小島信泰氏の「檀家制度とその弊風」を破す
時局協議会文書作成班3班
はじめに
小島信泰氏は、平成3年(1991年)3月10日付の『聖教新聞(聖教ヒューマンライフ)』で、一見、江戸時代の檀家制度とその弊風を述べているようである。しかし、小島氏のいわんとするところは、
「こうして僧俗一体の折伏を展開していった日蓮大聖人の門流も、江戸幕府の宗教政策によって、僧はおおむね布教への積極姿勢を失い、僧俗は他宗と同じ寺檀関係へと変質、それが固定化されていったのである。
そして、他宗と同様、日蓮宗各派においても、封建制度が終焉した今日でさえ、こうした僧俗関係の伝統は根深く残ることとなったのである。
その弊風は、ともすると僧俗の上下観や、社会から遊離して法要や塔婆供養による収益に走る僧侶を生み出す温床となったのである。」
と述べているように、日蓮正宗の僧侶への非難である。
そして、「法要、塔婆、戒名で収奪し堕落」「僧俗に封建的身分関係もちこむ」「幕府の庇護うけ庶民監視の機構へ」と小見出しを掲げているのである。これは、あたかも宗門僧侶が堕落し、庶民を圧迫しているかのような小見出しである。
また、中野毅氏も「4・2記念大田・品川・目黒・川崎合同幹部会」において、「檀家制度の形成とその影響」という題で、小島氏と同様のことを講演している。この論も、やはり一般的な檀家制度の話ではなく、宗門非難を主眼とするものである。中野氏は、
「また、当然のことながら、大聖人の時代には檀家制度は存在していませんでしたし、出家者は折伏をやらなくとも葬儀や塔婆供養をしていればよいという教えも慣習も存在していませんでした。また、大聖人が弟子檀那に対して、その死後に戒名を授けた例も見いだすことはできません。本来は、生前の授戒の時に授かる出家名、つまり法名であったのです。」
と述べている。
これらは、まず創価学会の広報機関を用いて発表していること、さらに中野氏に至っては幹部会における発言であること、そして両氏とも論旨が共通していることから、創価学会の公式見解というべきである。このように、両氏とも檀家制度に名を借りて、今日の宗門を非難しているのである。
また、こうした発言は、葬儀や法事等、本宗の化儀を軽んずる考えが元となってなされるものである。
大聖人は『報恩抄』に、
「老狐は塚をあとにせず白亀は毛宝が恩をほうず畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや」
と、畜生すら恩を感じるのに、まして人間たるや、報恩の志を強くもたねばならないことを御教示されている。
この『報恩抄』は、師の道善房への供養のために認められたものである。それは、『報恩抄送文』に、
「道善御房の御死去の由・去る月粗承わり候、自身早早と参上し此の御房をも・やがてつかわすべきにて候しが自身は内心は存ぜずといへども人目には遁世のやうに見えて候へばなにとなく此の山を出でず候」
と、すぐに駆けつけたいけれども、人目を気遣われて行くことができなかった様子を、書き留められていることからも拝され、また供養のために、
「故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いて」
と、道善房の墓前で読みなさいとの仰せからも判るのである。
また、信徒の南条兵衛七郎殿が死去した折には、
「故なんでうどのはひさしき事には候はざりしかども、よろず事にふれて、なつかしき心ありしかば、をろかならずをもひしに、よわい盛んなりしに、はかなかりし事わかれかなしかりしかば、わざとかまくらより、うちくだかり御はかをば見候いぬ」
と、わざわざ墓参りをされたのである。さらに、南条七郎五郎殿の四十九日忌の供養には、南条家から御供養の品々が大聖人のもとに届けられ、大聖人がその志によって回向された文が残っている。『上野殿母御前御返事』に、
「南条故七郎五郎殿の四十九日・御菩提のために送り給う物の日記の事、鵞目両ゆひ・白米一駄・芋一駄・すりだうふ・こんにやく・柿一籠・ゆ五十等云云・御菩提の御ために法華経一部・自我偈数度・題目百千返唱へ奉り候い畢ぬ」
とお示しの通りである。
したがって、大聖人は、決して葬儀・法要等をおろそかにされてはおらず、むしろ仏法の上から、それらを大切にされていたといえるのである。
