創価学会理事長・森田一哉氏の破仏法の指導を破す
時局協議会文書作成班3班
平成3年(1991年)3月18日、杉並ビクトリー勤行会において、森田一哉氏は、創価学会理事長という要職にありながら、学会問題の本質を隠そうとする、無責任極まりない指導をした。
氏の指導の背景には、学会52年路線の教義逸脱に対する無反省と、さらには、今回の三宝誹謗という、信仰上の逸脱がある。このことは、氏の指導の中に、欺瞞性を帯びた不遜な発言が、随所にみられることからも、充分に裏付けられる。氏は、学会首脳による逸脱路線を正当化するために、言葉巧みに問題の本質をすり替え、不正直な指導をして、破仏法の罪を重ねているのである。
私たちは、今回のこのような事態によって、仏法が存亡の危機に直面していることを、冷静に認識しなければならない。そして、学会首脳の慢心から生じた「三宝破壊」という罪過こそが、学会問題の本質であることを見抜かなくてはならないのである。
本稿においては、氏の指導における問題点を、6項目に分けて取り上げ、氏の破仏法の指導を破折するとともに、池田大作氏と学会首脳の、仏法上の罪過を糾したい。
1.「三宝破壊」の大罪
森田氏は、次のように述べている。
「『宗門問題、一体いつ終わるんですか?』(笑い)この事についてお話をさせて戴こうというふうに思ってます。
『宗門問題』というのは、なにも十年前、そして最近始まった問題じゃないんです。これは学会の草創期からあるんです。」
ここでは、今回の学会問題の本質である「三宝破壊」という重大問題を、学会草創期からの問題にすり替え、問題の本質部分をあいまいにしている。
学会草創期からの問題とは、何かといえば、
「私たちが青年部の時は坊さんとしょっちゅうやってましたよ。狸祭事件もやりました。」
と、氏自身が告白しているように、学会首脳の暴圧体質に根ざした、今も変わらない恥ずべき姿に他ならない。そのような学会草創期の恥部をさらけ出してまで、なぜ本質部分を隠そうとするのか。それは、学会首脳自身が、仏法上の重大な過失を犯していることを、少なからず認めているからであろう。
今回の問題は、池田大作氏の御法主上人への軽視発言に対して、宗門側が注意し、問い糾したことから起きたのである。これに対して、本来、三宝を外護すべき学会首脳は、宗門からの注意を不服とし、かえって悪意に満ちた宗門批判をくり返し、三宝を破壊するに至ったのである。特に、御法主上人の正本堂の意義付けの御指南に対してまでも、平然と批判を行なったことは、その代表的な表われであるといえる。
それは、『お伺い書』と称する、平成3年2月28日付の『聖教新聞』で、「名誉会長批判の論拠崩れる」「名誉会長へ陳謝の意を」等の大見出しを掲げていることからも、充分にその体質をみることができるのである。この不遜な『お伺い書』には、森田氏の名前も、他12名の執行部とともに連記してあるので、氏の責任は重大である。
他の学会幹部の指導でも、本宗の僧宝は日興上人御一人に限るとして、本宗の血脈相承の尊義に触れないようにしながら、御法主上人批判をくり返している。すなわち、血脈不信の謗法罪を犯しているのである。
例えば、学会参議会副議長・柏原ヤス女史は、新潟県婦人部活動者会での質疑応答の中で、
「(柏 原)だから、仏法僧は、さっき申し上げたように大聖人様の仏宝は、大聖人様。南無妙法蓮華経の七文字の法華経。そして僧宝は、日興上人。いいですか?そこだけ。そこが、あんた違っているのよ。
(質問者)じゃあ日興上人だけだとおっしゃるんですか?
(柏 原)そんなこと言いませんよ。そんなこと、私は一言も言わない。日顕上人は血脈を受け継がれた67代の大事な方だ、っていう感じですよ。
(質問者)その、血脈をどうして、言われないんですか?
(柏 原)いいんでしょう、そういうこと、あんた!そこが分かれば、僧宝というのは日興上人。いいですか?
(質問者)日興上人様と、歴代御法主上人猊下様は、一緒でしょう?
(柏 原)日興上人!そこだけを覚えなさいよ!(笑い)」
と発言している。更に、女史の指導の中では、
「猊下ってね、不勉強じゃないのかしら?」
「そうです!(御法主上人は)私達と、ちっとも変わらないわよ、同じよ。」
などと、不遜な言葉を吐いている始末である。
このような、学会首脳の慢心による御法主上人批判などによって、「三宝破壊」という罪過を犯していることが、学会問題の本質である。
いうまでもなく、本宗における三宝とは、日寛上人が『当家三衣抄』で教示されているように、仏宝は宗祖日蓮大聖人、法宝は本門戒壇の大御本尊、僧宝は第二祖日興上人を随一として、嫡々付法の御歴代上人であられる。大聖人の開顕された仏宝・法宝の威徳は、大聖人の遺誡たる唯授一人の血脈相承によって、御歴代上人(僧宝)に受け継がれ、今日まで正しく継承されているのである。
ゆえに、昔から本宗の僧俗は、「何があっても、御戒壇様と御法主様をお護りするのが、正宗の信心である」と教えられてきたのである。この本宗の伝統の信心によって、たとえ深い教義が解らなくても、血脈護持の尊い信心をつちかい、本宗の三宝尊を信じて、成仏の境界を開いてこられたのである。
したがって、創価学会の本山外護の尊い使命も、会員一同の三宝護持の功徳によって、現在まで果たされてきたのである。氏が、たとえ何かの理由で、御法主上人をお護りする信心を忘れていたとしても、今回の御法主上人批判が、なぜ三宝誹謗の重罪に当たるのか、氏自身も、教義の上から、少しは理解しているはずである。
『御本尊七箇之相承』に、
「師の曰く、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典379)
との、甚深の御相伝があるように、唯授一人の御法主上人は、大聖人の法体を継承あそばされているのである。また『百六箇抄』には、
「上首已下並びに末弟等異論なく尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興嫡嫡付法の上人を以って総貫主と仰ぐべきものなり」(聖典371)
