日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

創価学会『ニセ本尊』破折100問100答「目次」

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

創価学会『ニセ本尊』破折
        ―100問100答―
                      日蓮正宗法義研鑽委員会編


 平成五年(1993)十月一日、創価学会は、離脱僧・成田宣道からの申し出によるとして、栃木県・淨圓寺所蔵の総本山第二十六世日寛上人御書写の御本尊を、勝手に複写し、配布しはじめた。
 本書は、学会の『ニセ本尊』とその邪義を徹底的に破折し、本宗の本尊義を明らかにした法華講員必読の書である。

※各章の詳細は、ナンバー(数字・番号)をクリック下さい。


第一章 日蓮正宗の本尊

日蓮正宗の正しい本尊について教えてください。

日蓮大聖人はなぜ御本尊を顕わされたのですか。

「人法一箇」とはどういうことですか。

「本門戒壇の大御本尊」とはどういうことですか。

「一閻浮提総与の御本尊」とはどういうことですか。

戒壇の大御本尊と各家庭の御本尊との関係を教えてください。

学会版の経本で抹消した二座の観念文のうち、「久遠元初自受用報身如来の御当体」の意味を教えてください。


第二章 創価学会の本尊観

創価学会の本尊観は昔から一貫して変わらないのでしょうか。

「御本尊は幸福製造機」という考えは正しいのでしょうか。

10 池田大作氏は「もはや本尊はどれも同じ」といっていますが、正しいのでしょうか。

11 学会では「本尊は我々の胸中の肉団にある」といいますが、本当でしょうか。

12 「信心の二字の中にしか本尊はない」という考えは正しいのですか。

13 池田大作氏は「日蓮大聖人は宇宙の根本法則を一幅の曼荼羅に御図顕なされた」(池田スピ-チ S五六・一・二六)といっていますが、この考え方は正しいのですか。

14 学会では〃宗教的権威は不要、信心は御本尊対自分である〃ということを強調しますが、このような考えは正しいのですか。

15 現在、創価学会では「総本山へ参詣しなくてもよい」と指導していますが、戒壇の大御本尊へのお目通りを拒否して、家庭の御本尊を拝むだけで功徳はありますか。

16 日蓮正宗において、戒壇の大御本尊を離れた「御本尊根本」という考えは成り立ちますか。

17 “世間でも太陽を崇める宗教や富士山を敬う宗教がいくつもあるように、日蓮正宗を離れても本門戒壇の御本尊を根本として信仰することは少しもおかしいことではない”という考えは正しいのでしょうか。

18 「御本尊根本」であるならば、正しい信仰といえるのでしょうか。


第三章 「ニセ本尊」について

19 なぜ学会で授与する本尊が「ニセ本尊」なのですか。

20 総本山第二十六世日寛上人の御本尊を「ニセ本尊」と呼ぶのは日寛上人に対する冒涜ではありませんか。

21 日寛上人の御本尊を複写したものを、なぜ宗門では「日寛上人の本尊ではない」「日寛上人のお心にそむく大謗法」というのですか。

22 学会では「宗門が御本尊を下付してくれないので、やむをえず複写して授与することになった」といっていますが、本当ですか。

23 拝む人に「信力」「行力」があれば、複写本尊でも「仏力」「法力」を発現する、という主張は正しいのですか。

24 「ニセ本尊」を拝むとどうなるのですか。

25 「『ニセ本尊』に功徳がない」ということは、学会員が拝んでいる従来の御本尊には功徳があるということですか。


第四章 日蓮正宗の信仰

26 日蓮正宗の「信仰」とは何ですか。

27 「広宣流布」の本当の意味は何ですか。

28 「令法久住」と「広宣流布」とはどのような関係にあるのですか。

29 学会では「宗門は法主信仰だ」といっていますが本当ですか。


第五章 創価学会の信仰観

30 秋谷会長が「学会は『御書根本』として進んできた」と指導していますが、「御書根本」という考えは正しいのですか。

31 学会でいう「大聖人直結」は、正しいことなのですか。

32 学会でいう「人間主義」は、どこが間違っているのですか。

33 池田氏がいう「大宇宙の生命のリズムと小宇宙である自分が合致するために唱題をする」という考え方は正しいのですか。

34 「信心の血脈さえあればよい」という学会の指導は正しいのですか。

35 学会では「現在の宗門は狂っているから、宗門に従っても功徳はない」といっていますが本当でしょうか。

36 学会には、「池田名誉会長が『世界の指導者』として世界各国から称賛されることが広宣流布につながる」という考えがありますが、これは正しい考えでしょうか。

37 学会員は「学会のおかげ」「池田先生のおかげ」と指導されますが、これは正しい指導なのでしょうか。

38 学会では“先生と自分との関係を忘れない信心こそ功徳がある”との指導をしていますがこの考えは正しいのですか。

39 「学会員が増えることが広宣流布」ということは正しいのですか。

40 学会は「創立以来、一貫した信心」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、はたしてそうでしょうか。


