日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

血脈の次第 日蓮日興

2024-02-03 | 御住職指導

正林寺御住職指導(R6.2月 第241号)

 富士の立義として伝統の二月といわれる理由には、宗祖日蓮大聖人の御誕生会と第二祖日興上人の興師会が奉修されるためであります。その奥底に「血脈の次第 日蓮日興」との大事な付嘱があるためです。
 つまり「血脈の次第 日蓮日興」とは、日蓮大聖人が日興上人へ、日蓮一期の弘法である本門戒壇の大御本尊をはじめ、御生涯をかけて弘通された三大秘法の仏法、大御本尊に具わる化儀化法の一切を日興上人に付嘱されたことを明らかにされた証明であります。
 大聖人は日興上人のお立場を「本門弘通の大導師」と定められ、御入滅後の一門の棟梁として、三大秘法の弘通を命じられています。それはまさに「日興一人本師の正義を存じて」いらしたからです。
 この日興上人へ伝授された仏法を信心することが、末法における仏道修行の正しい在り方になり、それ以外は謗法であり幸せとはならない煩悩からくる不幸の原因となります。幸せの源は大御本尊から血脈相承あそばされた時の御法主上人猊下の胸中、御内証にも存します。

 「血脈」の語は、一般的に「ケツミャク」と読み、血管、血統、血筋の意を表します。仏教用語として用いる場合は「ケチミャク」と読み、このときは仏教の伝統、法統の意を表し、教理を師匠から弟子へと代々伝えていくことをいいます。
 仏教の伝法の在り方には、書伝・口伝・心伝等があります。このうち日蓮大聖人の仏法における血脈は、口伝が主意となる金口嫡々唯授一人の血脈相承です。

 日蓮大聖人の宗旨の深義である三大秘法とその法義は、常随給仕の間に口伝、または筆受によって日興上人に相承され、総括的な証拠文献として、弘安五年九月の『日蓮一期弘法付嘱書』と、同年十月の『身延山付嘱書』になります。この両書を『二箇相承』といいます。
 第六十七世日顕上人は『二箇相承』について、
「地涌の菩薩は神力品において結要付嘱を受け、さらに嘱累品において釈尊一代仏教のすべてを付嘱され、その内容をお持ちでありますから、その結要付嘱の意味においては『日蓮一期の弘法』という意味が示され、さらにまた嘱累品の釈尊仏法全体の上からは『釈尊五十年の説法』をお持ちなのであり、その上に『日興に之を付嘱す』と仰せになっておると拝せられる」(大日蓮 第653号 H12.7)
と、『一期弘法付嘱書』の付嘱を、法華経における神力品(じんりきほん)別付嘱の意義に準(なぞら)え、また次に掲げた『身延山付嘱書』にある「釈尊五十年の説法」の付嘱は、嘱累品(ぞくるいほん)総付嘱の意義に準えて、説示されています。

 また、この血脈相承は師資相承ともいわれ、師弟相対して法門を相伝することをいいます。これは祖先の血統が子孫に伝わるように、仏法の伝統法義の一切を師僧から弟子に伝授することをいうのです。この唯授一人の血脈相承により、大聖人の法水は第二祖日興上人へ、そして日興上人から日目上人へと一器の水を一器に瀉ぐように承け継がれ、正しく末法万年尽未来際へと伝えられていきます。

 大聖人は『日蓮一期弘法付嘱書』に、
「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此(こ)の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂(い)ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
 弘安五年壬午(みずのえうま)九月 日          日蓮花押
                         血脈の次第 日蓮日興」(御書1675)
と御指南あそばされております。
 『一期弘法付嘱書』は、大聖人が御入滅を前にした時期、弘安五年九月八日に身延山を発(た)たれますが、その前後にしたためられたものとされています。
 「日蓮一期の弘法」とは、御生涯をかけて弘通された三大秘法の仏法、すなわち極(きわ)まるところ本門戒壇の大御本尊のことで、さらに大御本尊に具わる化儀化法の一切が日興上人に付嘱されたことを明らかにされています。その日興上人のお立場を「本門弘通の大導師」と定められ、御入滅後の一門の棟梁として、三大秘法の弘通を命じられています。
 さらに、この弘通を進めていく中で、国主が帰依(きえ)をして広宣流布の様相が現われたならば、富士山に本門寺の戒壇を建立せよとの御遺命(ゆいめい)を示され、それまでは折伏弘通をしつつ時を待つべきとのことであります。「事の戒法」、すなわち本因下種仏法における戒法(受持即持戒を旨とする)とは、富士山に本門寺の戒壇を建立することであり、我が門弟・僧俗はこの状を守らなくてはならないと結ばれています。
 日付の後に、唯授一人の血脈の次第として、大聖人より日興上人へ付嘱されたことを改めて示されています。