と、日興上人以来の嫡々付法の御法主上人をもって、末法万年の総貫主と仰ぐべきことを、明白に決定なされている。
これらの御相伝の上から、日寛上人は、『当流行事抄』に、
「自受用身は即ち是れ仏宝なり、無作本有の妙法は法宝なり、結要付嘱豈僧宝に非ずや」(六巻抄323)
と示され、さらに『当家三衣抄』には、三宝中の南無僧とは、「南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫主、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡嫡付法歴代の諸師」(六巻抄347)
と仰せである。すなわち、日興上人を随一として血脈付法の御法主上人の全てを、僧宝と拝信すべきことが説かれているのである。
換言すれば、本宗の僧宝とは、仏法伝持の正師を示すとともに、文底下種の結要付嘱の当所を顕わすのである。それゆえ、同抄の次下には、本宗の三衣の一つである数珠に寄せて、
「此の如き三宝を一心に之を念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云云。行者謹んで次第を超越する勿れ」(六巻抄347)
と仰せられ、末代の僧俗は、仏法・法宝はもちろん、僧宝の付嘱の次第を超えてはならないと、厳に戒められているのである。なぜならば、下種僧宝を信解せず、しかもその付嘱の次第を混乱させれば、必ず仏法は失われ、三宝破壊の大罪を犯すことになるからである。
しかし、今や池田氏並びに学会首脳は、自らの慢心と浅識によって、仏法の付嘱の次第を超え、公然と御法主上人を誹謗・中傷しているのである。これは、仏法上の重大な過失であり、破仏法の迷乱の姿というべきである。本来、外護の任に当たるべき学会首脳は、三宝を敬信して仏種を植えるべきことを、率先して会員に教えることに、その責任がある。ところが、学会首脳は、その仏法外護の職責を放棄したのである。これこそ、学会首脳の堕落であり、悩乱の現証である。
そして、さらに許せないのは、氏のような無責任な言論によって、なおも多くの一般会員を三宝不信へと堕とし、会員の成仏の道を塞ぐことである。そればかりか、三宝誹謗によって、仏法破壊という罪過をも生じているのである。これらの仏法上の大罪とその責任は、学会の代表役員たる氏はもちろんのこと、実質的な権力者である池田氏と秋谷会長以下の学会首脳にあるといえる。
また、氏は、
「もう聖教新聞には堂々と書いてある。こんなことは初めてじゃないですか。創価学会始まって以来ですよ、堂々とやってんのは。10年前は堂々とできなかった。一言も言えなかった。それで失敗しましたんで、今度は堂々とやっている。」
と述べている。
たしかに、『聖教新聞』には、宗門僧侶に対する低次元の中傷が堂々と書いてある。しかも、それらは、すり替え、捏造、虚偽に満ちた、お粗末な記事ばかりである。学会首脳は、得意になって書かせているようだが、それらの記事には、宗教人としての道義の一片さえも見いだせない。
常識的な目でみれば、『聖教新聞』の紙面には、学会首脳の傲慢で稚拙な姿が、そのまま鏡のように映し出されていることがよく判る。それにも気がつかないで、我が身の赤恥を、堂々と世間に喧伝している愚かしさを、氏には判断できないのであろう。
『聖教新聞』を購読する会員の多くは、あまりにも大人気ないやり方に恥ずかしく思い、外部の人に対して折伏もできないというのが実情なのである。これも、学会首脳の責任隠しの余罪である。
今までは、学会の指導の中でも、「同志の悪口をいってはいけない」「同志を誹謗すれば、悪業を積む」と、会員に教えてきたはずである。それなのに、学会首脳が、自ら先頭に立って、宗門僧侶の悪口を堂々といっているのである。これが、仏法上の罪とならずに、何になるであろうか。
『松野殿御返事』には、
「此の経の四の巻には『若しは在家にてもあれ出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり』と見へたり、或は『若実若不実』とも説かれたり、之れを以って之れを思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」(全集1382)
と、法華経を持つ者を毀ることは、大変に罪が深いのであり、この誹謗罪を犯さないように、厳に戒められているではないか。この御金言に照らしても、『聖教新聞』で誹謗中傷を重ねる学会首脳の、罪障の深さが判るのである。しかも、氏は、このような誹謗中傷について、学会始まって以来の堂々たるものだと、平気でいい切るのであるから、その精神たるや、正常なのかと疑いたくもなる。
それにしても、「10年前は失敗した」という氏の発言は、どのようにみても看過できない。氏は、10年前の学会の逸脱路線における反省、すなわち昭和53年の6・30や11・7における謝罪、及び54年の4月における池田氏の会長・総講頭の引責辞任が、全て偽りの謝罪・反省であり、宗門を欺くポーズであったことを、ここで証言しているのである。
もちろん、学会52年路線の教義逸脱は、氏が今さら何をいおうとも、正当化できるはずはない。大聖人の相伝仏法を創価仏法に、唯授一人の血脈を学会の血脈に、大聖人の御書を『人間革命』にすり替えるなど、教義上のあらゆる逸脱を行なったことは、本宗僧俗の全てが知るところである。このことは、例えば、法華経の宝珠を偸盗して、大日経の瓦石とすり替え、三宝破壊を行なった真言の謗法にも過ぎるものである。
このような52年路線の逸脱路線が、学会上層部で、いまだに肯定され、継続しているとすれば、今後、改めて追及しなくてはならないであろう。氏は、仏法の本義に照らし、真摯に懺悔して、全面撤回すべきである。
また、氏が「10年前は失敗した」と告白したとおり、学会の逸脱路線が、今なお進行中だとすれば、学会は宗門外護の信徒団体であることを、既に10年前に放棄していたことになる。それならば、この10年間、学会は何をしてきたのであろうか。表面上は、真の僧俗和合などと偽りながら、再度、池田創価学会教として旗揚げするために、用意周到に準備をしていたのであろう。上記の発言からみて、今回の宗門攻撃に、このような背景があったことは、想像にかたくない。