1.小島氏の基本姿勢に対して
今日まで行われてきた本宗伝統の化儀に対して、異なった見解を示す場合は、まず御法主上人の御指南を仰ぐことが大切である。
日興上人の『佐渡国法華講衆御返事』に、
「このほうもんはしでしを、たゞして、ほとけになるほうもんにて候なり」
と、当宗の信仰が、師弟子による法門であることを御指南されている。法門を離れての化儀はないのであるから、当然、現今の化儀について、御当代上人に御教示を賜るということが、日蓮正宗の僧俗にとって重要なのである。それを、自らの都合に合わせて曲解して、勝手に『聖教新聞』紙上に発表したり、大勢の前で話したりすることなどは、それ自体が日蓮正宗信徒として、あるまじき行為なのである。
本宗の化儀の中には、時あるいは所により変わっていくものもある。しかし、全て御法主上人の御指南を仰ぐということが、本宗の信仰化儀の根幹なのである。
『太田左衛門尉御返事』には、
「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば強ちに成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用ゆべきか」
と仰せである。本宗の化儀は、世界・為人・対治・第一義の上から、御法主上人が今日の化儀を決定されているのである。こうした道を外しているところに、今日、創価学会が誤りを犯している大きな因があるのである。
2.本宗における寺院と信徒の関係
小島氏は、
「江戸時代においてなされた、キリスト教禁制を契機とした寺院による庶民の掌握という幕府の宗教政策によって、はじめてすべての庶民が仏教との関係を持つようになったのである。すなわち、寛永十二年(一六三五年)の寺請証文(寺院が作成した、キリスト教徒でないことを保証した証文)の作成を手始めに、庶民は特定の寺院の檀家として掌握されていった。」
と、寛永12年の寺請証文のよって、初めて檀家として掌握されたと述べている。
しかし、日蓮正宗において、果たしてそうであったろうか。
本宗においては、日興上人時代に、既に特定な僧侶と信徒の密接な結びつきが示されている。『弟子分本尊目録』に、
「南条兵衛七郎の子息七郎次郎平の時光は、日興第一の弟子也」
「一、富士下方熱原郷の住人神四郎兄。
一、富士下方同郷の住人弥五郎弟。
一、富士下方熱原□□□□□郎。
此の三人は越後房下野房の弟子廿人之内也」
と示されている。
当然、これらの信徒は、直接の師のもとへ参詣したであろうことは想像にかたくない。
日興上人が大石寺を創建されて、日目上人をはじめ、他の弟子方も坊を造られたのであるから、その坊と信徒との特別な関係もできたであろうことは、充分に考えられる。それは、末寺においても同様であったと思われる。
また、総本山第9世日有上人の『化儀抄』の第8条に、
「実名、有職、袈裟、守、漫荼羅、本尊等の望みを、本寺に登山しても田舎の小師へ披露し、小師の吹挙を取りて本寺にて免許有る時は、仏法の功徳の次第然るべく候、直に申す時は功徳爾るべからず」
とあって、僧侶における日号、阿闍梨号、御本尊の下附願等は、必ず末寺の住職を通して願い出なければならない、と記されている。まして、信徒の日号や御本尊下附等の願い出においては、当然のことである。
日達上人は、同抄の『略解』において、
「信者が日号や御本尊の下附を願うのもその通りであります。もし、そういう手続きを経ないで、自分勝手に、直接、本山へ申し出た場合は、正式の手続を経た時のようには、功徳はありません。」
と御教示されている。
この『化儀抄』は、日有上人御入滅の翌年、すなわち文明15年に浄書されたものであり、寺請証文が作成された寛永12年より、150年以上も遡る文献である。
こうしたことから、日蓮正宗における寺院と檀家の結びつきは、小島氏が主張するような、江戸時代以降のものではないことが判るのである。
3.年忌法要・塔婆供養・戒名について
小島氏は、
「こうして寺院は宗教的かつ社会的自立を奪われたが、一方で、年忌法要、塔婆供養、戒名を独占することが認められたので、経済的には安定していき、その結果、徐々に堕落していった。」
