正林寺御住職指導(R4.3月 第218号)
極寒を耐えぬき「忍ぶことの大事」に精通した草木が躍動し始める時季が到来します。雪国に住む方にも、厳しい冬を乗り越えて雪解けと同時に感じる春の悦びはひとしおでしょう。
宗祖日蓮大聖人は『妙一尼御前御消息』に、
「冬は必ず春となる」(御書832)
と仰せであります。新型コロナウイルス感染症の蔓延は冬のような時期であり、必ず収束へと向かい春が来ることを信じて、御本尊への勤行唱題を心がけましょう。
「桜梅桃李」とは、鎌倉中期の説話集『古今著聞集』の『草木』の項にある「春は桜梅桃李の花あり、秋は紅蘭紫菊の花あり」との語源からとされています。この説話集の作者は橘成季であり、建長6年(1254)に成立され平安中期から鎌倉初期までの日本の説話726話を、神祇・釈教・政道など30編に分けて収められた説話集です。
大聖人が立宗宣言あそばされた翌年に登場した説話集となります。
桜梅桃李の「桜」は、春を感じる花の代表です。日蓮正宗公式ホームページでは、「春の総本山(The Head Temple in Spring)」を映像で見ることができます。コロナ禍で登山が困難な現在、総本山の様子を拝見することができます。『上野尼御前御返事』に「人間には桜の花」(御書1574)と。なお、総本山では本年も法華講講習会や中等・高等・学生部研修会の開催が予定されています。
「梅」は、もろもろの木に先立ち花が咲くため「花の兄」といわれています。世の難儀に屈することなく梅花のように、我が身、我が家の永久繁栄を願う心から、年の初めの祝木として門松には用いられています。『祈祷抄』に「梅の実を食して気力をます」(御書623)と。「気力をます」大聖人の御教えから総本山大石寺大坊では所化小僧さんの生活で「梅ジュース」を頂くことが拙僧の修行期間中に習慣化されていたのではと拝察いたします。
「桃」は、『問注得意抄』に「西王母(せいおうぼ)の薗(その)の桃九千年に三度之を得るは東方朔(とうほうさく)が心か」(御書417)と。第二十六世日寛上人も『三重秘伝抄』に「然りと雖も近代他門の章記に竊かに之れを引用す、故に遂に之れを秘すること能わず、今亦之れを引く、輪王の優曇華、西王母が園の桃、深く応に之れを信ずべし。」(六巻抄28)と御教示のように、仏法上、桃の文言には種脱相対の一念三千として、寿量品文底一大事の秘法に値遇しがたいことを秘めた譬喩と拝します。
「李」は、『法蓮抄』に「李陵が巌窟(がんくつ)に入って六年蓑(みの)をきてすごしけるも我が身の上なりき」(御書821)と。現コロナ禍で生き抜いていくための訓示となるのではないでしょうか。ゆえに『寂日房御書』には「昨日は人の上、今日は我が身の上なり」(御書1394)と。
桜梅桃李は、それぞれが独自の美しい花を咲かせるように、他人と自分を比べることなく、個性を磨こうという教訓を含んでいます。それぞれの境界により桜梅桃李の解釈も様々でしょう。まさに、一水四見です。
御法主日如上人猊下の「講中一結・異体同心」(大日蓮 第909号 R3.11)との御指南にも桜梅桃李は大事な心得となります。
大聖人は『御義口伝』に、
「桜梅桃李の己が位己が体を改めずして無作の三身と開覚す」(御書1797)
と仰せであります。
御法主日如上人猊下は意味について、
「大聖人様は、
『桜梅桃李』(御書1797)
ということをお示しになっているように、桜は桜、梅は梅と、それぞれが長所をしっかり伸ばし、広宣流布という一点に力を合わせていくところに真の団結が生まれてくるのです。
これが一番大事なのであり、これは、しっかりお題目を唱えていると、そういう心になるのです。お題目の功徳というのは、それほど広大無辺なのです。
だから、唱題をして、唱題をして、そして折伏に打って出る。これをしていくと、講中が一致団結しますよ。そして、折伏に当たっても、どんな魔にも負けない強い生命力が、必ずその人の命のなかに具わってくるのです。
ところが、お題目を唱えていないと、この功徳がないのです。だから、口先だけの折伏になってしまう。これでは、単なる理屈の言い合いになってしまいます。
我々の折伏は、理屈の言い合いではないのです。邪義邪宗の害毒によって苦悩に喘ぐ人を救っていくのですから、これはお題目しかないでしょう。お題目を唱えて、我が命に大きな御仏智を頂き、その心で折伏をしていくことが大事なのであります。みんながその気持ちになれば、異体同心は絶対に間違いありません。」(信行要文 七 P228)
と御指南であり、さらに、