氏の告白は、池田氏の11・16のスピーチの中での、
「50周年、敗北の最中だ。裏切られ、たたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ。」
という、教義逸脱に対する無反省発言を、さらに裏付けるものである。53、4年当時における池田氏の御法主上人に対する謝罪が、嘘偽りであったことは、信仰責任者としても、元法華講総講頭としても、もはや申し開きはできないことである。
さらに氏は、
「ねえ、それでもうね、向こうは謝罪しろって、こういうわけですよ。絶対謝罪しません。向こうが悪いんだ!こっちが悪いんなら謝罪しますよ。(中略)こっちにまずいことは何にもないんですから、まずいのは向こうばっかしですから。」
と発言し、またこうも述べている。
「向こうも謝罪しないでしょ、こっちも謝罪しないでしょ、永遠に続くんです。だから1カ月や2カ月じゃ解決しないんです。ね、1年、2年解決しません。もう100年、200百年こう覚悟を決めたいと思うんでありますけれども、皆さん、いかがでしょうか。」
氏は、自分たちに非はないとするが、学会首脳の謝罪すべき点はいくらでもある。その中でも、一番の罪過は、すでに指摘してきたように、自分たちの三宝破壊の責任を隠蔽して、しかも血脈付法の御法主上人への不信感を、ことさら会員に煽り、純真な会員の仏種を断じさせようとしていることである。
『新池御書』には、有信無解の成仏が説かれる中で、
「末代の衆生は法門を少分こころえ僧をあなづり法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、法をこころえたる・しるしには僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし、今は仏ましまさず解悟の知識を仏と敬ふべし争か徳分なからんや、後世を願はん者は名聞名利を捨てて何に賤しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし、是れ正く経文なり。」(全集1443)
と、解悟の知識たる僧侶を、仏のように仰いで、名聞名利の邪念を払い、三宝帰依の尊信によって、成仏を願うべきことを明かされている。
氏や学会首脳の私生活がどうであろうと、宗門僧侶は、それらをあげつらうことはしない。氏もまた僧侶も、末法出生の煩悩多き衆生であることに、変わりはないからである。だからこそ、三宝の御力によらなければ、私たち僧俗は成仏できないのである。たとえ、個々の僧侶に、世法上の問題が仮にあるとしても、その僧侶は、仏法律に照らされて、その報いを受けるのである。つまり、それは個人の責任であり、個人の罪過なのである。
しかし、仏法上の本質問題は、そうはいかないのである。それは、個々の問題にとどまらないで、全会員の成仏・不成仏に関わるからである。もし、一般会員が、仏法の本質と個人の罪過とを取り違えて、このまま三宝不信に落ちていけば、それは必ず謗法不信の失を受けることになる。そして、それを会員が自覚できないうちに、自らの不信謗法により、自らの仏種を断ずることになるのである。それを何としても防ぎ、会員を救うためにも、学会首脳の仏法上の誤りを、宗門が結束して糾しているのである。
また氏は、学会の仏法破壊の謗法路線が、このまま永遠に続くなどと、奔放な発言をしている。真実を知らない純真な信徒を道連れにして、全会員に、永遠に地獄の苦悩を覚悟せよというのであろうか。どうか地獄への覚悟は、破仏法の学会首脳だけで、それも組織を出てからにしてもらいたい。
しかし、氏は、その覚悟ができたとしても、絶対謝罪しないといい切るのだから、氏らの三宝誹謗の汚点は、永遠の時を待っても、薄まることはない。まして、氏は、仏法上の正邪を、謝罪する、しないの次元でごまかしてはならない。そして、学会の情報操作によって、一時的に責任を逃れたとしても、御本仏の照覧を覆い隠すことは、決してできないことを覚悟すべきである。
池田氏と学会首脳の犯した破仏法の罪は、もはや表面上の謝罪だけでは済まない。偽りの謝罪はもう許されないのである。しかし、手遅れになる前なら、まだ一筋の救済の道は残されている。それは、下種三宝尊への真摯な懺悔と、会員の成仏のために、真実を告白し、正直な滅罪行に徹することである。
2.傲慢な「折伏観」
森田氏は、自身の浅見による折伏観を、こう披露している。
「戸田先生は、『神様が古くなったり新しくなったりする訳ないじゃないか。だいいち神様を一年にいっぺん焼けるか』と、『あれは神札だから焼けるんだよ』あぁ、こりゃ神様じゃないんだ、神札なんだと、そりゃ気持ちよく謗法払いができました。非常に戸田先生の指導は明快ですね。宗門ではこんな明快な話、絶対にしてくれません。だから折伏ができないんですから。」
確かに、氏の述べるように、戸田会長は各人の教学力や機根に合わせて、的確で明快な指導をした方である。
御当代日顕上人も、平成3年1月10日の教師指導会の折に、
「戸田先生は本当に命懸けで、自分というものを忘れてやられた方だと思います。(中略)その芯に、『命を捨てても法を守ろう、法を弘めよう』という気持ちがあったように私は思っております。」
と仰せになられて、戸田会長の仏法守護と広宣流布への熱意を賞賛されている。
その良き檀那の範たる戸田会長は、氏のような人のために、次のようにも、明快に指導している。
「先代牧口先生当時から、学会は猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきたし、こんごも、この精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない。むかし、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者があったそうだが、仏法の尊厳をそこなう者は当然そうなる。」(昭和31年1月29日)
