯授一人・金口嫡々の血脈によって伝承されてきておる方なのです。
 したがって、日有上人、日寛上人が大聖人の教えを正しく敷衍して正依となるべき立派な著作を残されたのは、その間に宗祖以来の血脈を相伝された歴代の御先師方がおいでになったからであり、何も日有上人あるいは日寛上人が、御歴代上人を飛び越えて「大聖人直結」だ、などと言うことはないのです。
 しかし、彼等はその道理を無視して、日寛上人は「大聖人直結」だと言うのですが、不合理極まる言です。それだから、『創価学会の偽造本尊義を破す』において私が述べたように、「大聖人直結」の日寛上人がどうして、おまえらの謗法とする「五道冥官」の入った導師漫荼羅をお書きになっているんだ、ということにもなるわけです(創価学会の偽造本尊義を破す76頁を参照)。
 仏法の道理から言えば、法水を一器より一器に瀉す歴代上人がおいでになったからなのです。そうしてみると、日有上人、日寛上人をして、かくあらしめたところの血脈伝承の御先師方も、全く日有上人、日寛上人と異ならない、同等の方々であるということが、仏法の理の趣くところであります。
 「宗規」において、日興上人は別格として、御歴代上人中、日有上人と日寛上人のお二方の遺文のみを挙げてあるのは、一つには両上人の輝かしい御事跡、それから宗門において中興の二祖として尊崇されるお立場から、その代表としておられるわけであります。したがって、本質的な意義の上から、日寛上人以後の御歴代においても、このことは全く変わるものではありません。大聖人以来、唯授一人の血脈を師弟相対して相伝し、末法万年に正法を伝持・弘通する歴代上人の御指南ならびに著作はすべて、基本的に正依となることは当然です。
 その証拠に、また、「宗規」第十五条の五には、法主である管長の宗務として、
  「教義に関して正否を裁定する。」
と、唯授一人の血脈の意義において明確に規定しておるのであります。ただ、それを「宗制宗規」の「正依」の所においては、代表してこのお二方を挙げておるというだけのことなのであります。
 また、それについて、学会の汚い底意によるひっかけが存在しておるということも指摘する次第であります。

※『第一項  ②血脈相伝を否定し、下種仏法の正意から外れた「御書根本」の妄説を破折する』へつづく


第一項  ②血脈相伝を否定し、下種仏法の正意から外れた「御書根本」の妄説を破折する

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

 なお、日有上人の化儀抄は、日有上人自身の書かれた文献ではなく、「弟子の南条日住が其平素の御談を集記したるもの」(富士宗学要集第1巻P.79堀日亨上人)であり、日亨上人自らが「有師化儀抄註解」として、日有上人とは異なる化儀についての主張を種々述べられていることからも、化儀は時代に即応して変化することを前提として考えなければなりません。これについて、日顕宗が「化儀は化法と一体で変化しない」とか、根拠の無いことを言っていましたので、「化儀は変化する」という証拠を挙げましょう。
 化儀が時代によって変化する一つの証拠として、例えば朝晩の勤行は、五座三座ではなく、過去には六座一座であった記録が残っています。「化儀秘決」(富士宗学要集第1巻P.274,279)には、
 『夕勤は一座なること如何、答て云く開山上人已来、当門の法式なれば其子細に及ばず先例に任する処なり乃至暁の勤め六座の所表如何』(同P.274)
 『夕勤何ぞ一座に限るや、答ふ上代よりの儀式なり』(同P.279)
と、日興上人の時代から朝晩の勤行は五座三座ではなかったことが明確に記録されているのです。
 もう一つ、ご本尊についての化儀で、宗門の住職になる者が必ずマスターしなければならないマニュアルとして「日蓮正宗教師必携」という本があります。この中に、葬儀の際に棺や骨壺に入れて焼いたりしていたミニ本尊(導師本尊のコピー)である「未来本尊」の化儀について、変化した旨が記載されています。
 『古来末寺において、御形木の未来本尊を発行する習いがあったが、今は行わない。』(教師必携P.80)
 昔はこんな謗法まがいのことをやっていたけれど、学会が出現して五老僧の末裔のような化儀をやめさせた、という歴史を垣間みることが出来ます。
 日顕宗では勿体ぶって「化儀は化法と一体である」などと言って化儀は変化しないと主張していますが、この二つの証拠を見れば、根本のご本尊の化儀も、日々の修行の基本中の基本である勤行さえも変化しているのですから、後は押して知るべしです。要するに日顕宗の主張はウソ八百だということが明確ではありませんか。
 それでは、いよいよ日顕宗の主張の破折に入りましょう。

 次に、続いて色々言っていますが、これは『創価学会の偽造本尊義を破す』のなかで既に述べていることであります。すなわち、房州日我の『化儀秘決』を引いて「六座・一座」を論じている所(創価学会の偽造本尊義を破す 137※第八項 「一機一縁の御本尊の不特定多数への下付は宗門の得意技」の妄説を破折する を参照)とか、古来、末寺において御形木の未来本尊を発行する習いがあったが今は行わないという『教師必携』の件(同書74頁を参照)などですが、この彼等の邪悪にして根拠のない誹謗に対しては既に充分に破折し尽くしておりますから、この所では省略いたします。
 次に、前出の最後の文として「それでは、いよいよ日顕宗の主張の破折に入りましょう」とありますが、ここからが彼等が言う教義上の中心点をなしてくるのであります。
 それについて、体裁をちょっと説明しておきますと、今の「それでは、いよいよ日顕宗の主張の破折に入りましょう」という文のすぐ左に、ケイ線で囲んだ文があります。これは要するに、今まで色々な面で日蓮正宗の関係者との対論もあったりしたことから、彼等が日蓮正宗の主張、これを彼等は「日顕宗」と言うのですが、こちらの主張であると彼等が思い込むものを取り上げて、その主意を挙げてあるのであります。この部分はケイ線のなかのゴシック活字で表してあります。そのあと、それに対し、彼等一流の邪義の論法をもって、長ながとこれを反駁しておりますが、その部分はケイ線のなかの普通の活字で表し、さらに、それにアミカケをして判りやすくしてあります。この部分はずっとたくさん続きますが、ことごとく打ち破っていきたいと思います。
 さて、それでは創価学会の邪義邪説の破折に入りましょう。そのなかで、特に一番最初の所は、教義上、非常に重要な意味があります。

 

 ※『第二項 「総別の二義」をはき違え、中心・肝要である「法体の血脈」否定を企てる邪義・妄説を破折する』へつづく 


第二項 「総別の二義」をはき違え、中心・肝要である「法体の血脈」否定を企てる邪義・妄説を破折する

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

  第二項 「総別の二義」をはき違え、中心・肝要である「法体の血脈」否定を企てる邪義・妄説を破折する


 「総別の二義少しも相そむけば成仏思いもよらず輪廻生死のもとい
たらん」(P.1055)とあるとおり別しての血脈を相承した御法主上人に背いては成仏は出来ない。
   (文責者注・右文は創価学会が宗門の主張として挙げたもの)
 これこそ宗門の得意な切り文(経文のごく一部を引いて本来の意味と違うことを主張すること)ではありませんか!ちゃんと御書を開いて拝読しないから、このような邪義を主張するようになるのです。

 ここで彼等が言うことは、自分らの解釈こそ完全ではないにもかかわらず、一番最初の所で捨てぜりふを言うに過ぎません。ただ、この「総別の二義」の問題は非常に大事なことなのであり、彼等も最初にこれを挙げてきております。
 申すまでもなく、ここに挙げてある、
  「総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん」(御書一〇三九)
とは、建治二年八月二日の『曽谷殿御返事』の御文です。
 これについては、以前に私がこの御書を講じたとき、冒頭よりの南無妙法蓮華経の付嘱に関する一連の文を受けている「総別の二義」の文を、通途の法華経本門の神力、嘱累の二品における総付嘱、別付嘱の関係に当てて、一往、解釈したことがあります。
 これは、地涌・上行菩薩への付嘱が神力結要を中心としつつ、かたわら嘱累総付嘱にもわたっていることと、その嘱累一経付嘱を内容とする迹化付嘱をも含むことから、意味を広く見たのです。すなわち、この御書の総別の関係を、与えて法華経の別付、総付に一往当てはめ、さらに進んで、別付の法体を寿量文底、すなわち種脱のけじめより、本仏大聖人の三大秘法として拝すべき趣意で述べたのであります(大日蓮 昭和五十六年七月号・五十七年四月号に掲載)。
 しかし、『曽谷殿御返事』の冒頭より、南無妙法蓮華経の七字の上行結要のみを説き給う御文と、これを受けて「又是には総別の二義あり」に続く文義・文脈を子細に拝するとき、この文の正意は神力結要のみであって、嘱累にわたる意は全くありません。したがって、この御文の正義は、奪の意をもって神力結要の一筋に絞って総別の二義の立て分けを拝するところにあります。
 故に、以前の解釈は経文上の全体より見た与の義でありましたが、これより拝考するところは、御文のとおり、神力別付の上の授与と弘通の御指南を元とする奪の義としての立て分けであることを、まず申しておきます。
 彼等は「総別の二義」という問題について、血脈伝承との関係において、まず「本来の意味と違うことを主張しておる切り文だ」との旨を言っておるのです。しかし、きちんと御書を拝せば、総別の二義とは、仏法の本筋たる一切衆生の成仏教導と、血脈付法の相承・相伝の上からの意義があり、そのように拝すべきであります。ところが、彼等はこれを絶対に否定したいのであり、そういうところから、この文を最初に持ってきておると推察されます。


 (1)まず最初に、大聖人は日顕宗が引用した「総別の二義」の文のすぐ後に、
『但し師なりとも誤りある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道理によるべきなり』(P.1056) (※曽谷殿御返事)
  (通解:ただし、大聖人の後継の師(法主)であっても誤りがある者は捨てなければならない。また、捨てない義もある。その基準は、世間の道理や仏法の道理に背いているかどうかによるのである。)
と、たとえ大聖人の後継者であっても、誤りのある僧侶は捨てなければならない、その基準は世間や仏法の道理によらなければならないという、万人に納得出来る御指南をされています。したがって、世間の道理にも仏法の道理にも背いた淫乱法主などは絶対に捨てなければならないのです。
 そもそも「法主には絶対に間違いがない」などとオカルトじみた主張をする日顕宗の狂信者に対しては、大聖人も日興上人も日寛上人も、日蓮正宗の正依に従えば、一貫して「法主も過ちを犯す」「誤れる法主は捨てよ」と説かれていることを教えてあげましょう。日興上人は、
  『日蓮聖人に背き進らする師共をば捨てぬが還って失にて候と申す法門なり』(編年体御書P.1734) (※原殿御返事)
と、大聖人に反逆し広宣流布を破壊し、大御本尊を横領し私物化した魔王の化身のような坊主を捨てないは逆に罪になる、とまで御指南されており、日寛上人も「末法相応抄」において、法主も誤りを犯すことを厳しく指摘されているのです。
 『補処(=法主)と云うと雖も何ぞ必ずしも謬り無からん、例せば慈覚等の如し』(六巻抄P.155)
と極めて明確ではありませんか。

 ここで引いておるのは、今の『曽谷抄』の、
  「総別の二義少しも相そむけば云云」(御書一〇三九)
のあとにある御文であり、いわゆる、
  「但し師なりとも誤りある者をば捨つべし。又捨てざる義も有るべし。世間仏法の道理によるべきなり」(同)
という大事な御指南でありますが、これは当然なことであります。要は「世間仏法の道理」によって判断せよ、ということです。
 しかるに、大聖人に反逆しているのは池田大作と、その一味徒党であり、真の広布を破壊したのは御遺命に背いて一言の反省もしない池田大作ですから、彼等こそ、まず仏法の道理に背いているのです。また、彼等が世法の上から道理に背いている現証はあとで述べます。
 「大御本尊を横領し私物化した魔王の化身のような坊主」とはどういうことか、具体的に述べてみなさい。大御本尊の御内拝を、相伝という正しい筋道より平等に行っていたに

もかかわらず、「横領」「私物化」と言うのは、自分達が勝手に心の堰を作って参詣もしないでおきながら、他に責任をなすりつけるものです。宗門に「横領」「私物化」の所業など、どこにもありません。
 したがって、世間、仏法の道理に外れておるのは、いったい、だれでしょうか。だれでもなく、創価学会であることが明らかです。
 例えば「信教は自由ですから」などと言っておきながら、裏では「脱会した者が自殺するまで追いつめろ」というような指導をしていたように漏れ聞きます(本書131頁を参照)。あるいは、池田大作の自語相違のことも非常にたくさんあるし、金権体質のことその他、仏法を悪用しての様々な姿があります。さらには、社会からあらゆる面で鼻つまみになっているような狡猾で攻撃的、人格無視等、自分勝手な、大法聖化を汚す形が色々あります。
 要するに、大聖人様の仰せの道理に外れた者どもとして、大聖人より「悪しく敬う」と破折されるのは、池田創価学会であることが明らかであります。
 次に、「日寛上人も『末法相応抄』において法主も誤りを犯すことを厳しく指摘されている」などと言っていますが、このような文は全く存在しません。
 日寛上人は同抄に「補処」と言われ、「法主」とは言われていません。これは西山日代を指した言です。それをもじって「法主も誤りを犯す」など、本宗の法主のこととする彼
等の言い分は、実に理不尽です。彼等は「補処(=法主)」としていますが、他山の「補処」と本宗の「法主」の区別さえつかないとは、なんたる愚か者でしょう。

 同抄をはじめとして、すべての日寛上人の御指南に、本宗の血脈上の法主の誤りを指摘されている所なぞ、全くありません。このように知ったかぶりでウソ八百を言うのが創価狂学なのです。確証を挙げてみろと、からかってみましょう。


 これは第18世日精が犯した謗法を糾した日寛上人なればこその言葉です。日寛上人が猊座に就く前の研鑚の書をまとめた「抜書雑雑集」には日精の「日蓮聖人年譜」の文を引用されて、
 『精師且く他解を述ぶ。是れ則ち日辰の意なり。故に本意に非るなり云云』
と、「日精が述べているのは他の解釈即ち日辰の意見である。したがって本来の解釈ではない」旨を明確に示されています。
 なお、妙観講のようにこの「本意」を「本音」という意味に無理矢理解釈しようとすると、「故に」という接続詞が使われている日本語の意味が全く理解できなくなってしまうのです。
 「他宗の解釈即ち日辰の意見である。したがって本来の考え方ではない」という文章を、
「他宗の解釈即ち日辰の意見である。したがって日精の本音ではない」と読むのは、妙観講が日本語が理解できていない証拠です。その場合は「故に」とは言わずに、「則ち」ぐらいの表現にしておくものでしょう。
 「故に」という表現は、要法寺からスカウトされた日精にしか当てはまらない日本語であり、妙観講のお粗末な教学レベルがここでも暴露されています

 これは、「法主といえども誤りがある」ということを言いたい関係上、日精上人のことを挙げておるのであります。そして、特に「日精」と呼び捨てにしているように、学会の者どもは日精上人が非常に誤った法主であったとしたいために、このように述べておるのです。
 それから、次に引く『抜書雑雑集』というのは総本山に所蔵の文献ですけれども、今まで宗門の正規の筋道からは出版されておらず、ちょっと別のほうからこれが流れ漏れまして、それで印刷等に回っておる意味があります。これは日寛上人の抜き書きをまとめたものであります。
 そこに日精上人の『日蓮聖人年譜』という文献の一部が引いてあるのです。『年譜』は『富士宗学要集』の五巻に収められていますが、この文献を日寛上人が『抜書雑雑集』に言われておるとして、創価学会の者どもが引いておるのであります。
 このことについて、妙観講員と創価学会の者どもが論じ合ったことがあるらしいのです。それで妙観講のことまで出して、その解釈の不当を言っておる次第です。
 さて、その日精上人の『日蓮聖人年譜』を見ると、日精上人は、要法寺の日辰が『観心本尊抄』や『本尊問答抄』等について釈した文を『日蓮聖人年譜』のなかに引いておるのです。しかも、その日辰の義を日精上人は批判して、日辰の義が間違いだということを言っておられるのであります。すなわち、『日蓮聖人年譜』のなかに、
「其の上或抄に本尊問答抄を引き法華経を以て本尊と為す可しと此の相違はいかんが心得可きや、答へて云はく此の或る抄を見るに一偏にかける故に諸御書一貫せず」
 (富士宗学要集五巻一一八)
 つまり、答えとして「このある抄は偏った義において書いているから、この筋では大聖人の諸御書の意が一貫した正しいものとならない」という日精上人のお言葉があります。その「或る抄」というのは日辰の書であります。さらに続いて、
「其の上三箇の秘法の時は唯二箇となるの失あり今便に因みて略して之を出さん、其の中に……」(同)
と、日精上人が、日辰の義をちなみに略して引用しよう、と言われているのであります。そして、そのあと、
「初には本尊に二あり」(同)
とあるのは日辰の文であり、以下、ずっと日辰の義を挙げ、その最後の所で、日精上人はまたさらに、日辰の義をはっきり破しておられるのです。しかるに、日寛上人の『雑雑集』の文では、日精上人が日辰に与同したような考え方として表現されていると、学会の者どもは勘ぐるのです。
 ですから、ここで学会が言う所は、初めから日精上人の説ではなく、日辰の説であるにもかかわらず、日寛上人が日辰与同の説として指摘されたものと見間違いをし、さらに日精上人の悪口を言い、また、それに関する妙観講の解釈を間違いだとしています。しかし、日寛上人の『雑雑集』の文について、彼等学会こそ、日本語の意味に反する僻解をしているのです。
 すなわち、日寛上人の「精師且く他解を述ぶ。是れ則ち日辰の意なり。故に本意に非ざるなり」云々の文について、「且く」という意味を学会は全く無視しています。これは「一時」あるいは「かりそめに」という意であり、したがって、初めから「かりに述べている」のだから、この「故」という接続詞は、日精上人の本意ではないという意味に接続するのが当然です。学会はここでも、その解釈において「且く」の二字を無視して、切り文を犯しています。
 故に、この所は妙観講の「本音」の解釈をさらに一歩進めて、文字どおり「日精上人の本意ではない」と解すべきであります。その証拠として、一連の前後の文に日精上人は日辰の邪義を明らかに破していることを、日寛上人が当然、御覧になっているのですから、このように解すべきが正当なのです。


 そればかりか日亨上人などは、富士宗学要集第9巻で、
「殊に日精の如きは私権の利養せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破壊せるが、日俊已来此を撤廃して粛清に努めたるのみならず日寛の出現に依りて富士の宗義は一層の鮮明を加へたるを以て要山本末に不造不読の影響甚だしく通用に動揺を生ぜり」(富士宗学要集第9巻P.59)
 (通解:ことに18世日精は、私権を利用できる限りの末寺に仏像を立て、富士大石寺の古い化儀を破壊したが、23世日俊以来これらを取り除いて粛清に努めただけでなく、26世日寛上人の出現によって富士の教義は一層鮮やかさを加えたので、要法寺やその末寺には、仏像を立てず、法華経一巻を読まないでご本尊に題目をあげるという教義の影響が大きく、広く動揺を生んだ)
と、明確に日精という邪義の法主の存在を断定しています。これらのことを考え合わせれば、もしも法主には誤りが無い、ということを主張する法華講員の方がいるならば、事実としてどれかの法主(ここでは日精または日亨上人)が誤りを犯しているという結論になり、法主無謬という主張はウソ八百であるということが明らかとなるのです。狂信ではなく、事実に基づいて正邪を確認しなければ本当のことは見えないのです。

 この部分のあとの所で、彼等は「法主無謬という主張はウソ八百である」と結論づけていますが、このようなことは宗門のだれも言ったことがありません。ただ、彼等が勝手に言っているに過ぎない。だいいち、法主が無謬とか無謬でないとか、そんな子供のけんかみたいなことを言うのがおかしいのです。たとえ血脈相承を受けた法主であっても、思い違いや多少の間違いがあるようなことは、当たり前なのです。
 大聖人様にも『観心本尊抄』に「章」という余分な一字をお書きになっている所があります。同様に、それ以下の法主だからといって、そういう思い違いやちょっとした間違いぐらい、だれもないなどとは言っていません。「そんなことは、むしろおまえらのほうが勝手に作り上げていることだ」と、はっきり責めておきましょう。
 ただ、この所では、あまりにも創価学会は日精上人のことを悪く言っております。しかし、日精上人の造仏云々については宗史の全体観から、より大きな化儀の角度で見る必要があるとのです。
 だいたい要法寺は、上行、住本両寺のいにしえ、開基日尊師の臨終間近い時の造仏をはじめとし、それより日興上人の大綱たる大漫荼羅中心の信仰と造仏主義とが相混交し、加えて京都における他の日蓮門下との関係もあって、それらが僧俗に影響しつつ種々の形で伝わったのです。そこへ、さらに石山と要山との通用時期があり、十五世日昌上人より二十三世日啓上人までの九代の法主上人は、要法寺関係の寺院で出家得度し、のちに富士に来て、時の法主上人に師事したという経緯があります。その間、僧俗のみならず、高位の檀徒との複雑な関係も生じたなかで、一時、造仏が富士の末流に一分の陰を落としたことがあったと言われています。
 しかし、九代のうち、実に七代の方々が、若い学衆のうちに大石寺に登り、本宗の僧侶として当家の法義を修学されているのであり、そこに血脈法水への絶対の信が確立していることは明らかであります。
 つまり、大石寺門家の正しく、かつ、有り難いところは、血脈相承を中心とし、背骨とする信条・化儀が、一時の表面上の在り方とは別に一貫していることです。そこに一時的現象とは異なる、清純・不濁の正道がいかなるものにも汚されず、一貫・不断に存在する。それこそ、創価学会が不信・否定する、唯授一人の血脈相承の不思議な法体なのです。また、その一時の表面上の在り方のなかには、一片の記録による推断よりほかに、深い背景と事情が存したことを見るべきであります。
 ともあれ、日精上人がはっきりと造像家の日辰を、しかも本尊等の教義の解釈としての内容を破折しておられる以上、もう少し日精上人のことは、改めて考えなければならない意味があるのです。それを、日亨上人が言われたということだけをもって、いかにも口汚く日精上人を罵っているのが、この創価学会の者どもなのです。
 創価学会の者どもは、日寛上人と日亨上人をこれ以上ないほど持ち上げますが、日亨上人がどんなに学匠だからといっても、絶対に無謬ということでもないのです。
 今、日蓮正宗に『富士年表』というのがあります。これはずいぶん苦労したのです。日達上人の御指南で私どもが作りましたが、全部を作り上げるのに二十年ぐらいかかりました。そのときに、史料の上の難問は山積しており、今までの説を改めるべき色々な問題が出てくる。そうすると、やはり「日亨上人がこうおっしゃっているけれども、ここは違うから、このようにしよう」ということで訂正した箇所もありました。何もそれは日亨上人の研究を否定するということでなく、新たな資料の発見などによって当初の考えから、より真実に近づいた結論が出たからです。また、膨大な資料をお一人で見る場合に、やはりどうしても色々な意味でちょっとした思い違いなどもありうるのです。
 要するに、宗門は何も、始めからしまいまで「法主に誤謬は絶対にない」などとは言ってないのです。彼等が勝手に誣告しているだけであって、私をも含め、ちょっとした間違い、思い違いぐらいはどこにでもあり、それは正直に訂正すればよいのです。ただし、血脈の法体に関する根本的な意義については、けっして誤りはありません。
 要は、こういうことを言って御先師を誹謗する、創価学会の邪悪な体質こそ問題なのです。彼等は「信心、信心」と口にはしながら、日蓮正宗の本当の信心の筋道に狂っているから、こういうことを色々と言い立てるのである、と言っておきます。


 (2)次に、教義に基づいて破折すれば、この文は「法華経の付属には総別の二義がある」という意味であって、明らかに文上の付属についての総別を述べているのです。属累品における迹化の菩薩も含めた弟子への滅後流布の付属を総付属と言い、神力品における本化の菩薩への付属を別付属と呼ぶことに照らせば、この文には法主への付属などという意味は一切ありません。

 ここの所で、彼等は「総別の二義」という『曽谷抄』の御文について「明らかに文上の付属についての総別を述べている」と述べ、法主への付嘱などの意味は一切ない、と言っています。文上の付嘱ということの上からは、嘱累品における付嘱を総付嘱、神力品における本化の菩薩への付嘱を別付嘱と言うことは古来の通義です。そして『曾谷抄』の総別の二義は、この総別の付嘱のことで文上の意味だ、と彼等学会は言っているわけです。
 これは私も一往のこととして、かつて述べたことがありますが、やはりもう一歩深く入るべきなのです。『曽谷抄』の御文を初めから拝読してみましょう。

夫法華経第一方便品に云はく「諸仏の智慧は甚深無量なり」云云。釈に云はく「境淵無辺なる故に甚深と云ひ、智水測り難き故に無量と云ふ」と。抑此の経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや。されば境と云ふは万法の体を云ひ、智と云ふは自体顕照の姿を云ふなり。而るに境の淵ほとりなくふかき時は、智慧の水ながるゝ事つゝがなし。此の境智合しぬれば即身成仏するなり。法華以前の経は、境智各別にして、而も権教方便なるが故に成仏せず。今法華経にして境智一如なる間、開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり。此の内証に声聞・辟支仏更に及ばざるところを、次下に「一切声聞辟支仏所不能知」と説かるゝなり。此の境智の二法は何物ぞ。但南無妙法蓮華経の五字なり。此の五字を地涌の大士を召し出だして結要付嘱せしめ給ふ。是を本化付嘱の法門とは云ふなり。(御書一〇三八)

 ここの所は、方便品の「諸仏智慧 甚深無量」の「甚深」と「無量」という文義において、仏の境智の深義があるということを仰せになり、その境智をずっと釈され、結局、この境智の二法とはなんであるかといえば、迹門の妙法を本門に摂し、さらに、文底三大秘法惣在の妙法に摂せられた意において「但南無妙法蓮華経の五字なり」と御指南であります。したがって、「此の境智の二法は何物ぞ」以下は、全く本門結要の法体を示し給うのです。
 故に、続いて「此の五字を地涌の大士を召し出だして結要付嘱せしめ給ふ。是を本化付嘱の法門とは云ふなり」と仰せですが、ここの所で、方便品の文より境智を示されるのは、その本体を結要として表すためであるから、総付嘱という意味は本来ありません。法華一経も神力別付のなかに含まれた上行菩薩への付嘱なのです。故に、迹化とその付嘱のことは何もおっしゃってないのです。この境智の二法は南無妙法蓮華経であり、それを地涌の菩薩を召し出だして結要付嘱せしむという、神力品の付嘱だけをここにきちんとおっしゃって、付嘱の法体をまずお示しになられています。

然るに上行菩薩等末法の始めの五百年に出生して、此の境智の二法たる五字を弘めさせ給ふべしと見えたり。経文赫々たり、明々たり。誰か是を論ぜん。日蓮は其の人にも非ず、又御使ひにもあらざれども、先づ序分にあらあら弘め候なり。 (同一〇三九)

 ここの所は、上行菩薩の末法出現を仰せになります。そして、その所弘の法とは南無妙法蓮華経であるとして、これが経文において明らかである、とお示しであります。この五字は、当然、前の結要付嘱を受けた御文体です。
 けだし、非常に深い大聖人の大仏法の上において、この尊い結要の仏法を弘めるということ、しかも上行菩薩が出現するということ、これについて「日蓮がその人である」ということはなかなか仰せになれない大事なのであり、それをはっきりおっしゃっておるのは、弘安五年の『三大秘法抄』なのです。したがって、まだこの建治二年の『曽谷殿御返事』のところでは、直ちに日蓮なりと仰せになっていないのですが、しかし、元意は当然、そこにあるのです。
 ですから、「日蓮は其の人にも非ず、又御使ひ」でもないけれども、序分に既に弘めておる、と仰せです。これはそのまま、日蓮が上行であるということが、このあとの御文との関連で明らかであります。すなわち、上行の末法五百年の出現をここで仰せになっておるのです。

既に上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて、末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給ふ。是智慧の義なり。釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん。(同)

 さて、この所からが特に大切な御文です。まず第一に、この文についても、「上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて、末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給ふ」という文は、釈尊から上行が結要付嘱を受けるということと、次にそれによって今度は、上行菩薩が末法悪世の功徳の枯れた、善根のない衆生に流れかよわせて、これを救わんがために弘通あそばされるという、二筋が拝せられるのです。
 この文の趣意も、やはり南無妙法蓮華経の弘通にあります。ほかのものではありません。だから、彼等が言うような、文上の付嘱による迹化の菩薩の弘通の範囲や、嘱累品の付嘱の意味は、一往、与えた解釈であって、奪って言えば、始めからしまいまで、迹化の付嘱のことは述べられていないのです。それを明確にしておくことが大事だと思います。
 次に「是智慧の義なり」の文に続き「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ」とありますが、これはどういうことでしょう。前の文は、釈迦如来から妙法を受けて、それを末法の一切衆生に上行が弘め給うということです。そしてこの文は、もう一度「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ」とあります。したがって、前文とこの文が一体の関係にあるということが拝せられます。その意味での師匠から弟子への付嘱の意義を、ここではおっしゃっているのです。もちろん、これは結要付嘱です。
 そして、次に「然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む」とあります。この文こそ、これまでずっと述べられてきたところの中心になるわけです。いわゆる日蓮が出世して発迹顕本し、久遠元初の自受用身としての日蓮が出現して、そしてこの南無妙法蓮華経の法門を弘めるというのは、一つには総じて日本国乃至、世界一切衆生に弘通するという意味であります。それと同時に、「此の法門を弘む」ということのなかに、大聖人一期の御化導、そして日興上人との御関係におけるところの御文を拝するに、
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」(御書一六七五)
という、切り離せない意義があるのです。したがって、ここの言葉はその両意を含んでおるわけです。
 それはなぜかと言うと、その前の所に「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ」とあるのは、別しての師匠から弟子への付嘱、また、能化より能化への付嘱であります。それからさらに、一行前の「上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて、末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給ふ」の文は、能化より所化への弘通、すなわち、末法の一切衆生に総じて上行菩薩が弘通するという表現です。これと同様に、今度は日蓮として、末法出現の大聖人様の寿量文底の法体、三大秘法の御法門の上において、別して大聖人より日興上人へ、師と弟子でありながら能化より能化への付嘱が存し、さらに総じてその大法が血脈相伝の上に、能化より所化へ、すなわち、大聖人の仏法を日本国の一切衆生に弘通し給うという意味があります。
 これが、次の文に「又是には総別の二義あり」とある御文からひるがえって拝考した正意なのです。すなわち、右文の「是には」とは、疑いもなく、前に述べられている文を受けている語です。したがって、その総別の二義とは、明らかに前から述べられておる結要付嘱と末法弘通の意義についてのことであります。
 そして、次の「総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず」ということは、日蓮大聖人様の御法門においては、別して大聖人から日興上人、日目上人と師弟の付嘱があり、その上において、いわゆる大聖人様の本仏の御慈悲と、それからその妙法の法体が付嘱の上において、総じて一切衆生に伝わっていくのであり、そこに「総別の二義」をきちんと立て分けられておるのであります。その上から言っても、「この文には法主への付属などという意味は一切ありません」などという創価学会の主張は、総別の主意が結要の弘通にあることを見失った迷見です。
 総別の二義のなかの、別の上において日蓮大聖人の末法弘通の血脈の法体相承と、総の上から一切衆生へ妙法を弘通して一切を救うという意味との両面があります。しかも、それが「日蓮又日本国にして此の法門を弘む」という文において一つになっておるわけで、そう拝すべきことを申しておきます。
 このあと、同抄には大海の水の譬えを説かれております。そして師についての誡めの所へ入り、
  「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし」(御書一〇三九)
と仰せられます。これはもちろん、一往上行菩薩、再往本仏大聖人様こそ、末法の衆生が智慧の水を受けた根源の師であり、そこに大聖人を拝し、大聖人を根本として、その血脈の上から一切の人々に、その時その時の相伝の法主が取り次いでいくわけであります。
 ですから、そこのところを忘れてよそへ心を移すということは、今、創価学会がやっているようなことであり、これこそ、この御指南の破折に当たる、ということを申しておきます。