「桜や梅などは皆、それぞれに特徴があります。我々も同じではないでしょうか。日蓮正宗を、皆で護っていく。それぞれが分に応じて、桜は桜、梅は梅として、しっかりと護っていく。また、寺院を護ることも同じであります。寺院の御本尊様をどうやってお護りしていくかを考えねばなりません。つまり、皆が同じでなくてもよいのです。かつて、釈尊やその教団を護ってきた十大弟子がそうであったように、それぞれが自分の得意分野において力を発揮し、その上で心を一つに合わせていけば、折伏もできるし、お寺も繁栄し、日蓮正宗が興隆していくのです。そして、御本尊様をしっかりとお護りすることができるのです。ですから、なんでも人の真似ばかりしなくてもよいのであります。もちろん、良いことは大いに真似をすべきであって、その上で、それぞれの特徴を活かして信心活動に励んでいくということは、まことに良いことではないかと思います。」(信行要文 三 P60)
とも御指南です。大聖人の「桜梅桃李の己が位(中略)無作の三身と開覚す」と仰せの現代における具体的な御指南と拝します。
また第67世日顕上人は、
「無作三身とは、久遠元初の凡夫即極の仏様の一身に具わる三身であります。これが付嘱の上からの御法門です。やたらと寿量品の思想から考えを広げて、桜梅桃李ことごとくがただ単に無作三身ということを言うのではない。桜梅桃李無作三身もそれは値打ちがあり、嘘ではありません。しかしそれは一番根本の妙法の仏の悟りがあり、そこから開いて、妙法の境界をもって拝するが故に桜梅桃李が無作三身になるのです。そこを忘れてしまって桜梅桃李無作三身ということを簡単に論じても、とてもそれだけの値打ちはそこに出てこない。また、それだけの境界が顕れてこないというように私は考えるのであります。」(大日蓮 第534号 H2.8)
と御指南であります。「一番根本の妙法の仏の悟り」とは、大聖人の出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもありません。また桜梅桃李の解釈については、考えを広げて単純に簡単に論じることは本来の値打ちを損ねることになるため極理の師伝を重んじて拝することが肝要です。その上から依正不二の原理のもと法界をも動かす力につながり、自然災害をも沈静化する用きがあります。
折伏においては、今いる立場でまわりに未入信の方がいれば、その人は大聖人の説かれる桜梅桃李を心肝に染めて「叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとが(咎)にあらず」(御書1519)との御指南を肝に銘じるところ境界が顕れることを確信しましょう。
法統相続においても桜梅桃李は大事な教訓になります。うちの子供は、うちの子供でしかありません。いくら隣の子供がすばらしいといって、十二因縁のうえからうちの子供が隣の子にはなりません。うちの子供には隣の子供にはない良い面がある筈です。その良い面を伸ばしてあげることが先ず大切なことになります。まさに桜梅桃李ではないでしょうか。子供への虐待が問題視されている昨今では、大聖人が『聖人御難事』に、
「い(言)ゐはげ(励)ましてを(堕)とす事なかれ」(御書1398)
との仰せを心得るべきです。
この桜梅桃李は『立正安国論』の、
「悦ばしいかな、汝蘭室の友に交はりて麻畝の性と成る。」(御書248)
との御指南につながる関係が大事でしょう。その蘭室は「富山の蘭室」(六巻抄143)のことであり、本門戒壇の大御本尊が在す総本山大石寺です。また日蓮正宗僧俗が集う寺院・教会は富山の蘭室となり「蘭室の友に交はりて麻畝の性と成る」ことが叶います。
それがまた「信心のいさ(潔)ぎよきはす(澄)めるがごとし」(御書1519)との仰せとなる清浄な境界につながり、「四法成就の信心」により六根清浄の功徳成就へと躍進するでしょう。
兎角、人の長所よりも短所に目が行きますが、桜梅桃李には人の良いところを見て尊重して、短所は本人が御本尊への真剣な祈りにより罪障消滅と同時に改善するべき仏道修行になります。
まさに、桜梅桃李は異体同心・講中一結には必要不可欠な要素となることを再確認しましょう。
宗祖日蓮大聖人『日厳尼御前御返事』に曰く、
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとが(咎)にあらず。水す(澄)めば月うつ(映)る、風ふけば木ゆ(揺)るぐごとく、みなの御心は水のごとし。信のよは(弱)きはにご(濁)るがごとし。信心のいさ(潔)ぎよきはす(澄)めるがごとし。木は道理のごとし、風のゆるがすは経文をよむがごとしとをぼしめせ。」(御書1519)