第六章 血脈について

41 「唯授一人の血脈」と「信心の血脈」とは同じものですか。

42 唯授一人の血脈を否定して「御本尊根本」を唱えることは矛盾するのではありませんか。

43 学会では「信心唱題によってのみ法体の血脈を受けるのであって、決して法主一人に法体が伝わるわけではない。法体の血脈なるものが法主のみと説くのは邪義」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、そうなのでしょうか。

44 「創価学会こそ現代における唯一の『信心の血脈』を受け継ぐ和合僧団である」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当でしょうか。

45 日蓮正宗の僧宝について、『当流行事抄』には日興上人に限るとあり、『当家三衣抄』には「御歴代の諸師」とありますが、どちらが正しいのですか。

46 学会では「宗門は自らが、三宝の次第を越えた法主信仰を立て、僧宝としての働きを失っている」(聖教新聞 H三・一一・二〇)といっていますが、本当でしょうか。

47 学会では、「相承」や「相伝」とは別に「血脈」があると立て、「血脈は信心の次元の問題であり、大聖人と自分自身の問題である」(聖教新聞 H五・九・二〇)といっていますが、本当でしょうか。

48 「血脈相承の内容についても、『相伝書』が内外に公開されている現在、法主一人に伝わる法門などない」(聖教新聞 H五・九・八)といっていますが、本当ですか。


第七章 御本尊の書写・授与について

49 御本尊の「書写」とはどういうことですか。

50 学会では「従来、法主の権能とされてきた御本尊書写などは、実際は単なる『役割』にすぎない」といっていますが、本当でしょうか。

51 御法主上人以外の人が御本尊を書写したという例はありますか。

52 御隠尊猊下が御本尊を書写されることはあるのですか。

53 創価学会では「御本尊の書写や授与などの権限は広布を目指す『信心の血脈』ある和合僧団にこそ与えられる資格がある」といって創価学会の本尊授与を正当化していますが、それでよいのでしょうか。

54 御本尊に関する「書写」「授与」「允可」の権能は、どのような関係にあるのですか。

55 『本因妙抄』の抄末にある「唯授一人の血脈」の語は、後人の加筆であり、大聖人の教えではないと聞きましたが、本当ですか。

56 学会では、『百六箇抄』の「上行已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり」の御文を、後人が勝手に書き加えたもので、大聖人の御書ではないといっていますが、それは本当ですか。

57 「創価学会を破門し、広布を破壊しようとした法主に御本尊を授与する資格はない」(聖教新聞 H五・九・一八)といっていますが、本当ですか。

58 現在も末寺で御本尊を下付されますが、末寺の僧侶にも御本尊下付の権限があるのですか。

59 過去には学会の会館で御本尊を授与したことがありましたが、在家信徒にも授与の権能があるのですか。

60 「御本尊の偉大なる功徳を実証した者」には御本尊を授与する資格があるのですか。

61 御本尊を授与する場合は、総本山の許可が絶対に必要なのですか。


第八章 法主上人の允可、開眼について

62 「允可」とは、どういう意味ですか。

63 「開眼」とはどういうことですか。

64 末寺で下付されてきた御本尊は、御法主上人が開眼されたものなのですか。

65 学会では「本尊の開眼などは僧侶の権威を高めるための儀式、実際には無用のもの」と指導していますが、どうでしょうか。

66 聖教新聞には「拝する側の信力・行力によって、御本尊の仏力・法力は発現する。これが本来の開眼の意義である」(五・九・二〇付)といっておりますが、これは正しい考え方でしょうか。

67 昔は末寺でも、法主の許可なしで御形木御本尊を作って下付していたのではないでしょうか。

68 聖教新聞によると「従来は御本尊に関する権能が法主一人に限られたが、現在は『一閻浮提総与』の意味からも法主一人に限定する時代ではない」(聖教新聞 H五・九・二〇 取意)とありますが、それでよいのでしょうか。