 また、一歩譲って文上と文底の意味だと解釈しようとしても、日寛上人はそのようには言われていないのです。
 法華経の総別の付属とは、正依に基づけば文上に限られており、釈尊から迹化の菩薩への総付属と上行菩薩への別付属です。文底から読んだ場合については、日寛上人が、久遠実成の釈尊から上行菩薩への授与が一の重であり、久遠元初の自受用報身如来の垂迹(日寛上人は「再誕」とする)である大聖人から一切衆生への授与が二の重である、という二重の授与の意味があると示されているのです。日寛上人は、
  『この授与に二重の授与あり。一には釈尊より上行菩薩に授与す、今の御文言はこれ一の重なり。二には上行菩薩より一切衆生に授与するなり。本尊抄に云く「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華教の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」文』
   (文段集 妙法曼陀羅供養見聞筆記P.743、富士宗学要集第10巻P.82)
 この対比は総別と呼ばないのです。更に一歩深く、外用浅近と内証深秘という立て分けまで理解しなければ正しい大聖人の仏法ではないのです。それを日顕宗は何でも僧俗の差別に結び付けたくて「総別総別」とつぶやいていますが、日寛上人は「当流行事抄」にも、
  『血脈抄に云く『本地自受用身の・垂迹上行菩薩の・再誕日蓮』等云云、再誕の言、上の二句に冠す、若し外用に拠らば今の所問の如く上行の再誕日蓮なり、若し内証に拠らば自受用身の再誕日蓮なり』(六巻抄P.209)
と示されているとおりで、内証深秘の辺では自受用身の再誕日蓮大聖人と一切衆生の関係しかないのです。

 ここが、彼等が一往、一生懸命考えて、なんとか総別の二義の上からの大聖人の御法が血脈相承の上において存することを否定しようという所であります。
 しかし、やはり都合が悪いと見えて、一往、文上の解釈というところに総別という語を当てたいのです。
 法華経の付嘱に総付嘱と別付嘱とがあり、それを「総別の二義」という大聖人の御文言に当てはめるのですが、奪って言えば、すなわち正確には、総付の内容はこの文に初めから説かれていないことは指摘したとおりです。それで、やはり文上だけだと不都合かと考えたのでしょう。そこで、次にずる賢く、今度は「文底から読んだ場合については」と、一往、文上と言いつつ、また、文底を立てておるわけです。そして今度は、それを日寛上人の『妙法曼陀羅供養抄談義』を引いて、今読んだ所の立て分けにおいて示しておるわけであります。それはつまり、
  「此授与に二重の授与あり、一には釈尊より上行菩薩に授与す、今の御文言是れ一重なり、二には上行菩薩より一切衆生に授与するなり、本尊抄に云く、地涌云云」 (富士宗学要集一〇巻八二)
と日寛上人が示されたところです。
 しかし、この趣意は『曽谷殿御返事』の御文の、
  「既に上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて、末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給ふ。是れ智慧の義なり。釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ」 (御書一〇三九)
の御文とそっくり同じです。学会はこれについて挙げて、「この対比は総別と呼ばない」のだと、自分らで勝手に言っております。しかし、上行菩薩のお立場からの弘通は、釈尊より上行への授与と並ぶ外用の意義であり、文底は末法出現の日蓮大聖人の弘通にあるのです。故に、これらの文に、能化より能化への授与と、能化より一切衆生大衆への弘通との違いがあることは明らかです。そこに、大聖人様が『曽谷抄』では「総別の二義」と言われている所以があるのです。
 つまり、以上の文について、しかも、それをまとめた、
  「日蓮又日本国にして此の法門を弘む」(同)
との文を挙げられて、
  「是には総別の二義あり」(同)
と言われる以上は、大聖人様のお言葉において、能化一人へと一切大衆へとの二筋について「総別の二義」と言われておることが、文義脈絡して、正当かつ妥当の解釈であります。
 そして、学会で「更に一歩深く、外用浅近と内証深秘」などと、先に文上だと言っておきながら、今度は文底の解釈の如く言っておりますが、結局、一往、右のように能化のほうの部分だけに論議を寄せるかと思うと、今度はまた、ずるく一番最後の文で「日蓮大聖人と一切衆生の関係しかないのです」と、また一切衆生を持ってくる。こういう勝手次第のずるさが彼等の教学の在り方である、ということを指摘しておきます。
 結局、学会が「外用浅近と内証深秘という立て分けまで理解しなければ……」などと言うのは、弘通の大綱、特にこれが二筋あるにもかかわらず、すなわち、『曽谷抄』の御文も、また日寛上人の『妙法曼荼羅供養抄談義』のなかで、一には「釈尊より上行菩薩」、二には「上行菩薩より一切衆生」ということで、前のほうは師匠から弟子へ、能化より能化への付嘱、後のほうは受けた能化から所化の一切衆生への弘通という、この二筋がある御文を、勝手に能化のほうだけに限っているわけです。
 次に「血脈抄に云く『本地自受用身云云』」という日寛上人の御文によって、外用は上行の再誕、内証によれば自受用身の再誕ということを挙げますが、これは宗門の極秘の大事な御文として「内証深秘の辺では自受用身の再誕日蓮大聖人」だと言うところまでなら当然です。ところが、このあとすぐに「一切衆生の関係」を言うこと、これが彼等特有のずるさなのです。
 この『血脈抄』の御文のどこに「一切衆生」という所がありますか。どこにもないではありませんか。しかるに、この文意へすぐ「一切衆生」を自分で勝手にくっつけておいて、だから一切衆生と大聖人だと言って血脈を否定する、実に卑怯・下劣な論議であります。


 これを簡単に整理すれば以下のとおりです。
  ○文上(総付属):釈尊     ↓(相承)↓ 迹化の菩薩
     (別付属):釈尊     ↓(相承)↓ 本化の菩薩(上行菩薩)
  ◎文底(一の重):久遠実成の釈尊          ↓(授与)↓ 上行菩薩
     (二の重):垂迹上行菩薩の再誕日蓮(外用浅近)↓(授与)↓ 一切衆生
     本地自受用身の再誕日蓮(内証深秘)↓(授与)↓ 一切衆生

 これが、彼等の今まで言ってきたところからの結論として、このようにきちんとなるということを見せて、自分達の考え方が正しいという言い方をしたいのでしょう。けれども、この文上のほうは、この『曽谷抄』の冒頭より総別の二義の御文のしまいまで、文上からの総付嘱という意味はないのです。その総付嘱という意味は全部、別付嘱を説かれているなかに含まれる。だから、こんな文上などというのは余計なことなのです。
 それから、彼等の主張する文底の意味はおかしいのです。『曽谷抄』の御文で、末法弘通ということにおいて、久遠実成の釈尊から上行菩薩、上行菩薩から一切衆生ということが並んで説かれているでしょう。これは文上の意義であります。さらに、文底の大法出現の意をもって説かれた、
  「然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む」(御書一〇三九)
の御文の所に、附文・元意、隠文顕義等の深い意味がある。その上からして、久遠元初の自受用身の再誕・日蓮大聖人から、日興、日目、日道と続く、縦の線において別しての相承があり、さらに、その血脈相承を中心とする全体において、一切衆生に対して総じての弘通の姿があるのです。したがって、学会の図表は誤りです。
 彼等の言っていることのすべてに「一切衆生」というのがあり、大聖人と一切衆生とが直結であるとしたいのです。その底意において、こういう形を作っておるけれども、これは全く『曽谷抄』の「総別の二義」を正しく拝せず、聖意に背いておるという所以であります。


 日寛上人は文底の授与の立て分けを総別とは言われていません。御本仏と一切衆生の関係だけの、差別を超えた普遍的な教えなのです。これらの御文のどこに法主や坊主と信徒の差別があるというのでしょうか?
 宗門の主張するような、「別しての血脈」(法体相承)は法主のみに、「総じての血脈」(法門相承)は門流檀信徒に流れていると言う主張(56世日応が邪宗日蓮宗との法論「弁惑観心抄」の中で創唱した)は、日蓮正宗の宗規にも定められていないばかりか、「正依」とされる御書、日興上人・日寛上人の言葉のどこにも残されていません。要するに、正しい日蓮正宗の教義でなく、人師の己義であることが明らかなのです。

 まず、「日寛上人は文底の授与の立て分けを総別とは言われていません」と言いますけれども、日寛上人は『妙法曼陀羅供養事』の当面の御文についてのみの判釈であり、だからこそ、上行より一切衆生への授与は、上行出現を特に主意として示される『観心本尊抄』を引かれているのです。そこに、おのずから一往文上の総別の二意があるのであって、それを否定されてはいません。しかるに、否定されているかの如く言う、学会の視野の狭いことを指摘しておきます。
 大聖人は『曽谷抄』において、能化より能化へ、また、能化より一切衆生へと、文上および文底の両意における「総別の二義」の授与・弘通があることを仰せられているのです。したがって、彼等が言う「御本仏と一切衆生の関係だけ」だ、などということは、全く我見・邪意の考え方であるのです。
 宗内で、彼等が言う如き、信徒を軽蔑するとか、信徒と僧侶とを立て分けて僧侶のほうが偉いとか、そんなことを言わんとするのではなく、言うはずもないのです。本当に大聖人の大慈大悲が、血脈の仏法として、日興上人、日目上人に、厳として伝わっておるということです。そこに総別の二義が明らかに拝せられるのであります。
 次に彼等は、総別の血脈について、日応上人が創唱したとか、日蓮正宗の「宗規」にも定められていないとか、また、正依とする日興上人、日寛上人の言葉にも残されていないなどの、たわけた言を吐いています。
 まず、「宗規」については、まさにきちんと血脈の伝承が述べられていることは後の所で、その文を挙げて破折します(本書154頁を参照)。
 次に、日寛上人は『文底秘沈抄』に、
「答う、延山は本是れ清浄の霊地なり、所以に蓮師に此の言有り。而るに宗祖滅度の後地頭の謗法重畳せり、興師諌暁すれども止めず、蓮祖の御心寧ろ謗法の処に住せんや、故に彼の山を去り遂に富山に移り、倍先師の旧業を継ぎ更に一塵の汚れ有ること無し。而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや、是の故に御心今は富山に住したもうなり」(大石寺版六巻抄六五)
と示されており、また『寿量品談義』には、
「所詮宗祖大聖人の教の如く少も添ず削らず修行する則んば、本因の釈迦菩薩一迷先達して如百迷盲に教へ玉ふ如くぞと信じ奉る可き也。具に此の本因本果の法門を尋んと欲ば、今廿四代伝て大石の精舎にあり金口の御相承切紙相承其の外種々の御相伝有るげにありと云云」(富士宗学要集一〇巻二五四)
と示されています。この「一器の水を一器に移す」の文と「今廿四代伝て大石の精舎にあり金口の御相承」云々の文を、創価学会の者どもはなんと見るや。富士大石寺における血脈の伝承、まことに明らかではありませんか。これは日寛上人の、つまり彼等の言う「正依」の文です。どこが「人師の己義」なのか、聞きたいものです。
 このような、おまえ達学会員の血脈否定の邪義は、まさに日寛上人が否定あそばすところなのです。
 さらに、日寛上人の『抜書雑雑集』のなかで、左京日教という人が書いた『類聚翰集私』という文書を挙げられておるのですが、そこに、その文をそのまま日寛上人の筆で実際に写されておるのです。そのなかに、
「末法の本尊は日蓮聖人にて御座すなり。然るに日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ぎ其の次ぎに仏法相属して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り(乃至)当代の聖人の信心無二の所にこそ生身の御本尊なれ」(富士宗学要集二巻三〇九)
という文を実際に書いておられます。これは当然のことであるが故に書き写されているのです。それにもかかわらず、彼等は「正依の文献として日寛上人はそんなことを言っていない」などと莫迦なことを言っておりますが、本当の深さを知らない、まさしく浅識誹謗の者どもである、と決しておきましょう。


 『若し外用の浅近に望めば上行の再誕日蓮なり、若し内証の深秘に望まば本地自受用身の再誕日蓮なり、故に知りぬ本地は自受用身・垂迹は上行菩薩・顕本は日蓮なり』(六巻抄P.87)
 日顕が「御本仏と不二の尊体」などという文証もない邪義を主張しようとする輩に対しては、この「文底秘沈抄」の御文に照らして「日顕の本地は何だ!垂迹は何だ!顕本は何だ!」と攻めましょう。
 また、日顕宗の主張は、「生死一大事血脈抄」に示された血脈に関する大聖人の教えからも明らかに逸脱していますし、日寛上人の主張する「本地自受用身=御本仏」から「一切衆生」への授与こそが正しい日蓮正宗の教義なのです。

 また、ここで「一切衆生」が出てきました。日本国の一切衆生を救うということの上からの大聖人様の御一生のお振る舞いであったわけですから、そんなことは今さら、創価宗に教えてもらう必要もありません。けれども、大聖人の御弘通の筋道において、血脈の相伝が厳然として存するのであります。
 その上からの内証は御本仏大聖人に通じ、そこへ一切衆生を導くのが法主の立場であります。したがって、「日顕が『御本仏と不二の尊体』」だと、直ちに言うことはありません。
 それからまた、『生死一大事血脈抄』を引いていますけれども、この『生死一大事血脈抄』の御文は、いわゆる「信心の血脈」ということを中心に置いて最蓮房に示された御指南なのです。いわゆる一般の法門として、御本尊を信じて成仏するという趣旨をお示しになっていらっしゃるのです。すなわち、最蓮房が御本尊様の御当体によって得道する「信心の血脈」を示されているということであります。この文が血脈相伝を否定するものでは絶対にありません。法門の筋が違うのであり、御書の御文のそれぞれの趣意に暗い彼等の無智が明らかです。


 『久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり』(P.1337) (※生死一大事血脈抄)
  (通解:久遠実成の釈尊(文底では大聖人)と皆成仏道の法華経(文底では御本尊)と我等衆生との三つが全く差別が無いと自覚して南無妙法蓮華経と唱える所を生死一大事の血脈と言うのである。このことはただ日蓮の弟子檀那等の肝要である。法華経を持つとはこのことを言うのである。)
  『相構えて相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ』(P.1338) ※生死一大事血脈抄)
  (通解:相構えて相構えて強盛の大信力を出して命がけの題目をあげて祈念しなさい。生死一大事の血脈はこれ以外に全く求めてはならない。)
  『我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり』(観心本尊抄文段 文段集P.548)
  『「三道即三徳」とは人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖聖人と顕るるなり』 (当体義抄文段 同P.683)
 この平等の法を正しく伝えるべき代々の法主が権威主義に陥って、仏法を外道の法に堕さしめたのです。だから法華経の行者たちは、堕落の法主を捨てたのです。

 ここで彼等の引く御文はすべて、総じての法門相承の文証であって、これらは別しての血脈相承の意義のなかに、当然、入っておるのです。その別しての唯授一人血脈相承は、厳として日興上人以下、歴代上人への相伝に存するのであります。しかして、その総別二義中の別に含まれる総の大綱から、一機一縁の対告衆に応じて下種本門を受持する上の悟りと大きな功徳を述べられておるのであります。
 「此れより外に全く求むることなかれ」とは「生死一大事の血脈」と限られており、万年伝承の下種仏法全体の血脈を否定された文ではありません。したがって、何もこの御文があるからといって、日興上人以下の血脈相承がないなどということは全くありえないのであり、そこに彼等の文証の不当な所以が存します。
 次に「この平等の法を正しく伝えるべき代々の法主が権威主義に陥って……」と言っております。ここに「代々の法主」とありますが、日興上人以下、歴代の法主がすべて権威主義に陥って、仏法を外道に落とした、と言うのです。なんという、無恥忘恩極まる者どもでしょう。
 「代々の法主」のなかには当然、日寛上人も入るはずです。それなら、なぜ勝手に日寛上人書写の本尊に改変するのでしょうか。やみくもに血脈相承を否定しようとするから、このような論理の破綻をきたすのです。
 これは、彼等が常々、「日顕宗を破す」と言いながら、その実、日蓮正宗歴代上人、七百年の仏法すべてを破壊せんとする底意を露呈したものであります。
 また、自分らを法華経の行者にあてがっている、どうしようもないうぬぼれは、のちに、その所で破すことにします(本書124・148頁を参照)。

 

※『第三項 『本因妙抄』の後加文を「人師の説」と下し、唯授一人の血脈相承を否定する邪推・短見の妄説を破折する』へつづく


第三項 『本因妙抄』の後加文を「人師の説」と下し、唯授一人の血脈相承を否定する邪推・短見の妄説を破折する

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

 

 第三項 『本因妙抄』の後加文を「人師の説」と下し、唯授一人の血脈相承を否定する邪推・短見の妄説を破折する



  「この血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり」(P.877)とあるとおり、代々の法主にしか血脈は流れていない。
   (文責者注・右文は創価学会が宗門の主張を挙げたもの)

 この文は、「本因妙抄」に後世の者が追加した後加文であることも知らないのでしょうか!
 そもそも「本因妙抄」はすでに原本が無く、堀日亨上人が富士宗学要集で説明しているとおり、残されているのは5世日時上人、要法寺日辰、房州日我等の古写本が存在しているだけなのですが、写本の元となったものを明示した正確さでは日辰のものが最も正しい内容とされています。
 このため、残存する写本には、後世の人間によりいろいろな後加文が追加されており、宗門がよく引用するこの文も、後世の人間によって追加された箇所なのです。宗門には、大聖人の言葉ではなくこのような後加文を根本とする方が本当に多いのです。もしも故意ならば魔の家来と呼ぶべきではないでしょうか。

 この『本因妙抄』の文は後加文であり、創価学会では後加文を根本とするのは「魔の家来」だと言っております。
 日蓮正宗において唯授一人の血脈伝承の存することは、単に文証のみにとどまらず、道理、現証の三証を具えており、この後加文を根本とするとか、この文に依ってのみ血脈相承の証文としたことは、かつてないはずであります。故に「このような後加文を根本とする方が本当に多い」とは、創価学会の者どもの眼の眩んだ見方であります。
 さて、創価学会の者どもは、後加文は間違いであり、依るべからずと考えているようですが、それなら汝らの使う御書に、この文がなぜ載せてあるのか。これを残された日亨上人のお考えは、実に深いところにあるのです。
 この文についても、後加文としての結果ばかりを見て、その文が加えられた因縁を考えようとしないのであり、そこに顛倒の迷見が生じているのです。
 この文は、たしかに日亨上人が『本因妙抄』の後加文と推定されている部分であります。では、なぜこの部分が後加されたかと言えば、まず唯授一人の血脈が厳然と存したにもかかわらず、昔も現今の創価学会の如き、相承を軽視、蔑視、否定せんとする謗法者が現れたため、門中を正しく導き、また、その邪見を破折するために必要だったからであります。ということは、元々、唯授一人の血脈が存在したことを傍証する文であるのです。偏見をもって文義を曲げるなかれ、と言っておきます。


 この宗門の邪義を明らかにする方法は二つあります。
(1)一つは、どこの誰が書いたかも確認できない後加文ばかりを根本とせずに、大聖人の言葉を根本にしなさい!ということです。そもそも御書根本とは、御書全集を根本とするということではなく、大聖人の言葉を根本とするのだ、ということが日顕宗には分かっていないようです。日顕宗が血脈について出す文証は大聖人の経文の外にある後加文ばかりなので、ここでも「天魔、外道!」と攻めましょう。

 次に、彼等は「宗門の邪義を明らかにする方法が二つ」あり、その一つは、後加文などを根本とせず、大聖人の言葉を根本にしなさい、としています。しかし、この大聖人様のお言葉は、五段の相対、教相・観心、宗教・宗旨、対告別異等々があり、だれにでも判るなどという浅薄なものではありません。
  「大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし」(御書九〇六)
との仰せを、少しはその石頭にたたき込みなさい。簡単に「大聖人の言葉を根本にしなさい」などの言こそ、思い上がりもはなはだしい創価学会の独断であり、摧尊入卑のエセ法門なのです。すなわち、法の四依の第二に「義に依って語に依らざれ」とある誡めに当たるものであります。
 この「義」について、大聖人の御書の拝し方を言えば、創価学会の如く、自分らの邪想による凡夫成仏、創価学会成仏、創価学会の法華経行者勝ち取りなどを論証するために一々の文をやみくもに羅列する方法は、大聖人の大仏法の構格を破壊し、虚仮にするものであります。つまり、御書は大聖人御化導の全体のなかで分々の主意が存し、それぞれの義が分かれているのであります。それらの全体を総合した大綱の上から、それぞれの御書の義を拝し、それぞれの文に及ぶべきであります。
 具体的に言えば、佐前、佐後の別も存し、佐後においても、『開目抄』は、文底の一念三千を示し給うとともに、それを実現する仏の振る舞いを法華経の行者として顕され、主師親三徳に結帰されます。故に、主意は末法下種の人本尊の顕示であります。故に、これを振る舞い給う日蓮の御名が、文中に三十四カ所を数えるのでありますが、地涌上行の末法出現の文は全く示されておりません。
 これに対し『観心本尊抄』は、末法衆生即身成仏の観心と、その対境たる法本尊を示し給うため、結要付嘱の妙法蓮華経の御本尊と、これを弘宣する地涌千界の末法出現を各所に説かれている反面、文中に日蓮の御名は一カ所も示されていないのです。同じ本尊についても、人と法の主意の違いにより、このような文の相違があるのです。
 また、『法華取要抄』では、上行所伝の妙法蓮華経の弘通の法体として、開・観の両抄にはいまだ示されていない、三大秘法の名目を示されるところに主意があります。そのほか、『立正安国論』『撰時抄』『報恩抄』『本尊問答抄』等々、各御書には御化導の時機と対告衆による、随自、随他の法門の主意は皆、異なっているのです。故に、まずその主意に随って文の当分の意味を拝さなければ、根本的に判断が狂うのであります。
 その上から、池田大作がかつて創価仏法を標榜するのに悪用し、今また、創価学会で盛んに引く『生死一大事血脈抄』は、その題号からも解るとおり、生死のため、臨終正念のための教示がその主意をなすものであり、そこに広宣流布への意義も含ませられているのであります。
 故に、法華の血脈相承と言われるのも、妙法と地涌上行・日蓮に対する信心の血脈が主意をなしているのです。全文を通じ、また、特に末文の、
「相構へ相構へて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈此より外に全く求むることなかれ」(同五一五)
の文は、まさしく生死に関し、臨終の心得としての法華経・日蓮への信心の血脈であります。そこにこの抄の当分の血脈の主意があるのですが、これは血脈の全分ではないのです。
 血脈の全分を言えば、『安国論』の附文に対する元意、『本尊抄』の下種本尊に関する法体と法門の血脈、『法華取要抄』『報恩抄』『三大秘法抄』に説かれる三大秘法に関する甚深の血脈等を含むのであり、言うまでもなく、大御本尊を根幹とする法体の血脈、唯授一人金口嫡々の血脈、法門の血脈、信心の血脈がそれであります。『生死一大事血脈抄』の「血脈」は、このなかの信心の血脈を主意とする御書であり、彼等の引く諸文の意もその範囲に属するのであります。
 創価学会の者どもは、この抄の「血脈」の語を見て、鬼の首でも捕ったように「これ以外に血脈なし」などと力み返りますが、大聖人の御化導の全体と各御書の主意・正意に暗く、部分に執われて全体を知らず、あるいは部分をもって全体を律しようとする我意・悪義であります。わけも判らず「文証、文証」と、ねずみの如くあちこち、つつき回すのを「ねずみ法門」と言うのです。少しは恥を知りなさい。
 以上が法四依の「義によって語に依らざれ」の誡めによる御書の拝し方の一つであります。
 さらに二つには、文と義には、文の表面になくとも義が具わっている場合、反対に文の趣意はそれぞれに明らかでも、さらに深い義までは具していない場合等、様々であります。故に、あくまで義に依るべきであって、表面だけの文や語に執われないことが大切であります。創価学会が言う「文証、文証」とは、莫迦の一つ覚えの如く、切り文やスリ替えであり、この誡めに当たっているのであります。


 同じ「本因妙抄」の本文、すなわち「大聖人の相伝」をしっかり読んでみてください。
  『信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり、是を天真独朗の即身成仏と名く』(P.872) (※本因妙抄)
と、代々の法主など一切関係無く、余念の無い題目で成仏することが断言されているではありませんか!

 したがって、次に『本因妙抄』の「信心強盛にして」云々の文を引いて、「代々の法主など一切関係なく、余念の無い題目で成仏することが断言されている」と、本当に無知忘恩の言を吐いております。これも切り文であり、その前に「今日熟脱の本迹二門を迹と為し、久遠名字の本門を本と為す」の文があるのです。
 「久遠名字の本門」とは末法出現の本仏大聖人の弘宣し給う三大秘法であり、末法一切衆生の信心の対境たる、この三大秘法の法体と金口の血脈は、日蓮、日興、日目以下、厳として歴代上人の伝承するところであります。故に、そこを外れて即身成仏の利益は全くありません。したがって、この文は創価学会の主張とは逆なのであります。


 正しい血脈について論じる場合は、まず御書に基づいて大聖人が血脈をどのように示されているかを確認しなければなりません。前述の「生死一大事血脈抄」には、血脈について繰り返し述べられています。
 『久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり』(P.1337) (※生死一大事血脈抄)
  (通解:久遠実成の釈尊(文底では大聖人)と皆成仏道の法華経(文底では御本尊)と我等衆生との三つが全く差別が無いと自覚して南無妙法蓮華経と唱える所を生死一大事の血脈と言うのである。このことはただ日蓮の弟子檀那等の肝要である。法華経を持つとはこのことを言うのである。)
  「久遠実成の釈尊」とは文底では久遠元初の自受用報身如来である日蓮大聖人、「皆成仏道の法華経」とは三大秘法の南無妙法蓮華経即ち御本尊であると言うことで、これらと我々とが全く差別がないと自覚して題目を唱える所を生死一大事の血脈と呼ぶ、という御指南です。また、これ以外にも御書には我々の生命自体が妙法蓮華経の当体即ち御本尊であると繰り返し示されています。
  『所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり』(P.512)
  (通解:結論すれば、妙法蓮華経の当体とは法華経を信じる大聖人の弟子檀那等の父母が生んだこの肉体のことを言うのである。)
  『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』(P.1244)
  (通解:この御本尊を全く他に求めてはならない。ただ我々衆生が法華経を持って題目を唱える胸中の肉団に存在するのである。)
 つまり、法華経を信じて題目を唱える自分自身の生命自体が究極の存在であると確信することがまず第一に重要だと言うことです。
  (文責者注・右のゴシック文字の文については、あとの所(本書103)で破折されている。)
 次に大聖人は、血脈相承とは、三世の生死において法華経から離れないことであると御指南されています。生涯不退転どころか、三世永遠の不退転を誓うことが血脈相承であるとも拝することができます。
  『過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり』(P.1337) (※生死一大事血脈抄)
  (通解:過去・現在・未来の生死、即ち三世永遠の生死において法華経を離れないことを法華の血脈相承と言うのである。)
 更に、生死一大事血脈抄では、自分自身のみでなく、異体同心の団結の重要性も示され、この広宣流布への集い(創価学会)こそが「総じて」の大聖人の弘通の「所詮=結論」であると断言されておられるのです。
 『総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり』(P.1337) (※生死一大事血脈抄)
  (通解:総じて日蓮の弟子檀那等が自他彼此の差別の心なく、水魚の思いを持って異体同心の団結の心で題目を唱える所を生死一大事の血脈と言うのである。しかも今大聖人が弘通する所の結論はこれである。)
 そして、本抄の最後には、強盛の大信力を出して題目を唱える実践以外に、他の何かに血脈を求めてはならない、とまで断言されています。
 『相構えて相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ』(P.1338) (※生死一大事血脈抄)
 (通解:相構えて相構えて強盛の大信力を出して命がけの題目をあげて祈念しなさい。生死一大事の血脈はこれ以外に全く求めてはならない。)