氏は、この戸田会長の指導を思い返して、猊座の尊厳を冒した、我が身の重罪を心から自覚してもらいたい。
また、戸田会長の「あれは神札だから焼けるんだよ」という話は、たしかに明快である。ただ、これは外道破折の次元で述べられたものである。よもや、氏はこの次元で、仏法の立場を安易に判断して、三宝破壊をしているわけではあるまい。しかし、あとで述べるように、氏の考える大聖人の精神が、法だけを中心とした過った考えであることをみれば、氏の仏法に対する浅識にも問題があるといえる。
御法主上人は、教師指導会での御指南の中で、
「『法というものが中心だ』というように考えてしまっておりますが、法と人が本当に一つで、その人、すなわち大聖人様のところに具わった南無妙法蓮華経が末法一切衆生の即身成仏の大法であることを、忘れてはいけないのです。そこのところを、はっきり拝されたのが日興上人様で、その日興上人様が末法万年の上の衆生を導く、唯授一人の御相伝において『南無妙法蓮華経日蓮在判』と御本尊の本体をはっきりお示しになり、人法一箇を中心においてお示しあそばされておるのであります。また、その脇に『日興(在判)』とお書きになったところに、それを正しく末法万年に伝えるところの僧宝の姿があるのです。」(平成3年1月10日)
と、学会首脳が「法中心の信仰」に傾いていることを御指摘になり、それを破折されて三宝の真義をお示しになっている。
ここで多くは触れないが、大聖人の仏法は、あくまで本門文底下種の三宝への信仰であり、決して、法のみを中心とした信仰ではないのである。もとより、大聖人の仏法は難信難解であり、御法主上人の御説法も甚深であられる。
しかし、その御説法が難しいからといって、氏などが「仏法は法中心である」と軽薄に考えてしまうのは、浅識謗法である。仮に、そうは考えていないと氏が反論しても、すでに御法主上人を批判中傷しているのであり、それは、仏法の本義を少しも信解していない証拠である。大聖人の仏法の一分でも信解する者であれば、御法主上人への批判は到底できるものではない。
また、個人の能力によっては、明快な話で折伏ができるのも、大変結構なことである。しかし、明快な話だけが折伏の条件ではない。その一辺から「創価学会だけが折伏できる」というのは、氏の大いなる慢心である。むしろ、戸田会長の明快な話や指導を、氏の慢心と浅識によって曲げて受け止め、習いそこねた結果というのが、氏の現在の逸脱の姿ではないのか。氏は、この点も反省すべきである。そして、創価学会の折伏は、あくまで仏意仏勅によるものであり、全て下種三宝の御威徳によるものであると、謙虚に表明すべきである。
氏の慢心は、次の発言にも端的に表われている。
「広宣流布がわかんないんだ、坊さんに。自分が折伏やってないからわかんない。落ち穂拾いばっかしやってるからわかんない。(笑い)折伏やればわかる。」
しかし、広宣流布の本質を理解していないのは、まさに氏自身である。
御先師日達上人は、
「日蓮正宗の教義が、一閻浮提に布衍していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります。」(昭和49年6月18日)
と仰せである。つまり、氏のような間違った考えで広宣流布しても、そのようなものは、真実の広宣流布ではない。
さらに、御当代日顕上人は、本年の霊宝虫払大法会の御説法の中で、次のように仰せである。
「昭和の時代における、創価学会初代会長牧口先生、二代会長戸田先生の正しい仏法守護の行業と折伏の功徳を讃しつつも、その後の三宝護持正法流布の相が、現指導層の逸脱により歪曲し、過去の功徳が次第に消滅する恐れあることを憂慮するものであります。」(平成3年4月6日)
すなわち、もし学会首脳の誤った指導によって、学会員に三宝護持の信仰がなくなれば、学会には未来の広宣流布の使命はありえない。したがって、多くの会員が、仏法守護と折伏によって積んできた功徳さえも、やがて消失することになる。氏には、この甚深の御指南を、虚心坦懐に拝してもらいたい。
また、氏は、宗門僧侶の折伏についても、何度も不遜な言辞を吐いている。氏がどの程度折伏したのか、実際のところを聞いてみたいものだが、それより、氏は本宗の折伏の本義さえ、少しも理解していない。もちろん、末法は折伏正意であることは、論ずるまでもない。その中でも、日達上人の仰せのとおり、僧侶は折伏の上の摂受を中心に、折伏を全うしている。また在家の方は、折伏の上の折伏を全うしている。このように、三宝尊に対する知恩報恩を片時も忘れずに、僧俗ともに、それぞれの立場で折伏を行じてきたのである。
宗門僧侶は、自坊の法華講員とともに、実際に折伏をする。学会員の方が、未入信の人を寺院へ連れてきたときに、その折伏のお手伝いをすることもある。その他、御講での報恩の説法や、葬儀・法事等の席での折伏の説法も、僧侶の折伏行である。宗門僧侶が、薄墨の衣をまとい、白袈裟をかけて、儀式・法要をする姿も、大聖人の名字即の仏法を表明して、他宗謗法の仏教を破折し、参列者をして順逆二縁を結ばせて、折伏を行じているのである。また、学会草創期からの、会員一人ひとりの純真な折伏には、僧侶としても、深く敬意を表するものである。とともに、僧侶が昼夜をおかず、御授戒と御本尊下附を勤めてきたのも、やはり僧侶の折伏であろう。今、このように、氏の誤った指導を、仏法の上から破折しているのも、僧侶としての折伏である。
氏のように、折伏の本義も知らず、三宝の大恩をも忘れて、自分たちの折伏の功績だけを自慢するようでは、せっかくの折伏の功徳も次第に失うことにもなる。まして、信心の至らない人であっても、最後まで善導するのが、折伏の慈悲の精神である。それを氏が、落ち穂拾いなどとさげすむのは不遜である。このような傲慢な折伏観なども、氏の不解と慢心から出てくるのである。
3.学会流の「大聖人の精神」
森田氏は、戦時中の国家神道の問題を、皮相的に歪めて、次のように述べている。