69 宗門から離脱した僧侶の話では「総本山でも末寺でも御形木御本尊の開眼などは、していない」とのことですが、本当ですか。

70 特定の人に与えられた御本尊を、他の人が拝んでも功徳はありますか。

71 学会では、「一機一縁」とは大聖人の直筆御本尊に限られるもので、今回下付するのは日寛上人が「一閻浮提総与」の御本尊を書写されたものだから問題ないといっていますが、本当ですか。

72 創価学会の『ニセ御本尊』は、日寛上人の享保五年六月十三日御書写の御本尊に書かれていた「下野国小薬邑本如山浄圓寺大行阿闍梨本證坊日證授与之」という「授与書き」を抹消していますが、このような変造は許されることなのでしょうか。

73 御本尊の「授与書き」を抹消することが大謗法ならば、御歴代上人の御本尊に、「願主弥四郎国重」という「授与書き」が書かれていないのは大謗法になりませんか。

74 現在の創価学会は、本当に日寛上人の御精神に適った教団なのですか。

75 「御本尊根本の信心」や「広布を目指す信心」があれば、誰が本尊を複製してもよいのですか。

76 今回の創価学会のように、末寺の住職から所蔵の本尊を提供されれば、在家の者が複製して配布することは許されるのですか。

77 「正本堂賞与御本尊」について教えてください。


第九章 御授戒について

78 日蓮正宗の授戒にはどのような意義があるのでしょうか。

79 「受持即持戒」という仏法の本義に立てば、従来の御授戒の儀式は必要ないものになるのですか。

80 『十法界明因果抄』に「爾前経の如く師に随って、戒を持せず但此の経を信ずるが即ち持戒なり」(全集 四三七頁)とありますが、これは授戒の儀式を不要とする文証ではありませんか。

81 学会では「御授戒の儀式は、昭和十二年ごろ牧口会長が宗門に依頼して始められたもので、古来不変の伝統などはない」といっていますが、本当でしょうか。


第十章 昭和五十二年路線と本尊模刻事件について

82 「昭和五十二年路線」とはどういうことですか。

83 「本尊模刻事件」について簡単に説明してください。

84 「お守り御本尊」を模刻することはあるのですか。

85 模刻作業に携わった赤沢朝陽の社長は、昭和四十九年秋ごろに「日達上人は数体の御本尊の模刻を承知されていた」(聖教新聞 五・九・三〇)といっていますが、どうでしょうか。

86 なぜ、学会は本尊を模刻したのですか。

87 学会では、当時の宗門と学会との連絡協議会を記録した「藤本メモ」に、本尊模刻について宗門側が承諾した旨、明記してあると主張していますが、いかがですか。

88 「正信会裁判」の証人尋問で藤本総監は、本尊模刻について「これは謗法ではない」と証言されたそうですが、本当ですか。

89 昭和五十三年十月三日付の「院達」(宗務院からの通達)に「今後は創価学会の板御本尊に関しては、一切論議を禁止する」とありますが、今になって模刻問題を持ち出すのは御先師日達上人に背くことではありませんか。

90 学会では、模刻本尊を総本山に納めたのは、「日達上人と僧俗和合を守りたい」という宗門側の願い出があったため、と説明していますが、本当ですか。


第十一章 文証の検討

91 「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求ることなかれ」(生死一大事血脈抄・全集 一三三八頁)

92 「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(生死一大事血脈抄・全集 一三三八頁)

93 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(日女御前御返事・全集 一二四四頁)

94 「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」(観心本尊抄・全集 二五四頁)

95 「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違ふべからざるなり」(有師化儀抄・富要 一-六四頁)

96 「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違ふ時は(中略)即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり」(有師化儀抄註解・富要 一-一七六頁)

97 「信心に依りて御本仏より法水を受く、其の法水の本仏より信者に通ふ」(有師化儀抄註解・富要 一-一七六頁)

98 「法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり『其の人所住の処』等とは戒壇を証得して、寂光当体の妙理を顕すなり。当に知るべし。並びに題目の力用に由るべきなり」(当体義抄文段・富要 四-四〇〇頁)