 次に『生死一大事血脈抄』の「久遠実成の釈尊(中略)法華経を持つとは是なり」の文をまず引いていますが、これを直後の解説で「久遠実成の釈尊(文底では大聖人)と皆成仏道の法華経(文底では御本尊)」としているところから、この文は「文証、文証」と言う文そのもの、いわゆる「御書根本で、一切、文に依るべし」という主張を自ら捨て、右カッコ内の説明を加えざるをえないことから、大聖人のお言葉でも、表面上の表現による限り、正義を拝せないことを認めているようです。 とすれば、信仰の根本である血脈相伝の法体を忘れて、始めから終わりまで、経文だ、御書根本だ、文が大事だと言う愚かな矛盾が少しは解るはずなのです。また、創価学会は、文底から拝せば釈尊とは大聖人であるなどとは、だれから教わったのですか。まさしく歴代上人が承継あそばされた血脈相伝の御指南によってこそ、御書の文義が正しく拝し得られたのではありませんか。これを「大聖人直結」と言うところに、我見、増上慢、無知忘恩の背逆があるのです。
 また、さらにこの御文のあと、二つ置いて、次に同抄の三文を挙げております。これらの文はすべて、正しい本尊を持って余念なく信心修行する、成仏の功徳を説き給う信心の血脈を仰せなのであります。特にこれらの文には、法体の血脈がないなどとは、いささかも仰せられていないではないか。また、それを否定する御文では絶対にないのであります。
 また、二番目の文の、
  「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく云云」(御書五一四)
の文は、広宣流布の要諦が、日蓮大聖人の弟子である僧侶と、檀那すなわち信徒との異体同心にあることの御指南であり、大聖人御入滅後は、『一期弘法抄』等に定められる如く、日興上人以下、代々の血脈の法主上人の指南を根本とした僧俗の団結こそが、広宣流布を可能とする大事であることは言うまでもありません。
 それを、創価学会は「この広宣流布への集い(創価学会)こそが『総じて』の大聖人の弘通の『所詮=結論』であると断言されておられるのです」などと、臆面もなく述べています。『四恩抄』に、
  「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」(御書二六八)
と仰せの如く、下種三宝を宗祖以来の血脈によって正しく伝える宗団は日蓮正宗以外にありません。かつて御先師日達上人から、学会の謗法に対して、
  「日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります」(大日蓮 昭和四九年八月号二〇)
と教導されたことを忘れたのか、と言ってやりましょう。
 尊い和合僧団たる日蓮正宗を破壊しようとするような魔の醜団が、広宣流布の集いであるわけがないのです。
 そしてまた、最後の、
  「生死一大事の血脈此より外に全く求むることなかれ」(御書五一五)
の文について、先にも述べましたが、さらにくどく創価学会は「本抄の最後には、強盛の大信力を出して題目を唱える実践以外に、他の何かに血脈を求めてはならない、とまで断言されています」と、臆面もないスリ替えの結論を出しております。
 これは間違いもはなはだしい愚論であり、正しい見方は、最蓮房が大聖人に生死一大事の血脈についてお尋ねしたのに対して、その御返答が全体の主意をなしているのであります。故に、大聖人は「生死一大事の血脈」と限定されて、それは、
  「強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ」(同)
と言われたのであり、それよりほかに生死一大事の血脈を求めるなかれ、と言われるのであります。
 これは明らかに、信心の上の生死に関する血脈と限定されております。故に、三大秘法の深意、法体金口について、大聖人、日興上人、日目上人、歴代上人の血脈を否定された語では絶対にないのです。むしろ、この文に執われて宗門の血脈を否定する創価学会の妄説を、経文に「義に依って語に依らざれ」と破されているのであります。少しはスリ替えをやめ、まともに考えなさい、と言っておきます。


 『所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり』(P.512) (※当体義抄)
(通解:結論すれば、妙法蓮華経の当体とは法華経を信じる大聖人の弟子檀那等の父母が生んだこの肉体のことを言うのである。)
  『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』(P.1244) (※日女御前御返事)
  (通解:この御本尊を全く他に求めてはならない。ただ我々衆生が法華経を持って題目を唱える胸中の肉団に存在するのである。)
 つまり、法華経を信じて題目を唱える自分自身の生命自体が究極の存在であると確信することがまず第一に重要だと言うことです。

 少し前に戻って、先程、便宜上、述べなかった所でありますが、彼等の引く文証に『当体義抄』と『日女御前御返事』があります。
 『当体義抄』の、
  「所詮妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり」(御書六九四)
の文、また、『日女抄』の、
  「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ(乃至)胸中の肉団におはします」 (同一三八八)
の文は、共に御本尊の勝能と妙法の信行によって、その当体蓮華の肉身が御本尊の仏身となるとの意を示されたものであります。
 およそ法華経は、迹門において既に十界皆成の理を示します。本門においては、体外より一重入った体内の顕本の意義より一切衆生即身成仏が、大聖人の御法門による在世釈尊の化導に明らかであります。まして、宗祖大聖人の真実の本門において正しく信行する者の功徳が当体即身成仏にあることは、日蓮正宗僧俗の確信するところであります。これも総別二義のうちの総の法門であり、いまさら創価学会が喋々する必要はないのです。
 ただし、創価学会が言う信心成仏には、煩悩充満の凡夫が大聖人の大慈大悲によって己心に御本尊を顕させていただけるという有り難さ、報恩感謝の念が欠けています。故に、この文の如く、「自分自身の生命自体が究極の存在であると確信する事がまず第一に重要だ」などと、特に創価学会の会員の如き、貪瞋癡三毒充満の底下の者どもが究極だと確信するという思い上がり、憍慢が明らかであります。これも池田の直伝でありましょう。
 さらに大切なことは、創価学会がいかに大聖人の当体蓮華、即身成仏、衆生本仏等の文を挙げて誇ろうとも、いささかもその大聖人の御金言にそぐわず、功徳どころか罪障を積むばかりである理由を指摘しておきます。
 あらゆる大聖人の受持成仏、衆生成仏の金言が実証されるには、重要な一大基本が存します。すなわち、正しい御本尊への信行でなければならないことであります。日寛上人も『文底秘沈抄』に、

「夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざる則んば智行も亦随って正しからず」(大石寺版六巻抄四二)
と言われる如く、仏法の筋道に背いた『ニセ本尊』では一切の功徳はなく、堕地獄の現証を顕すのであります。故に、いかに大聖人の有り難い文証を挙げても、一切、空虚となることを知るべきであります。


 この大聖人の言葉を根本とするならば、血脈が何やら秘密めいた儀式によって伝えられるものではないことは明らかです。

 故に、創価学会の言う「血脈が何やら秘密めいた儀式によって伝えられるものではない」などの謗言は、およそ日蓮、日興の血脈、歴代相伝の内容も知らない者の戯言です。創価学会の創始者・牧口氏の口癖だった「認識しないで評価するな」という言葉に反し、いわゆる不認識にして評価するの愚を犯すものであります。また、相伝の深意については、こののちに、さらに述べる所があるとだけ申しておきます(本書204を参照)。


 次に、化儀に関する日蓮正宗の「正依」である日有上人の「化儀抄」と、堀日亨上人の「有師化儀抄註解」とを参考にしながら、血脈について更に考察してみましょう。「化儀抄」には血脈について、
『信と云ひ血脈と法水と云ふ事は同じ事なり乃至高祖(大聖人)已来の信心を違へざる時は我等が色心妙法蓮華経の色心なり』
と示され、これについて解説した日亨上人も、日有上人も、大聖人の生死一大事血脈抄と全く同じことを言われているのです。
 血脈と信心と法水とはほぼ同義語であって、信行者の信心によって「御本仏から」(決して法主からではない)法水を受け、その法水が血液のように流れることを血脈と呼び、血脈相承とは信心によってこの御本仏から受けた法水を伝え通わせることだと、極めて分かり易く説明されています。決して法主だけにしか流れない得体の知れない代物ではないのです。逆に、仏意に背く時には、血脈相承を受ける資格が喪失する、と言われていることからも、広宣流布を放棄し、切ったつもりが逆に法華経の行者たちから見捨てられた宗門には、すでに血脈を受ける資格も能力も無くなっているのです。

 ところが、日有上人も日亨上人も、創価学会の主張と反対のことを常に言われております。今、一文を挙げますと、『化儀抄註解』に、
「再往末法に於いて義釈を為さば・此仏と云ふも此菩薩と云ふも・共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云へば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり」 (富士宗学要集一巻一一七)
とあります。「宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり」の語を、いったい、なんと見るのでしょう。創価学会の者どもの解説とは全く逆ではありませんか。切り文によって都合の悪い文を無視するのが、創価学会のインチキな狂学であります。
 さて、ここでは、彼等が挙げた『化儀抄』の本文の「乃至」という省略の所が問題なのです。その隠した所も含めて挙げてみますと、
「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違ふべからざるなり、違はずんば血脈法水は違ふべからず、夫とは世間には親の心を違へず、出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違へざる時は我れ等が色心妙法蓮花経の色心なり、此の信心が違ふ時は我れ等が色心凡夫なり云云」(同一ー六四)
とあります。疑いもなく、仏法においては「師匠」すなわち、手続の師匠たる歴代法主の中を違えないことが、「高祖已来」今日までの信心を違えないことであり、「血脈法水の直しき姿」と言われています。その文を抜いてしまって、「決して法主からではない」などの言は、大ウソのスリ替えであり、鉄面皮な切り文であります。
 さらに言えば、続く「高祖已来の信心」の「已来」とは、前文の「師匠の心中を違えざる」を明らかに受けているから、この文の全体は、大聖人以来の法脈を受けた当代の法主、いわゆる師匠との信心を違えざるとき、我等、妙法蓮華経の色心の真実の血脈となる、との意であります。したがって、彼等の解釈は真実の文義と全く逆のごまかしなのです。このようなたぶらかしを言う創価学会は、まさに恥を知らない、人間以下の存在であります。
 また、「仏意に背く時には、血脈相承を受ける資格が喪失する、と言われている」などと言っていますが、仏意に背き、血脈の真義に背いているのはまさしく創価学会だ、と言われている文なのです。いわゆる創価学会の引文の形は、常に本旨と全く反対の、真っ赤なニセものであるのです。


 『信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ有様は・人体に血液の循環する如きなるものに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにあらず・攪乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし乃至不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違ふ時は乃至即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり』
(通解:信心と血脈と法水とは要するに同じことになるのである。信心は信じ行じている者にある。この信心によって御本仏から法水を受ける。その法水が御本仏から信者に通う様子は、人体に血液が循環するようなもので、信心によって法水を伝え通わせるところを血脈相承というので、信心は永遠に動揺させてはならない、撹乱させるべきではない。もしも信が動揺すれば、その法水は絶えて来なくなってしまう。不善不浄の邪心迷信になって大聖人の心に背く時には、即身成仏の血脈を受ける資格は消滅するのである。)
 これらの内容は、大聖人が生死一大事血脈抄で示された血脈と全く同じ概念であり、日顕宗の主張とは全く異なっていることからも、まるで日顕の出現を見越していたかのような、日顕宗の血脈論に対する素晴らしい破折ではありませんか。

 ここでは、さらに日亨上人が『化儀抄』を註解した文を引いて、信とは御本仏からの法水で、けっして法主からではないとして、相変わらず血脈相承とは御本仏との法水が血液のように衆生へ流れることだ、と言っています。
 右に彼等が挙げた『化儀抄註解』の文の「不善不浄」の前の「乃至」も、相変わらずひどい切り文です。しかし、この文はあとにも重ねて切り文で出してくるので、その箇所(本書172頁を参照)で徹底的に破折しますが、しかも、これを頬被りして、これらの内容が『生死一大事血脈抄』で示された「血脈」と全く同じ概念であるなどとごまかすのです。これも御書や法門書の趣意を弁えない愚論であるとともに、狡猾なスリ替えであります。
 再説しますが、『生死一大事血脈抄』は生死一大事臨終正念のために必要な、御本尊・大聖人への唱題に関する信心の血脈を示されたものであり、また、『化儀抄』や『註解』の文は、唯授一人の血脈相承によって現当二世に法水を相伝する上における信心の血脈であります。
 文の趣意は明らかに異なるもので、創価学会の切り文によるごまかし・捏造以外のなにものでもありません。


 (2)正義を顕わす二つめの方法は、この後加文が述べている「血脈」と「本尊」とは、「伝法の書」について述べたものであって、何か特殊な儀式等を指したものではないということです。それを例によって「切り文」して、勝手な己義を構えているのだということが、直前の文章も含めて正確に示せば全て明らかになります。
『又日文字の口伝・産湯の口決二箇は両大師の玄旨にあつ、本尊七箇の口伝は七面の決に之を表す、教化弘経の七箇の伝は弘通者の大要なり、又此の血脈并に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり』
(P.877) (※本因妙抄)
 ここで「日文字の口伝・産湯の口決」とは、相承書の一つである「産湯相承事」に示されている内容であり、「本尊七箇の口伝」とは相承書の一つである「御本尊七箇相承」のことを指しています。これらを天台・伝教両大師の十重顕観や七面七重の口訣等と対比させたうえで、この「血脈抄」と「本尊抄」の大事は「日蓮嫡嫡座主伝法の書」であるということを示し、「塔中相承の禀承唯授一人の血脈」とは、実は「文書」であることを明示しているのです。
 何か秘密めかしたものがあるかと思っていたら、ちゃんと読めばすでに誰もが承知の、堀日亨上人が富士宗学要集第1巻で全国に公開してしまった相承書の内容について述べている箇所なのです。この文章を根拠にして法主にだけ流れる血脈とはいったい何なのでしょう?具体的に説明を求めて、答えられた法華講員の方はまだ誰一人いません。もしも特別な口伝があるなどと嘘を言ったら、即座に「天魔・外道だ!」と先述の御書で破折するべきです。他にも経文があります。

 次に(2)として、後加文が述べている血脈と本尊とは「『伝法の書』について述べたものであって、何か特殊な儀式等を指したものではない」として「切り文」云々と述べておりますが、この創価学会の誤りを一言をもって指摘すれば、文上にのみ執われたもので、文底の意味を知ろうとも信じようともしないことであります。宗祖大聖人は『開目抄』に、
  「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(御書五二六)
と仰せられ、文上と文底のけじめを示されております。
 いわゆる、この「又日文字」以下の文は、日亨上人の仰せの如く、後加の文として、このように表現されたのであります。しかし、「此の血脈」の文には、初めから法門の相承として存在したものや、あるいは時代によって唯授一人の相伝のなかより、やや一般的に法門相承に展開した、相伝血脈と言うべきものがあるほかに、全く公開せられざる、人法の血脈相伝が具わり、含まれているのであります。
 創価学会は軽忽浅識の判断をもって、塔中相承の稟承、唯授一人の血脈とは文書であり、日亨上人によって『富士宗学要集』第一巻に公開されているものがすべてであるとしています。しかし、それは彼等の無知による独断であり、日亨上人も御生前中、僧侶への講義等のなかで、全く非公開の法を内容とする相伝があることを述べられておりました。
 これについては、創価学会が、さらにあとのほうで、『本尊抄文段』の文を引いて、やはり公開されたもの以外に相承などはないと言っている所があるので、その所でさらに破折することにします(本書204を参照)。
 池田らによって邪見に執し、あらゆる切り文を用いて歴代上人の正意をねじ曲げるような邪智の創価学会の者どもに、相伝仏法の在り方が正しく信解できるはずはないのであります。
 御書を根本として、それに基づいて血脈相承がないものと定義する理由は全くないのです。ただ、
  「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書九二)
の、附文に対する元意のところに甚深の仏意相伝の主体があり、日寛上人はこの相伝について「蓮、興、目」云々と仰せであり、金口嫡々の相伝が今日に至っていることを述べておきます。


 『仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ』(P.219) (※開目抄)
  (通解:仏の説を根本にして、口伝を信じてはならない。)
日顕宗は途中の人師・論師の言葉ばかりを根本にするから仏法でない邪義になってしまうのです。

 次に、またぞろ、『開目抄』の、
  「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」(御書五五八)
の文を引いて、この破折を日蓮正宗の血脈相伝に当てているが、この文は伝教大師の『法華秀句』下の、無問自説果分勝三の結語中の文で、釈尊滅後、有見・空見に執着する者に対し、その歴劫修行等に関する人師の口伝を法華の大直道で打ち破ったあと、天台の釈する法華経の正義の大切なことを述べた文であります。要するに権実相対の文なのです。
 大聖人もまた、華厳、法相、三論、真言の法華に背く例証として伝教のこの文を挙げられたのであり、意は全く権実相対にあります。それを、大聖人の文底法門の奥旨における口伝法門と同一にすべき構格ではありません。こういうのを「乱引」と言い、全く見当違いの文証なのであります。


 『唯人師の釈ばかりを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり』(P.462)(※持妙法華問答抄●)
  (通解:ただ途中の法主のような人師の解釈ばかりに依存して御本仏の言葉=御書によらないならば、どうして仏法と言う名を付けられようか。言語道断の次第である。)
 悔しかったら、まず御書に基づいて血脈について定義し、日蓮正宗の正依に基づいて矛盾無く論理を展開してみることです。日顕宗の主張が邪義である故に、絶対に出来ないのです。

 また、『持妙法華問答抄』の「唯人師」云々の文の「人師」とは、前後の文意より、明らかに権経執着の人のことであります。この文を正系仏法の血脈付法の代々の法主に当てることは、まさに道理と文証に背くものであり、この誣告の言はまさに堕地獄の業因であります。
 見当違いの文を挙げても、悔やしくもなんともありません。それより、文の所対すら判らない自分達のお粗末な狂学を反省することです。創価宗は、御書を誤って解し、邪義を振りまくバケモノ集団である、と言っておきます。


 なお、日蓮正宗の正依ではないので我々は用いませんが、第18世日精の「日蓮聖人年譜」には、日蓮大聖人から日興上人への最初の付属が根本で、二番目以降は単なる化儀だ、という言葉があります。日顕宗の不勉強な輩をいたぶるのに使ってみましょう。
『血脈抄に云く元初の付属と云へるは是なり乃至第二番已下の付属は但是化儀の一筋のみ』(富士宗学要集第5巻P.120)

 日精上人の『年譜』中の「元初の付属」云々の文は、別に謗法者にいたぶられるものでも、なんでもありません。これは、日辰の文と日精上人の意見とを見間違い、取り違えたものとして示しておきます。この所は、近年の研究によれば、やはり日辰の文の引文であり、次の、
  「然るに三大秘法の義を取ること偏に取るが故に相異甚多なり」
(富士宗学要集五巻一二〇)
からが、日精上人の日辰の法門を批判された文であります。浅薄な知恵をもって文義を限るなかれ、と一蹴するものです。

 

※『第四項 血脈相伝による三大秘法の仏法を破壊し、池田大作を末法二人目の「法華経の行者」と崇める愚昧・妄想の珍説を嗤う』へつづく

 


第四項 ①血脈相伝による三大秘法の仏法を破壊し、池田大作を末法二人目の「法華経の行者」と崇める愚昧・妄想の珍説を嗤う

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

 

 第四項 血脈相伝による三大秘法の仏法を破壊し、池田大作を末法二人目の「法華経の行者」と崇める愚昧・妄想の珍説を嗤う



 『此の経は相伝に有らざれば知り難し』(P.398)とあるとおり、相伝を受けた法主でなければ分からないことがある。
   (文責者注・右文は創価学会が宗門の主張を挙げたもの)

 これも宗門の常套手段である「切り文」の典型でしょう!「切り文」とは、文章の一部分を抜き出してきて、全体の文章で述べている内容と逆のことや、真実と異なることを主張することで、世間では歪曲とかウソとか呼びます。例えばこの文では、続けてその後に、
『所詮悪人・善人・有智・無智・有戒・無戒・男子・女子・四趣・八部総じて十界の衆生の為なり乃至此の事を知らざる学者・法華経は我等凡夫の為には有らずと申す・仏意恐れ有り』(P.398) (※一代聖教大意)
(通解:法華経は悪人や・・・総じて十界のすべての衆生を成仏させるために説かれた教えであり,このことを知らない不相伝の学者たちが法華経はわれわれ凡夫には難しく機根に合わないし理解できない,などと言うことは仏の心に背き、恐れ多いことである。)
とあるとおり、この文意は「法華経が一切衆生の成仏のために説かれたことを知らない者こそ不相伝の輩である」と言われているのです。

 創価学会では、この文を挙げて、相伝の大事のあることを主張するのは切り文の典型だと言い、その理由として、この文の意は法華経が一切衆生の成仏のために説かれたのであり、それを知らない者こそ不相伝の輩だと言われるのである、としています。
 まず、「切り文」の意味を御丁寧に説明していますが、その盗人たけだけしい嘘言について一言すると、およそ自分達創価学会で引くところの文証こそ、徹頭徹尾、都合の悪い所を全体の文章から切り離した内容であったり、御書の真意と異なることを主張する切り文であります。故に、切り文の常習犯は、前にも証明する如く創価学会である、と返上しておきます。
 次に、『一代聖教大意』の、
  「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書九二)
の文を、それに直続する御文を挙げて、これが十界皆成のために説くというだけの意味であり、そこに相伝の意味があり、法主の相伝を証するものでない故に切り文と言うのだ、と述べております。この莠言において、創価学会の見解が「御書根本」と言い、「文証、文証」と一つ覚えに騒ぎ立てますが、諸文をただ横に並べてわめき立てるだけであり、宗祖大聖人と御書の御心に背反した、薄っぺらな浅識・浅解であることが明らかであります。
 およそ御書の御法門には、本末あり、開合あり、附文・元意あり、文義の隠顕あり、一代の御施化の本末・旨帰あり、素人がちょっとぐらい御書を読んで自ら至れりとなし、「文証、文証」などと居丈高に威張っても、聖意とはほど遠く、そういうのを「未得謂得、未証謂証」と言うのであります。
 今、この文の正しい拝し方を教えましょう。この御文には附文と元意があるのです。一代聖教の教相に準じて説かれておりますから、附文の辺は権実相対の趣意をもって、爾前権経のそれぞれの約機化導に対し、十界皆成を示されておるのであります。この重においても、相伝でなければ法華経の正意を得られないのです。
 それは権経の各宗の迷見に徴して明らかであり、これに対し、霊山会上の法華一経付嘱の相伝により、薬王の再誕・天台が出世して、明らかに権経と実経の違いを顕したのであります。これは権実相対の上の相伝です。しかし、元意を拝すれば、大聖人には、さらに本迹相対の御法門あり、種脱相対の法門あり、さらには宗教の五箇、宗旨の三箇等、末法万年弘通の御法門と所顕の法体が存するのであります。これに対し、相伝を欠く故に、天台宗や過去に一致派と称して本迹一致を唱えた日蓮各派は、本迹相対の法門を知りえなかったのです。
 また、現在の日蓮各派が釈尊の仏像を本門の教主とするのは、種脱相対において相伝を欠くため、法華経文底の正意が知り難いのであります。さらにまた、創価学会が日蓮正宗に背き、現法主の血脈を否定し、あらゆる我見・偏見の屁理屈法門を構成するのは、三世常住の仏法として蓮、興、目の御三師より今日に至る、三大秘法の甚深の内用、外用の相伝を疑い、誹謗するからであります。
 この「相伝に有らざれば」云々の文は、まさに附文と元意の両面より、特に元意の辺を深く拝すべきであります。創価学会が、「大聖人直結の法主」などと言って、悪ほめの言で返って誣告している日寛上人が、この文をいかに大事とされているか、知っているのでしょうか。『撰時抄愚記』に云わく、
「若し法華経の謂を知らざれば法華も仍これ爾前の経なり(乃至)若し本門の謂を知らざれば本門は仍これ迹門なり(乃至)若し文底の謂を知らざれば文底は仍これ熟脱なり(乃至)問う、若し爾らばその謂は如何。答う、宗祖云く『此の経は相伝に非ずんば知り難し』等云云。『塔中及び蓮・興・目』等云云。これ知る所に非ざるなり」
(日寛上人文段集二七一)
と、三重秘伝の上に「此の経は相伝に有らざれば知り難し」の文を明らかに示され、さらに、この「相伝」云々の文を受けて、霊山の塔中別付相承より、大聖人、日興上人、日目上人への相伝を寸記されております。
 まさに創価学会の者どもは、この文の附文にのみ執われて元意を知らず、あまつさえ切り文などと厚かましく謗ることは、蓮、興、目の御三師はもちろん、日寛上人の教義に背くことをも露呈しているのであります。
 なお、創価学会の出版物を見ると、「此の経は相伝に有らざれば知り難し」の御文が、『仏教哲学大辞典』の別巻には御書の要文として記載されておりますが、平成五年に刊行された『御書要文索引』には載せていないのです。日蓮大聖人の仏法を学ぶ者ならば必ず知っておくべき重要な御聖文も、創価学会では、自分達にとって都合が悪くなるや、いとも簡単に削除してしまうのです。このような、御書を軽視する輩を「御書根本」の人とは絶対に言いません。


 大聖人が相伝の書で何と御指南されているかを示しましょう。重書中の重書である「御義口伝」には、
『此の品の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり乃至必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり』(P.781)
(通解:普賢品の時に最上第一の相伝がある。釈尊の八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲られたのである。八字とは当起遠迎当如敬仏の文である。(中略)必ず仏に対するように法華経の行者《三類を呼び起こして妙法を広めた人》を敬わなければならない、という経文である。)
 要するに、末法に三類の強敵を呼び起こしながら妙法を広める「法華経の行者」を仏のように敬いなさい、と言うのが法華経の最上第一の相伝だと言われているのです。まさに今池田先生をリーダーとして、創価学会が昭和35年から丁度10年毎に、順番に俗衆増上慢(妙信講、言論問題)、道門増上慢(正信会問題)を呼び起こし、そして昭和63年頃から心あるメンバーが叫んでいたとおり、次の10年目の創立60周年には、見事に僣聖増上慢(日顕宗)を出現させ、経文どおり「法華経の行者」になったのです!
 この「法華経に行者」である池田先生と弟子の学会員をまさに仏の如く敬うことが法華経の最上第一の相伝であり、このことが理解できない宗門はすでに相伝の資格を失っていると言うことが出来ます。

 次は『御義口伝』の「当起遠迎当如敬仏」の文の御指南を引き、この文によって法華経の行者を敬わなければならないとし、その法華経の行者とは、昭和三十五年から十年ごとに、俗衆増上慢、道門増上慢、僣聖増上慢を呼び起こし、池田をリーダーとする創価学会が「経文どおり『法華経の行者』になった」などと嘯き、しかも、池田らを仏の如く敬うことが法華経の最上第一の相伝であり、このことを「理解できない宗門はすでに相伝の資格を失っている」と言っております。
 この途方もない図式こそ、彼等が邪智を練りに練って作り上げた、憍慢・増上慢の証明であります。第一に、「法華経の行者」も、御書の御指南から拝すれば、当然、総別の二義があるのであります。別して言えば、宗祖大聖人のみが末法唯一の法華経の行者であり、流罪、死罪、刀杖瓦石、数々見擯出の身読は空前絶後であります。池田大作が卑怯者として国会喚問にも怖じ恐れ、なんの大難の実証もない姿で、大聖人に比肩する法華経の行者だなどと言っておりますが、断固としてこの痴れ者を糾弾すべきであります。
 別しての法華経の行者とは、宗祖大聖人御一人であり、
  「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書一七七三)
と示される如くであります。このことは、人本尊開顕の『開目抄』の趣意よりしても明らかです。故に『御義口伝』の、
  「最上第一の相伝あり(乃至)法華経の行者を敬ふべし云云」(御書一七九四)
という文は大聖人御自身のことを仰せであり、当然、池田や創価学会の謗法団体のことではありません。
 次に、総じての法華経の行者とは、正しい信心修行の日蓮正宗の僧俗を意味しますが、正法の中心より悪逆の心をもって背いた創価学会は、行者となる功徳は消滅し、行者の資格はないのです。仏意仏勅による広布の根本宗団である日蓮正宗より派生しながら、いつしかその元を忘れ、自らを広宣流布の中心団体と誤り、妄想し、中心の団体を誹謗し続ける創価学会は、まさに仏勅破壊、仏敵・法敵の魔性団体であり、法華経を行ずる意義はないのであります。
 次に、彼等の言う、三類の強敵に関する図式はまことに手前勝手であり、この経過は、けっして池田や創価学会が法華経を行じてきた結果ではありません。
 初めの、俗衆増上慢に関する思い上がりの妙信講問題というのは、池田が正本堂の建立をもって『三大秘法抄』の戒壇としたいために、宗門にも様々な圧力をかけ、とどのつまり、その仏勅違背の不逞なる野望を全面的に押し通すことができなくなったことであります。こんな大それた本門戒壇に対する過ちを犯し、しかもそれに失敗したような事件で、宗門に要らぬ波風を立てた事例です。また、言論問題というのは、創価学会が、学会批判の言論出版を妨害したことにより非難を受け、池田が世間に謝罪した事件です。これらがどうして、法華経の行者の振る舞いに当たるのでしょうか。まさに法華背逆の所業であります。
 次の、道門増上慢に関する彼等の思い上がりとしての正信会問題は、その元の原因として、池田大作が創価仏法を標し、「学会主、宗門従」の反逆思想のもとに種々の偏見を説いたことに対する宗門の反発と指摘があり、このような流れのなかで起こったのであります。したがって、この件も内面的には全部、池田大作と創価学会の憍慢・我見に基づく思想および法義の誤りが根底にあるのですから、その行為に法華経の行者の意義など、薬にしたくも存在しないのです。
 当時、大作が自らの誤りを認め、日達上人や宗門に対して行った謝罪の主なものを挙げてみれば、昭和五十二年十二月、九州・定善寺における平身低頭してのいわゆる「御寛恕願い」、同五十三年十一月の通称「お詫び登山」における「お詫びと決意」、同五十四年四月、法華講総講頭および会長の「引責辞任の辞」、そして同五十五年四月の「恩師の二十三回忌に思う」の自己総括というように、毎年、お詫びと反省を繰り返したのです。
 これは、この問題の本質が、学会の言うような正信会問題などではなく、創価学会の謗法逸脱問題であったことを明白に示すとともに、池田大作の反省が、いかに心にもない上辺だけのものであったか、その二枚舌ぶりを露呈していると言えましょう。
 真実の「法華経の行者」にまします大聖人様は、誰人に対しても一度もお詫びなどされていないし、ましてや二枚舌の「法華経の行者」など、いるはずがないのです。
 次の、僣聖増上慢に関する思い上がりとして、彼等は「僣聖増上慢(日顕宗)を出現させ」た、と言いますが、これは創価学会と池田があらゆる面からの宗門支配の野望のもと、じりじりと迫害・包囲の輪を縮めて、特に衛星放送等を使って宗門と法主の軽視・蔑視の洗脳を全会員に徹底させ、法主を悪し様に罵る姿が続いたのであります。特に平成二年十一月十六日の池田のスピーチは、誹謗の言がはなはだしく、このすべてを録音したテープを、彼等の厳重な警戒のなかから届けてくれた複数の篤志者がありました。
 この内容について創価学会に尋ねましたところ、全くまじめな対応はなく、改竄テープだなどと言を左右にした挙げ句、かえってそれまでの宗門と学会のいきさつで、余りに創価学会が非道・無礼なため、柔かく注意をしたような問題を取り上げて宗門を攻撃し、答えるべき内容をスリ替えて、「お尋ね」に対する正規な返事はありませんでした。
 その後の文書応答においても全く誠意が見られず、創価学会の独善的な、宗門軽視、蔑視、背逆が明らかなため、かかる謗法者の池田が終身、総講頭の地位にあることは宗門の大不祥事惹起の原因とも思われましたので、平成二年、「宗規」のなかの法華講本部規約に関する条文の改正を行い、総講頭の任期を五年とし、また、新規則の改正により前規則で任命された本部の全役員、法華講連合会の大講頭も含む全員が、その資格を喪失しただけのことであります。
 また、池田らの正本堂の意義に執着する見解を糾したこともありました(着工大法要における『三大秘法抄』の文云々の池田の悪言を指摘。また、正本堂に関する学会の固定的、独善的見解を排除)。
 また、十年目ごとに、順番に三類が出たと言うが、これは池田らの根底に巣食う下種三宝背逆誹謗の罪業が、池田の会長就任より十年ごとに出たのだ、と指摘しておきます。
 さらに、池田や創価学会には、根本的に法華経の行者たる資格はない理由を示しましょう。法華経は正直の御経であり、『諌暁八幡抄』に、
  「正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲の人の心を以て亭らず」(御書一五四二)
と、また、『御義口伝』に、
  「正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非ざるなり」(同一七二九)
と仰せであり、その他、信ずる者は正直たるべきことが御書に明らかであります。
 ここで、創価学会が不正直団体たる所以をまとめてみましたので申し上げます。
 第一に、創価学会は自分に都合のよいように、ウソで塗り固めた謀略情報を流して会員を洗脳し、組織を保っている不正直団体であります。平成二年、放置できない池田発言を厳しく糾し始めてから、宗門は池田学会の不正直極まりない体質とまともに対することになりました。創価学会は、昭和五十二年に目指した宗門支配は破綻し、失敗しましたが、再び野望達成のために準備を整え、平成二年から行動を開始したのであります。その内容は、まさに捏造、ウソ、スリ替えで、五十二年の反省を反故にし、宗門批判、法主をはじめ僧侶に対するすさまじい悪口中傷の個人攻撃でありました。もって会員の宗門離れ、組織防衛を図ったのであります。
 第二に、池田は「ウソも百遍繰り返せば真実になる」と、平気で人前で口にします。これは藤原行正という人の書いた『池田大作の素顔』(講談社刊、四二)に書いてあります。こういうウソつき男によって、自分達の目的のためなら、なんの罪悪感もなく平気で他人をだまし、ペテンにかける不正直集団・創価学会が出来上がったのでありますが、その元凶は池田であります。
 第三に、昭和五十二年路線反省の不正直。御本尊模刻、僧侶・寺院軽視、会館の寺院化等々、宗門支配をもくろんだ五十二年路線が、逆に宗門から破折・教導され、反省懺悔を表明して許されたのですが、平成二年の池田スピーチをはじめ、幹部の発言で、それは本心からではなく、ポーズだけで、宗門を欺くものであったことが判明した不正直が挙げられます。
 第四に、「山崎・八尋文書」「北条文書」発覚時反省の不正直。宗門支配、または独立を画策した昭和四十九年の内部機密文書が流出・発覚した昭和五十四年十一月、北条浩等の責任者が登山して、今後、永遠にそういうことは行ったり考えたりしないと詫びたのも、表面上のことでありました。これも不正直の姿であります。
 第五に、池田の「脱会は自由」との発言の不正直。今回の学会問題発生当初、某テレビ局の人間が空港で池田にマイクを向けた時、
  「いいじゃないですか、自由で。信教は自由ですから」
と、脱会は会員の自由意志であるという旨の答えをしたそうです。しかし、実際には「脱会者が自殺するまで追いつめろ」(福井県・田賀一成氏証言ー永島雪夫著『創価学会池田王国の崩壊』一九六から引用)と指令を下し、あらゆる手段を使って執拗に脱会者に迫害を加え、嫌がらせを行い、他の脱会を阻止しているのであります。それにもかかわらず「信教は自由」と、心にもないきれいごとがとっさに口から出る、根っからのウソつき、不正直者であります。
 第六に、学会関連の裁判例に見られる不正直。これは言わずもがなですが、クロウ事件、写真偽造事件をはじめ、様々な訴訟において、事実無根の事柄を事実の如くでっち上げ、はなはだしく宗門の名誉を毀損している不正直であります。
 第七に、僧侶への中傷誹謗に見られる、捏造の不正直。平成三年以来、学会が様々な機関紙や謀略文書を使って、法主をはじめ多くの僧侶に対して口を極めて罵詈讒謗を加えた事実は枚挙にいとまがありませんが、これも捏造、スリ替え、誇張であるという不正直があります。
 このように、池田および創価学会は、背信、卑劣なウソつき、不正直、謀略の反社会的存在であります。大聖人は、
  「法華経は正直の金言なり」(御書九〇八)
また、
  「日蓮一人計りこそ世間・出世正直の者にては候へ」(同四三五)
と、正直の尊さ、大切さをお示しであります。どうして、このような不正直極まる池田大作ならびに下劣な団体が、おこがましく「法華経の行者」などと言えるでしょうか。
 だいたい「法華経の行者」の義には、重々の深義が蔵されております。軽々に末法今時の凡夫が、自らをなぞらえて振り回すべき語ではないのです。増上慢にも程があります。
 池田は、大謗法を犯して宗門から信徒除名の処分に付された者であります。その際、せっかく弁疏の機会が与えられているのに一言の申し立てもできず、悄然と処分に服し、永久追放の憂き目に遭っております。また、国会喚問と騒ぎ立てられるたびごとに、法を弘めるための願ってもない好機と乗り込むどころか、コソコソと逃げ回り、あろうことか議員に何日間もピケを張ってもらって、やっと回避する始末であります。しかも、破廉恥罪の被告にされて世間の指弾を受けております。このような人間を大将に戴く団体が法華経の行者とは、聞いてあきれるではありませんか。