 その御付嘱は、一器の水を一器に瀉ぐように保たれていることを、総本山第二十六世日寛上人は『妙法曼陀羅供養抄記』に、
「  五百年が間、唯授一人なり。

 各相伝あり。故に能く身の病を治す。『譬如良医』の釈尊もまた上行菩薩に一大事の秘法を伝う。
 二十二二十八に云く『教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり』等云云。
 外十六四十一に云く『日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
  弘安五年壬午九月 日              日蓮在御判
                                     血脈の次第 日蓮日興』
 『日興が身に宛て賜る所の弘安二年の大御本尊日目に之を授与す本門寺に掛け奉る可し』(取意)云云。
 今に至るまで四百余年。他流は皆これ似せ薬なるべし。」(御書文段703)
と、富士の立義の御相承について「日興一人本師の正義を存じて」御指南あそばされております。

 日寛上人の時代から二百数十年後、第六十五世日淳上人は血脈相承を拝受あそばされて「初転法輪」の折に、
「ただこの上はこの血脈相承を体しまして七百余年の歴史を護つて一意御奉公申上る、これが私の今日の考へでございまして、常に皆様方御聞き及びの通り大聖人様の血脈は日興上人の承継遊ばされます所で御座居ます。大聖人様が『血脈の次第日蓮日興』と仰せ遊ばされてございますが、今日その血脈を承継致しましてただ感激に打たれる所でございます。」(淳全184)
と仰せあそばされました。
 また、日淳上人は「『興尊雪寃録』の妄説を破す」に、
「大聖人の御あとはどうであらせられるかと拝すれば、直弟子中日興上人を御選び遊ばされ、一切大衆の大導師として一期の弘法をご付嘱遊ばされ、弘法抄を以てその事を証明遊ばされたのである。御文中『血脈の次第日蓮・日興』とあらせられるのは大聖人の正統を決定し給ふためであって、付嘱相承師資相承等の一切の相承のことが此の御文によって立証されておるのである。しかしてそのあとのことは日興上人を師と仰ぎ師弟相対して相承し給ひ、大衆は各々また師弟相対して相承してゆくのが仏法の道である。
内証の上には大聖人の御弟子であることは勿論である。といって内証のみに執して、師弟の関係を整へることが最も大事であって此れを無視するところに聖祖門下の混乱があり、魔の所行が起ってくるのである。」(淳全1443)
と、異流義の存在について破折であります。
 異流義について日顕上人は、
「今、日蓮宗の人々が間違った教えを常に説いておりますが、その元は、大聖人と二祖日興上人との間における唯授一人、血脈の次第において相伝せられた根本のところの意義が解らないからであります。そこのところにおいては、いわゆる大聖人様が末法に御出現あそばされた根本である妙法蓮華経の当体の意義、すなわち本門の本尊、戒壇、題目という三大秘法が、今までの通仏教の解釈では到底、解ることのない、割りきることのできない、もう一つ深い次元にあるということを二祖日興上人が深く拝されて、血脈の上にそれをしっかり相伝なされたわけであります。
 しかし、それは一つひとつの細かい点において必ずしもあるのではなく、根本のところでそれが存するのでありますから、それを、その時に応じて、時代、時代、七百年の間、様々な御先師が教学の上に様々な説を立てられておるのであります。故に、わずかながら解釈が異なることもあります。しかし、それもよくよく考えてみると、根本のところが一つであって、その表現の仕方として変わっておるのであります。
 考えなければならないのは、そこのところであります。ところが、日蓮宗のほうの、三千数百箇寺という膨大な寺院を抱える宗旨において、それぞれの時代に様々な学僧が出ておりますが、これらは皆、その考えること、そこに立てることが、てんでんばらばらなのであります。だから、大聖人様の御書のある所を見ては”こうだ“ある所を見ては”ああだ“といって、その間には全く統一もなければ、何の関係もない有り様です。そこが日蓮正宗の教学と他宗、他派の不相伝の教学との違うところであります。」(大日蓮 第464号 S59.10)
と、富山の蘭室に交わることにより知ることのできる御法門を仰せであります。「血脈の次第 日蓮日興」との富士の立義のもと、本尊に迷うことなく一生成仏が叶う仏法と申す道理であります。『開目抄』に「諸宗は本尊にまどえり」(御書554)と。
 また日顕上人は、「日蓮日興」との血脈相承を蔑ろとした大聖人直結について、
「『大聖人直結』ということについてであります。これは、直ちに大聖人様とつながっているということでありますから、日興上人も日目上人もいらないという考え方なのです。つまり、『血脈の次第 日蓮日興』、唯我与我の日興上人の意義を全く否定し、相伝の教えも、御歴代御先師の御指南も全くなしに、大聖人の仏智、仏見を知ることができるという考えですから、その傲慢非道にはあきれ果てます。
 また、結局、池田大作のような人間が、大聖人のお考えを、御本仏の智・慈悲のすべてを理解し、一つになることができるということですから、大聖人をも軽視・蔑視しておることにもなります。
 このように日興上人をも否定しておるくせに、日興上人は僧宝として立てるというのですから、もう彼等の主張することは支離滅裂で、全く一貫性がないのです。
 しかし、今日に至るまでの歴代上人による法宝伝持なくして、また、その御指南がなくして、大聖人の正しい法義を知ることは絶対にできないのです。根本的には狂っていても、池田大作が富士の正義に似た法門を語ることができたのは、やはり歴代上人の御指南を通して御書を読み、多少の教学を身に付けたからであります。それも実に浅はかな教学であったようだけれども、やはり根本的に信というものがない故に、我見に執われて邪義を唱えるようになってしまったのです。
 したがって、大聖人直結と言いながら、大聖人の究極の御指南である三大秘法の一々を、我見をもって解釈し、大聖人のお心を踏みにじっておるわけです。大聖人直結などとは、全くのたわごとであります。」(大日蓮 第561号 H4.11)
と、大聖人直結信仰に対し破折あそばされております。『曽谷殿御返事』に、
「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余(よそ)へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし。但し師なりとも誤りある者をば捨つべし。又捨てざる義も有るべし」(御書1039)と。