99 「仏心も妙法五字の本尊なり。己心もまた妙法五字の本尊なり。己心・仏心異なりと雖も、妙法五字の本尊は異ならず」(観心本尊抄文段・富要 四-二三六頁)

100 「此れを以て考えますと将来の歴史家に立宗七百年以前は宗門の護持の時代とし、以後を流通広布の時代と定義するであろうと思います(中略)七百年の歴史は一に広宣流布を待望しつつ堅く護持してきた時代と申すべきでありましょう。しかし末法に入って千年のうち、はやくも九百年は過ぎました。もとより末法は千年に区切ることはありませんがともかく千年の終りに近づいて開宗七百年を転期として一大流布に入ったということは正法流布の上に深い約束があるのではないかと感ぜられるのであります。これを思うにつけても創価学会の出現によって、もって起った仏縁に唯ならないものがあると思います。(淳全 一六二〇頁)


 

引用書名略号

 

全 集――日蓮大聖人御書全集
新 定――昭和新定日蓮大聖人御書
聖 典――日蓮正宗聖典
開 結――妙法蓮華経並開結
歴 全――日蓮正宗歴代法主全書
研 教――研究教学書
富 要――富士宗学要集
文段集――日寛上人文段集
淳 全――日淳上人全集
達 全――日達上人全集
学 講――日蓮大聖人御書講義(学会版)

 

 

 

創価学会『ニセ本尊』破折
―100問100答―

 

平成六年一月一日 発行

 

編 者 日蓮正宗法義研鑽委員会

 


1 日蓮正宗の正しい本尊について教えてください。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 日蓮正宗の正しい本尊は、「日蓮正宗宗規」第三条に「本宗は、宗祖所顕の本門戒壇の大漫荼羅を帰命依止の本尊とする」と、明確に定められている「本門戒壇の大御本尊」です。
 この大御本尊は、宗祖日蓮大聖人が『聖人御難事』に「此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年なり、仏は四十余年(中略)余は二十七年なり」(全集 一一八九頁)と仰せのように、御本仏の出世の本懐として顕わされました。
 日興上人の『日興跡条条事』に「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之れを相伝す」(聖典 五一九頁)と仰せのように、この大御本尊は、日興上人、日目上人と唯授一人血脈付法の御歴代上人によって相伝されています。
 日寛上人は「就中、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり」(富要 四-二二一頁)と説かれ、弘安二年十月十二日に御図顕の本門戒壇の大御本尊は、宗旨の根本となる本尊であると教示されています。
 代々の御法主上人は、その相伝の権能のうえに本門戒壇の大御本尊の御内証を書写され、本宗僧俗に下付されるのです。

 


2 日蓮大聖人はなぜ御本尊を顕わされたのですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 日蓮大聖人は、末法のすべての民衆を救済するために御本尊を顕わされました。

 『観心本尊抄』に「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」(全集 二五四頁)と仰せです。
 日蓮大聖人は、末法の時代に出現され、御本仏としての化導のうえから、末法適時の大法を弘められ、全世界の民衆に即身成仏の大利益を得せしめんがために、「本門戒壇の大御本尊」を顕わされました。
 日寛上人は、『文底秘沈抄』に「本尊とは所縁の境なり」(聖典 八三三頁)と示され、妙楽大師の「正境に縁すれば功徳猶お多し、若し正境に非ざれば縦い偽妄無けれども亦種と成らず」の文を引用して、正境すなわち正しい本尊によってのみ、一切衆生は成仏できると指南されています。
 『報恩抄』に「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(全集 三二九頁)と仰せのように、御本仏日蓮大聖人の広大な慈悲が御本尊として顕わされ、一切衆生の成仏道が開かれたのです。

 


3 「人法一箇」とはどういうことですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 「人法一箇」とは、日蓮大聖人の顕わされた大御本尊は、人・法の名称は異っても、その体は同じであるということです。
 「人」とは、人の本尊たる御本仏日蓮大聖人のことであり、「法」とは、法の本尊たる事の一念三千、南無妙法蓮華経の御本尊です。
 日寛上人は『文底秘沈抄』において、三大秘法の「本門の本尊」を、人・法の二つに開かれ、人本尊は「久遠元初の自受用報身の再誕、末法下種の主師親、本因妙の教主、大慈大悲の南無日蓮大聖人」(聖典 八三八頁)であり、法本尊は「事の一念三千無作本有南無妙法蓮華経の御本尊」(聖典 八三四頁)であると指南されています。
 この人・法の本尊は、「人即是れ法、自受用身即一念三千なり、法即是れ人、一念三千即自受用身なり」(聖典 八四三頁)と指南されているように、人法一体の御本尊なのです。
 『御義口伝』にも「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(全集 七六〇頁)と仰せられ、この御本尊が大聖人の当体そのものであると教示されています。
 したがって大聖人を離れて南無妙法蓮華経はなく、南無妙法蓮華経を離れて御本仏日蓮大聖人はないのです。