 御義口伝には、大聖人の弟子檀那で題目を唱える者こそが究極の存在であると繰り返し繰り返し御指南されているではありませんか!
  『今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり』(P.752)
  (通解:今日蓮等の類いの心は、広く言えば如来とは一切衆生である。より深く根本的に言えば日蓮の弟子檀那である。)
  『今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり』(P.753)
  (通解:今日蓮等の類いで南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主=久遠元初の仏である。)
  『無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり』(P.754)
  (通解:無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮の弟子檀那等のことである。南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉るからである。)
 また、題目を唱える者が究極の存在であるということは、正依である日寛上人の文段にも明らかです。
『我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり』(観心本尊抄文段 文段集P.548)

 次に、文証を挙げて、初めの四文には解説を施しておりますが、これも我田引水のスリ替えであります。
 初めの「今日蓮等の類の意は」云々の「如来」とは、別して「日蓮の弟子檀那」と仰せられる文を自分達のことと思っているらしいのですが、不正直なこと、会員は盲目的なウソによって支配されていることのみを挙げても、日蓮大聖人の弟子・檀那ではありません。謗法者である故に、この功徳はないのであります。
 また、次の「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者」云々の文の解説では、まことに驚くべき、飛び上がりの解釈をしております。「日蓮等の類い」といえども、ここに厳然たる総別があります。まして、創価学会の不正直な謗法悪臭の者どもが、寿量品の本主とか、久遠元初の仏ではありえないのであります。
 三番目の「無作の三身の当体の蓮華」云々の文も、「日蓮が弟子檀那」と仰せであり、「檀那」とある以上、「弟子」とは僧を言います。その僧を全く無視し、怨嫉し、悪口する創価学会は、大聖人の仏法より外れた存在です。あらゆる三宝違背の邪義とウソをたたき込まれた創価学会の亡者どもに、弟子・檀那の資格も功徳もないのであります。
 次に、日寛上人の『本尊抄文段』の文を引いて「題目を唱える者が究極の存在である」ことが明らかと言っております。それならば、さんざん、おまえ達が破戒無慙の悪僧・邪僧と言っているところの日蓮正宗の僧侶も、毎日、勤行に励み、題目を唱えているから「究極の存在」であるはずであります。それを、あらゆる限りの悪口を言うのはどういうわけか。それは、おまえ達の考えのなかにも例外がある証拠であります。
 宗門の正しい目から見てもまた、これらの文について例外があるのであります。それは、前から言う如く、破法の団体・創価学会の信心は、根本より外れ、狂った邪信であるから、これらの文には当てはまらず、「究極の存在」どころか、地獄行きなのであります。


  『「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人」とは本門の題目なり。「煩悩・業・苦乃至即一心に顕われ」とは、本尊を証得するなり。中に於て「三道即三徳」とは人の本尊を証得して我が身全く蓮祖聖人と顕るるなり。「三観・三諦・即一心に顕われ」とは法の本尊を証得して我が身全く本門の戒壇と顕るるなり。』(当体義抄文段 文段集P.683)
  『末法の初めは本門流布の時なり。故にこれを信受する者は、皆これ本門寿量の当体の蓮華仏なり。故に(注:天台・妙楽・伝教は)末法の始めを恋うるなり。』(当体義抄文段 文段集P.673)
 以上のとおり、どこにも法主に特別の相伝があるとか、法主は特別だとか、邪宗のような言葉は一言も述べられていません。ただ、大聖人のみが究極の本仏であり、それ以外の一切の弟子檀那は題目によって同じく如来となるというのが日寛上人の確立した教学体系なのです。先述の御義口伝の「如来の総別」についても、日寛上人は「法華経の行者は大聖人唯一人」を前提としてではありますが、御書に書かれた内容と全く同じ考え方を述べています。

 次に『当体義抄』の文段の「正直に方便を捨て但法華経を信じ……」と「末法の初めは本門流布の時なり……」の二文を引いております。
 この両文に共通しているのは、教・行・証の三重のうち、証の重の法門であるということであります。この証の重の法門に肝要なのが「信」あるいは「信受」の語であり、即身成仏の条件であります。しかるに、創価学会は不正直極まる団体で、自ら下種仏法に対する信の功徳を破り棄てています。故に、これらの御文には全く当たらないのであります。
 また、この二文について、「以上のとおり」として、法主に特別の相伝があるとか、法主は特別だとかは、ひとことも言っていないとしていますが、まことに法門に無知な素人どもではあります。つまり、文証の引き方も知らないのです。
 この御書の二文は、信受の格別の功徳を述べられたものですが、およそ法門は、その所対によって異を弁ずるのであります。故に御書も、また歴代上人の文献も、五綱、三秘、教・行・証、法体、行法、功徳そのほか、下種仏法にも種々の面からの御指南があるのです。この二文に、特に相伝のことがないからといって、それが全くないという証拠にはなりません。
 特に付嘱・相承の件は、仏法の一大事であり、やたらあちこちに多く説かれるはずがないではありませんか。釈尊より上行菩薩へ要言の法を結要付嘱されたのは、一代五千・七千の経巻中、ただ法華経神力品の一品であります。大聖人の御書は一代五百篇に垂んとするも、日興上人への明白な付嘱を書かれた御書は『一期弘法抄』と『身延山付嘱書』ほか、わずかな相伝書と、唯授一人秘奥の相伝書のみであります。
 しかるに、法門の上の種々の御指南や解説の各文を挙げて、そこにないから相伝がないと言う。こんなことをまともに言うのは、よほどの「たわけ」であります。真実甚深の正義は文証の数ではなく、文証そのものであります。つかみそこないの文証をいくら挙げても創価学会の謗法は免れず、論理の破綻をきたすだけなのであります。


  『本地無作の三身は即ちこれ一切衆生に非ずや。答う、今この義に於て両重の総別あり。一には総じてこれを論ずれば一切衆生なり。別してこれをいわば蓮祖の末弟なり。二には総じてこれをいわば蓮祖の末弟、別してこれを論ずれば但これ蓮祖大聖人のみ、真実究竟の本地無作の三身なり。』(取要抄文段 文段集P.570)
  『蓮祖の門弟はこれ無作三身なりと言えども、仍これ因分にして究竟果分の無作三身には非ず。但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり。』(取要抄文段文段集P.571)
と、大聖人と弟子檀那の関係が全てで、弟子檀那は一切平等であることが明らかです。法主に何か特別の相伝をしているどころか、懸命な題目を唱える一人一人が究極の存在となることを明確に示されているではありませんか!その証拠として、もう一つ、相承書である「本因妙抄」の御文を挙げれば、
  『信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり、是を天真独朗の即身成仏と名く』(P.872)
 したがって、一心に自行化他の題目をあげること以外に何か特別の実践や秘法があるようなことをいう日顕宗の坊主は、明らかに相伝を受けていないということになるのです。

 次に『法華取要抄文段』の文を二文、さらに『本因妙抄』の文の唱題成仏の深意の文を挙げて同じようなことを言っていますが、法門総付の内容であり、別付ではありません。その破折は今までに述べたところであります。
 また、「弟子檀那は一切平等であることが明らか」だと一知半解の偏執を述べていますが、「蓮祖の門弟(乃至)仍これ因分にして」の文のなかにはっきり、名字乃至、分真の区別が具わっているのです。総じてまとめられただけの文について、一切平等だと短絡するところ、また、『化儀抄』に示された手続の師、延いては僧俗の異なりを、切り文によって敢えて無視するところに、彼等の短見・偏見があるのです。また、六即の六は差別であり、即は平等である。平等の一辺に執われるのが素人なのです。
 要するに、大聖人、日興上人の明確な付嘱相伝に基づき、以後は、日興上人、日目上人以下、歴代上人の道理、文証、現証において、唯授一人の法脈相承は厳として伝わっているのであります。この付嘱の文が僅少であることは、釈尊一代経の例、大聖人一期の例に皆、明らかであります。創価学会の筋違いの引文はめくら滅法の錯誤であり、法門の筋道立て分けに反する邪義であります。


 ところが日顕宗の坊主は、必死に僧俗に差別をつけようと、日寛上人の「取要抄文段」の、
  『若し六即に配せば、一切衆生無作三身とはこれ理即なり。蓮祖門弟無作三身とは中間の四位なり。蓮祖大聖無作三身とは即ちこれ究竟即なり。故に究竟円満の本地無作三身とは、但これ蓮祖大聖人の御事なり。』(取要抄文段 文段集P.751)
を根拠に、大聖人の弟子檀那にも自ずと差別があると主張するのですが、これも御書に戻ってその本義を拝せば明らかなのです。御義口伝には、
  『今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり,されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり、聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出ずるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり」(P.752)
  (通解:今大聖人門下の考え方は、広く言えば如来とは一切衆生のことであり、深く根本的に言えば大聖人の弟子檀那のことである。したがって無作の三身とは末法の法華経の行者のことを言うのである。この無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と言うのである。寿量品の事の三大事とはこのことである。これを六即に立て分けた時は、一切衆生が如来であるというのは理即の凡夫のことである。題目を受持した時が名字即である。その理由は、初めて聞く題目だからである。題目を聞いて修行する(唱題行に励む)のは観行即である。この観行即とは事の一念三千の本尊を持つことである。次に惑障を伏するのを相似即と言うのである。折伏をするのを分真即と言うのである。わが身が無作の三身の仏であると究竟した境涯を究竟即の仏と言うのである。一般的に伏惑を以て寿量品の究極とはしない。ただ凡夫の当体本有のままをこの寿量品の極理と心得るべきである。)
 この御文に照らせば、唱題し折伏に励んでいる学会員は少なくとも分真即の如来ではありませんか。更に難を乗り越えて広宣流布こそ我が人生の使命と決定した境涯の会員は、間違いなく究竟即の仏でしょう。

 次に、日寛上人の『取要抄文段』の文底下種の法門よりの六即の立て分けと、『御義口伝』の下種六即の文を引いて、日顕宗の坊主は弟子・檀那に差別があると言うとしていますが、この中の「寿量品の事の三大事」という大事な文を忘れています。これは、創価学会の如き在家のあずかり知らぬところであり、故に、この文全体の根本を既に喪失しているのです。
 また、この文のみによって明白に僧俗の違いを論じ、在家の方を差別する必要はありません。この文は、下種仏法の功徳における六即を示すもので、直ちに僧俗手続の師等についての趣意を示し給う文ではないからです。ただし、「事の三大事」の文に、血脈の大事がおのずから存するのです。
 さて、次に彼等は、下種本門の六即について示された『御義口伝』の文を引いて説明を加え、さらに自分達創価学会に当てはめて、あきれ返った僣上の沙汰、増上慢極まる慢の言を吐いております。
 およそ下種仏法の信心の折伏、自行化他の徳は、前から論ずる如く、真の仏勅・広布の宗団たる日蓮正宗血脈相伝の三大秘法を、素直に、我見なく持ち、信心するところに生ずるのであります。創価学会が派生団体として中心の正法宗団に背き、勝手な意趣を立てる以上、下種六即のすべての諸徳は喪失するのです。これは謗法・堕地獄の位であります。まして大謗法の池田や秋谷らに洗脳され、悩乱している幹部や一般会員も同様であります。特に最近、折伏など忘れて、「会友」などの珍語による、摂受にも当たらぬ金集めと勢力維持に狂奔し、邪宗と結託し、『中外』紙で正法を徹底的に誹謗するなどしておりますが、このような者どもに大聖人の正直の正法の功徳はいささかも存しないのです。
 しかるに、学会員は「分真即の如来」だとか、間違った広宣流布について「広宣流布こそ我が人生の使命と決定した境涯の会員は、間違いなく究竟即の仏でしょう」とは、なんたる言い草でしょうか。
  「無作三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云ふなり」(御書一七六五)
とは、別して日蓮大聖人御一人であることは、おまえ達が直前に引いているではないか。それを無視して、今度は自分達について「間違いなく究竟即の仏でしょう」などと言う者こそ「未得謂得、未証謂証」の増上慢であり、まさしく大聖人を冒涜し、『御義口伝』ならびに日寛上人の教えに違背する言であります。


 だからこそ、池田先生を中心とした「本化国主」の創価学会は三類の強敵を全て呼び起こし、法華経の行者の位を勝ち取ることが出来たのです。この文のどこが坊主と信徒に差別があるという意味に読めるのでしょうか。逆に折伏も勤行もしないで、法華経の行者の弾圧ばかりをたくらむ坊主のことは経文に照らして何と呼ぶのでしょう?御書にはこのような坊主について「狗犬の僧」(P.1381)「法師の皮を着たる畜生」(P.1386)等々と厳しく破折されています。その一つを挙げて彼らの本質をえぐり出しておきましょう。
  『「当来の世仮に袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経を誹謗すること有らん当に知るべし此等は皆是今日の異道の輩なり」等云云、此経文を見ん者自身をはづべし今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり』(P.958) (※佐渡御書)

 次に「池田先生を中心とした『本化国主』の創価学会は三類の強敵を全て呼び起こし、法華経の行者の位を勝ち取ることが出来た」などの浮言は、既に前に破した如く、大作には国主などの意味も、法華経の行者の位の意義も全くなく、仏法と世法の道理、共に外れているのです。かえって、三類の敵人たる経文の傾向は、そのままぴったり、池田大作ならびに創価学会の所業に当たっているようです。
 さらに、引き続いて僧侶の悪口を言い、『松野殿御返事』のなかの「狗犬の僧」と、同書の「法師の皮を著たる畜生」の文を挙げ、次に『佐渡御書』の御文を引いておりますが、現日蓮正宗の僧俗は、団結和合をもって宗開両祖の御遺訓を体し、正法弘通に精進しております。かえって、この文に当たるのは、会員の金をむしり取って豪華な生活を送る池田大作、秋谷ほか職業幹部の、僧にもあらず、在家にもあらざる、コウモリのような魔族集団を言うのであります。


 さて、ここまで日寛上人の教学と御書との違いが明らかになりました。日寛上人の時代には、末法に入ってから三類の強敵を呼び起こした「法華経の行者」は日蓮大聖人唯一人だったのです。したがって、先ほどの御義口伝を引かれて日寛上人は、
『故に御義口伝に云く「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」文。末法の法華経の行者、豈蓮祖大聖に非ずや。』(取要抄文段 文段集P.571)
と,法華経の行者は日蓮大聖人だけだという大前提を宣言されています。当時はまだ「法華経の行者」とは日蓮大聖人ただ一人しか存在せず,日寛上人さえも,謗法の徳川幕府からの御朱印を受けて弾圧を避け、直面する要法寺等の邪義の破折に全力投球せざるを得ない状況だったのです。
 しかし、嬉しいことに昭和に入って我が学会の初代・二代会長が、国家神道という大謗法とそれに与同した日蓮正宗を諫曉し、有徳王の如き身命を捨てた実践で正法を守り抜き、創価学会に大聖人の生命は燃え移ったのです。

 さて、この所から、いよいよ彼等の本音としての、池田本仏の線が出始めるのです。
 日寛上人の教学は、まだ広布未熟の時代だったから、六即中の究竟即、ならびに法華経の行者とは日蓮大聖人御一人であると言われているが、これは創価学会の新たな時代を迎えて再構築すべきであると、大聖人、日興上人、そして日寛上人にも背く言を吐いております。
 さて、その初めとして「学会の初代・二代会長が、国家神道という大謗法とそれに与同した日蓮正宗を諌暁し」と、まず日蓮正宗に対する大ウソの誹謗をしています。戦争中においても、日蓮正宗が国家神道に与同したことなど、一切ありません。
 また、「有徳王の如き身命を捨てた実践で正法を守り抜き」の言も、牧口常三郎氏が投獄され獄中で亡くなったのは、自身の主張による折伏の内容が当時の特高警察の忌避に触れたためであり、直接、宗門とは関係ないのであります。ともかく、戦争中、この二人がいたから日蓮正宗の正法が護られたという事実は存在しません。
 次に、引き続く言に「創価学会に大聖人の生命は燃え移ったのです」の言い草こそ、まさに創価学会の増上慢の体質、独特の我田引水、宗門七百年の法統否定の邪念が明らかに看て取れます。移るも移らぬも、大聖人の御法魂は本門戒壇の大御本尊として三世常住に、唯授一人の血脈相伝をもって富士の麓、大石精舎に厳然とましますのであります。だからこそ、この浄地を拠り所として創価学会も派生したのではないですか。その恩も忘れて「創価学会に大聖人の生命は燃え移ったのです」と言うのです。こういう自己中心のわがまま勝手な論断こそ、仏法の根本の道理に背くものであります。


 更に我等の師匠池田先生は、昭和35年に会長就任以来10年毎に順に昭和45年俗衆増上慢(諸々の無知の衆生。外からは言論問題、中からは旧妙信講=現顕正会問題)、昭和53~5年道門増上慢(宗教的権威主義の正信会)、そして次の10年である創立60周年には予定どおりに僣聖増上慢(中からは日顕宗。そしていよいよ外からは権力者たちの弾圧)を呼び起こし、末法に入って以来、大聖人に続く二人目の「法華経の行者」になったのです。二人目が出現したということは、誰でもが「法華経の行者」になれるということです。御書には、地涌の菩薩の涌出について、
『涌出とは広宣流布の時一閻浮提の一切衆生法華経の行者となるべきを涌出とは云うなり』(P.834) (※御講聞書)
と、三類を呼び起こしながら法華経を広め抜く人=法華経の行者が必ず全世界に出現することを述べられています。まさに今、SGIが全世界で全ての難を耐えて妙法流布に生命を賭して戦っている姿を想起させる御文ではありませんか!この新たな時代を迎えて、日寛上人の教学は、再び御書に基づき真実の仏法として再構築されなければならない状況になったのです。
  『如来とは本法不思議の如来なれば此の法華経の行者を指す可きなり』(P.772)(※御義口伝)

 次に、池田が三類の強敵を引き起こしたという件は前に破折したとおりでありますが、ここでは続いて「末法に入って以来、大聖人に続く二人目の『法華経の行者』になったのです」との驚くべき思い上がりは、道理、文証、現証に反する増上慢の悪言として、許すことはできません。
 つまり「大聖人に続く二人目の『法華経の行者』」とは、大聖人と肩を並べる仏という意味であり、こういうことを言い出す池田はじめ創価学会の者どもは頭がおかしくなっており、まさに頭破七分の現証と言うべきです。
 もし、大作が「大聖人に続く二人目の『法華経の行者』」と言うならば、それこそ、「大作の本地はなんだ!垂迹はなんだ!顕本はなんだ!」と攻めましょう。
 大作のどこに、大聖人と比肩すべき法華経の行者たる振る舞いがあると言うのでしょうか。いかがわしい淫乱の振る舞いや、ウソつきの言はあっても、勧持品二十行の文々句々の身読が、どこにあるのでしょうか。真っ赤なニセ行者であり、世を欺き、会員を偽る咎は甚大であると知りなさい。
 次に『日向記』の文をもって、一切衆生が地涌になるという意味がSGI(創価学会インタナショナル)であると言いますが、現実には日蓮正宗の僧俗が、全世界において正法弘通の大前進を果たしている姿こそ、真の地涌の菩薩と言うべきなのです。これに対して創価学会は、常にあらゆる所で、陰険・悪辣な手段をもって日蓮正宗の弘通を迫害し、邪魔しているのです。しかし、この苦難に耐えて、今、日本国内より全世界に正法は堂々と広まりつつあるのです。世界を毒気によって汚す創価学会こそ、速やかに撲滅されるべきであります。
 そして「日寛上人の教学を再構築する」旨の言は、池田を本仏とし、会員も本仏だと主張する「未得謂得、未証謂証」のたわごとであり、さながら自己に無上の権威を付与せんとする姿は「己れ仏に均し」という禅宗の邪義に傾くものであります。故に、この言は、日寛上人が言われる、宗祖御一人が真の法華経の行者であるとの義を押しのけ、池田を本仏とする大悪義なのであります。
 我々は、これにあきれているだけではなりません。徹底的にこの邪義を打ち破ろうではありませんか。
 およそ池田には、過去より現在に至るまでに、破法の大罪が六つ乃至それ以上、数えられます。これは最後に申し述べることにしますが、このような大謗法者の教導による創価学会の会員は地獄行きの船に乗っており、根本が狂っているから、いくら唱題しても成仏はできないのであります。

 

※『第四項 ②血脈相伝による三大秘法の仏法を破壊し、池田大作を末法二人目の「法華経の行者」と崇める愚昧・妄想の珍説を嗤う』へつづく

 

 

 


第四項 ②血脈相伝による三大秘法の仏法を破壊し、池田大作を末法二人目の「法華経の行者」と崇める愚昧・妄想の珍説を嗤う

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す


 この御義口伝の文だけではなく、御書には随所に我々衆生が本仏であり、究極の存在であることを繰り返し述べられています。
  『此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是を知るを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷いとも申す』(P.412) (※一念三千法門)
  (通解:この三身如来は全く外にあるものではない。我が身が即ち三徳究竟の本体であって、三身即一身の本覚の仏なのである。このことを知っている人を如来とも聖人とも悟とも言い、知らない人を凡夫とも衆生とも迷いとも言うのである。)
  『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』(P.1358) (※諸法実相抄)
  (通解:凡夫は体の三身であって本仏なのである。仏は用の三身であって迹仏なのである。したがって釈迦仏は我ら衆生のために主師親の三徳を備へておられると思っていたが、そうではなくて逆に仏に三徳を与えておられるのは凡夫である。)
  『過去久遠五百塵点のそのかみ(当初)唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり』(P.1446) (※船守弥三郎殿許御書)
(通解:過去久遠五百塵点劫の当初における唯我一人の教主釈尊とは我等衆生のことである。)
 これら大聖人の経文に照らせば、明らかに最高の凡夫である「法華経の行者」をこそ本仏とも究竟即の如来と呼ぶのです。したがって当然のように、この「法華経の行者」である如来を最大に尊敬することが法華経の相伝のポイントとなるのです。

 次に『一念三千法門』と『諸法実相抄』と『船守抄』を引いて凡夫本仏をさえずっていますが、これは表現としては法華経本覚法門の談道でもあり、大聖人御書中において珍しい御指南ではありません。しかし、その中心に下種三宝の厳たる存在があってこそ、末法即身成仏の要道が確立するのです。それに全く背反する創価学会は、いかに凡夫本仏を誇張しても、所詮は空文となるのであります。
 これらの御文について、その僣上の思い上がりは、既に先に出版した『創価学会の偽造本尊義を破す』のなかでも、また、当書においても破したところであるから、ここでは一々の破折を省略します。
 ただし、その中心・肝要が、法即人の日蓮大聖人、人即法の戒壇の大御本尊にあり、その如実の信行を離れている以上、凡夫即仏にあらず、凡夫即獄となるのです。汝ら創価学会が、まさにその姿であります。


 『此の品の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり乃至必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり』(P.781) (※御義口伝)
  (通解:普賢品の時に最上第一の相伝がある。釈尊の八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲られたのである。八字とは当起遠迎当如敬仏の文である。(中略)必ず仏に対するように法華経の行者=三類を呼び起こして妙法を広めた人、を敬わなければならない、という経文である。)
 これこそが法華経の最高の相伝であり、我ら弟子もこの究極の人間尊敬の道を進もうではありませんか!