「その国家神道が日蓮正宗にも、そして創価学会にも弾圧を加えてきた。日蓮正宗は謝っちゃったんです。妥協しちゃったんです。(中略)戸田先生、牧口先生は大聖人様の精神を命を賭けて守ったんです。日蓮正宗は妥協しちゃったんです。ですから宗門の言うことはもうこの時から聞いてないんです。(笑い)先程聞かなくなったんじゃないですよ、うちは。」
このように、氏の信心では、当時の国家神道の問題に対しても、その真意は判らず、妥協の一言で片付けようとするのも仕方がない。とはいっても、この氏の偏見によって、学会問題の真相を隠し通せるものではない。
確かに、戦争当時の牧口会長と戸田会長の死身弘法の精神は、宗門僧侶も等しく賞賛するものである。しかし、大聖人の精神の、さらにその精髄は、戒壇の大御本尊と唯授一人の御法主上人であられる。もしその時、宗門先師の仏法内護の並々ならぬ御苦労がなければ、戒壇の大御本尊は他宗の支配下に置かれ、また御法主上人の御尊体が投獄に至り、仏法破壊と血脈断絶の危機にも及んだのである。たとえ一旦の妥協があろうとも、もし仏法の二大事を破壊するようなことがあれば、これ以上の大謗法はないのである。
戸田会長も、後になって、総本山の危機を救うために、また会員の身の安全を考えた上で、会員に対し「通諜」を出し、ぎりぎりの妥協を選択したのである。それは、戸田会長が、本宗の二大事に、もしものことがあれば、もはや一切衆生の成仏の依処は永遠に失われることを、熟慮した上での処置だったからであろう。氏は、戸田門下生でありながら、そのもとで何を教わってきたのか。本宗の護法の精神は、氏の考えるような、皮相的な精神ではないのである。
牧口・戸田両会長が大聖人の精神を守られたという、氏の発言に異存はない。しかし、氏は、既に学会首脳は、両会長の護法の精神さえも失ったという、現実を直視することである。しかも、後で述べるように、現在の学会首脳の教義と信仰には、妥協と逸脱で寄せ集めた偽ものが多くあり、大聖人の精神のかけらも、みられないのである。
また、氏は、“宗門のいうことはその時から聞いていない”と、横柄に述べている。だからこそ、学会首脳の慢心と浅識は直らず、2度までも、仏法上の大きな逸脱をしているのである。また、氏のような面従腹背の不正直な信仰が、10年前よりも更に遠く、この当時まで遡るとしたら、氏の罪業の深さは、はかり知れないものである。
氏は、更にこのように述べている。
「大聖人様の精神は創価学会に脈々としてるんです。日蓮正宗に脈々としてんじゃないんです。形骸だけが残っている、向こうは。(中略)創価学会は大聖人様の精神、すなわち折伏精神を戸田先生が教えて下さった、また池田先生が教えて下さった。だから大聖人様の精神が脈々としてるんです。」
確かに、大聖人の精神は、正法護持と謗法厳戒を旨とした尊い折伏精神である。そして、再度いうが、その正法の御法体は、本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈の二大事に尽きるのである。本宗においては、この仏法の二大事を厳護あそばす、時の御法主上人のもとに、更に僧俗が寄り合って、三宝の尊体をお護りしてきたのである。それを「形骸だけが残っている」とは許されない暴言である。それは、仏法の二大事への冒涜であり、氏の信心こそが形骸化しているのである。
創価学会は、法華講の三谷素啓氏の折伏で、正法に縁した団体である。しかも、時の御法主上人の特別のお許しと、宗門の協力があって、日蓮正宗の三宝外護の信徒団体として、創立されたのである。この学会の原点は、戸田会長が会員に対して、常に指導してきたことである。
今は、その学会の原点さえ失って、氏が自慢する暴圧精神が、卑劣な言論や実際の暴力として、復活しているのである。しかし、これが、大聖人の折伏精神であろうはずはない。また、学会首脳が自らの慢心により、三宝守護の根本の信仰を失っているのは、大聖人の正法護持の精神にも反し、知恩報恩の折伏の精神からも、大きく逸脱している姿だといわざるをえない。
また、一方では、池田氏と学会首脳の考える大聖人の精神とは、今や仏教の平等精神であるらしい。だが、これこそ、大聖人の仏法を破壊し、折伏精神をも失うものである。世間の権門学者などが弄する仏教の平等思想では、仏法の正邪を明らかにして、謗法の誤りを糾すことなど、できるわけがないのである。
大聖人の折伏精神は、外道の実体思想や、権門の行布義、迹門の平等義などを破折した上で、下種仏法の正義と平等大慧の功徳を顕わし、その真価を発揮することができるのである。外道・権門・迹門等の謗法の理を破折してこそ、真実の折伏である。仏法の正邪もわきまえずに、仏教の平等精神のみを振り回すのは、世間の似非宗教家のやることである。しかも、大聖人の弟子檀那たる者が、世法の悪平等や迹門の平等義こそが、仏法の本義であると、信徒の前で吹聴するのであれば、もはやそれは、外道・迹門の謗法義によって、大聖人の仏法を誹謗・破壊している天魔の姿なのである。
このように、どの側面からみても、学会の原点を忘れている氏の発言には、大聖人の精神を訴える正当性はない。学会首脳には、もはや大聖人の精神は失われているのである。また、氏と会員が、戸田会長と池田氏から折伏精神を教えられたとすれば、確かに、両氏に感謝すべきことである。
しかし、その折伏精神といえども、三宝護持の根本を失ったならば、それは大聖人の折伏精神とはまったく異質なものである。ゆえに氏は、両氏への恩返しのためにも、何よりもまず、御法主上人の御指南を拝して、三宝護持の尊い精神を学び、学会の折伏精神の原点を見極められることをお勧めしたい。
4.戸田会長の徳を汚す発言
森田氏は、戸田会長の指導を曲げて、こう述べている。
「『御尊師にもし間違いが有るならば陰口なんてきかずに正々堂々と忠告すること、これは罰になりません。陰口は罰になります。だが面と向かって堂々と話すことは決して罰になりません。しっかりやりなさい』、どうですか、戸田先生、しっかりやれって言ってんです。陰で言っちゃいけない、堂々と、だから私もこうやって堂々と言ってるわけです。」