と述べ、あたかも江戸幕府の檀家制度によって、年忌法要、塔婆供養、戒名の命名等が認められたかのような論を展開している。
しかし、『中興入道消息』に、
「去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に丈六のそとばをたてて其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕して・をはしませば」
とあり、また『内房女房御返事』に、
「内房よりの御消息に云く八月九日父にてさふらひし人の百箇日に相当りてさふらふ、御布施料に十貫まいらせ候」
とあり、さらに『新池殿御消息』に、
「八木三石送り給い候、今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢んぬ、いとをしみの御子を霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり」
等々と記されているように、大聖人御在世当時に、既に御供養の品々をお届けして、追善供養を願い出ていた旨が、御書中に残されている。
また、『曽弥殿御返事』に、
「故尼御前二七日の御ために米二升・ゆふかほ三・はしかみ・牛房一束給い了ぬ・聖人の御見参に入まいらせて候」
と、日興上人の時代にも、追善供養のなされていたことが明らかである。
戒名独占に至っては何をかいわんやである。大聖人御自身が、御両親に「妙日」「妙蓮」とお付けではないか。また、総本山大石寺開基の大檀那である南条時光殿は、「大行尊霊」と付けられているではないか。
邪宗における戒名料云々に当て付けて、本宗の戒名の命名が、あたかも商業意識のもとになされているかのごとき発言は、大聖人すらも侮辱するものである。
4.葬式について
小島氏は、
「鎌倉・室町時代には、庶民の仏教信仰が盛んになってはいるが、すべての人々が寺院の檀家であったわけではないし、また寺院も今日のように主として葬式や年忌法要などを執り行うために存在したのでもない。」
と述べ、もともと鎌倉・室町期における庶民信仰の中には、葬儀や法事等は行われておらず、江戸時代の檀家制度によってそれらが定着したのであるから、現代の葬儀や法事は檀家制度の名残りであるというような論を展開している。
また、中野氏は、
「一方仏教寺院が一般民衆の葬式を執り行い、死後に戒名を授け、法要を行ったり、寺院の境内に墓地を設けて管理する慣習も中世末期からのことであり、特に檀家制度の確立と同じ過程で広く定着してきます。」
と述べ、より具体的に述べている。
それでは、『宗祖御遷化記録』に、
「一、御葬送次第
先火 二郎三郎 鎌倉の住人
次大宝花 四郎次郎 駿河国富士上野の住人
左 四条左衛門尉
次幡
右 衛門大夫
次香 富木五郎入道
次鐘 大田左衛門入道
次散花 南条七郎次郎
次御経 大学亮
次文机 富田四郎太郎
次佛 大学三郎
次御はきもの 源内三郎 御所御中間
次御棺 御輿也
侍従公
治部公
左
下野公
蓮花闍梨
前陣 大國阿闍梨
出羽公
和泉公
右
但馬公
卿公
信乃公
伊賀公
左
摂津公
白蓮阿闍梨
後陣 辨阿闍梨
丹波公
大夫公
左
筑前公
帥 公
次天蓋 太田三郎左衛門尉
次御大刀 兵衛志
次御腹巻 椎地四郎
亀王童
次御馬
瀧王童 」
と記されているのを、いかに拝するのだろうか。
『化儀抄』第41条に、
「仏事引導の時、理の廻向有るべからず、智者の解行は観行即の宗旨なるが故なり、何かにも信者なるが故に事の廻向然るべきなり、迷人愚人の上の宗旨の建立なるが故なり、夫れとは経を読み題目を唱へて此の経の功用に依って成仏す等」
と仰せではないか。江戸時代の檀家制度以前より、葬儀は厳として行われていたのである。そして、葬儀は大切な儀式であることを、『化儀抄』第43条に、
「霊山への儀式なるが故に、他宗他門自門に於ても同心なき方をばアラガキの内へ入るべからず法事なるが故なり」
と示されている。葬儀は、決して檀家制度によって派生したものではなく、元来、霊山浄土に入る大切な儀式なのである。
これらから、当宗は昔より寺院を中心とした教団であることが証明されるのである。
結び
こうした論調の底意はどこにあるかというと、小島氏は、