 また、次に『御義口伝』の「当起遠迎当如敬仏」の文を執拗に引いて、いかにも池田と創価学会がその法華経の行者の如く言っていますが、これは先にも述べたように、御本仏大聖人の法華経の行者たる高徳を示された文であり、池田らのことではありません。
 また、「当如敬仏」の道理について言えば、日興上人の『二十六カ条』の御文に、
「一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も、当如敬仏の道理に任せて信敬を致すべき事」(御書一八八四)
と示されるように、日蓮正宗七百年の宗是として今日に至るまで、歴代上人乃至、僧俗が皆、これを実践しております。かえって、創価学会の思い上がりと我田引水の狭心による正法宗団への嫉視・敵視こそ、この御指南に背いているのであります。


 ちなみに日蓮正宗の憲法である宗規の第1章宗綱(=教義の根本)には、第2条に血脈について定められた箇所がありますが、日顕宗が主張しているものとはかなり異なることが定められており、わずかに
  「日興上人が弘安五年九月及び十月に総別の付嘱状により血脈を相承して三祖日目上人、日道上人、日行上人と順次に伝えて現法主に至る。」
としか書かれていません。

 次に、彼等は日蓮正宗の「宗規」第一章「宗綱」の文を引いて、血脈について「日顕宗が主張しているものとはかなり異なることが定められてお」る、と言い、その文を挙げて「としか書かれていません」と、持ち前のずるさをもって、理由も挙げずに、この「宗規」の意義を葬り去ろうとしております。
 総別の付嘱は、その弘宣・伝持における総示であり、そのなかに具体的には大御本尊の相伝、金口嫡々唯授一人の相伝、幾多の法門相承等を含むのであり、「総別の付嘱状により血脈を相承して」の文が、それを明示しておるのであります。そして「三祖日目上人、日道上人、日行上人と順次に伝えて現法主に至る」と、文は少ないが、極めて明確に相伝・相承の本義を述べております。
 このどこが「異なることが定められてお」る、というのでしょうか。大聖人、日興上人の血脈相承の正義が、歴代上人を通じて現法主に至っていることは明らかではないですか。「としか書かれていません」などの言も、これだけはっきり書かれていれば充分であります。明白な文義を言葉のあやでぼかそうとする創価学会の愚劣・低見には、ほとほとあきれ返ります。


 この総別の付嘱状とは、武田家の武士達に持ち去られ、すでに正本は存在しませんが、身延相承書(総付嘱書)と池上相承書(別付嘱書)のことです。
『日蓮一期の弘法,白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す,本門弘通の大導師たるべきなり国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり,時を待つべきのみ事の戒法とは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり
                  日蓮在御判
                   血脈の次第 日蓮日興』(P.1600)
  『釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり、背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり日蓮在御判』(P.1600)
 この文を根拠に日顕宗は「大聖人から日興上人に、日興上人から歴代に血脈が相承され、日蓮一期の弘法が付嘱されている」と主張しますが、これらについても文証と証拠を一つずつ確認しながら要求しましょう。
(1)まず、「日蓮一期の弘法」として、「大御本尊」と「相承書も含めた御本仏の経文」以外に何が相伝されたのか、文証を出して説明させましょう。

 次に「二箇相承」を挙げて、くどくどと述べたあと、(1)として「『日蓮一期の弘法』として、『大御本尊』と『相承書も含めた御本仏の経文』以外に何が相伝されたのか、文証を出して説明させましょう」と、小生意気な言を弄しています。汝ら謗法者に大法の相伝を説明する必要もなく、大聖人様の仰せの、
 「法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ、御心得候へ」(御書一〇三七)
のお誡めよりしても、信解しようとしない者に言うことは謗法となるのであります。いかに教誡を加えても心に入れようとしない頑迷固陋な創価学会の信心は、それほど汚れているのです。
 しかし、その浅識と思い上がりを破すため、敢えて一言すれば、日興上人より日目上人、そして歴代上人への付嘱は、総本山に厳護する譲座本尊および種々の文書に明らかです。さらに、あとのほうに出てくる彼等の愚論・愚推に対し、相伝の上からの破折を加えることも、正宗の僧俗の確信に資するため、やむをえないと思われます。


 相承書については、日寛上人の「観心本尊抄文段」に日蓮正宗のみの相伝が列
記されています。
  『故に当抄に於て重々の相伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝(御義口伝)、種脱一百六箇の本迹(百六箇抄)、三大章疏七面七重口決(本因妙抄)、・・・本尊七箇の口決(御本尊七箇相承)、三重の相伝(本尊三度相伝)、筆法の大事(御本尊七箇相承の追加)、明星直見の伝受(御本尊七箇相承の追加)、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり』(文段集P.443)
 一方で、堀日亨上人は「告白」という文書の中で、自分が受けた相承書の内容が、研鑽して来たものと比べて足りなかったため、特別な相承を引き継いだという他の者から話を聞かれたことを書かれています。
  「日正師が特別の相承を預けたと云う者より其内容を聞き取りし事は。上求菩提の精神に合うやと憚りおる事」(「告白」昭和2年11月20日 堀 日亨)
 こうした経緯を経て日亨上人は全ての相承書を開示してしまいましたが、富士宗学要集には相承書の幾つかは、大石寺には写本さえも残っていなかったことが記録されています。

 次に、日寛上人の『本尊抄文段』の初めに示される重々の相伝の文を挙げて、これで相伝は全部であり、すべてそれは公開済みであって、今の法主にこれ以外の特別の相伝などはないという趣意ですが、これはあとにも彼等が挙げているので、その時に明らかに破折することにいたします(本書204頁を参照)。
 次に、日亨上人の「告白」を挙げていますが、別にどうということもありません。否、むしろ当時の、ある状況下のことを正直に述べておられるこの文言から、非公開の特別の文書の一部があったことが当然、窺われるのです。したがって、それらの愚論に続いて「こうした経緯を経て日亨上人は全ての相承書を開示してしまいました」云々と言うのは、彼等の浅識による推測であり、真っ赤な偽りの言であります。
 日亨上人がすべての相伝書を公開したという明確な証拠があるなら出しなさい。そんなものは絶対にあるはずはないのです。このような大事を、証拠もなく当てずっぽうを言う創価学会の言論一切は虚偽である、と断じます。


 具体的には、日蓮大聖人から日興上人への相伝書のうち「百六箇抄」、「産湯相
承事」、「御本尊七箇相承」、「寿量品文底大事」は日蓮正宗の相承(相承箱の中
身)からは欠落していたのです。

『編者曰く日辰上人・日我上人等古写本に依って之を写し』(富士宗学要集第1巻P.25百六箇抄)
『編者曰く房州妙本寺日山 我師門下 写本等に依って之を写し」(富士宗学要集第1巻P.29産湯相承事)
『編者曰く房州日山写本等に依って之を写す』(富士宗学要集第1巻P.33御本尊七箇相承)
『編者曰く房州日山写本等に依って之を写し』(富士宗学要集第1巻P.43寿量品文底大事)
 これらの証拠に対して、反論が有れば当然文証を示し、証拠を出さなければ、日顕宗は邪教だ!という結論になるのです。
『若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり』(P.1355) (※祈祷抄)
(通解:もし証拠が無ければ誰が信じることが出来ようか。このような歪曲したことばかりデッチ上げて言うから、そういう輩を邪教と呼ぶのだ。)

 次に、日亨上人の記録によって『百六箇抄』『産湯相承事』『御本尊七箇之相承』『寿量品文底大事』は「日蓮正宗の相承(相承箱の中身」)からは欠落していた」などと、見てきたような浮言を吐いていますが、全く取るに足らない論です。また、彼等は、欠落した相伝書を日亨上人が各山の写本によって集めたと言っていますが、まことに一知半解以下の下司の勘ぐりであります。
 それならば、日亨上人以前、この四書は全く日蓮正宗大石寺になかったと言うのでしょうか。しからば、彼等もたびたび挙げる日寛上人の『本尊抄文段』の重々相伝と言われる箇条を見なさい。ことごとく挙げられているではありませんか。また、日亨上人以前の歴代上人の著述中に、これらの文書が明らかに示されております。
 日亨上人は、諸山の文書を種々集められたから、記録に書かれたまでであります。右四書の相伝が欠落していたとは「葦の髄から天井のぞく」式の短見であり、これらの証拠にならぬ難癖をつけて日蓮正宗の相伝を否定せんとしても、所詮、不可能であるとともに、このような心理こそ、まさに池田創価学会の邪教であることを示すものであります。


 (2)日興上人から今まで正しく伝わっている証拠を出せ!と攻めましょう。
 身延相承書によって、大聖人から日興上人に正しく仏法が伝えられたことは十分納得できます。だからこそ日興上人を久遠元初の僧宝と呼ぶのです。このことは文証も完全です。

 次に(2)として「日興上人から今まで正しく伝わっている証拠を出せ!と攻めましょう」という無知無慙な言は、日蓮正宗憎し、日顕憎しの下劣な心情で盲目となった、居丈高の地獄相であります。第一に「証拠、証拠」と言うのは、自ら信心欠落した邪宗教の証拠であるとも言えます。彼等が「文証、文証」と言って文証を求める莫迦の一つ覚えに対し、これは道理、文証、現証と、三証を具足して明らかであると教えておきます。
○道理は、
 一に、本仏日蓮大聖人の万年救護のために立てられた日蓮、日興、日目、日道乃至、歴代の血脈が途中で消えたなら、日蓮大聖人は本仏ではない道理である。まさに宗祖三世常住の御加護により、法脈は今日、日顕に至るまで、厳然と伝わっているのであります。
 二に、本門戒壇の大御本尊を御守護申し上げるところに法脈あり。故に常住の法脈は絶えない道理であります。
○文証は、
 歴代各上人の著述、文書、史書に山積します。よく目を開いて天日を見よ。日顕憎しの劣情で盲目となっているから、これらの文証が見えないのであります。また、さらに文証は汝らのところにもあるのであります。
 昭和五十七年七月二十四日、創価大学体育館における池田大作の発言に、
  「日蓮正宗における根本は、唯授一人の血脈である。その血脈相承の御法主上人に随順しゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。この一点を誤れば、すべてが狂ってくるのである」(広布と人生を語る 三-三二)
と言っています。すなわち、大作は、唯授一人の血脈が正しく伝わっていることを、明らかに述べているのです。さらに、現在の創価学会が「この一点」を誤る故に、すべてが狂ってしまったことを、池田大作自らが証明しているのです。この自語相違を、なんと説明するのでしょうか。
○現証は、
 唯授一人の血脈を中心とする、今日の日蓮正宗における僧俗和合の厳然たる仏法護持興隆の姿であり、さらに、過去の創価学会の日顕書写本尊を会員に拝ませていた現実、そのほか、あらゆる事相がこれを証明しております。
 所詮、血脈を今になって否定するのは、創価学会の勝手な謗法の見解にほかならない、と指摘するものであります。


 しかし、日目上人以降で、法水が法主から法主に途切れずに伝えられたという証拠があれば出してみなさい、と攻めるべきなのです。

 すぐ前に挙げた三証で充分です。しかし、さらに明証を挙げれば、日寛上人の『文底秘沈抄』に、
  「而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し」(大石寺版六巻抄六五)
と、血脈不断を宣示されているではありませんか。また、日亨上人の『化儀抄註解』に、
「再往末法に於いて義釈を為さば・此仏と云ふも此菩薩と云ふも・共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云へば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり」
(富士宗学要集一巻一一七)
とある文を刮目すべきであります。
 創価学会は何かというと「日寛上人は」「日亨上人は」と、いつも両上人を利用するが、それならこれらの文も謹んで拝承すべきであり、この明らかな文証がある以上、降伏すべきが当然です。降参するか、できないなら我見によって地獄行きとなるのです。


 例えば富士宗学要集第5巻には18世日精の「富士門家中見聞」が掲載されていますが、日興上人の署名のある文書として、日興上人から新弟子六人(新六と呼ぶ)のうち最も優秀だった日代に対して相伝した旨が記録されています。
  『日代阿闍梨を以て日興の補処(後継者)と為し大聖人御筆の大曼荼羅已下自筆の御書等之を相伝せしめ本門寺の重宝為る可きなり』(同P.202)
  『六人の弟子を定むと雖モ日代は日興付嘱の弟子として当宗の法灯為る可し』(同P.200)
  『日蓮上人御法立の次第、日興存知の分弟子日代阿闍梨に之を相伝せしめ畢ぬ』同P.201)
等と、日興上人から日目上人ではなく日代に相伝しているという証拠が残されていますが、これをどう説明するのでしょうか?(日顕宗の勉強不足を揺さぶるカードの一つです。歴代法主の言葉ですので、日顕宗は否定できないので、適宜御使用下さい。実は日精が要法寺日辰の「祖師伝」から引用してきたものです。)

 次に、日興上人より日代師へ相伝があったことを挙げて、「どう説明するのか」などという愚問を出しています。この意味が、史実に暗い見解のため、わけが判らないのです。謗法者にはもったいないが、敢えて教えてやることにしましょう。
 この創価学会で挙げる、日興上人より日代師への付嘱状なるものは、古来、「西山八通の遺状」と称するものです。付嘱に関する遺状を八通も日興上人が日代師に与えられたということは全く不自然であり、日興上人にこのような惑乱があるはずはないのです。故に日亨上人も、これら一連の文書についてその不当を論じ、最後の結論として、
  「いたずらに偽文をありがたがっている人々の気がはかり知られぬ」(富士日興上人詳伝六一九)
と、はっきり否定されているのです。
 彼等は、日精上人の『家中抄』に引用された「西山八通の遺状」を指して「歴代法主の言葉ですので、日顕宗は否定できない」云々と言っていますが、日精上人は『家中抄』の編纂に当たって、当時において入手し、見聞できうるすべての文献を収集・記載された旨を、
  「唯見聞の及ぶ所纔かに之れを記録して未だ精密ならざるなり」 (日蓮正宗聖典六五〇)
と仰せられております。したがって、『家中抄』の引用文が玉石混淆の形を取っているのは、あらかじめ、その編纂の方針によるのであり、その正否をすべて論ずるところまでを、直ちに企図されていないことを知らねばなりません。
 史料として挙げた文献を、直ちに歴代法主の言葉として「(宗門は)否定できない」などと決めつけたつもりの猿知恵を見れば、彼等の頭の程度が知られます。
 日興上人は、正応三年、大石寺を建立とともに、譲座御本尊と大石寺の一切を内々に日目上人に譲られております。そして永仁六年、重須に移られたのは、一門の教学錬磨のため、重須談所を開かれる目的でありました。そして、いよいよ鶴林が近づかれるとともに、元徳年間、『日興跡条々事』を日目上人に賜い、正式に本処・大石寺を付嘱されたのであります。
 そして、当時の史実のなかより、与えて考察するならば、正中年間、日興上人は日代師に重須の談所の差配を命じられたまでのことであるのです。正規の法体と唯授一人の血脈は、日目上人にましますことは疑いを容れません。故に『家中抄』の「日目上人御伝」中に、
  「されば古より相伝して云わく、付嘱の弟子は日目、補所の弟子は日代」
(同六五八)
とある如くであり、大石寺の根本法体付嘱と、重須談所の所を付したのとは、およそ、意味も役柄も、ことの重大性も異なっているのです。
 創価学会の如く、文書ばかりをあさって、その真偽や軽重を正しく見分ける眼のないのを「めくら法門」と言うのであります。


 我々は正依である日興上人の「日興跡条々の事」と、日寛上人の「文底秘沈抄」に基づいて、日寛上人までは「大御本尊と相承書」は伝えられていたということは受け入れる事としましょう。では日寛上人以降はどんな証拠があるのでしょう?さらに証拠を求めましょう。
  『日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊弘安五年御下文、日目に之を授与す』(富士宗学要集第8巻P.18)
  『法を日目に付し 日目亦日道に付す今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し清浄の法水断絶せしむることなし、蓮師の心月・豈之に移らざらんや、是の故に御心・今富山に住するなり』(六巻抄P.102)
 結局のところ、法主から法主への血脈相承とは、大御本尊(大聖人の御心)と相承箱の中身であって、すでに堀上人が全世界に公開してしまった「二箇相承」や各種の相承書のことだと言っているのです。そして先述のとおり、それらは幾つもが紛失してしまっていたのです。
 しかし、「生死一大事血脈抄」の大聖人の言葉に基づけば、血脈とは法主から法主だけに伝わるものなどとはどこにも書かれていないのです。

 まず、「日寛上人以降、どんな証拠があるのか」と言うなら、前引の日亨上人の『化儀抄註解』を、もう一度、穴のあくほど見よ、と言っておきます。
 さらに疑い深い者どもに対して教えれば、日淳上人は初転法輪の御説法のなかに、
「大聖人様から日興上人様への御相伝、日興上人様から日目上人様への御相伝、仏法の要を尽して御相伝あそばされてありまする。実に尊い所と拝する所であり、我が日蓮正宗は、この相承の家にありまして、この大聖人の尊い教を七百年の間一糸乱れず今日に伝へて居る次第でございまする」(日淳上人全集 上巻一九四)
と説かれており、その他、枚挙にいとまはありません。
 だいいち、日寛上人までの血脈相承を一往認めるなら、以降の血脈伝承も当然、信ずべきであります。にもかかわらず、さらに証拠を求める頑迷固陋と卑劣さは、まことに畜生以下の愚か者と言うべきです。
 くどいようですが、かたくなな彼等の迷妄を打ち破るために、再度、創価学会が自ら宣伝してきた文証を挙げておきましょう。
 第二代戸田会長は創価学会第四回総会において、
  「日蓮大聖人様から六百余年、法燈連綿と正しく続いた宗教が、日蓮正宗である。もっとも完全無欠な仏法が、日蓮正宗なのである」(戸田城聖全集三巻四〇八)
と指導しています。
 また、池田大作自身も、
  「大聖人の仏法は、第二祖日興上人、第三祖日目上人、第四世日道上人、および御歴代上人、そして現在は第六十七世御法主であられる日顕上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである」 (広布と人生を語る三ー二四九)
とも、
  「大聖人御入滅の後、唯授一人・血脈付法された第二祖日興上人は、大聖人の広大無辺の大仏法を、いささかも違えることなく、令法久住されることに無量の辛労をつくされた。以来、法灯連綿と七百三十年のあいだ、厳護されてきた法水は、御当代御法主日顕上人猊下に受け継がれておられる」(同二九七)
とも明言しているではありませんか。これほど明らかな証拠を突きつけられても素直に認めようとしないが故に「畜生以下の愚か者」と言うのです。
 次に『日興跡条々事』の御本尊に関する文と、日寛上人の四百余年血脈常住の文を引いていながら、法主から法主への血脈相承とは大御本尊と相承箱の中身で、それは日亨上人が全部、公開してしまったことだ、と断定しております。血脈を受けたこともない者が、その内容は全部、公開してしまったということが、明らかな文証もなくして、どうして判るのでしょうか。「認識せずして評価すべからず」との牧口氏の破折にも当たります。これは創価学会の浅識、勝手な判断と言う以外にはないのです。
 そして『生死一大事血脈抄』によれば、血脈は法主から法主に伝わるなどとはどこにも書かれていない、と言っております。この迷見・短見は、血脈に法体、金口、法門、信心の四があることを知らず、それぞれの法門・法義は所対によることを知らないものであります。
 「御書根本」とか「文証、文証」と言いつつ、法門の筋道・立て分けに無智で、大聖人一期の御化導全体に迷う故に、一つ覚えのことだけを論ずるのです。『生死一大事血脈抄』の文は、全体の法門・法義のなかで総別中の総の法門であり、信心の血脈から大御本尊に通ずる能通の功徳を述べ給う文であります。
 一大秘法より開出される三秘であっても、文によって、その筋道の表現の種々相が存するのであります。彼等はなんでもかでも、凡夫本仏、凡夫成仏に結びつけ、血脈を否定せんとしますが、御書全体の趣意から見て、明白に切り文であります。創価学会の法義未熟の所以でありますが、これは中心を離れ、無理やりに中心の血脈を否定せんとする我意・我見によるからであります。


 また、「化儀抄」や「有師化儀抄註解」にも法水は法主などからではなく御本仏日蓮大聖人から受けるもので、その法水が我々凡夫に通う姿を血脈相承と呼ぶのです。凡夫の一人でしかない法主が邪心迷信になったら、血脈相承を受ける資格は消滅するのです。
  『信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ有様は・人体に血液の循環する如きなるものに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにあらず・撹乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし乃至不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違ふ時は乃至即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり』
 逆に、もしも法主に「大御本尊と相承書」以外の特別の何かが伝えられていると主張する外道がいたら、文証を出せ!証拠を出せ!と、しつこく追求しましょう。

 次に『化儀抄』や『註解』において、血脈とは法主から法主に伝わるとはどこにも書かれていないなど、切り文による全く反対の論旨を言っていますが、狡猾極まるスリ替えであります。彼等は先にも此の文を出しましたが(本書108頁)、今、この所でいよいよ彼等のインチキな引文を破折する次第です。
 彼等が引くところの日亨上人の『註解』の文中の「絶えて来ることなし乃至不善不浄」云々における「乃至」が問題であります。この「乃至」とは、学会が中間を抜いた左の文なのです。このなかには学会に都合の悪い内容があり、正直にそれを挙げれば、彼等の主張は全く反対になるのです。もし、「文証を出せ!証拠を出せ!と、しつこく追求」して来ても、または来なくとも、その日亨上人の『註解』の「絶えて来ることなし」に続く、創価学会で隠した文には、
 「爰に強いて絶えずと云はゞ其は濁りたる乱れたる血脈法水なれば・猶仏法断絶なり、信心の動かざる所には・幾世を経とも正しき血脈系統を有し仏法の血液活溌に運行す、其は世間にて云へば子は親の心に違はす祖先の定めたる家憲を乱さぬが・其家の血統正しきが如く・仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり、仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違へぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、若し此の要訣を遵奉せずして」 (富士宗学要集一巻一七六)
とあり、ここから再び創価学会の引く「不善不浄の邪信……」の文へ続くことを教えてやりましょう。
 この文の「師匠の意中」および「仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖」、さらに「開山日興上人已来」の「已来」等の文を直視しなければなりません。まさに手続の師匠のところに信を立てることこそ、この文全体の基準であり、その道理が明らかであります。
 しかれば、創価学会の引く後文の「(若し此の要訣を遵奉せずして)不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違ふ時は(乃至)即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり」の文は、ことごとく師敵対の池田創価学会に当たっているではありませんか。


 56世日応が邪宗日蓮宗との対論で新しく考え出した己義である《別付嘱「法体相承」と総付嘱「法門相承」》については、日蓮正宗の正依ではないので、「法体」についての文証を御書で示せ、と攻めましょう。
 ちなみに御書には「法体」について、その本質が説かれています。
  『法体とは本有常住なり一切衆生の慈悲心是なり』(P.711) (※御義口伝)
  『法体とは南無妙法蓮華経なり』(P.709) (※御義口伝)
  『法体と云うも全く余には非ずただ南無妙法蓮華経の事なり』(P.1117) (※四条金吾殿御返事)
『所詮妙法蓮華経の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり』(P.512) (※当体義抄)

 次に、日応上人の法体相承、法門相承の説法を己義と誹謗し、「文証を御書で示せ」と息巻いております。「御書、御書」と言っても、法門の立て分けも知らないから、「法体」の語に含む基本と応用、開合の違いも解らないのであります。
 法体とは、大聖人の法義の主意・正意からすれば三大秘法であります。『一期弘法抄』の「日蓮一期の弘法」とはまさにそれであり、その法の体を日興上人へ付嘱されたのであります。故に『三大秘法抄』に、
「経文顕然なる上は私に難勢を加ふべからず。然りと雖も三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず」(御書一五九四)
とある「三大秘法其の体」とは、まさに法体が三大秘法であることを示しております。故に、日応上人の法体相承の言が己義でもなんでもなく、これを否定する創価学会こそ勝手な己義であり、宗祖、開山違背の大罪人であります。
 次に、法体について創価学会が引く四文は、意味が解っているのでしょうか。「法体」という語さえ羅列すればよいというものではありません。
 初めの『御義口伝』の「仏所護念」の第六の法体に約する釈意は、総じてこれを論ずれば、一切衆生、理即の無作三身の意であり、本仏の妙悟のなかに具する本有の応身の慈悲を示し給うものであります。
 次の「如是我聞」の下の「南無妙法蓮華経」の文は、附文の辺では二十八品、品々の題目の意であり、元意の辺では、就法より功帰とさかのぼるところ、久遠本因名字の妙法であり、さらにその克体を拝せば、三大秘法惣在の妙法五字であります。
 次の『四条抄』の文は、前後の文よりして、直ちに三大秘法惣在の妙法を説き給うております。
 次の『当体義抄』の文は、正法正義に基づく信心修行の功徳を示された文で、大謗法の池田や創価学会の者どもには当てはまりません。
 したがって、法体の主意は三大秘法なのであり、それに基づく法体・法門等の相承に関しての日応上人の仰せこそ、正しい御指南であります。創価学会の衆生の法体というのは、総別両重のなかの、外郭の総の義に過ぎないのであります。


 要するに、全てを生み出し、支え、育む一切衆生の慈悲心の存在こそ、南無妙法蓮華経の当体であると表現することが出来るのです。題目を唱える大聖人の弟子檀那はその化身とでも言えましょう。
  『受持法華本門の四部の衆を悉く聖人の化身と思ふ可きか』(御本尊七箇相承 富士宗学要集第1巻P.32)

 創価学会は、続いて「要するに、全てを生み出し、支え」云々と言うが、これは仏法では法身の上の正因仏性の徳を言うに過ぎません。ここになんとか一切衆生が仏だということを立証して、それが自分らの立場だとし、宗旨の法体相承をぼかす底意が歴然であります。これは末に囚われて本を忘れた、爾前経中心の論法に当てはまります。仏法の本質、大聖人の正意は、法華経より爾前経を、相待・絶待の二妙をもって決判する論旨です。つまり、妙法のなかで理即の衆生が中心なのではなく、一迷先達の即座開悟の本仏が中心の法門なのです。
 したがって、一切衆生、総じて無作三身と言うも、それは本仏の実際の悟りたる三身相即より照らして初めて言えることであります。故にこそ、本仏の実体・実義たる三秘の法体なくして、あらゆる法門は出てきません。
 創価学会の引用する凡夫本仏もその如く、本末の誤りを犯しているのであります。そのけじめも解らず「御書根本」などとさえずり、各文の真意を失う者こそ創価学会であります。また、『七箇之相承』の、
  「受持法華本門の四部の衆」(日蓮正宗聖典三七九)
の文は、創価学会の如き罪業の衆生ではなく、現日蓮正宗の僧俗を指示された御文なのです。

 こうして御書に基づいて責められた日顕宗の輩は、反論の論拠を失うといつも「依義判文を知らないのか」と逃げを打とうとしますが、この時こそ追撃のチャンスです。実は、日蓮正宗の教学体系を確立された中興の祖・日寛上人も、依義判文抄の前文において、
『文証無きは悉く是れ邪偽なりと、縦い等覚の大士法を説くと雖も経を手に把らざるは之を用ゆべからざるなり』
(通解:文証がない主張はことごとく邪義である。たとえ仏に等しい位の者が法を説いたとしても、経文を手にとらないものはこれを用いてはならないのである。)
と、全く御書と同じ基準を示されているのです。そして日寛上人自ら徹底して御書に基づいた「依義判文」を行っているのです。この「義に依って文を判ずる」の「義」とは、御書とりわけ重書中の重書である「御義口伝」に明確に示された「義」であると言うことが出来、御書を根本としない者は大聖人の門下ではあり得ないのです。
 口から出任せの根拠の無い主張(悪)を今まで許して来た方は、牧口先生の「悪いことをする(邪義を主張する)ことと、良いこと(邪義を破折する)をしないのとは結果は同じ(謗法堕獄)だ」との言葉を思い出して、真実の大聖人の教えに立ち返って、厳しく悪を攻めなければなりません。
 ちなみに、邪義の輩と対論する時の基本姿勢を大聖人は極めて激しく、また厳しく御指南されています。我々が対論を行う場合にも、「純真な仏子を苦しめる天魔の犬は絶対に許さない!」との正義の怒りに燃えて、堂々と邪義を叩きつぶさなければならないのです。

 まことに「アハハ」と笑いたくなるような、独りよがりの愚論です。依義判文と言って逃げるなど、勝手な想像をしているが、おまえらのなまくら論法などに、逃げも隠れもしません。およそ創価学会の引く文証はほとんどがスリ替えと切り文であり、依義判文などではなく、引文そのものについて宗門よりズバリズバリと破してきたではありませんか。いくら「文証、文証」と言っても、狂った逆さまの理解やスリ替えでは、正しい大聖人の仏法の文証にはならないのであります。
 また、彼等は、「日寛上人自ら徹底して御書に基づいた『依義判文』を行っている」と言いながら、「『義に依って文を判ずる』の『義』とは、御書とりわけ重書中の重書である『御義口伝』に明確に示された『義』である」などと、実に愚かしい断定の言を吐いております。莫迦な創価学会では、『御義口伝』の「御義」という文字面だけを見て「依義判文」の「義」であると短絡しているのでしょうが、日寛上人が仰せの「依義判文」の「義」とは、基本的に宗旨の法体たる三大秘法に存するのです。このことは『依義判文抄』の初めに、
「開山上人の口決に慣って謹んで三大秘法の明文を考え、而して文底秘沈の誠証に擬し、以て後世の弟子に贈る」(大石寺版六巻抄七九㌻)
と明確に記されていることからも明らかでしょう。それを「『御義口伝』に明確に示された『義』である」とは、まさに抱腹絶倒、愚の骨頂と言うほかありません。
 宗門こそ、正義の怒りをもって、創価学会の邪義を徹底してたたきつぶすから覚悟しておけ、と言っておく次第であります。


  『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず、彼れ彼れの経経と法華経と勝劣・浅深・成仏・不成仏を判ぜん時・爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず何に况や其の以下の等覚の菩薩をや、まして権宗の者どもをや、法華経と申す大梵王の位にて民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意を得て宗論すべし』(P.1282) (※教行証御書)
  (通解:日蓮の弟子らは臆病であっては叶わないのである。いろんな相手の教えと法華経との勝劣等を論争する時には、相手が爾前迹門の釈尊であっても物の数ではない。それ以下の菩薩においても同じことである。まして権教の者どもにおいては物の数ではないのだ。法華経という最高の大梵天王の位に立って、民とも鬼畜とも下しても、何の誤りがあろうかと心得て対論を行わなければならない。)
  『問答対論の時は爾前迹門の釈尊をも用う可からざるなり、此れは臆病にては釈尊を用いまじきかなんど思うべき故なり、釈尊さえ用う可からず何に况や其の以下の等覚の菩薩をやまして謗法の人人においておや、所謂南無妙法蓮華経の大音声を出だして諸教諸宗を対治すべし』(P.840) (※御講聞書)
  (通解:問答対論の時には、爾前迹門の釈尊をも用いてはならないのである。この理由は、臆病であってはどうして釈尊を用いないことがあろうか、と思うからである。釈尊さえ用いてはならないのである。どうしてそれ以下の菩薩を用いる事があろうか。まして謗法の人々を用いようか。南無妙法蓮華経の大音声を出して諸教諸宗を対治しなければならない。)

 次に『教行証御書』の対論の心得の文と、『御講聞書』の、
  「日蓮が弟子臆病にては叶ふべからざる事」(御書一八五五)
以下の文を挙げて学会員に対論を煽っていますが、派生集団の創価学会には独自の教義・信条は何一つないために、学会員はいかにけしかけられても、確信を持って「宗論」などできないのではないでしょうか。
 まして、『御講聞書』を解して「南無妙法蓮華経の大音声を出して諸教諸宗を対治しなければならない」と、取って付けたように叫んでみても、池田は「真言亡国・禅天魔、法を下げるだけでしょう」(平成二年十一月十六日の本部幹部会スピーチ)と、大聖人の四箇の格言を蔑んだのは、周知の事実ではありませんか。
 さらに、学会は立正佼成会と密約を交わし、「これまで他の宗教団体と接触してこなかったのは、日蓮正宗の指導方針があったためで、日蓮正宗から独立した以上、他宗教と交流を深めていくのは当然」と、佼成会のみならず、他の宗教団体とも共存共栄を図る謗法与同の方針を明らかにしているのですから、まさに創価学会の実態は、大聖人の仰せとは全く反対の大謗法集団であると言うべきです。
 したがって、創価学会の邪義こそ、まさにその破折の対象であると知るべきであります。