確かに、戸田会長のその指導は真摯に受け止めてよい。僧侶にもし間違いがあれば、陰で悪口をいわないで、正々堂々と寺院に参詣して忠告してもらいたい。宗務院との連絡会議に申し出てもらってもよかったであろう。ただし、僧侶のいい分も聞いて、その事実を確かめてもらいたい。僧侶にも、反論し、弁明する機会を与えるべきである。他人の誤解によるものや、事実無根のこともあるかも知れない。しかし、そのことが事実であれば、お詫びもするし、反省もする。また、たとえ誤解によるものでも、僧侶は自分の不徳を恥じて、今後は充分に気をつけるであろう。これが戸田会長の指導の本意ではないのか。
しかし学会首脳は、自分たちの罪過を宗門側に責任転嫁し、会員には一方的に、僧侶への「嘘八百を交えた」悪口を陰で流し、『聖教新聞』には捏造の悪口を書いている。本年5月以降は、会員の苦情によって、『聖教新聞』での宗門批判は、いくらか抑えられてはいる。しかし依然として、裏側では、他の関連紙誌の『創価新報』『第三文明』『潮』『パンプキン』等において、あいかわらず、二番煎じの中傷記事を書き立てている。
そして、こともあろうに、他宗謗法の『中外日報』という宗教新聞にも、御法主上人の正本堂の御指南に関するものや、その他宗門批判の記事を投稿している。このような悪質で卑怯なやり方は、戸田会長は断じて認めなかったはずである。まして「正々堂々」の言論といえるものではない。そのうえ氏は、辻武寿副会長などと共に、「中外日報創刊90周年記念祝賀会」(昭和61年11月12日)に他宗謗法の者たちと同席していたが、是非とも謗法厳戒の精神で、「正々堂々」と、その釈明をして欲しいものである。
また氏は、巧みにすり替えをくり返し、不正直な指導をしているが、その不正直な面は、戸田会長の指導を引用する際にもみられる。氏は、戸田会長の指導を、切り文的に利用して、戸田会長の真意に背いているのである。その証文として、氏が引用したであろう戸田会長の指導を、その前文を加えて挙げておこう。
「ここで最初に注意しておくことは、お坊さんに、おのれはおせじを使わないで、そして、どこまでも尊敬する。尊敬とおせじは違うぞ。ここは紙一重の差がついている。尊敬する。そうして、できるだけこのお寺の御僧侶が、不自由のないようにすることを心掛ける。そのかわり、御尊師にもし間違いがあるならば、陰口なんてきかずに、正々堂々と、忠告すること。これは罰になりません。陰口は罰になるぞ。だが、面と向かって、堂々と話すことは、けっして罰になりません。」(昭和32年8月20日)
このように、戸田会長の真意は、僧俗が互いに尊敬し合い、信頼し合うことであり、その上で、もし僧侶に間違いがあれば、直接その僧侶に忠告することが大事であると述べているのである。
まだ他にも、幹部指導での陰口においては、色々と詭弁を弄して、御法主上人批判を会員の中に浸透させようとしている。たとえば、「人間であられるから」という理由で、「猊下にも間違いがある」という陰険な指導がなされている。そういう理由であれば、「池田先生も人間だから大いに間違いがある」とはっきり指導してもらいたい。
大聖人の弟子檀那が、御法主上人を直ちに仏法の正師と拝するのは、自らの世法の知解を廃して、唯授一人の血脈法体を信ずるからである。仏法の正師に対する随順の信心とは、成仏のための決定信のことである。世法の知解と仏法の信解とを混同してはならない。ゆえに、御法主上人の御指南は、凡夫の我見ではなく、信の一字で拝すべきなのである。
また氏は、正信会問題に絡めて、戸田会長の徳を汚すような、無神経な発言もしている。
「『宗門とは付かず離れずで行けよ』と、正しいですね戸田先生は。だって、10年前にお寺に付いておった人たちで、坊さんが正信会行っちゃた人は、みんなそれにつられて正信会行っちゃったじゃないですか。」
しかし、戸田会長は護法の精神に徹してきた方である。たとえば、戸田会長は、次のように述べている。
「大聖人様のおおせられるのは、祈りは必ずかなう。それには時がある。良き法と、良き師と、良き檀那との三つが、そろわなければだめだ。南無妙法蓮華経、これは良き法にきまっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、六十四代のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下をとおして大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、ひじょうに光栄とするものであります。」(昭和31年12月13日)
この発言ひとつ取り上げても、戸田会長は、御法主上人を仏法の師匠と仰ぎ、良き檀那としての重大な責務を、最大の誉れとしたことが判る。その仏法の筋目を通した方が、宗門とは付かず離れずで行けよ、と口にしたとは到底信じられない。またしても、これは氏の思い違いか、曲解であろう。あるいは万が一にも、私的な立場で漏らした言葉であったとしても、今になってそれを公言して、戸田会長の人徳を汚すべきではない。仏法では、付かず離れずのような信心は、中有に迷う姿であると戒めているのである。仏法の二大事を外護すべき学会首脳が、付かず離れずの信心では、まことに情けないことではないか。
ついでに、氏の迷いを醒ますために述べておくが、戸田会長も拝しているように、『法華初心成仏抄』には、
「よき火打ちとよき石のかどと・よきほくちと此の三寄り合いて火を用ゆるなり、祈も又是くの如しよき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり」(全集550)
と仰せである。この御金言の通り、広宣流布の祈りは、良き法と、良き師と、良き檀那の三つがそろって叶えられるのである。そして、戸田会長の述べるように、その中の良き檀那の立場も、責任重大であり、誉れ高き立場である。ただし、その檀那の立場にある者が、この分位をわきまえずに、慢心を起こして仏法の師になり代わろうとすれば、学会の広宣流布の祈りも、その途上の功徳も、永遠に叶うことはないのである。