 


4 「本門戒壇の大御本尊」とはどういうことですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 〃本門の戒壇に御安置すべき御本尊〃という意味です。

 宗祖日蓮大聖人が、弘安二年十月十二日に御図顕された出世の本懐たる大御本尊には「本門戒壇」との脇書きがしたためられています。
 この「戒壇」について、日寛上人は『文底秘沈抄』に、「事」と「義」との戒壇があるとし、「義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処」(聖典 八四九頁)、「事の戒壇とは一閻浮提の人、懺悔滅罪の処なり云云」(同頁)と指南されています。
 すなわち、「義の戒壇」とは各家庭も含めた本門の本尊安置の所で、その義理が事の戒壇に相当するということです。そして、その根本となる「事の戒壇」とは、宗祖日蓮大聖人が、「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり」(全集 一六〇〇頁)と仰せの、御遺命の本門寺の戒壇堂です。この「事の戒壇」に御安置申し上げる大御本尊でありますから、弘安二年十月十二日に御図顕の御本尊を「本門戒壇の大御本尊」と申し上げるのです。

 


5 「一閻浮提総与の御本尊」とはどういうことですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 「一閻浮提総与の御本尊」とは「一閻浮提(全世界)のすべての人々が信受すべき御本尊」との意味で、本門戒壇の大御本尊のことを指します。
 『観心本尊抄』に「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」(全集 二五〇頁)と仰せのように、御本仏宗祖日蓮大聖人は、末法万年にわたり、全世界の人々を救済するために、自らが御所持の寿量文底の南無妙法蓮華経を顕わされました。
 そして、南無妙法蓮華経の法体として、「本門戒壇の大御本尊」を図顕されました。
 全世界の人々が真実の平和と幸福を確立するためには本門戒壇の大御本尊を信仰すべきであり、その戒壇に参詣すべきことを『三大秘法抄』に「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり」(全集 一〇二二頁)と仰せられています。
 このように、全世界の民衆を救済するために顕わされた大御本尊であり、全世界の民衆がおしなべて参詣帰依すべき大御本尊という意味から「一閻浮提総与の大御本尊」と申し上げます。

 


6 戒壇の大御本尊と各家庭の御本尊との関係を教えてください。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 「本門戒壇の大御本尊」は、根本となる究極の御本尊であり、「各家庭の御本尊」は、御本仏日蓮大聖人より日興上人、日目上人へと、大聖人の御内証の法体を唯授一人血脈相伝される御歴代上人が、根源たる本門戒壇の大御本尊の御内証を書写して下付される御本尊です。
 総本山第五十六世日応上人が『弁惑観心抄』に「此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し、本尊の極意を伝えるものなり、これを真の唯授一人と云ふ」(同書 二一九頁)と指南されているように、代々の御法主上人に伝えられる血脈相承によって、はじめて本門戒壇の大御本尊の法魂・極意が書写されるのです。したがって血脈相伝の教えに信順し、本門戒壇の大御本尊を信ずる一念をもって拝むならば、書写された御本尊もその功徳に変わりはありません。
 しかし信仰が戒壇の大御本尊から離れ、血脈相伝の教えから離れるならば、いかに各家庭の御本尊を拝んでも功徳は生じません。かえって罪障を積むことになるのです。

 


7 学会版の経本で抹消した二座の観念文のうち、「久遠元初自受用報身如来の御当体」の意味を教えてください。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 「久遠元初」とは、単なる時間的な「宇宙の最初」という意味ではなく、実には一切の現象の究極・根本という意味で、時間・空間を超絶した絶対的な状態をいいます。
 また、「自受用報身如来」について説明しますと、まず仏教において仏という場合、法界の一切の真理としての法身如来、その真理を照らす智慧身たる報身如来、大慈悲によって一切衆生を救済する応身如来の三つの側面があります。
 この三身如来の中でも、特に悟りの智慧を中心として、そこに法身、応身の二身を兼ね備えた仏を報身如来といい、この報身仏が自ら悟られたそのままの境界を「自受用」といいます。
 すなわち「久遠元初の自受用報身如来」とは、「絶対的な究極の仏」ということです。『御義口伝』には「自受用報身」を「ほしいままに受けもちいる身」(全集 七五九頁)と解説されています。
 この久遠元初の自受用報身如来こそ「末法の法華経の行者」たる日蓮大聖人であり、そのお悟りの当体そのままを、本門戒壇の大御本尊として建立されたのです。