※『 第五項 『百六箇抄』の相伝を疑い、すべての後加文を軽侮する独断・慢心の妄説を破折する』へつづく

 

 


第五項 『百六箇抄』の相伝を疑い、すべての後加文を軽侮する独断・慢心の妄説を破折する

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

 

 第五項 『百六箇抄』の相伝を疑い、すべての後加文を軽侮する独断・慢心の妄説を破折する


 「直授結要付属は一人なり」「末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の
如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫主と仰ぐ可き者なり」(P.869)とあるとおり、
唯授一人の歴代法主を惣貫主と仰がなければならない。
(文責者注・右文は創価学会が宗門の主張として挙げたもの)

 本当に何も勉強していない輩だとしか言えません。そもそも相承書の一つであるはずのこの百六箇抄も、すでに大石寺には残っていなかったため、堀日亨上人が要法寺日辰や房州日我等の写本から写してきたもので、後世の誰だか分からない者たちによる後加文がたくさんあって、日亨上人が富士宗学要集第一巻P.20~25で丁寧にこれらの後加文を指摘しているではありませんか。
 百六箇抄のこの文(P.21)もその後加文なのですが、愚かにも妙観講は、富士宗学要集で日亨上人が
  『後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促す便とせり。』(富士宗学要集第1巻P.25)
と注記しているのを引いて、何を考えたか「この部分は一本線だから正義である」という跳ね上がった主張を「慧妙」に書いたのです。これも妙観講の勉強不足の最たるもので、「支吾」の意味を「誤り」とでも解釈したのでしょう。「誤り」がない=正義である、という短絡思考の妙観講らしい早とちりですが、正しくは「支吾」とは「枝梧」と書き、「ひっかかり」というほどの意味なのです。日亨上人は、後加文だがカチンとは来なかったので一本線にしたということなのでしょうが、これを「正義」とまで祭り上げられては、日亨上人も草葉の陰で苦笑いされておられることでしょう。
 要するに我々は、大聖人の言葉を根本として仏法を実践するのであって、どこの誰が書き加えたか分からない代物を根本にはしないのです。
 ましてこの百六箇抄は、日興上人から日尊に相承されたと言われているもので(富士宗学要集第5巻P.42祖師伝)、後世に邪宗日蓮宗要法寺の一門が書き加えた内容がたくさん含まれています。要するに妙観講たちの惣貫主は、邪宗日蓮宗の血脈を受けた惣貫主なのでしょうか?
 更に、この文の直後には二本線ですが「六老僧をないがしろにする事勿れ」と邪宗日蓮宗らしいことが書かれているばかりでなく、「疑義ある所」として二本線が引かれている箇所には、相承書である「御本尊七箇相承」の「又本尊書写の事・予が顕し奉るが如くなるべし」から始まる重要な文章が3行にわったて含まれているのです。
 妙観講のように後加文を根本にするような誤りを基準にすると、二本線を全て邪義であるとした場合は「御本尊七箇相承」も邪義だという結論になるし、二本線でも正義であるとした場合は、誤りを犯さないはずの法主(ここでは日亨上人)が誤りを犯したということになるのです。要するに結論は、後の時代の誰だか分からない人間が勝手に書き込んだ言葉は、基準にしてはならない、拒否しなければならない、ということなのです。
 その後加文を根本にして、重要な血脈と相承についての法論をしようとするのですから、御書に照らせばやはり日顕宗は天魔か外道か、それとも愚か者でしょう。
  『我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり』(P.181) (※行敏訴状御会通)
  『仏教には経論にはなれたるをば外道と云う』(P.152) (※蓮盛抄)
  『私に経文を作り経文に私の言を加へなんどせる人人是多し、然りと雖も愚者は是を真と思うなり』(P.882) (※善無畏三蔵抄)
 たまには後加文ではなく、ちゃんと「大聖人の言葉」を引いたらどうだ!と責めてやりましょう。

 この所で彼等は『百六箇抄』の後加文について色々言っています。まず、「支吾」という語についてのお笑い草を一言しましょう。
 彼等は、「支吾」とは「枝梧」が正しいなどと言っているが、支吾と枝梧は同義であり、その意味は「ささえる」「さからう」「ごまかす」等の意であります。したがって、日亨上人が仰せの「義に於いて支吾なき所」とは、彼等が言うような「ひっかかりがない」などという軽い意味ではなく、はっきり、義において「支障なき所」「抵抗なき所」等と解すべきであり、法義において正しい所に一線を引かれたのであります。
 ですから、日寛上人も『六巻抄』等において、この傍線部分の所をしばしば引用せられ、法義の正当性を闡明、かつ、強調されているではありませんか。
 次に、彼等の浅はかで軽薄な見解では「我々は、大聖人の言葉を根本として仏法を実践する」などと空威張りしているが、その大聖人の御書における法門の段階、すなわち、所対すら判らない杜撰な見解を、至る所で暴露しています。したがって、「根本」などと言っても、大聖人の教えに根本的に背くばかりなのです。
 このような低劣な見であるから、相伝書の相伝書たる所以として書き加えられた内容の軽重等も、判断がつかないのです。そこで、一概に「百六箇抄は、日興上人から日尊に相承されたと言われている」として、これには「邪宗日蓮宗要法寺の一門が書き加えた内容がたくさん含まれて」いて、それを信ずる者の「惣貫主は、邪宗日蓮宗の血脈を受けた」のか、などと、当たりもせぬ揶揄の言を述べています。これらの浮言も、根本の相伝信解が正しくないために枝葉に囚われて、肝要の主意を見損なった一例です。
 要するに、日興上人より日尊師に対する、正和元年十月十三日の『百六箇抄』に関する付嘱の記事は、日亨上人が二線を引かれて疑義を呈しておりますが、与えてこれを採るとしても、その以前において『百六箇抄』を含めた一切の法門相承書は、唯授一人の付嘱に伴って日目上人へ当然、授与されているのです。日興上人は、日尊師の弘通の功績を認められつつも、それ以上に日目上人の弘通の功績を賞しておられます。かつ、日尊師は日目上人の弟子として富士へ上り日興上人門下に列したのだから、正和年間に日興上人より日尊師に授与されたと言われる『百六箇抄』が、それ以前に日目上人に伝えられていることは理在絶言です。
 その後、日尊師より要法寺系統へ伝承された同抄について、その一門の書き加えがあっても、それ以前の書き加えとはおのずから異なるのです。つまり、書き加えのなかでも、本末、軽重があることを見る目もないのが、素人・創価学会の浅ましさです。故に、日興上人より日目上人、さらに正系への伝承に付嘱相承に関する中心・根幹が存するのであり、富士の僧俗が要法寺の血脈を受けることなど、あろうはずもないことです。
 故に、これらは、文書伝承の筋道を正しく拝する力もない、創価学会の誣言に過ぎません。
 要するに、この所における創価学会の悪口の主意は「この文が『百六箇抄』の後加文である。あとの時代のだれが書き込んだか判らない言は基準にしてはならない、拒否せよ」というのであります。しかし、この文の後加か否かに関わらず、また、文の位置も、その意義も確かめず、まさしくこの文の趣意をもって日有上人も日亨上人も仏法の正義の伝承を明らかに説かれているのを「拒否する」とは、まことに厚顔無恥な輩です。その日有上人や日亨上人が示された文を、創価学会はいつでも切り文にして隠しているが、事実は白日の如く、隠し通せません。
 また、後加文の道理とその拝し方について第六十五世日淳上人は「相承書の後加は、これを受けた方が書かれたのであること。また、その受けた方の時代、正法を護るべき必要性から書かれたのだから、本趣旨、または、それに準ずべきものとして拝さねばならない。また、そこに法門相伝書たる特質もある」と、何回にもわたって述べられておりました。
 一例を挙げれば、日淳上人は、田中香浦の謬見を駁す文のなかで、
「御相伝書は順次相ひ伝へるに従って加筆があってもそれは当然です。それが相伝書の相伝書たるところで偽作ででもあるかの如く考へるのは全く書物の読み方も知らないうつけ者です。そんなことでは仏法の筆受相承などのことを談ずる資格は遠くありません。顔を洗って拝し直すことです」(日淳上人全集 下巻一三七八)
と、明らかに述べられています。また、池田大作も『大白蓮華』昭和五十二年一月号の「百六箇抄講義」のなかで、
「本抄には、歴代の法主上人が『百六箇抄』を拝読された折り、一種の『覚え書き』として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、『百六箇抄』の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故に、この部分も、私たちが大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可欠の記述といえましょう。
 この講義にあたっても、百六箇条の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された個所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたい」(同書二〇)
と言っているではありませんか。
 しかるに、今、創価学会が後加の文として問題にするのは、まさしく自語相違、矛盾撞着の狂った主張であります。まさに法門の相伝を受け止めることもできない、信心の欠除した者どもであります。
 さらに言えば、この文は、
  「已上種の本迹勝劣畢んぬ」(御書一七〇二)
の文の直後であり、日興上人門下の最も基本の事柄を述べた部分であります。
 創価学会の者どもは「身延相承」「池上相承」の二箇相承を否定するのでしょうか。もし否定できないならば、「直授結要付属は」以下「付属せしめ畢ぬ」(御書一七〇二)までの文義が真実であることをも否定できないはずであります。
 また、創価学会の者どもは、日興上人より日目上人へ宛てられた『日興跡条々事』を否定するのでしょうか。これもまず、否定できないはずであります。しからば、日興上人より日目上人への相承付嘱も否定できない道理であります。
 次に、日目上人より日道上人、日行上人乃至、日有上人、日寛上人、日亨上人等に至る相承は否定するや否や。もし否定的に「中間断絶あり」とか、または「全く血脈相承は認めない」と言うならば、創価学会は始めから日蓮正宗のエセ信者だったのであり、今さら日蓮正宗や日顕について、かれこれ言う資格は存在しないのであります。また、もしこれら代々の師に唯授一人の血脈相承があったと言うならば、右の『百六箇抄』の文はまさにそのことを示すものであり、内容においていささかの違いもないのだから、「基準にしてはならない」とか「拒否せよ」と力む必要は全くないのであります。おまえ達が認めているはずのことだからであります。
 くどくどと、疑念・悪念をもって血脈の一貫性を否定することこそ、堕地獄の道だと言っておきます。もっとも、さらに議論を進めて「日達上人までの血脈は認めるが、学会を追放した日顕は認めない」と言いたいのならば、それ以前のところへくだらない文句をつけず、はっきり、そう言ったらよいのです。
 破門したのは、破門すべき正々堂々たる仏法上の理由があったからでありますが、日顕にのみ血脈がないというのは創価学会の邪義・自見による誤りであり、仏法の法理は厳として存するのであります。

 

※『第六項 『日興遺誡置文』の「極理師伝」の文を否定する仏法破壊の妄説を破折する』へつづく

 


第六項 『日興遺誡置文』の「極理師伝」の文を否定する仏法破壊の妄説を破折する

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

 

 第六項 『日興遺誡置文』の「極理師伝」の文を否定する仏法破壊の妄説を破折する


 『日興遺誡置文』に「御書を心肝に染め極理を師伝して」とあるから御書だけではダメで、極理を相伝した歴代の法主の指南に従わなければならない。
(文責者注・右文は創価学会が宗門の主張として挙げたもの)

 まず御書を心肝に染めなさい!信徒が勝手に御書を読んでも大聖人の深い心は分からない等と物知り顔に言う輩は、大聖人がひらがなで書かれたお手紙を梳き返しにした五老僧の末裔であり、天魔の伴侶です!
 なぜ昔は無知の僧俗に対して御書の乱読を禁じたかについて、日亨上人は、
『無意の誤写・有意の偽作多きが故に、御書といへばとて綿密の検閲を経るにあらざれば・信を措いて拝読すること能はず』(富士宗学要集第1巻P.153)
と、「宗門に於いて一定の御書の編纂せられざるの間は」(P.154)後世の者による後加が多いため、御書の乱読を戒められたのですが、すでに日亨上人が正邪を明確に区別された現在は、大聖人の言葉として御書を根本に真剣な拝読を行うべきなのです。

 御書を心肝に染めることは大切でありますが、我意・我見、わがままな自己中心の立場で御書を読むことは、聖意を外す誤りがあり、まさに創価学会の読み方がそれなのです。
 すなわち、「本化国主として、愚王を誡責するのが池田」だとか、「『一期弘法抄』の国主が、創価学会最高のリーダー池田」だとか、途方もない解釈のほかにも、あらゆる文のスリ替え、切り文などが実に目立ちます。創価学会の「御書根本」は、宗門の師伝を軽賤する我見によっていますから、ことごとく聖意に背逆するに至るのです。
 また、学会はここで、「極理師伝」を否定する文証として、日有上人が『化儀抄』において御書の濫読を禁じられた文についての、日亨上人の『註解』を悪用しています。すなわち、日有上人の昔は誤写・偽作の御書が多かった故に、宗門において一定の御書の編纂がされない間は御書の濫読を禁じられたものとの日享上人の解釈を挙げ、既に日亨上人が御書の正邪を区別された現在は御書を根本とすべきであって、「極理師伝」はもはや不要、とするのです。
しかし、『化儀抄』および『註解』の当該の文を精読すれば、この学会の主張こそ、趣旨のスリ替えであることが明白です。それは、他門徒所有の御書の披見を禁じられた『化儀抄』の指南と、また、これについてその理由を解説した『註解』のいずれにも、「極理師伝」を否定する文言や趣旨は認められないからです。
 すなわち、当時、他門の所有する御書のなかに偽書が存在したことや、本宗僧俗が勝手に他門の御書を拝読することを日有上人が禁じられたこと、日享上人の編纂による『御書全集』が発行されたことにより、御書拝読に関する日有上人の制約が解消したことなどは与えて認めるとしても、それらは御書の信頼性の面からの拝読に関する指南であって、大聖人の真実の御書を拝する上における「極理師伝」の重要性を否定するものでは、全くないのです。
 もし「極理師伝」がなくとも、単に御書を拝読するだけで仏法の深義が領解できるのなら、五老僧やその門下が謗法となることもなかったはずです。先にも重々述べた如く、権実相対、本迹相対の御法門を示された御書が多くありますが、その文面に執し、本門弘通の大導師たる日興上人からの「極理師伝」を怨嫉し、これに背逆したところに、身延派の本尊雑乱等の謗法が生じたのであり、まさに現在の創価学会と軌を一にするものです。
 また、宗祖一期御化導の締めくくりとして、重大法義を明かされた『三大秘法抄』には、
  「予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加ふべし。其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存する間貴辺に対し書き遺し候」(御書一五九五)
と仰せです。すなわち、大聖人の弘通あそばされる御法門とは甚深の秘法であり、この仰せからは、当時、門家の弟子達ですら、その深義を領解できておらず、むしろ大聖人の御法門を汚す恐れがあったことが明らかなのです。
 その後の五老僧の振る舞いは、まさしく大聖人がかねて見通されていた如くであり、同時に、今日の創価学会の下種三宝破壊の姿こそは、この「無慈悲の讒言」云々の聖文の真実なることを証明している、と言わねばなりません。
 なお、学会は『御書全集』について「日亨上人が正邪を明確に区別された」と言っていますが、それならば、同『全集』に収録されている『百六箇抄』等も、後加文を含め、日亨上人が正編とされた御書と拝信すべきなのです。
 また、同『全集』は系年検討が完全ではなく、また、真撰と拝すべき相当数の御書も未収録ですが、今回、本宗において、大幅にこれらの点の改善と充実が図られた『平成新編日蓮大聖人御書』が発刊されたことを、だれよりも喜んでおられるのは、『全集』編者の日亨上人でありましょう。それとともに、創価学会が同上人著述を切り文して宗門攻撃に利用していることを憤激しておられる、と言っておきます。


 逆に、日顕宗の輩のように、たまに御書を引用すると後加文ばかり、などというのは、
『私に経文を作り経文に私の言を加へなんどせる人是れ多し、然りと雖も愚者は是を真と思うなり』(P.882) (※善無畏三蔵抄)
と大聖人が言われたとおりの愚者であることは間違い有りません。
 また、御書の大部分は、大聖人様がひらがなしか読めない信徒たちに書かれたお手紙です。この御書をそのまま読んでも信徒には分からない等と言うのは御本仏の大慈悲をないがしろにした五老僧の生まれ変わりでしょう!

 まず、「御書を引用すると後加文ばかり」と悪口を加えているが、これについては池田らの自語相違を含めて、先に破折したとおりです(本書188頁を参照)。
  次に『善無畏三蔵抄』の、
  「私に経文を作り(乃至)真と思ふなり」(御書四三七)
の文を引いて宗門が愚者だと言っておりますが、この文も意味の異なるスリ替えであります。これは法華経に背く慧能や善導そのほか、三国の邪師その他のことを仰せであり、宗門の相伝書を受けた方がその正意を明らかにするために付加された意義とは、天地の隔たりがあります。それを見る見識もなく、混乱して文を挙げるところが、創価学会の「御書根本」の邪義だと言うのです。
 また、「ひらがな」云々は、それだけが御書の主体であるような言い分はとんでもない間違いであります。漢文体とひらがなの違いに関係なく、五大部、十大部等の甚深の御書もあり、信徒へのひらがなの御書のなかにも、深い義理と元意を込められている場合も多いのです。したがって、「極理を師伝し」云々の指南が肝要なのです。
 本宗の正しい素直な信心をもって御書を拝すれば、ひらがなや漢文体の別なく、僧侶も信徒も共に次第して正しい理解を得られるのです。それを、信徒には解らないなどと言う僧侶は全くいません。
 ただし、謗法・邪義になり果てて、しかも、なんでも解ると狂信する創価学会こそ慢謗法なのであり、御書の聖意から遠く距たるのであります。


 えらそうに「極理」などと秘密めかしても、その極理とは、相承箱に入れて代々の法主に伝えられて来たはずの相伝書のことだということも知らないのでしょうか?この相伝書の内容は、日寛上人が「観心本尊抄文段」で列記されています。
  『故に当抄に於て重々の口伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝(御義口伝)、種脱一百六箇の本迹(百六箇抄)、三大章疏七面七重口決(本因妙抄)、台当両家二十四番の勝劣(本因妙抄)、摩訶止観十重顕観の相伝(本因妙抄)、・・、本尊七箇の口決(御本尊七箇相承)、三重の相伝(本尊三度相伝)、筆法の大事(御本尊七箇相承)、明星直見の伝授(御本尊七箇相承)、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり。』(観心本尊抄文段 文段集P.443)
 しかも、相承箱の内容が散逸していたため、59世堀日亨上人が他山の写本等から写してきて、御書と富士宗学要集にすべて公開されたではありませんか!そのことを日達上人も認められていたことも知らないのでしょうか?
 例えば、百六箇抄は要法寺日辰や房州日我の写本、産湯相承書は房州妙本寺日山(日我門下)の写本、御本尊七箇相承も房州妙本寺日山(日我門下)の写本から、日亨上人が写されてきたもので、日蓮正宗には存在していなかったのです。これらの事実についても、富士宗学要集に日亨上人の言葉で記録されているではありませんか。
 それでも、なお相承書以外に特別な「極理が師伝」されていると言う人には、繰り返して大聖人の言葉に基づいて「天魔、外道だ」と破折しましょう。

 次に「極理」について相承箱に入れて伝えられてきた相伝書だと言い、それは日寛上人が『本尊抄文段』で列記されているとしてその名目を挙げ、それも「散逸していたため、日亨上人があちこちの諸山から集めたもので、すべて公開されているから、これ以外に特別な極理が師伝されていると言うなら、天魔、外道だと破折しよう」などと大見栄を切っております。まことに一知半解の哀れな者どもであります。
 今、この『本尊抄文段』の初めに列記された、創価学会では略していますが、二十三カ条の名目を見ますと、さすが日寛上人かなと感嘆いたします。なぜかと言うと、大聖人、日興上人以下に伝わる甚深の相承には、外用と内用があり、特にその内用と定められた唯授一人の血脈相承の文には、一言半句も触れておられないことであります。ここにきちんとけじめをつけられて、甚深の法門、相伝書といえども、文段に挙げる名目は外に示してよい名目に限っておられます。これを見て、創価学会の輩は「相承と言ってもこれしかないのだ。それは皆、既に発表済みで、ほかに何もない」と得意顔なのは、そこに創価学会の邪心・無慙があり、その誤りを自覚せずして喋々する「御書根本」「大聖人直結」などの意味がすべて、我見・邪悪の結果を生ずるのであります。
 重ねて言うと、この文段の「重々の相伝」と言われるものは、秘伝ながら外用の範囲であります。さらに内用において、金口嫡々唯授一人の相承があり、今、その記述内容の関連より、やむをえず示された文が公開済みなので、これを挙げることにいたします。
 『家中抄』の日道上人の伝の終わりに、
「御上洛の刻み、法を日道に付嘱す、所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり。総じて之れを謂えば内用外用金口の知識なり、別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり、甚深の血脈なり、其の器に非ざれば伝えず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付嘱す。爰に知りぬ、大石寺を日道に付嘱することを。後来の衆徒疑滞を残す莫かれ」(日蓮正宗聖典六九五)
とあります。このなかの「外用」とは、外に向かって仏法の筋道を示す、従浅至深、一切の法門であり、日寛上人の挙げた名目も、大体ここに入ります。
 「内用」とは、嫡々代々の内証において用いる真の唯授一人、七百年、法統連綿をなす根幹の相承、一言一句も他に申し出すべからずと示されたる、別しての十二カ条の法体法門であります。故に、日亨上人といえども全く公開せず、極秘伝の扱いのまま、今日に至っております。
 次に、学会は、日亨上人が相承箱の内容を他山より集め、それをすべて御書と『富士宗学要集』に公開されたと言い、このことを日達上人も認められていた、などの当てずっぽうを言っているが、それなら日達上人が認められていた内容として、唯授一人の相承もほかにはなく、すべて公開済みであると言われたという証拠を、はっきり出しなさい。これを出せなければ、相承に関する彼等の誹謗は、すべて我見の邪義と断じられます。
 創価学会の者どもの浅識無知にして大聖人の真化を謗ずるは、堕在無間であることを知らなければなりません。また、「日亨上人が他山から写した」云々による謬見は、前に破折してあります(本書160頁を参照)。


  『仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ』(P.219) (※開目抄)
  『我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり』(P.181) (※行敏訴状御会通)
 大聖人の経文の中に伝えられた正法しか信じてはならないのです。

 次に、また、『開目抄』の「仏説に依憑して」云々の文と『行敏訴状御会通』の「我が経の外に」云々の文を挙げていますが、前者は法相、三論等の四宗破折の文証で、後者は禅破折の文証であり、まさに切り文であります。


 それでは、御書とりわけ口伝書の中に示されている「極理」とは何かと言えば、御義口伝に明確に示されているのです。
  『今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり、聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出ずるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり』(P.752)
  (通解:今大聖人門下の考え方は、広く言えば如来とは一切衆生のことであり、深く根本的に言えば大聖人の弟子檀那のことである。したがって無作の三身とは末法の法華経の行者のことを言うのである。この無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と言うのである。寿量品の事の三大事とはこのことである。これを六即に立て分けた時は、一切衆生が如来であるというのは理即の凡夫のことである。題目を受持した時が名字即である。その理由は、初めて聞く題目だからである。題目を聞いて修行する(唱題行に励む)のは観行即である。この観行即とは事の一念三千の本尊を持つことである。次に惑障を伏するのを相似即と言うのである。折伏をするのを分真即と言うのである。わが身が無作の三身の仏であると究竟した境涯を究竟即の仏と言うのである。一般的に伏惑を以て寿量品の究極とはしない。ただ凡夫の当体本有のままをこの寿量品の極理と心得べきである。)

 次に『御義口伝』の寿量品の六即会釈の文を引き、特に最後の、
  「唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得べきなり」(御書一七六六)
の文により、ここに明確に極理が示されている、と言うのです。これも「御書根本」などと言いつつ、「極理」という文字に囚われて、この文に含まれる深い義理を短絡して「極理」だと受け取る素人読みなのであります。
 この文は、「凡夫」とあっても、ただの凡夫ではありません。
  「無作の三身とは末法の法華経の行者なり」(御書一七六五)
と仰せのように、凡夫の当体たる日蓮大聖人が、寿量の仏身においては真実・究極の仏であることを御指南されているのです。これが極理であることはもちろんですが、このなかにはさらに、御本尊の顕示、三大秘法の整足、日興上人への内用・外用の相承等、重々の本仏の御境界、御化導の中心・中枢の極理が存するのであります。
 これを知らず、ただ「極理」という言辞にのみ囚われて、我々凡夫の当体を「これのみが極理だ」などと驕る創価学会の浅識こそ、笑いものであります。


  『此の品の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり乃至必ず仏の如くに法華経の行者を敬ふ可しと云う経文なり』(P.781) (※御義口伝)
  (通解:普賢品の時に最上第一の相伝がある。釈尊の八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲られたのである。八字とは当起遠迎当如敬仏の文である。(中略)必ず仏に対するように法華経の行者=三類を呼び起こして妙法を広めた人を敬わなければならない、という経文である。)
 要するに、末法に三類の強敵を呼び起こしながら妙法を広める「法華経の行者」を仏のように敬いなさい、と言うのが法華経の最上第一の相伝だと言われているのです。日顕宗は一応同じ大聖人の仏法なので五重の相対では破折出来ませんが、日顕を破折するために、大聖人は人間としての最高の振る舞いこそが究極の目的であるとの御金言を残されています。
  『不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ』(P.1174) (※崇峻天皇御書)
 つまり、特別な戒律や修行によって惑障を伏するのを寿量品の「極理」とはせず、ただ凡夫の当体本有のままで、一切衆生の救済のために自行化他の題目をあげ、難を乗り越えて妙法を広め続けること、またその最高の振る舞いの人を最大に尊敬することを寿量品の極理とする、ということが口伝されているのです。この「極理」を伝えるべき法主が悩乱して放逸(謗法の異名P.1174)と権威主義(立場にとらわれた外道)に陥った故に、今こそ正法を守るため断固として邪義と戦わねばならないのです。

 次に「当如敬仏」の文をしつこく挙げ、創価学会が「相伝」という文字に囚われた守文の徒であることを暴露しています。
 これは、彼等の言う如き「寿量品」ではなく「普賢菩薩勧発品」に説かれる、教化弘通の徳に関する相伝であり、総の法門であります。その趣意は、必ずしも創価学会に限ったことではありません。否、むしろ今の創価学会は既に法華の信者・行者たる資格を、正法正義の正師を謗ずることにより失っているのですから、「当如敬仏」の文には全く当てはまらないのです。「当如敬仏」とは、まさに現日蓮正宗僧俗の信行学に邁進する者に与えられる資格であります。
 このあと、御丁寧に『崇峻天皇御書』の末文の、有名な、
「不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候ひけるぞ」(御書一一七四)
の文を挙げていますが、この文は、悪業三昧の創価学会へ、よく拝読して我が身を省みよと、そっくりお返しします。
 女性問題に関する裁判係争、電話盗聴、「勝って勝ちまくれ」などの闘争意識、平気でウソを言う虚言体質、弱い者いじめ、金権・金まみれ体質、そのほか数え挙げればきりのない、おぞましい行為や体質はすべて、池田創価学会が世に撒き散らしている姿であります。この文を挙げて宗門を誹謗する暇があるなら、その汚れた脳ミソにこの御文の正意を少しは叩き込んでおけ、と呵すものであります。

 ※『第七項 血脈法水に具わる僧宝の意義を否定する、下種三宝破壊の妄説を破折する』へつづく

 

 


第七項 血脈法水に具わる僧宝の意義を否定する、下種三宝破壊の妄説を破折する

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

 

 第七項 血脈法水に具わる僧宝の意義を否定する、下種三宝破壊の妄説を破折する

 

 「凡そ謗法とは謗仏・謗僧なり三宝一体なる故なり」(P.142)とあるとおり、僧宝である法主を誹謗するのは謗法である。
   (文責者注・右文は創価学会が宗門の主張として挙げたもの)

 この文こそ「時の法主は久遠元初の僧宝ではない」すなわち「尊信の対象ではない」ことを証明する最適の文証であることを知らなかったのでしょうか。そもそも正しく法を伝えない単なるハゲを僧宝とは言わないのです。日蓮正宗における三宝については、日寛上人が「当流行事抄」で、
『久遠元初は仏法の根本なり故に根本を信ずと云うなり(中略)故に応に久遠元初の三宝を信じ奉るべし(中略)久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり』(六巻抄P.224~6)
と定義されているとおり、信仰の対象としての「久遠元初の三宝」のうち、「久遠元初の僧宝」とは日興上人のことであると明確です。
 また、日寛上人が日蓮正宗の三宝について解釈された「三宝抄」には、
  『此れ須らく分別すべし、若し内体に約せば実に是れ体一なり。所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり・故に一念三千即自受用身と云うなり、又十界具足方名円仏と云うなり。亦復一器の水を一器に寫す故に師弟体一なり、故に三宝一体なり。若し外相に約せば任運勝劣あり。所謂仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す故なり故に法宝を以て中央に安置し、仏及び僧を以て左右に安置するなり。』
と、仏・法・僧にはそれぞれ勝劣があり、三宝を安置する際には真ん中に法宝、左右に仏宝と僧宝とを安置するという「別体三宝式」という日蓮正宗の三宝のまつり方が述べられています。

 久遠元初の僧宝が日興上人であること、また、『三宝抄』を引いていますが、それらの三宝義を、日蓮正宗では知らないとでも思っているのでしょうか。創価学会に教えてもらわずとも、日蓮正宗の正義がそれであります。
 また、法主が久遠元初の僧宝などとは、だれも言っておりません。末法の化導において、宗祖、開山以来、代々の法主への血脈の上に僧宝の意義があることを言うのであります。
 ここで学会は『真言見聞』と『三宝抄』の文を引きながら、文の主旨を少しもまともに取り上げていないのです。すなわち、『真言見聞』の引文の箇所の御指南の趣旨は「三宝一体」であり、また、この義に関連する『三宝抄』の引用箇所は、三宝の内体と外相についての御指南です。
 この内体と外相を比較した場合、より重要なのは、内体の「三宝一体」義であることは言うまでもありません。内体において、三宝が一体として存在しなければ外相もなく、仏法そのものが末法の世に存立しないからです。
 彼等は、この「三宝一体」の重大な意義を全く無視し、ことさらに三宝の勝劣のみを論じていますが、その底意は僧宝を貶めること、すなわち、大聖人が『真言見聞』に誡められた「謗僧」に当たることは明らかなのです。
 日寛上人は、学会が引用している『三宝抄』の当該箇所の前段に、歴代上人も僧宝に含まれることを指南されています。この場合の僧宝とは、一往は外相としての僧宝でありますが、そこには再往、内証としての三宝一体の意義が存することは当然です。それこそが『御本尊七箇之相承』の、
  「代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(日蓮正宗聖典三七九)
の文の意味であり、この内証の意義を三十一世日因上人は、
  「日興上人已下代々も亦爾なり、内証に順ずる則んば仏宝なり、外用に順ずれば即ち僧宝なり」(妙喜寺文書)
と指南されています。そこに、本宗においては古来、法主に対する合掌礼が存する所以もあるのです。
 創価学会が、時の法主を「尊信の対象ではない」などと貶めることは、三宝一体の深義を指南された大聖人、日寛上人に背く大謗法、と言うべきなのです。


 この形式に則って、日顕が破壊した大客殿に安置されていた御本尊の左右には、大聖人と日興上人の御影が安置されていたのです。もしも日顕を僧宝として仰がなければならない、などと言う人間には、「御本尊の横に大聖人と日顕が座っている写真を見せたら信用してあげよう」と答えましょう。
 この別体三宝については、日達上人も大客殿の御本尊を例に引いて、更に詳細に説明しています。
  『別体三宝式として中央に御本尊を安置し、その御本尊に向かって左に仏宝として宗祖大聖人の御影を安置し、右に僧宝として二祖日興上人の御影を安置し奉り、左下座に日目上人の座がしつらえられて、その座において大衆檀信徒の参詣を三宝に取り次ぐ姿において読経するのが、歴代の法主であります。』
 つまり、歴代の法主は三宝への取り次ぎ役、すなわち三宝以外、三宝以下と定義しているのです。我田引水の己義を構えるものではありません!この三宝という仏法の基本中の基本を切り文で歪曲するとは、
  『私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間地獄に堕つべきにて候つたなしつたなし』(P.989) (※四菩薩造立抄)
とあるとおり、無間地獄疑いなしです!