また氏は、正信会問題を引き合いに出して、勝手な発言をしている。正信会問題は、前回の学会問題が発端となっているのである。もちろん、自称正信会の元僧侶が、僧侶としての仏法内護の責務を忘れて、御法主上人の御指南に従わず、感情の赴くまま一部の信徒を巻き添えにして暴走したことは、到底許されるものではない。しかし、御先師日達上人の御指南のもとに、宗内僧侶が団結して、学会52年路線の誤りを糾したのは事実である。そして、池田大作氏をはじめ学会首脳が、自らの過ちを正直に反省したことを信頼されて、御先師日達上人は学会問題を収束され、また御当代日顕上人は学会との協調路線を継承されたのである。
これひとえに、両御法主上人の学会及び会員に対する、深く暖かい御慈悲によるものである。学会首脳は、その両御法主上人の大恩さえも踏みつけて、御法主上人批判をしているのである。もはや、そのような不知恩の者には、大聖人の檀那たる資格はないのである。しかも、学会首脳は、学会員を巻き添えにして、正信会と同じような仏法違背の道をたどろうとしているのである。
氏は次のようにも述べている。
「ですから戸田先生は厳しかったですよ。お寺にくっつく人を『寺信心』と、こう言っとる。最近言わなくなっちゃった、そういうことを、少し上品になっちゃったですね、創価学会は。昔は寺行くと『寺信心』って。」
しかしこれも、氏など学会首脳が、戸田会長の指導を都合のいいように曲げたり、捏造したりしているのであろう。戸田会長が「寺信心」などという言葉で、正宗寺院の御本尊を冒涜するはずがないではないか。
戸田会長は次のように指導している。
「信心を基調にして、折伏をすること、お寺をだいじにすることと、御本山へつくすことはあたりまえのことなんだからね。それが、自慢のようになっては、もう、信者としては資格がない。」(昭和29年12月15日)
この指導にあるように、総本山を外護し、末寺を護ることが、なぜ大事であるのか。それは総本山には、本門戒壇の大御本尊がましますからであり、末寺には、大御本尊の御写しの御本尊が御安置されているからである。すなわち、本山末寺への外護の信心とは、建物寄進の数で推し量れるものではなく、いついかなる時も、大御本尊と血脈を根本に、末寺の御本尊を現実にお護りできているかどうかで、実証されるのである。
まして学会首脳が、「寺信心」などと称して、正宗の寺院と他宗謗法の寺とを同列にして考えているのは、信仰の内面からいえば、本宗の御本尊と他宗の本尊とを、同等に扱っているのである。つまり、学会首脳の信心が混濁しているから、平気で「寺信心」などという不遜な言葉が出てくるのである。
また最近では、幹部が「本山には登山しなくてもよい」「末寺への参詣は必要ない」などと指導して歩いているようなことを耳にする。しかしそれは、その幹部に自覚がなくても、大御本尊と血脈への冒涜と不敬であって、しかも会員の仏道を妨げるものであり、その罪はまことに深いのである。あるいは、総本山にまします戒壇の大御本尊と、末寺の御本尊、家庭の御本尊との本末・次第をわきまえないで、ただ自分の家にある御本尊を護持していればよい、というのも大きな誤りである。
御先師日達上人は、本宗の血脈の大事について、
「信心といい、血脈といい、法水というところの法水は、何処から出てくるかということが最も大切であります。それは、我が日蓮正宗においては日蓮大聖人であり、大聖人の御当体たる本門戒壇の大御本尊であります。故に、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の法水は流れないのであります。」(昭和53年7月30日)
と甚深の御指南をされている。もとより、唯授一人の血脈の尊義は、論議すべき問題ではなく、ただ仏法の教義と道理の上から、信解することが肝要である。最近の学会首脳は、西洋の宗教観を愛用し、権威とか権力とかの言辞を並べて、本宗の血脈とその正師を暗に冒涜している。そのような外道義で、仏法の血脈を論ずる学会首脳に対しては、謗法の域を越えて、ただ悩乱されたと表現するしかないのである。
この御指南にあるように、御仏智の立場からいえば、自宅の御本尊を護持することが大切であるとしても、その功徳はあくまで本門戒壇の大御本尊から流れ通ってきているという、根本を失ってはならない。また、衆生側の信心の立場からいっても、衆生側に本末・次第の信心の筋目がなくなれば、仏法の道理からして、本宗の血脈の信心とその功徳は次第に薄くなり、やがて不信謗法を犯すことになる。そうなれば、御本尊を信じたくても信ずることができなくなり、肝心の成仏はもとより、今までの功徳さえ失われていくのである。
他にも氏は、戸田会長が書かれたという『聖教新聞』の“寸鉄”(コラム欄)を引いて、かえって、戸田会長の人格を傷つけるようなことをしている。最近では、「学会は戸田会長の護法の精神に帰るべきだ」という、会員からの声が出始めているやに聞くが、氏はその盛り上がりを心配して、戸田会長にも、宗門攻撃の与同罪を受けてもらおうと、あえて不用意な発言をしているのかも知れない。しかし、氏が、
「戸田先生は、『森田君、君の“寸鉄”は切れ味が全然ないね』『君のは、これはね“寸鉄”じゃなくて“尺鉄”だよ!』責任を感じて私、それで辞めました。」
と正直に述べている点からは、わずかながらも、氏の素直さと責任感を読み取ることができる。氏は、戸田会長時代の信心を思い返して、その時と同じように、学会問題のけじめをつけてもらいたい。
5.御本尊と組織との混乱
森田氏は、次のように、本末転倒の発言をしている。
「創価学会へ来て初めて知ったんじゃないですか、だから創価学会のお陰ですよ、御本尊様を知ることもできた。創価学会がなかったら、一生御本尊様に会えなかったんですよ。だって坊さん布教しないんだもん。会えませんよ一生。」
氏の見解は、御本尊と組織との関係が、全く逆転しているのである。これは、氏の信心が転倒しているからである。学会組織は、大御本尊と血脈の大事を根本としてこそ、その存在の意味がある。学会組織それ自体に、功徳があるわけではない。あくまでも、大御本尊にこそ、功徳が具わるのである。また会員が、御本尊に結縁したのも、本来からいえば、仏縁によるのである。そして、会員の成仏も功徳も、学会組織や幹部指導ではなく、大御本尊の御力によるのである。