「教線が広がるにつれ、大聖人から直接ではなく弟子の教化によって檀那となる人々が生まれていくが、この弟子と檀那の関係は決して封建的な上下関係にあったわけではない」
と述べ、中野氏も、
「最近の日蓮正宗のように、僧俗の区別を必要以上に厳しく立て分け、僧が信徒を見下すような態度をとり、また、“寺院に参詣しなければ先祖も成仏しない”という儀式を強要するような体質、そして寺院中心の信仰形態が、どのようにして生まれたのでしょうか。」
と述べているように、日蓮正宗の僧俗の区別、寺院の重要性を知らないところにある。
僧俗の区別の根本は三宝にある。三宝とは仏法僧である。このうち、本宗の僧宝とは、『当家三衣鈔』に、
「南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。
此の如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え」
と仰せの通り、日興上人を随一として、代々の御法主上人を僧宝と仰ぎ奉るのである。なお、広くいえば、御法主上人に信伏随従する本宗僧侶は、全て僧宝に入るのである。
この僧俗の区別について、『日興遺誡置文』には、
「若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事」
と、若輩たりといえども、いかなる高位の信徒よりも、末座に座らせてはならないと戒められている。さらに、また、『化儀抄』第1条には
「貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」
と、竹の上下の節のごとき僧俗の礼儀を教えられている。
また、本宗の信仰が寺院中心であることは、当然のことである。彼の阿仏房が、はるばる佐渡より大聖人のおられる身延山に参詣したことは、登山の重要性を述べるときに、よく話されることである。
さらに、本宗の三大秘法を考えれば解るはずである。三大秘法とは本門の本尊、戒壇、題目である。本門の本尊は総本山の大石寺に厳護されている。したがって、総本山大石寺を中心とする信仰であって、しかるべきではないか。
『依義判文鈔』に、
「戒壇に義有り事有り」
と示され、それを具体的に同抄に、
「義の戒壇を示すに亦二となす。初めに本門の題目修行の処を示し、次ぎに若経巻の下は本門の本尊所住の処を明かす。故に知んぬ、本門の題目修行の処、本門の本尊所住の処並びに義の本門の戒壇に当たるなり」
と義の戒壇を示され、
「是中皆応の下は正しく事の戒壇を勧むるなり。三大秘法抄十五に云わく、戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に三秘密の法を持ちて、有徳王、覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是れなり。霊山浄土に似たらん最勝の地とは応に是れ富士山なるべし」
と、弘安2年の御本尊安置のところが、未来における事の戒壇と示されている。
『化儀抄』第10条に、
「本寺直檀那の事は出家なれば直の御弟子、俗なれば直の檀那なり」
と、寺院と信徒の結びつきを述べられ、第62条には、
「諸国の末寺へ本寺より下向の僧の事、本寺の上人の状を所持せざる者、縦ひ彼の寺の住僧なれども許容せられざるなり、況や風渡来らん僧に於てをや、又末寺の坊主の状なからん者、在家出家共に本寺に於いて許容なきなり」
と、本山への登山参詣も末寺を通すことの必要性を述べておられる。
こうしたことを、正しく理解していないために、三宝破壊、寺院軽視の発言を行なうのである。
大聖人以来七百年の、正宗の化法・化儀を踏みにじる小島氏の発言は、それだけで大罪を犯しているといわざるをえない。ましてや、大勢の前で発言したり、『聖教新聞』紙上に掲載して、信徒を誤った方向に走らせることは、自身の犯す罪よりも重いのである。
『化儀抄』第58条に、
「門徒の僧俗の中に人を教へて仏法の義理を背せらるゝ事は謗法の義なり、五戒の中には破和合僧の失なり自身の謗法より堅く誡むべきなり」
と仰せである。
この文を恐れるならば、一日も早く反省懺悔をして、正宗の本来の信心に立ち還ることである。小島氏、そして創価学会首脳の猛省を求めるものである。
以 上