 次に、歴代の法主について、日達上人の、
「別体三宝式として(乃至)左下座に日目上人の座がしつらえられて、その座に於いて大衆檀信徒の参詣を三宝に取り次ぐ姿に於いて読経するのが、歴代の法主であります」(蓮華 昭和五二年八月号二八)
とのお言葉を引き、歴代の法主は三宝への取り次ぎ役、すなわち、三宝以外、三宝以下と定義している、と喋々しております。しかし、それは客殿の別体三宝の奉安形式による日目上人のことを言われたのであります。すなわち、日達上人のこのお言葉は、形式の上からの法主の役目を言われたものであり、そこに具わる深意と、その元の意義を略されているのです。
 日達上人は、客殿における別体三宝の奉安形式と猊座に関して、このほかにも種々御指南であり、けっして学会が引用したお言葉だけに限りません。むしろ、もっと深い相伝の意義からの御指南がいくつもあるのです。例えば、
  「大聖人様の前に猊座を作ります。私がまあ坐らしていただいておりますが、その猊座というものは、大聖人様の生れ変りを現わす意味なんです。大聖人様が常在、常にここにいらっしゃるということを現わすところの猊座であります(乃至)だから本宗の信心として、信仰として広宣流布の暁には、日目上人が再誕するという、昔からの伝統の相伝があります。これは即ちそれを意味するので、だからいつでもその時の法主は大聖人様のお仕事を司っておる」(大日蓮 昭和四七年一月号五七)
というような、本宗伝統の相伝による甚深の意義を披瀝されたお言葉もあります。
 不信の輩にはもったいないが、敢えてここに相伝による深意を示せば、客殿における猊座とは、日目上人の座において読経・唱題する歴代の法主が、三宝一体の内証に基づく僧宝の立場をもって、法宝の御本尊、仏宝の大聖人、僧宝の随一たる日興上人を拝し、取り次ぐ姿を表すのです。故に、法主の内証から拝するならば、その座は、学会の言うような単なる「取り次ぎ役」の座る場所ではなく、唯授一人の血脈相承によって法体を伝持し、下種三宝を守護するという法主の立場を示す重大な意義が存するのであります。
 池田大作や秋谷などは、何回、登山しても絶えて客殿の丑寅勤行に出たことがない不信心の懈怠ぶりだから正しい領解ができないのであり、これに追従する創価学会の者どもも、常に邪心をもって懈怠謗法する故に、永久に正意が解らないのです。
 だいたい学会は、客殿のこの座配が、そこに安置の譲座本尊から来ていることを知っているのでしょうか。純真な信心をもって客殿の御宝前を拝すれば、奉安の譲座本尊の深意よりする日目上人の座が、勤行の際の法主の座であるということを正しく領解できるはずであります。
 譲座本尊は古来の名称であり、日興上人が大石寺法主の座を日目上人へ内付し、本尊の内証に導き入れて、法主として本尊の書写を許した証拠の歴然たる御本尊であります。故に、御本尊中において日興上人が相伝を受けられた意義をもって、御自分が署名される所へ、他に類例のない、「日目 授与之」を書き示されているのであります。
 そして、日目上人以下歴代上人の本尊書写に当たり、代々署名の位置は御本尊郭内の、中央の「日蓮在御判」の左側、すなわち、日興上人の書き示された位置に一定しております。すなわち、日目上人以下歴代上人は、僧宝の随一たる日興上人に継ぐ僧宝の位なのであります。
 もしそうでなく、創価学会の言うとおりなら、御本尊書写に当たり、中央の「日蓮在御判」の左脇に日興、日目と書いて、その下に歴代が自署せぬばならない道理です。そのことなく、日興上人、日目上人の御名を書かず、直ちにその所に歴代上人が署名する意は前述のとおりです。
 故に、日目上人の座たる客殿の法主の座は、僧宝の随一たる日興上人に継ぎ、代々、もぬけられた僧宝の意義をもって取り次ぎをなしているのであります。


 更にダメ押しをすれば、日蓮正宗の憲法とも言える「宗規」第4条第2項には「宗綱=宗義の根本」のうちの「三宝」について明確に定めており、
  『本宗は、大曼陀羅を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝とし、血脈付法の人日興上人を僧宝とする。』
と極めて単純明快に定義しています。もしもこれ以外の三宝を主張する輩は、
  「本宗=日蓮正宗」の者ではないということになります。そうです、彼らは邪宗日顕宗と成り下がったのです。
 日寛上人の「六巻抄」及び「三宝抄」をもとに、若干追加説明をすれば、まず「当流行事抄」には、
  『久遠元初は仏法の根本なり故に根本を信ずと云うなり。(中略)故に応に久遠元初の三宝を信じ奉るべし(中略)久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり仏恩甚深にして法恩も無量なり、然りと言えども若し之れを伝えずんば則ち末代今時の我等衆生曷ぞ此の大法を信受することを得んや、豈開山上人の結要伝授の功に非ずや・然れば則ち末法出現の三宝は其の体最も明らかなり、宜しく之れを敬信して仏種を植ゆべし』(六巻抄P.224~6)
と、根本として敬信の対象とする「久遠元初の僧宝」は日興上人ただ御一人なのです。

 創価学会は、根底において、なんとか歴代上人を貶めようとする邪心があるため、文章表現の表面に執われて、真実の深意を測ることができないのであります。
 「宗制宗規」は、僧宝の随一たる日興上人をもって代表として、崇敬の上に日興上人を僧宝と挙げてあるのです。久遠元初の僧宝の末法出現に約して、その随一だからであって、ただ一人しかいないからではありません。こんなことが解らない創価学会は、よほどの莫迦か不信心であります。
 また、叛意があるために信じようとも思わないのです。彼等が前に何度も受けていたであろう大御本尊御開扉においては、唱題が終わって、まず題目三唱をする。そして、初めに大御本尊拝観念文、題目三唱。次に、日蓮大聖人拝観念文、題目三唱。次に、日興上人拝観念文、題目三唱。次に、日目上人拝観念文、引き続き日道上人、日行上人以下本山御歴代御正師御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の観念文(その次が参詣信徒の祈念)を常に行っており、また、正しい日蓮正宗の僧俗も常に朝夕の勤行においてこのように御報恩申し上げているのを知っているのでしょうか。
 日目上人以下歴代上人が、僧宝の随一たる日興上人に続く僧宝なればこその御報恩なのであります。


 ところが日顕宗の輩はどうしても法主を僧宝として敬わせたいために、御書(四恩抄)の
  『僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず』(P.938)
の文を根拠に法主の恩を主張しようとするのですが、「三宝抄」にはまさにこの文を引用した直後に
  『又予が如き無智無戒も僧宝の一分なり』
と、「僧宝の一分」という定義をされているのです。それは、この「三宝抄」の中で「末法下種の僧宝」として、日興上人や代々の法主のみならず、門流の大衆も含めて、正しく正法を受持信行し、後世に伝える限りにおいて「末法下種の僧宝」という概念で定義しているからです。
  『然れば則ち吾が日興上人は嫡々寫瓶の御弟子なること分明なり。故に末法下種の僧宝と仰ぐなり。爾来日目日道代々ことごとく是れ僧宝なり、及び門流の大衆亦爾なり云云』
これらのことを矛盾なく、分かりやすく整理すれば、
(1)久遠元初の僧宝=開山日興上人唯一人
(2)末法下種の僧宝
 ①開山日興上人=末法下種の僧宝の随一
 ②一閻浮提の座主
 ③歴代法主
 ④門流大衆=末法下種の僧宝の一分
 ⑤檀信徒
となり、信仰の対象として無条件に尊敬されるのは「久遠元初の僧宝」である日興上人唯一人なのです。

 また、日寛上人の『三宝抄』に、
  「予が如き無智無戒も僧宝の一分なり」(歴代法主全書四巻三九六)
と言われた文を挙げて、僧宝の一分と定義されていると、莫迦の骨頂をさらけ出しております。これが御謙譲のお言葉と取れないのは、よほどのアンポンタンであります。
 例えば、社運隆々たる会社を統率する社長に「お盛んですね」と言ったところ「えぇ、まあどうにか細々とやっております」と謙遜して答えたから、あの会社は細々なんだと定義づけるのは、よほどの非常識であるのと同じであります。
 ただし、信仰の上にはっきりした奉安の形では、日寛上人の仰せの如く、久遠元初の三宝が末法に出現され、本門の大御本尊、本因妙の教主・日蓮大聖人、本門弘通の大導師・日興上人を下種三宝と拝することは、創価学会に教えてもらわなくとも、宗門七百年の正義であります。
 さて、問題は、この創価学会のわがまま勝手な整理でありますが、敢えて「一分」とすべきではありません。彼等が引く如く、『三宝抄』に、
  「爾来日目日道代々咸く是れ僧宝なり」(同四巻三九〇)
と、明らかに示されているではありませんか。
 したがって、彼等の図における②と③はもちろん、④と⑤の人々についても、仏法を真に受持弘通する者は、総じて僧宝の徳を持つのであります。『御本尊七箇之相承』の、
  「受持法華本門の四部の衆を、悉く聖人の化身と思う可きか」
(日蓮正宗聖典三七九)
の文の如くであります。ただし、創価学会の謗法者は全く僧宝たる資格に欠けることは前より論ずる如くであります。


 芸者遊びにうつつを抜かすような法主・坊主のことを大聖人の一門では僧宝などとは呼ばないのです。身命を捨て、難を受けながら妙法を広めるような出家が出現する日はもう来ないのかと、全く嘆かわしい限りではありませんか。

 次にまた、自分らが勝手に作り上げた偽造写真を持ち出して、こんな者は僧宝とは呼ばないと既成事実の如く言うが、これは今、その不当を明らかにするために係争中であります。それなら、むしろ池田大作の女性関係事件こそが問題であり、人倫を外れた色魔が、なんで正しく法華経の弘通などできるか、と言えましょう。また、それに率いられている創価学会のすべても同断である、と言っておきます。
 今、宗門は創価学会のあらゆる邪義と迫害に対し、全僧侶が一丸となって不惜身命の正法護持に精進しています。学会の仏法、世法における邪義悪義の存在こそ、日本乃至、世界の民衆のため嘆かわしい限りであるのです。


 逆に、在家が僧宝となる証拠は、日寛上人が「撰時抄愚記」において「仏の付嘱に三義」あるとされていることから理解されます。この三付嘱とは、
 ①弘宣付嘱、②伝持付嘱、③守護付嘱
の三種類の付嘱のことで、①弘宣付嘱と②伝持付嘱は、日興上人の二箇相承に配して、
  『今得意して云く、二箇の相承は正しくこれ弘宣伝持の付嘱なり』(文段集P.247)
とされ、守護付嘱については、
  『三には守護付嘱。謂く、国王・檀越等、如来一切所有の法を時に随い、機に随い、能くこれを守護して、法をして久住せしむるなり。』
とあるとおり、令法久住は本来は在家の使命として位置づけられているのです。つまり折伏は本来は出家の使命だったのです。大聖人の門下に集いながら、その後の宗門は畜生の坊主に落ちぶれてしまったのです。順縁広布の時の折伏は在家による化儀の折伏なのです。このことは『五五百歳始観心本尊抄』と日寛上人の『観心本尊抄文段』に明らかなのです。
  『当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す』(P.254) (※観心本尊抄)
  『折伏に二義あり。一には法体の折伏。謂く『法華折伏、破権門理』の如し。蓮祖の修行これなり。二には化儀の折伏。謂く、涅槃経に云く『正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持すべし』等云云。仙予国王等これなり。今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍摂受と名くるなり。或はまた兼ねて順縁広布の時を判ずるか云云』(文段集P.546)
これらの正依とともに、御義口伝には、
  『末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり』
とありますが、これも「仏宝は大聖人」「法宝は題目」「僧宝は大聖人とその眷属である我ら法華経の行者」と依義判文でき、上述の三宝や三付嘱の正依とともに、全てが矛盾なく説明できるのです。

 次に、日寛上人の『撰時抄愚記』の、末法の弘宣、伝持、守護の三付嘱を挙げ、相変わらず宗門の悪口を述べたあと、「順縁広布の時の折伏は在家による化儀の折伏」だと言い、『本尊抄』の四菩薩の折伏、摂受の文と、さらにこれを会通された日寛上人の『文段』の文を挙げ、さらに自分達創価学会を僧宝に仕立て上げたいため、『御義口伝』の、
  「末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり。法とは題目なり。僧とは我等行者なり」
(御書一七七九)
の文をもって「『僧宝は大聖人とその眷属である我ら法華経の行者』と依義判文でき」る、として、創価学会が僧宝であり、法華経の行者であることを狡猾に引証しております。
 まず、日寛上人の御指南は、国王の愚王誡責の折伏の相について、
  「兼ねて順縁広布の時を判ずる歟」 (歴代法主全書五巻四〇八・日寛上人文段集五四六)
と言われており、未来の広布の事相に関する故に「歟」の字を付けておられるのです。これは『三大秘法抄』の、
  「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」(御書一五九五)
の文とも関連があると思われます。とすれば、順縁広布の時とは、だれが判ずるのでしょうか。もし、池田や創価学会がそうだと言うならば、それは増上慢であり、現在が順縁広布なぞと決すべきものではないのであります。
 しからざるものをしかりと言うとき、仏法について種々の歪曲・捏造、教義改変が起こるのであり、過去の創価学会の事例がそれを示しております。また、賢王となって愚王を誡責するのは色魔・池田などのできる事柄ではなく、それを言うのはまさに大聖人の仏法への冒涜であります。したがって、『ニセ本尊』を用いる池田や創価学会などにおいて「僧宝は(中略)我ら法華経の行者」などという依義判文も、矛盾なき説明もあるはずはなく、文義共に不可であります。
 『御義口伝』の、
  「僧とは我等行者なり」(同一七七九)
の文は、大聖人より嫡々代々、清浄な法を持つ現日蓮正宗の僧俗に当たる、と呵責しておくものであります。


 ところが日顕宗の輩は必死に文証を捜してきて、『当家三衣抄』の
『南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は、
 南無本門寿量品の肝心・・・南無日蓮大聖人師。
 南無本門寿量品の肝心・・・南無本門戒壇の大本尊。
 南無本門弘通の大導師・・・南無日興上人師、南無一閻浮提座主・伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。』
を引用しますが、この文は「下根を引接して修業を牽課するの具」(劣った機根の人を誘引して修行をさせるための道具)である数珠について述べられた箇所であり、しかも明らかに大導師である日興上人と、一閻浮提の座主である日目上人と、歴代の諸師とには差をつけられています。
 具体的には、大聖人の教えを正しく伝えた「久遠元初の僧宝」である日興上人は、その位である「本門弘通の大導師・・」にも「人」にも「南無」が冠せられ、日目上人については「一閻浮提座主」という位にのみ「南無」が冠せられています。これは、日目上人が「久遠元初の僧宝」ではないものの、生涯国家諌暁を貫かれたその行体を讃え、その位である「一閻浮提の座主」に「南無」を冠し、「末法下種の僧宝」であることを明らかにしているのです。「一閻浮提の座主」とは日目上人のことを指すことからも、他の歴代法主とは別格であることを示されているのです。それもそのはずで、日蓮正宗は日目上人までは国家諌暁を行っていたものの、第四代日道上人以降は内部抗争等によって広宣流布どころか疲弊の一途を辿ったのです。
 したがって代々の法主は、先述の日達上人の言葉どおり三宝への取り次ぎ役でしかないのです。

 また、『当家三衣抄』の文について、創価学会は、これは下根引接の数珠について述べた箇所であると、まず文意を引き下げ、続いて、その間の仏法僧乃至、歴代の文の表現に一々差をつけていると言い、その結論として、日道上人以下は三宝への取り次ぎ役でしかない、と誹謗しております。
 しかし、この所にも彼等の得意な切り文による意義の歪曲が明らかです。
  「南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は……」(大石寺版六巻抄二二五)
として、初めに仏宝として日蓮大聖人、次に法宝として本門戒壇の大御本尊を詳しく述べられ、次に僧宝として、
「南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じて、唯当に南無妙法蓮華経と称え、乃ち一子を過ごすべし」(同)
とあります。初めの「南無仏・南無法・南無僧とは」の文と、終わりの「此の如き三宝」の文の間に「嫡々付法歴代」が入っており、この「嫡々付法歴代」を受けて直ちに「此くの如き三宝」とある以上、明らかに日目上人以下を僧宝に列せられているのです。したがって、日達上人のお言葉を正しく解せば、形は取り次ぎ役、意は僧宝の立場によって取り次ぐのであります。
 それを、わざわざ「此くの如き三宝」の文を切り捨て、「歴代は僧宝でなく、取り次ぎ役に過ぎない」などと勝手な我見を押しつけるのは、まことに文義共に日寛上人に背反するものであり、このような明白な文義について見て見ぬふりをするのが、おぞましい創価学会の体質であります。


 その取り次ぎの責務を放棄し、学会員が大御本尊に会うことを拒否した日顕は「南無」どころか「無間」なのです。
 大聖人の仏法とその実践を正しく伝えてこそ僧宝と呼べるのであって、放逸(乱暴でわがままなこと)の法主のことを僧宝とは絶対に呼ばないのです。
  『放逸とは謗法の名なり入阿鼻獄疑無き者なり』(P.758) (※御義口伝)

 次に、日顕を誹謗し、色々とお世辞を言ってくれております。しかし「放逸著五欲」の経文は、まさに慢にして著欲の池田大作の所業である、と返上しておきます。
 なんと言おうと、池田大作を除く創価学会員はすべて日蓮正宗の各寺院の信徒だから、その筋目の上から参詣を拒否したことは、いまだにありません。平成三年以降、現在に至るまで、自分達のほうからあらゆる会員を洗脳して「行くな、行くな」と言っておいて、日顕が拒否したと言うのは、道理に合わないではありませんか。自らの非を棚に上げて日顕を誹謗する池田や秋谷そのほかの洗脳会員こそ、無間地獄行きなのであります。


 皆から仰がれたければ、日興遺誡置文のとおりに生きることでしょう。
『一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事。
 一、弘通の法師に於ては下輩と雖も老僧の思を致す可き事。
 一、下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事。』 (P.1618)
 妙観の大草は、懸命に悪智恵を絞って
「日蓮正宗全体の信仰に約すと僧宝は日興上人唯御一人だが、各々別々の立場の信仰に約すと歴代法主、末寺住職を僧宝とする」
などという、全く新しい邪義を開発しましたが、このような邪義を宗規第1章に当てはめれば、
「日蓮正宗全体の信仰に約すと本仏は日蓮大聖人唯御一人だが、各々別々の立場の信仰に約すと歴代法主、末寺住職を本仏とする」
「日蓮正宗全体の信仰に約すと正依は日蓮大聖人の御書等だが、各々別々の立場の信仰に約すと歴代法主、末寺住職の語録を正依とする」
等々の大爆笑もののイカサマがいくらでもまかり通るではありませんか。こういうのを二枚舌と呼び、このようなウソに騙される日顕宗の信者を「愚か者」と大聖人は嘆かれているのです。
『私に経文を作り経文に私の言を加へなんどせる人是れ多し、然りと雖も愚者は是を真と思ふなり』(P.882) (※善無畏三蔵抄)

 次に『遺誡置文』の三文を挙げていますが、この文に自分らが当たっていると思っているのでしょうか。池田や創価学会は、身軽法重の行者でもなく、正しい弘通の法師でもなく、正法の智の勝れたる者でもない、憍慢、懈怠、計我、浅識、著欲等の薄汚い心情で、血脈相伝の仏法を毀る者に過ぎません。
 さらに、妙観講の大草氏の僧宝についての立て分けを述べたのに対し、本仏大聖人を例にしたり、御書・語録を例として勝手な論を創作し、それを「大爆笑もの」と言っておりますが、これは屁理屈以上に、悪意に満ちた不適当な例えであります。僧宝は日興上人を随一とし、以下、正しい法脈を伝える歴代上人、さらに、その正義を信行して広布に励む日蓮正宗僧侶、および正しい法華講の信徒をも大きく含むのであります。
 ただし、創価学会は池田信仰等の邪心の故に、本門下種僧宝に値しません。「二枚舌」も「愚か者」も、ことごとく池田創価学会の従来の行為・行動に該当するもの、と言っておきます。

 

※『第八項 『御本尊七箇相承』に関する邪難、ならびに『一期弘法付嘱書』中の「国主」を池田大作とする誑言を嗤う』へつづく

 


第八項 『御本尊七箇相承』に関する邪難、ならびに『一期弘法付嘱書』中の「国主」を池田大作とする誑言を嗤う

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

 第八項 『御本尊七箇相承』に関する邪難、ならびに『一期弘法付嘱書』中の「国主」を池田大作とする誑言を嗤う



 「代々の聖人ことごとく日蓮なり」(御本尊七箇相承)とあるから、代々の法
主を大聖人と仰がなければならない。
(文責者注・右文は創価学会が宗門の主張として挙げたもの)

 妙観は「代々の上人ことごとく日蓮なり」と意図的に経文を改鼠するという大謗法を犯していますが、これも切り文の典型なのです。ちゃんと前後の文をよく読んで見なさい!
 まず御本尊七箇相承の本文には、
『七、日蓮と御判を置き給ふ事如何、師の曰はく首題も釈迦多宝も・・天照八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり、之に付いて受持法華本門の四部の衆を悉く聖人の化身と思ふ可きか』(富士宗学要集1巻P.32)
と、御本尊を持ったすべての人々を大聖人の化身と思わなければならないと示されているのです。法主だけが大聖人の化身だとどこに書いていますか?正しく御本尊を持つ限りは皆同じ仏子だということが分からないのでしょうか。

 彼等は「代々の聖人」云々の文を挙げておいて、まず切り文の典型だと言い、次いで『七箇之相承』の、
「七、日蓮と御判を置き給う事如何(中略)悉く日蓮なりと申す心なり。之れに付いて受持法華本門の四部の衆を、悉く聖人の化身と思う可きか」
(日蓮正宗聖典三七九)
の文を引いて、御本尊を持つすべての人が「大聖人の化身」で、皆、同じ仏子だと言うのですが、この御文は破法・仏敵となった池田や創価学会の者のことではなく、純真な信解をもって大法を護る日蓮正宗の僧俗、現法華講衆を、その自行化他の功徳において称せられたお言葉であります。
 池田創価学会は、大聖人を利用・悪用して法外な金儲けを企み、自分の都合のよいウソで塗り固めた謀略情報を流して会員を洗脳し、組織を保つ団体であります。現今は、謗法を責めず、邪宗に頭を下げ、結託しております。こんな信心上のクズどもが、「大聖人の化身」のはずはありません。
  「何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし」(御書一〇四〇)
の『曽谷抄』の文は、現在、まさに創価学会に向けられていることを知らなければなりません。
 また、
  「代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(日蓮正宗聖典三七九)
の文については、このあとに再度、彼等が引文しているので、その所で正義をはっきり教えてやることにします。


 この本文の七箇条の後に、追加で三箇条があり、第二条が最初の文なのです。
全文を示せば、
『一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり』(富士宗学要集1巻P.32)
ですが、これらの文は、日寛上人が「観心本尊抄文段」で相伝書の内容を列記された中の、
『本尊七箇の口決、三重の相伝、筆法の大事』(文段集P.444)
と述べられた箇所で、本文が「本尊七箇の口決」で、追加の部分が「筆法の大事」に該当するものなのです。
 つまり「筆法の大事」とは、日応上人が弁惑観心抄で「金口嫡嫡相承」と述べ、日亨上人が「有師化儀抄註解」で「曼陀羅書写の大権は唯授一人金口相承の法主に在り」と述べた御本尊の判形(第△代日◎の下の花押のこと)の記載権のことを示しており、この文を「時の法主は大聖人だ」などと解釈するのは、切り文による歪曲以外の何ものでもありません。

 次に、彼等は、
「一、日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(日蓮正宗聖典三七九)
の文を、単なる「御本尊の判形の記載権のこと」だと軽んじていますが、この文は、この二カ条前の、
「……法界即日蓮、日蓮即法界なり(乃至)本尊書写の事、予が顕わし奉るが如くなるべし。若し日蓮御判と書かずんば天神・地神もよも用い給わざらん云云」(同)
の文と密接に関連することが判らないのでしょうか。
 二カ条あとに、さらに重ねて「日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべし」と言われる文旨は、日蓮大聖人の本仏たる御判形の深意を歴代の法主の身にお受けし奉る故に「日蓮在御判」と書し奉り、同時に、そのもぬけられた能徳の義をもって、嫡々代々の署名・花押を書すのであります。故に、その深意を受けて「深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」と示されるのです。
 これが御本尊の書写を中心とする法主内証の甚深の意義であることは当然であります。しかし、この文によって代々の法主が、直ちに「私は大聖人だ」などと言われることはないのであります。宗門においても、だれもそのようなことは言っておりません。
 不肖・日顕も、登座以来、「私は大聖人だ」などと言ったことは一度もありません。あるならば、創価学会で「文証、文証」と連発する癖からも、その文証をはっきり出してみよ、と言っておきます。
 むしろ、「代々の法主を大聖人と仰がなければならない」などと言ったのは創価学会でした。戸田城聖氏は「信者の大精神に立て」との檄文のなかで、
  「新猊下を大聖人様としておつかえ申し上げ云云」(聖教新聞 昭和三一年一月二九日付)
と述べ、池田大作も、
  「遣使還告であられる御法主上人猊下は、日蓮大聖人様であります」(会長講演集一〇巻四三)
と述べているのです。
 たしかに本宗信徒の立場からは、歴代法主の内証を大聖人様と拝することが、信仰上、大切でありますが、そこには三宝における内証と外用等の甚深の立て分け、筋道があるのです。
 故に、法華講においても、代々の法主の内証を拝し、その指南を通して大聖人を拝し奉るところの本宗の師弟相対の本義の上から、特に法主の内証を尊崇すべき発言があります。しかし、それと学会が論難する「法主即大聖人」や「法主本仏」などとは、筋道も意義も異なるのであり、そのようなことは全く宗門には存在しておりません。
 存在していないにもかかわらず、さも存在している如く誣告するのが、創価学会の卑劣なやり方であります。


 なお、この御本尊七箇相承は、日顕宗の平成新編御書では削除されていますが、正しい相承書ではないのでしょうか?日顕宗の輩を問い詰めてみましょう。

 次に、しつこく『七箇之相承』を『平成新編御書』から抜いた理由を偽書に擬して述べていますが、今回は書き下しにし、一般普及用とした趣意より抜いたまでであります。これについては先にも述べましたので省略いたしますが、悪餓鬼どもの愚かな詮索、と笑っておきましょう(創価学会の偽造本尊義を破す116頁を参照)。


 ちなみに、法主に与えられているのは、「法体相承」とこれに付随した「金口嫡嫡相承」である、と日応上人は日蓮正宗の正依でも傍依でもない「弁惑観心抄」で述べているのですが、我々はこれを根拠とはしません。このうち「法体相承」の法体とは、先述の
  『法体とは本有常住なり一切衆生の慈悲心是なり』(P.711)(※御義口伝)
  『法体とは南無妙法蓮華経なり』(P.709) (※御義口伝)
『所詮妙法蓮華経の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり』(P.512) (※当体義抄)
等の御書からも、決して大聖人は戒壇の大御本尊のみを「法体」とは呼んでいないのです。
 では戒壇の大御本尊とその他の御本尊との違いは何かと言えば、日寛上人が「観心本尊抄文段」で、
  『本門戒壇の本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応にこれ別体の本尊なるべし。これ則ち面々各々の本尊なるが故なり。』(文段集P.502)
と示されたとおり、一切衆生の本尊なのです。それを日顕宗の輩は嫉妬と金欲しさに独占したばかりか、「総別の二義」という切り文で御本尊を否定しようとしたのですが、「総別」を単純にこの文に照らせば、総じてが大御本尊、別してがそれぞれの御本尊ということになるではありませんか。日寛上人の言葉を文証に依って正しく論じないと日顕宗の主張は矛盾だらけの邪義に堕ちるのです。
 そして、大御本尊の力は途中の淫乱法主がいなかったら完全ではない、という大謗法を犯したのです。教主釈尊の出世の本懐である人の振る舞いにも背き、人法不一致で、日顕の眷属にどうして功徳が生まれるでしょうか。
 また「自余(そのほか)の本尊」つまり「面々各々の本尊」も大聖人の魂を墨に染め流して書かれたものであり、この御本尊に題目をあげれば我々がそのままで大聖人と同じ仏となるという深い意味は、既に述べた多くの相承書に書かれているとおりなのです。
『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。』(P.1124) (※経王殿御返事)