氏はそれでも、御本尊よりも組織のお陰だというのなら、氏は「組織」を信仰していることになる。それでは、氏の謗法だけでは済まない。氏はもう、御本尊と組織の関係をごまかしてはならない。信心と功徳の筋目は、正直に立てるべきである。
たしかに、会員にとって学会組織への恩はあるだろう。しかし氏は、本宗の僧宝を批判し、三宝の大恩を忘れているのである。だから、氏には、組織の恩を論ずる資格はないのである。なぜなら、三宝の大恩を知り、それを報じてこそ、組織への恩は成り立つからである。決してその逆ではないのである。氏はここでも、自分たち一部の幹部のために、また自分たちの非を隠すために、組織の恩を利用しているのである。
しかし、学会組織は、全会員の成仏のためにあるのである。学会首脳のためにあるのではないし、一部の大幹部の所有物でもないはずである。それに、創価学会といえども、本宗の大御本尊と血脈相伝がなければ、存在しなかった組織であることも、氏は忘れてはならない。
これからは、御仏意により真実に目覚めた会員が、陸続と出てくるであろう。そして、それらの会員は、所属寺院の僧侶と法華講員と共に、学会首脳の誤った教義と信仰を破折して、真実の意味から、学会組織への恩を返すことになろう。
また氏は、本宗伝統の正法護持・謗法厳戒の姿についても、程度の低い冗談を述べている。
「ですから、世間では日蓮正宗のことを“針金宗教”と言った、針金の如く細々と700年。まっ、しかしよく切れないで来たからいいようなもので、創価学会が出現して太いワイヤーになっちゃった。坊さん、『もうついていけない』ね、『元へ帰りたい』、もう一回針金になりたいって言うんですから。これじゃ広宣流布はできないんじゃないですか。」
たしかに、本宗の正法護持・謗法厳戒の清浄な宗風は、他宗から“針金宗教”と称されたものである。しかしそれは、経済的な貧困や、檀信徒の無勢を意味するものではない。それは、宗開両祖以来の、正法伝持の道念と気概を評したものである。
学会首脳は、組織の多勢を誇り、貧乏の本山をここまで大きくしたのは学会だという。しかし氏は、自分でどれほどの事業をなして、本山に御供養したというのであろうか。本山への御供養は、すべて会員一人ひとりの浄財ではないか。氏も職業幹部として、会員の寄付で生活しているのである。そこを謙虚に考えるべきである。また創価学会といっても、現実をみれば、三宝の功徳はもとより、会員一人ひとりの折伏があって、学会は発展したのである。その真実に目を向けなければいけない。
もちろん過去においては、学会首脳の指導が、会員の折伏に大きな力を貸したであろうことは、疑いないことである。しかし、信仰における指導的立場の者が、自分たちの指導の成果を誇示するのは、とても恥ずかしいことである。まして現在は、学会首脳の指導の誤りが、厳しく問われているのである。氏はそこを自省しなくてはならない。
宗門が、もし仏法上のことで堕落していたら、会員の成仏のためにと、学会首脳の誤りを糾すようなことはしていない。他宗僧侶と同じように、まず経済的なことを考え、また多勢の暴挙に恐れをなして、仏法の失をみても、みない振りをして、慢心の檀那にへつらうであろう。これを僧侶の堕落というのである。しかし、本宗僧侶は、檀那に媚びへつらうことなく、仏法上の間違いを糾しているのである。
戸田会長は、本宗の法体守護・化儀連綿の宗風に対して、
「もったいなくも、代々の法主上人の丑寅の勤行は、御開山より、ただの一日も休んだことがない。丑寅の勤行とは、夜の二時からの御勤行で、暑くとも、寒くとも、大衆救護の御法主上人はじめ石山僧侶一同のおつとめである。もったいないではないか。神々しいではないか。ありがたいことではないか。他山に、かかる勤行があるであろうか。かくも、法体を守護し、かつ化儀連綿たる功績こそ称えねばならぬことである。」(昭和26年6月10日)
と述べている。氏は、一分の改悔の心があれば、この指導を何度も読むことである。今から700年前、御開山日興上人は、身延の邪義謗法とたもとを分かち、大聖人の正法を正しく護持されて、総本山大石寺を建立されたのである。
それ以来、御歴代の御法主上人は、困難な時代に遭遇しても、唯授一人の血脈を継がれて、大御本尊を厳護され、また甚深の丑寅勤行をつとめられ、広宣流布を祈念されてきたのである。その御威徳を深く拝すべきである。
今回の問題でも、血脈付法の御法主上人が、真実の広宣流布の方途を見極められ、仏法の道理と正邪の上から、池田氏と学会首脳を教導されているのである。
また、御先師日達上人は、昭和52年の学会問題の時に、
「なるほど長い間学会はよく宗門のために尽くしてくださいました。その功績は大きいのであります。しかし、功績が大きいからと謂って、教義が間違い宗門と逸脱してしまえば、これは何にも役に立ちません。ただそういうふうに間違いを起こしてもらいたくないが故に、ただ今のように色々のことを指摘して、学会を何とかして立ち直ってもらいたいと思ってやっておるのであります。」
と仰せになっている。現在においても、僧俗がともに初心に立ち返って、この御指南を拝すべきである。そして今こそ、創価学会は、本宗の三宝外護と仏法流布のために創立したという、学会の原点に戻る時である。
氏は、その学会の原点を忘れて、学会出現によって「太いワイヤー」になったと自慢してみても、愚かなことである。仏法の二大事を外護できない、学会首脳の謗法の指導であれば、学会組織自体が、錆びて腐ったワイヤーになり、根本から断ち切れてしまうだろう。そうならないためにも、学会首脳は三宝護持の正しく清らかな信心を、速やかに取り戻してもらいたい。
宗門は、仏法の正師の御指南のもとに、これからも、令法久住・広宣流布の大道を、揺るぎなく前進していくことに変わりはない。氏は、「もうついていけない」「元へ帰りたい」などと揶揄しているが、宗門僧侶は、会員の成仏のためにも、学会首脳の謗法路線を認めるわけにはいかない。反対に、仏法の正師の「元へ帰りなさい」と、氏に忠告しておきたい。