 


8 創価学会の本尊観は昔から一貫して変わらないのでしょうか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 かつて創価学会では、「この本門戒壇の大御本尊を根本として、血脈付法の歴代の御法主上人が大御本尊を御書写になり、御下附くださったのが、私達の家家に御安置申し上げている御本尊です」(大白蓮華 三四五―三六頁)と述べていたように、血脈付法の御歴代上人を通じて本門戒壇の大御本尊に帰依するという本宗本来の正しい本尊観をもっていました。
 ところが、現在は、「大聖人直結」といい、「代々の法主に伝わる特別な相承などない」といって、経本の観念文から御歴代上人に対する報恩謝徳の御文を削除し、「本尊は我々の信心の中にある」とか「我々の信力・行力によって仏力・法力は完結する」「大石寺の御本尊にお目通りしなくてもよい」などといい出しています。
 このように創価学会は、信仰の根本たる戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈を否定した本尊観に大きく変わっており、現今の創価学会の説が本宗の教えに背く邪義であることはいうまでもありません。

 


9 「御本尊は幸福製造機」という考えは正しいのでしょうか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 御本尊は、「幸福製造機」などという「単なる機械」「単なる物」ではありません。
 日蓮正宗の御本尊は、「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(全集 七六〇頁)とも「即ち彼の池を見るに不思議なり、日蓮が影今の大曼荼羅なり」(聖典三八〇頁)と説かれるように、生きた日蓮大聖人そのままの御当体なのです。大慈悲を具えた生きた仏様だからこそ私たちは御報恩謝徳申し上げるのです。
 日寛上人が、『観心本尊抄文段』に「即ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来たらざるなく、理として顕われざるなきなり」(富要 四-二一三頁)と指南されているように、御本尊の功徳は無量無辺です。
 しかし、そのためには「正しい本尊」を信じなければなりません。『同文段』に「この本尊に人あり法あり(中略)法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊なれども、その体は恒に一なり」(同頁)と説かれるように、宗祖大聖人の御当体たる御本尊を信受することが大切なのです。
 創価学会では以前から「御本尊は幸福製造機」といっていましたが、宗門においては、これを一般信徒に御本尊の功徳を説明するための方便としてうけとめてきました。
 しかし現在、創価学会は「御本尊といっても物体にすぎない」(池田スピーチH五・五・三 取意)という誤った考えに陥っています。御本尊を単なる機械と見る考え方は大謗法であり、根本から改めなければなりません。

 


10 池田大作氏は「もはや本尊はどれも同じ」といっていますが、正しいのでしょうか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 池田氏は本門戒壇の大御本尊とその他の御本尊を混同し、会員の心を本門戒壇の大御本尊から離れさせようと企てているのです。

 御本仏日蓮大聖人が出世の本懐として、弘安二年十月十二日に御図顕された人法一箇の「本門戒壇の大御本尊」が本宗の根本の御本尊です。
 これに対して、各家庭や各人に下付される御本尊は、その根源の本門戒壇の大御本尊の御内証を、唯授一人血脈付法の御法主上人が、その権能において書写され、本宗僧俗に下付されるのです。
 したがって、本門戒壇の大御本尊とその他の御本尊は、もとより能開と所開の関係にあることを知らなければなりません。
 かつて創価学会では「私どもが留意すべき点について申し上げます。それはまず第一に、戒壇の大御本尊根本の信心に立ち、総本山大石寺こそ、信仰の根本道場であることを、ふたたび原点に戻って確認したいのであります。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はありません」(特別学習会テキスト 五六頁)と指導していました。
 大聖人は『題目弥陀名号勝劣事』に、「能開所開を弁へずして物知りがほに申し侍るなり」(全集 一一五頁 取意)と仰せですが、現在の池田氏率いる創価学会は、まさに大聖人のこの厳しい責めをこうむる大謗法を犯しているのです。