 次に、法体相承と付随する金口嫡々相承が法主にありとする日応上人の説は採らないと言い、法体の御文のある『御義口伝』序品の二文、『当体義抄』の「当体」の文を挙げて、法体とは一切衆生の慈悲心、父母所生の肉身等の意があり、大聖人が必ずしも本門戒壇の大御本尊のことのみを法体と言っていないなどと、法体の中心の意を薄めております。これらは、彼等の主張の全体に通ずる主意ですが、素人まる出しの解釈で、文辞は一なりといえども、義おのおの異なるという法門の筋目に無知な所以であります。
 法体について、いわゆる宗旨の三大秘法の惣在に約する法体と、功能としての本門の題目、あるいは本門の戒壇等の法門に約される場合があります。
 創価学会の引く三文の初文、すなわち、
  「法体とは本有常住なり。一切衆生の慈悲心是なり」(御書一七二三)
とは、本仏の照らし給う寿量所顕、法界無作三身の理即の三身中の応身の慈悲であり、その意味と範囲の法体なのであります。
 第二の、
  「法体とは南無妙法蓮華経なり」(御書一七二一)
の文は、序品とはいえ、就法と功帰、就法中の名通と義別、功帰のなかの本果本因と功を推すところ、本地甚深の奥蔵たる本因名字所証の妙法、すなわち、三大秘法惣在の妙法蓮華経であります。この三大秘法惣在の妙法蓮華経は、末法に上行菩薩の再誕、顕本・日蓮大聖人により本門戒壇の大御本尊と顕されたのであります。故に、日寛上人は、
  「本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づく」(大石寺版六巻抄八二)
と仰せであります。故に、法体とは三大秘法なのであり、また、戒壇の大御本尊であります。『三大秘法抄』にも、
  「然りと雖も三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず」(御書一五九四)
と、明らかに秘法の体、すなわち、法体を本仏能化の所持に約して説き給う文を見よ。
 第三の文は、字句が「当体」である故に論証より除きますが、いずれにせよ、「日蓮が弟子檀那等」とは、けっして創価学会のような謗法だらけの信者のことではなく、日蓮正宗の僧俗のことなのであります。
 特に、その三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊は、大聖人より日興上人へ一期弘法の意をもって付嘱せられ、日興上人は日目上人へ『日興跡条々事』に、
「一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」(同一八八三)
と、明らかに法体の付嘱を示されたのであります。以後、日道上人、日行上人と、代々、この法体の血脈を伝承して今日に至っております。
 また、日寛上人の『本尊抄文段』の、
「本門戒壇の本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応にこれ別体の本尊なるべし。これ則ち面々各々の本尊なるが故なり」(日寛上人文段集五〇二)
との文を引いて、「(宗門は)『総別の二義』という切り文で御本尊を否定しようとしたのですが、『総別』を単純にこの文に照らせば、総じてが大御本尊、別してがそれぞれの御本尊ということになる」から、「日寛上人の言葉を文証に依って正しく論じないと日顕宗の主張は矛盾だらけの邪義に堕ちる」などと、本尊に関する総体・別体を持ち出して、血脈に関する総別の筋道をごまかそうとしているのです。
 しかし、そもそも「総別」には、「一般的なことと、特別なこと」といった意味のほか、「まとめることと、分けること」という意味があるのです。ひとくちに「総別」と言っても、文義の構格から、その意を正しく拝さなければなりません。
 すなわち、血脈に関する「総別」とは前者の意味であって、「別して」の法体相承にその主意が存することは当然です。これに対し、ここで日寛上人が仰せられた、本尊における「総体・別体」とは、「総体・別体の地涌」や「総体・別体の受持」等と同義で、後者の意味に当るのです。このことは、特に「体」という字が付されていることからも判ります。したがって、ここにおける主意は、血脈等に関する総別とは異なり、まとめられた意義としての「総体」たる本門戒壇の大御本尊にあることは、言うまでもありません。
 日寛上人が戒壇の御本尊について「総体の本尊」「一閻浮提の一切衆生の本尊」と仰せなのは、本仏大聖人の大慈大悲が一切衆生の成仏を志し給う故であり、したがって、本仏の慈悲の判らぬ者どもは、それに応えて参詣しようとしません。創価学会もそのとおりであります。
 それを、彼等は「『自余(そのほか)の御本尊』つまり『面々各々の本尊』も大聖人の魂を墨に染め流して書かれたものであり、この御本尊に題目をあげれば我々がそのままで大聖人と同じ仏になる」などと、総体の本尊と別体の本尊は、単に対告衆の総別の違いにだけあるとして、法体の中心を破ろうとしているのです。まさに本末顛倒の謬見であり、ずいぶん頭のふやけた大莫迦者と言うほかありません。
 日寛上人が、同じ『本尊抄文段』のなかで、
「弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(同四五二)
と、本門戒壇の大御本尊こそ、御化導の究竟・本懐であり、三大秘法の随一、一閻浮提総体の本尊であると、まさに法体に約して「総体」と仰せになっているではありませんか。
 しかも、この仰せには、その深意における法体の相伝が存すること、そして日興上人、日目上人以下、代々相伝の実相より、信心さえあれば、本門戒壇の大御本尊ならびにその深義を相伝する法体の血脈が存することを拝せないはずはないのです。
 これが信じられず、日応上人の御指南を否定する創価学会は、「信心、信心」と口には言いつつ、正しい信心が全くない者である、と言っておきます。


 また、与えて言えば、「法体相承」とは、日興上人が『富士一跡門徒存知の事』で
  『同一処に安置し奉り六人一同に守護し奉る可し、是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉るべし』(P.1606)
と、広宣流布の時に「本化国主」が大御本尊を訪ねてくる日まで護持する責務のことである、として指南されているとおりです。

 次に『富士一跡門徒存知事』の六人一同守護の文を引いて、これが法体相承などと知ったかぶりをしていますが、これも例の切り文であります。その前に、
  「日興門徒の所持の輩に於ては」(御書一八七二)
とあり、『弟子分帖』に示されたような一機一縁の本尊の処置を申されているのであって、唯授一人の法体相承、戒壇本尊のことではないのであります。
 こんなところにも、なんとか法主の法体相承を否定しようとする、創価学会の悪意が表れております。しかし、所詮、その主張は切り文による我田引水なのであります。


 ここで「本化」とは、御義口伝に、
『地涌の菩薩を本化と云えり』(P.751)
とあるとおり地涌の菩薩のことであり、「国主」とは大聖人が「一期弘法付嘱書」で国の字を「口に民」と大聖人独自の文字を使われているように、「民衆の王者」すなわち学会の最高のリーダーを指すのです。
 先述のとおり、大聖人も四菩薩が真の折伏を実践する時には、在家の王となって出現すると断言されているのです。
『当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す』(P.254)(※観心本尊抄)
 この賢王が広宣流布を実現する金輪聖王であるとするならば、現代の諸国の大王達が信服随従する姿を以て、池田先生こそ地涌の賢王と呼ぶことが出来ます。今まさに夢にまで見た一閻浮提広宣流布の時が来たのです。

 次に、鉄面皮この上もない憍慢の言として、創価学会は「本化国主」という『門徒存知事』の言葉をとらえて、本化とは地涌の菩薩であるとし、次いで、大聖人の『一期弘法付嘱書』の「国主」に「囻」と書かれているから「『民衆の王者』すなわち学会の最高のリーダーを指す」と、あきれ返った言を吐いております。さらに『観心本尊抄』の、
「此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」(御書六六一)
の文を引いて、「この賢王が広宣流布を実現する金輪聖王であるとするならば、現代の諸国の大王達が信伏随従する姿を以て、池田先生こそ地涌の賢王と呼ぶことが出来」、「一閻浮提広宣流布の時が来た」と言っております。まことに冗談にしても度が過ぎる、手前勝手な妄論であります。
 これは、池田の昔からの野心・野望を取り巻きから言わせようとしたのです。しかし、考えてもみなさい。『一期弘法付嘱書』は、その本旨解釈権は付嘱によって代々の法主に伝えられておるのです。言うにことを欠いて、その文中の「国主」が、創価学会の最高リーダー、つまり池田などということは、大聖人の『一期弘法書』を冒涜し、大聖人の御仏智を蔑ろにする思い上がりであります。
 まず、創価学会が「民衆の王者」といううぬぼれは、池田とその取り巻きぐらいで、社会ではけっして通用しません。邪悪、奸曲、虚偽、金権、あらゆる悪徳の渦巻く伏魔殿・創価学会は、まさに社会の鼻つまみ者であり、社会を毒する邪教団であります。民衆の敵、社会の賊であることを、いよいよ明らかにすべきです。
 池田は、邪まな金権体質をもって、外国へ行って物質的贈与をなし、勲章をあさっているに過ぎません。正法をもって折伏など全くできないくせに、詐り親しんで空虚な名声を望む、大聖人違背の奸物であります。『本尊抄』の「折伏を現ずる時は賢王となって愚王を誡責」などの勝行は、薬にしたくとも存在しないのです。
 このような自画自讃を、呵々大笑するのみであります。

※『第九項 「偽造写真」を根拠とした人間性無視の卑劣な讒言・誣告を破折する』へつづく

 

 

 


第九項 「偽造写真」を根拠とした人間性無視の卑劣な讒言・誣告を破折する

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

 第九項 「偽造写真」を根拠とした人間性無視の卑劣な讒言・誣告を破折する



 「末法無戒」とあるとおり、酒や女で遊んでも根本的には問題ない。
(文責者注・右文は創価学会が宗門の主張として挙げたもの)

 堀日亨上人が「有師化儀抄註解」において「化儀抄」の
『破戒無智にして上位となすべからず』(富士宗学要集1巻P.146)
の文を引き、厳しく御指南されているのも知らないで、よくそんな愚かなことが言えたものです!

 実に誣告、欺瞞の言である、と言っておきます。このようなことを、日蓮正宗でどこに言っているのか。「よくそんな愚かなことが言えたものです!」と言う以上、明らかにその具体的事実を示してみなさい。文なく義なきに、言い掛かりをつけるべからず、と一蹴しておきます。


 『三界恩愛の家を出て永く煩悩と別るる事が出家僧侶の義分なれば持戒清浄が本意なり乃至末法無戒と示し給ふも、唯正像末の時の区別に従ふ大判にして・持破に超然たれと云にあり、敢えて酒食婬事に耽溺(たんでき=おぼれること)して末法無戒と誇れと云はしめんとにはあらざるなり『破戒無智にして上位となすべからず』とは此れ末法無戒が宗門の誇にあらざることを顕し給へり乃至「上位」とは班中の上首なり本山にては貫首・末寺にては住職等なり』(富士宗学要 集1巻P.148)
と、末法無戒と言って坊主が酒食婬事(宴会や女性との淫らな遊び=芸者遊び)をして遊ぶのは許されるものではないこと、さらにはそのような生臭坊主を法主や住職にしてはならないと厳しく御指南されているではありませんか!恥を知るべきです!
 日興遺誡置文においても、
「先師の如く予が化儀も聖僧たるべし、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の婬犯有りと雖も衆徒に差置く可き事」
と、法主が淫行をしたら平僧にするべきである、とまで明言されているではありませんか!日顕宗の坊主どもは、いったいどこに目をつけて御書を読んでいるのでしょうか?
 日顕宗のクソ坊主どもは、日興上人の遺誡置文を引かれた日亨上人の嘆きに耳を傾けるべきです。
  「開山上人がこの法度に『先師の如く予が化儀も聖僧たるべし』と定められ、先師大聖人が無戒であるが、放埒破戒でないことを、証明せられており、日順・日尊にもまた放埒を誡めた文もあるが、この淑行聖僧というのは、現今の僧行を認めたものではない。ややもすれば、多少の反省心より汚行を恥づる有羞僧を見て、かえって身心相応せぬ虚偽漢と罵り、全分の生活まったく在家同然で、心意またこれに相応し、たんに袈裟衣を着てるだけの違いを、かえって偽らざる正直の僧と自負する者があるやに聞く。このていの放埒ぶりを標準とせば、この条目はいまは死んでおる。自分はいまの状態は一時の変体と見ておる。』(富士日興上人詳伝(下)P.272)

 さて、日蓮正宗においては、僧俗和合して厚い相互の信頼のもとに、大聖人、日興上人、日目上人の垂訓を根本として、日夜、正法護持興隆に努めております。邪教と手を握り、本筋よりすべて逸脱した創価学会如き者とは、本質的に異なっているのであります。
巷間に伝え聞く様々な犯罪等の関係者として,創価学会の会員の関与が多いとも聞いております。おまえらがここに挙げたような文証に,すべて本質的に背いているのが学会員であり,日蓮正宗は信心の上から孜々としてこの文義を体し,広布に励んでいるのであります。
 次に「末法無戒と言って坊主が酒食淫事をして遊ぶ」云々は、まず、おまえら創価学会の捏造・欺瞞による写真偽造事件のことでありましょう。その経過より見て、わざわざ写真を偽造する手の込んだやり口は、ことごとく芸者遊びという悪口誹謗を仕立てる意味であり、これは、そのしからざる所以を訴え、目下、係争中のことではありませんか。しかれば、確定事項の如く言うことは、道理に反することであります。
 また、その創価学会の論拠は、スリ替え、捏造であることを、当方は明らかに主張しております。もし、いまだ国法の裁きで決定しないことを事実と言うなら、おぞましい池田大作の女性問題事件こそ、恥知らず、色魔と言うべきであります。これこそ人倫にもとる大破廉恥事件であり、写真偽造事件の内容と同日の談ではありません。
 写真偽造事件は、椎名法宣、阿部法胤の両名が古稀を迎え、その祝いとして一席設けたいので、ぜひ出席をと頼まれて、日開上人の遺弟一同、それにその関係者の寺族、弟子、子供等が加わって、それらの人々の企画によって宴席の一切が行われたのであります。故に、場所、内容等の設定には、日顕は一切関知していないし、招待を受けたから行って、その宴席で一時を過ごしたというだけであります。ただ、宴席にいた者からの希望による記念写真やスナップ写真を撮った者があり、それが反逆僧・椎名法昭の手によって、のちに創価学会に渡り、この写真をいかにも日顕が芸者遊びをしている如き印象と受け取れるように造り変え、偽造して、大々的に芸者遊びと宣伝したものであります。
 この経過を正しく見れば、日顕が芸者遊びをしたという事実はどこにもありません。それをやみくもに決定としてしまうところに、池田大作の指導である「ウソも百遍繰り返せば真実になる」という、人間性無視の卑劣な創価学会の体質がある、と指摘しておくものであります。

 芸者遊びに狂っている坊主どもは、「一時の変体」どころか、「常時変態」である。恥を知りなさい。そして、そのような坊主を絶対に法主や住職にしてはならない、平僧にしろ、というのが、大聖人門下の正しい化儀なのです。

 最後の「芸者遊びに狂っている坊主どもは、『一時の変体』どころか、『常時変態』である。恥を知りなさい」という言は、正宗僧侶が常に芸者遊びをしているということらしいのですが、証拠もなく当てずっぽうを言うなかれ、と言っておきます。
 あるならば、その実証を挙げなさい。推測の誹謗を邪推・虚言と言うのです。
 師匠が師匠なら弟子も弟子で、色魔の池田大作を師匠とする創価学会幹部には、とかく女性問題が多いようです。「常時変態」は、おまえ達学会幹部のことではないのか。自らの卑しい心根や行状を元に、他に対して想像を逞しくするなかれ、と言っておきます。

 

※『第十項 『化儀抄』の御供養取り次ぎに関する条項を「ネコババ防止の化儀」と冒涜する妄言を破折する』へつづく

 


第十項 『化儀抄』の御供養取り次ぎに関する条項を「ネコババ防止の化儀」と冒涜する妄言を破折する

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

 第十項 『化儀抄』の御供養取り次ぎに関する条項を「ネコババ防止の化儀」と冒涜する妄言を破折する



 「先師先師は過去して残る所は当住持計なる故なり。住持の見玉ふ処が諸仏聖者の見玉ふ処なり」(化儀抄)とあるとおり、大石寺の貫首(当住持)こそが大聖人の代理の立場に相当するのだ。
(文責者注・右文は創価学会が宗門の主張として挙げたもの)

 これも全く全文を読んでいない者のたわごとではありませんか!日亨上人がこの有師化儀抄註解でこの文を説明して、
『本条は本山にありて住持の外に施物を取次ぐ者ある時の場合を云ふ』(富士宗学要集第1巻P.146)
と、所化や役僧のネコババ防止用の化儀だということが明らかになっているではありませんか!だから『取次の役僧は取次の又取次なれば・本取次たるべき住持の上人の指揮を仰ぐべし』(同P.146)
と日亨上人は解説されているのです。日顕がお布施を見る姿が、大聖人が信徒のご供養を見る姿と同じならば、どうして芸者遊びなどが出来ようか。この食法餓鬼め!

 この文に対する創価学会の言い分は、まことに無様極まる苦しい作り替えで、その下劣な心情は、ただただ哀れを催すのみであります。
 『有師化儀抄』の文と、日亨上人の『註解』を挙げて、その文意を「所化や役僧のネコババ防止用の化儀だ」という、めちゃくちゃな解釈をしますが、この文および前後の日亨上人の『註解』に、ネコババ防止用の化儀などの意味は片鱗も認められません。そして『註解』の文についても、彼等の大得意の切り文を行って、条文本来の趣意を隠しております。よほど頭が悪いか、あるいは邪智・欺瞞性のはなはだしい者どもであります。
 まず、『註解』の、
  「本条は本山にありて住持の外に施物を取次ぐ者ある時の場合を云ふ」
(富士宗学要集一巻一四六)
という意味は、弟子・檀那より供養があったとき、直接住持にお目通りして捧げる場合と、直接お目通りせずに役僧等へ手渡す場合があり、それを御宝前へお供えするに当たり、住持にお目にかけず、手軽な感じでお供えしてはいけない。必ず住持のお目にかけたあと、その指揮を仰いでお供えすべきである、との仏法の筋道からの意であり、ネコババ防止用などの意は全くないのであります。品性下劣な創価学会の者どもは、その解釈までが下劣なことを顕しております。
 日亨上人は、
  「御取次を為すに一ぱら住持の意を受けよ」(同)
というについて「二義あるべし」として、
「一には取次の役僧は取次の又取次なれば・本取次たるべき住持の上人の指揮を仰ぐべし」(同)
と言われる文が、創価学会で引く二番目の文であります。しかし、ネコババ防止用などの意は全然ないのです。
 しかして、次に続く文こそ、創価学会が都合が悪いために頬被りした、切り文隠しの箇所であります。すなわち、日亨上人云わく、
「二には住持の上人は高開三祖等次第に過去し給へる後の現存者なるを以て・現住即高開三の代表にして・現住の見る(施物を)所は仏聖人の見給ふ処なるが故に・先づ其所の住持の御目にかけてと仰せあり」(同)
と、『化儀抄』の本文と全く同じ意、すなわち、本山・本寺における現在の住職即、大聖人、日興上人の代表と言われておるのであります。
 これについて、わざと隠して会通もなさず、矛盾した結論を平気でほざき、ただ「ネコババ」の悪口で片付けんとする無知無慙な悪言は、これこそ創価学会のお家芸であります。
 次に「日顕(中略)どうして芸者遊びなどが出来ようか。この食法餓鬼め」と、笑いたくなるような幼稚な悪態をついております。しかし、言うところの芸者遊びの証拠写真は、前項に述べた如く、創価学会の手の込んだ偽造写真であり、この会合は日顕の企画するところでは全くなく、椎名法宣、阿部法胤両名の古稀の祝いに招かれたもので、その会合の一切は志主側の意向によっているのであります。故に、芸者遊びなどをしたように誹謗心をもって喧伝するのは、明らかに邪悪な不当行為であります。
 特にこの件は、現在、宗門側が原告となって、司法の裁断に委ねられておる最中であります。それを無視して敢えて芸者遊びと言うなら、やはり同じく係争中である池田大作の女性問題事件も「夫ある女性と関係した色魔め」ということになりましょう。池田に対しても、ひとつ、そう叫んでみたらどうでしょうか。
 ともあれ、この項も、仏法の血脈伝承の筋道をなんの理由もなく否定し、悪口しているに過ぎないのであります。

 

※『第十一項 「手続の師匠」を精解した『化儀抄註解』の文意を歪曲し、血脈相伝の師を謗ずる妄説を破折する』へつづく


第十一項 「手続の師匠」を精解した『化儀抄註解』の文意を歪曲し、血脈相伝の師を謗ずる妄説を破折する

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

 第十一項 「手続の師匠」を精解した『化儀抄註解』の文意を歪曲し、血脈相伝の師を謗ずる妄説を破折する


 「手続の師匠の所は・三世諸仏高祖已来代々上人のもたげられたる故に・師匠の所を能々取り定めて信を取るべし・又我弟子も此の如くに信を取るべし、此時は何も妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり・此を即身成仏と云ふなり」(化儀抄)とあるとおり、ご法主とご住職に信を取らなければ成仏は出来ない。
  (文責者注・右文は創価学会が宗門の主張として挙げたもの)

 切り文をやめて、日亨上人の註解をよくよく読んでから口をあけなさい!大聖人の手続の師匠は釈尊とされているではありませんか。これが道善坊ならば、末持の住職も手続の師匠と言えるかも知れませんが、決してそんな浅はかな師弟ではないのです。

 まず、「切り文をやめて、日亨上人の註解をよくよく読んでから口をあけなさい!」との言は、ごまかし以外の何ものでもないのです。この『有師化儀抄』の文は、箇条として全文であります。創価学会の引証の如く、都合の悪い所を抜いた切り文ではありません。それとも、この浅識者は「切り文」ということすら判らないで、愚かな強がりを言っておるのでしょうか。
 右の『化儀抄』の文は、明らかに「手続の師匠」すなわち、現在の師匠の大切なことを申されています。
  「三世諸仏高祖已来代々上人のもたげられたる故に」(富士宗学要集一巻一二四)の「もたげられたる」とは「持ち上げられた」という意味で、正訳すれば、
  「手続の師匠の仏法護持のところは、三世諸仏高祖已来代々上人の仏法所持弘通を、その時々の代表者として持ち上げられ、奉上・興起するところである。故に、その師匠の仏法所持のところをよくよく取り定め、信心を取るべし」
との御指南であり、まがう方なき現在の法主までの地位を述べられているのです。故に、明らかに当代の法主と、また、その各地に任命した住職へ信を取って成仏すべき筋道を示された文です。
 彼等は、これがたいへん都合悪いため、まともな解釈を逃げて、日亨上人の『註解』を引っ張り出して「よくよく読んでから口をあけなさい」などと居丈高に罵るのは、内心、自らの誤りを認めつつ、卑劣なスリ替えを図っているのです。
それでは、その日亨上人の『註解』が『化儀抄』の本文と違っているや否や。もし違っているとしたら本文の『化儀抄』の主旨を取らねばならないはずで、この点でも学会の言うことは逆なのです。
 さて、その『註解』の文を、彼の論拠をも含めて引いてみましょう。
「『手続』とは経次又は順序の義なり・仏に通達する道程は必ず師匠に由らざるを得ず・仏の法を受取るには是非とも師範の手を経ざるを得ず、世間に物件の授受は必ず手を以つて受渡しを為す故に・手続又は手継の成語生ず、惣勘文抄に三世諸仏の手継の文書を釈迦仏より相伝せられるゝ時と遊ばされたるは・師より弟子に父より子に相伝する時の手継の証文書類は・法華経なり妙法なりとの御意なり、今文は弟子より師匠に対して手続きの師匠と云へり・師は弟子をして先仏の法を未来に久住せしめ・弟子は師に依りて過去遠々の法を一時に受得す、義別にして手続の意異なる事なし、『もたげられたる』とは・もちあげたるなり・興起したるなり・奉上するなり弟子は師匠を尊敬して奉上すること・三世十方の通軌なれば・釈尊は迦葉仏に宗祖は釈尊に開山は宗祖に寛師は永師に霑師は誠師に師侍し・もたげ給ふ、師は針・弟子は糸の如く・法水相承血脈相伝等悉く師に依つて行はる、師弟の道は神聖ならざるべからず・世間の利害を離れて絶対ならざるべからず(乃至)『師匠の所を能々取り定めて信を取るべし』と仰なるは、千古の金言として仰ぐべき事なり、『又我弟子も此の如く我に信を取るべし』とは・三世の諸仏も高祖も開山も三祖も道師も行師も・各々其師範より法水を受けて信心を獲得決定し給ふ如く・有師も影師に依りて信を取り給へば・有師の弟子たらん者は・此の如く我にと即有師に信頼して信心決定すべしとなり、『此時は何も妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり』等とは・信の手続きに依りて師弟不二の妙理を顕はし・能所一体の妙義を証するを以つて本仏所証の妙法蓮華の色心は即所化の弟子の色心となるが故に・生仏一如師弟不二の即身成仏の域に達する事を得、是れ葢し信の手続によりて生する所のものなり」(富士宗学要集一巻一二四)
 この文を見なさい。これは、釈尊と大聖人の師弟関係のみを言われるのでなく、三世常住の仏法の正しい伝承を述べられていること、また、正直に『化儀抄』の本文を註解されていることが明らかです。なかんずく、「有師も影師に依りて信を取り給へば・有師の弟子たらん者は・此の如く我にと即有師に信頼して信心決定すべしとなり」の文をなんと見るや。それを寸断して、「大聖人の手続の師匠は釈尊とされているではありませんか」などと、しらじらしく言うのを、切り文の典型と言うのです。
 日亨上人の『註解』の文も、まがう方なき仏法の正しい伝授を、師弟相対によって示された明文ではありませんか。
 法華本門本有の妙法が、師弟の師資相承によって、常住不断に、もぬけられて存続するのであります。まさに七百年来の総本山大石寺の仏法伝承の相であります。
 故に、現在の信徒は現在の法主、また、末寺住職に信を取ることが大御本尊への素直な信心で、成仏の要諦となるのであります。
 また、道善房の例は全く道筋が異なっており、かかる例に出すことが愚かな失言、と言うべきであります。


 また、決して嫡嫡付法の法主の順序ではないことも、26世日寛上人の師匠は25世日宥ではなく、24世日永だと書かれていることから理解できます。
『宗祖は釈尊に開山は宗祖に寛師(26世)は永師(24世)に』(富士宗学要集第1巻P.124)

 また、『註解』の、
  「開山は宗祖に寛師は永師に」(富士宗学要集一巻一二四)
の文をもって、けっして嫡々付法の順序ではないなどの迷乱の言を吐いております。歴代中、御寿命や在世期間の関係その他の事情から、法脈伝承がその世数と前後することは、ある程度、存在するのが、むしろ当然であります。
 ただし、肝要なことは、必ず宗開両祖より伝わる血脈相承を受けた方によって、血脈が次の法主となるべき方に授けられるということであり、これを嫡々相承と言うのです。したがって、日亨上人の『註解』の言は、末法万年の嫡々付法をはっきり示されたものであり、それ以外ではないのです。全くわけの判らぬ幼稚な者どもであります。どこまで難癖をつければ気が済むのでしょうか。

 日蓮正宗の化法の正依である日興上人の遺誡置文には、師匠とするべき人の基準を明確に示されています。要するに真実の仏法を教えてくれた「我より智勝れたる者」を師匠とするのです。
 『下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば師匠とす可き事』(P.1618)
 我々は末法で二人目の法華経の行者となった池田先生を師匠として「各々其師範より法水を受けて信心を獲得決定し給ふ」のです。文証は御書に明確です。

『法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし』(P.230) (※開目抄)
この師弟の道によって「師弟不二の妙理を顕わし・能所一体の妙義を証するを以つて本仏所証の妙法蓮華経の色心は即所化の弟子の色心となる」(富士宗学要集第1巻P.125)のです。

 次に、日興上人の『遺誡置文』を引いて、師匠とする人の基準を示されたとしているが、『置文』全体におけるそれぞれの箇条の文義の正しい構格を、全く弁えていません。学会で引くこの文および直前の二文は、弘通とか研学に関する門下全般への誡めであり、この「師匠」と血脈相伝の師とは、全く内容・文旨が異なっているのです。
 つまり、『遺誡置文』の十四、十五、十六番目に当る三カ条は、興門下宗団のなかで、特に興学布教に関しての重大さを示す文なのです。上席者、長老僧より見て位の低い、いわゆる下劣な者でも、行体や弘通の勝れた者、法門に関し智慧の勝れた者に対しては、尊敬し、あるいは師としてその法門を聞くべしという、仏法に対する宗団内の心得について諭された文です。要するに、僧侶一般の心得なのであり、故に「下劣」「下輩」等の語を使われています。
 これに対し、血脈相伝の師が存在するという意義からは、
  「本寺に詣で学文すべき事」(御書一八八四)
  「極理を師伝」(同)
  「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事」(同一八八五)
等の文に示されるところです。これらの文義の区別も判らず、血脈の師を無視して、直ちにこの文が師匠とするべき人の基準だなぞと言うのは、不解・浅識の謗りを免れません。師といえばなんでも一つに考えるのが、創価学会の素人勉強の浅ましさであります。
 次に、この文によって池田を師範とすることを明言し、しかも「末法で二人目の法華経の行者となった池田先生」云々と、再度、池田が大聖人に肩を並べるという、これ以上の憍慢はありえない言を吐いております。法華経の行者が大聖人であることを明かされる実証は、勧持品二十行の身読にあったはずです。その身読も全くなく、国会喚問ほどのことすら、恐れて逃げ隠れる臆病な池田大作が、大聖人より二人目の法華経の行者だと言う、学会の思い上がりに対し、大聖人は仏法破壊の者として強くお怒りのことでしょう。
 池田が言う三類の強敵は、まさしく自分の過失によって招いたものであり、池田の行いは、法華経の行者にあらずして、反対に、そのまま僣聖増上慢に当たるとも言えます。
 これは、日顕をはじめ日蓮正宗の僧俗が、法華本門三大秘法を正しく護持する故に招き出したものであります。
 次に『註解』の、
  「各ゝ其師範より法水を受けて信心を獲得決定し給ふ」(富士宗学要集一巻一二五)
の文を、臆面もなく池田大作に当てはめるのも、例によって大変な切り文であり、曲解です。その文は、前に全文を引く如く、総本山大石寺の血脈を述べられた文であり、池田らの如き者のことではありません。
 続いて、以下に引用する『開目抄』の文も『註解』の師弟不二の証得の文も、正しい血脈に背く以上、すべては空文であり、全く当てはまらないのです。不当な文証をもって、厳正な仏法を汚すなかれ、と破折するものです。
 それに引き替え、日蓮正宗の信徒は戒壇の大御本尊のもと、未来永劫の血脈相伝によって広布に前進し、常住の仏法の功徳を得るのであります。

 

※『第十二項 本門戒壇の住処を煩わしきものとする悩乱・顛狂の暴言を破折する』へつづく