 さらに、大聖人直結ではなく唯授一人血脈相承の大事について、日顕上人は『観心本尊抄講話』に、
「大聖人様の本懐の御法門は、本当に大聖人様を深く信じきられたお弟子にのみ、正しく伝えられたのであります。そこに『唯授一人』という、
  『血脈の次第 日蓮日興』
と仰せになった意味があるのです。」(講話第一巻25)
と御教示であります。
 また、日顕上人は、
「大聖人様は、末法万年の仏法を正しく承継せしめ、万年の衆生を導く上から、
  『血脈の次第 日蓮日興』(御書1675)
として、大聖人様の御施化の一切をことごとく、日興上人に付嘱をあそばされたのであります。さらに、日興上人は日目上人へ、日目上人は日道上人へとずっと伝わっておるのは、その仏法の付嘱に従って初めて、大聖人様の仏法が正しく弘められるからであり、それ以外のところに仏法は存在しないということをお示しになっておるのが、日蓮正宗の正しい付嘱の在り方であります。」(大日蓮 第588号 H7.2)
と、付嘱について末法万年尽未来際までも変わることのないとの御指南と拝します。

 この血脈相承は、あくまでも師弟相対する函蓋相応の信心によるもので、これを受ける方が大聖人の本地甚深の仏法を鏡のように拝鑑し奉る境地に到達されていなければ、よく師の付嘱を受けられません。
 第五十六世日応上人は『弁惑観心抄』に、
「唯授一人嫡々血脈相承にも別付・総付の二箇あり。その別付とは、すなわち法体相承にして、総付とは法門相承なり。しかして法体別付を受け給いたる師を、真の唯授一人正嫡、血脈付法の大導師と言ふべし。
 また、法門総付は宗祖・開山の弟子檀那たりし者、一人としてこれを受けざるはなし。けだし、法門総付のみを受けたる者は、ついには所信の法体に迷惑して己義を捏造し、宗祖・開山の正義に違背す」(弁惑観心抄377)
と、血脈相承に別付(法体相承)と総付(法門相承)の二つがあることを明かされています。
 私たちは、法体別付の相承すなわち本門戒壇の大御本尊を御相承される御法主上人に信伏随従することにより、日蓮大聖人の仏法を正しく持つことができるのであり、そこに信心の血脈が流れ通い、本宗の僧俗一同は法門総付の相承を受けられることを知るべきです。信心の血脈の本義は、まさに本門戒壇の大御本尊と血脈法水への信仰にあります。つまり「縦糸と横糸のつながりが肝心」です。
 以上の立義を心肝に染めて、本年「折伏前進の年」を実践テーマにしたがって仏道修行することが大事になります。まさに「法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節」(御書231)です。

 最後に、令和六年一月一日に能登半島を震源とする地震が発生しました。被災された皆様に衷心よりお見舞いを申し上げます。大災害で尊い命を亡くされた方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。また御遺族の方々に深く哀悼の意を表します。
 被災された皆様が、平穏な生活へ一日も早く戻ることをお祈り申し上げます。
 また、本宗檀信徒の被災された皆様には、大聖人仰せの「大悪は大善の来たるべき瑞相なり」との御金言と妙法の功徳を確信され、大難を克服せられますよう御祈念申し上げます。
 以上、謹んでお見舞いの言葉とさせていただきます。

 

宗祖日蓮大聖人『唱法華題目抄』に曰く、
「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。故に悪道に堕(だ)せん事疑ひ無し。同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓(どっく)の縁と成すべきか。然れば法華経を説いて謗縁(ぼうえん)を結ぶべき時節なる事諍(あらそ)ひ無き者をや。」(御書231)

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