 


11 学会では「本尊は我々の胸中の肉団にある」といいますが、本当でしょうか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 創価学会のこの指導は、会員を戒壇の大御本尊から引き離すためになされているものです。

 そのために学会では、『日女御前御返事』の「此の御本尊全く余所に求る事なかれ、只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(全集 一二四四頁)の御文を利用しています。
 昭和五十二年路線の当時にも、学会は同様の主張をしたことがありましたが、これについて総本山第六十六世日達上人は、「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」(達全 二-五-六〇〇頁)と破折されています。
 胸中に御本尊があるから、戒壇の大御本尊にお目通りしなくてもよいという学会の考えは、大聖人のお心に背く悩乱の説というべきです。

 


12 「信心の二字の中にしか本尊はない」という考えは正しいのですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 これは池田大作氏が『日女御前御返事』の「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(全集 一二四四頁)の御文を勝手に解釈したものです。

 池田氏は、さらに日寛上人の御文を悪用して「御本尊といっても大切なのは信心である」(池田スピ-チ H五・九・七)と主張していますが、これは御本尊よりも自分達の信心を中心と考える本末転倒の己義からくる邪説です。
 日寛上人は『文底秘沈抄』に「境能く智を発し、智亦行を導く故に、境若し正しからざれば則ち智行も亦随って正しからず」(聖典 八三三頁)と説かれています。
 すなわち対境の御本尊があって、はじめて凡夫の信心(智)が発現し、信心(智)によって修行(行)が導き出されるゆえに、もし対境の御本尊が正しくなければ、信心も修行も正しいものではないのです。
 池田氏の「御本尊といっても大切なのは信心」との発言は、凡夫の信心を中心にして本門戒壇の大御本尊をないがしろにするものであり、根拠のない邪説です。

 


13 池田大作氏は「日蓮大聖人は宇宙の根本法則を一幅の曼荼羅に御図顕なされた」(池田スピ-チ S五六・一・二六)といっていますが、この考え方は正しいのですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 これは池田大作氏の我見であって、大聖人の教義ではありません。これはむしろ外道の思想です。

 『御義口伝』に「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(全集 七六〇頁)
と仰せのように、漫荼羅(本尊)とは大聖人御自身であり、大聖人を離れて妙法はないのです。
 しかし池田氏は、妙法が仏とかけ離れた宇宙の根本法則であると思い込んでいるようです。このような考えについて、日淳上人は次のように破折されています。
「南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして、宇宙に遍満する妙法の理が題目であるとするからであります。此れは大変な誤りで、南無妙法蓮華経は仏身(大聖人)であります(中略)妙法の理は天地の間にありましても、それは理性であります。実際には仏(大聖人)の御智慧のうちにのみ、厳然として具はり玉ふのであります。その仏は、十方法界に唯一人在ますだけであります」(淳全 九八二頁)
 このように、人(大聖人)を離れて法(南無妙法蓮華経)はなく、大聖人はそのまま南無妙法蓮華経の御当体なのです。ゆえに池田氏の考え方は全くの我見であり、正しい考え方ではありません。

 


14 学会では〃宗教的権威は不要、信心は御本尊対自分である〃ということを強調しますが、このような考えは正しいのですか。

1994-01-01 | H6 創価学会『ニセ本尊』破折100問100答

 かつて池田大作氏は、「もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。

外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(広布と人生を語る 八-二二八頁)と指導しています。
 しかし近年、創価学会が日蓮正宗と離れても会員が不審を抱かないように「御本尊を拝んでいれば、他の宗教的権威は不要」と指導してきました。
 さらにそのうえ、純真な会員に対して「御本尊対自分」という指導を徹底し、日蓮正宗本来の法義・伝統に対する信仰心を低下させ、我見と慢心を増長させてきたのです。
 日蓮大聖人は『曽谷入道殿御返事』に「返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給うべし」(全集 一〇五六頁)と仰せられ、仏道を成就するためには師弟の道を全うしなければならないと説かれています。私たちにとって本従の師に至るには総貫首たる御法主上人の御指南に随順しなければなりません。
 創価学会はこの仏法本来の師弟の道を「宗教的権威」と蔑称して否定してきたのです。この悪意に満ちた指導の延長線上で「御本尊対自分」という、もっともらしい指導がなされていることを知らなければなりません。