日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

小島信泰氏の「檀家制度とその弊風」を破す

1991-06-10 | 時局資料

     小島信泰氏の「檀家制度とその弊風」を破す

              時局協議会文書作成班3班  

   はじめに  

 小島信泰氏は、平成3年(1991年)3月10日付の『聖教新聞(聖教ヒューマンライフ)』で、一見、江戸時代の檀家制度とその弊風を述べているようである。しかし、小島氏のいわんとするところは、
「こうして僧俗一体の折伏を展開していった日蓮大聖人の門流も、江戸幕府の宗教政策によって、僧はおおむね布教への積極姿勢を失い、僧俗は他宗と同じ寺檀関係へと変質、それが固定化されていったのである。
 そして、他宗と同様、日蓮宗各派においても、封建制度が終焉した今日でさえ、こうした僧俗関係の伝統は根深く残ることとなったのである。
 その弊風は、ともすると僧俗の上下観や、社会から遊離して法要や塔婆供養による収益に走る僧侶を生み出す温床となったのである。」
と述べているように、日蓮正宗の僧侶への非難である。
 そして、「法要、塔婆、戒名で収奪し堕落」「僧俗に封建的身分関係もちこむ」「幕府の庇護うけ庶民監視の機構へ」と小見出しを掲げているのである。これは、あたかも宗門僧侶が堕落し、庶民を圧迫しているかのような小見出しである。
 また、中野毅氏も「4・2記念大田・品川・目黒・川崎合同幹部会」において、「檀家制度の形成とその影響」という題で、小島氏と同様のことを講演している。この論も、やはり一般的な檀家制度の話ではなく、宗門非難を主眼とするものである。中野氏は、
「また、当然のことながら、大聖人の時代には檀家制度は存在していませんでしたし、出家者は折伏をやらなくとも葬儀や塔婆供養をしていればよいという教えも慣習も存在していませんでした。また、大聖人が弟子檀那に対して、その死後に戒名を授けた例も見いだすことはできません。本来は、生前の授戒の時に授かる出家名、つまり法名であったのです。」
と述べている。
 これらは、まず創価学会の広報機関を用いて発表していること、さらに中野氏に至っては幹部会における発言であること、そして両氏とも論旨が共通していることから、創価学会の公式見解というべきである。このように、両氏とも檀家制度に名を借りて、今日の宗門を非難しているのである。
 また、こうした発言は、葬儀や法事等、本宗の化儀を軽んずる考えが元となってなされるものである。
 大聖人は『報恩抄』に、
「老狐は塚をあとにせず白亀は毛宝が恩をほうず畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや」
と、畜生すら恩を感じるのに、まして人間たるや、報恩の志を強くもたねばならないことを御教示されている。
 この『報恩抄』は、師の道善房への供養のために認められたものである。それは、『報恩抄送文』に、
「道善御房の御死去の由・去る月粗承わり候、自身早早と参上し此の御房をも・やがてつかわすべきにて候しが自身は内心は存ぜずといへども人目には遁世のやうに見えて候へばなにとなく此の山を出でず候」
と、すぐに駆けつけたいけれども、人目を気遣われて行くことができなかった様子を、書き留められていることからも拝され、また供養のために、
「故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いて」
と、道善房の墓前で読みなさいとの仰せからも判るのである。
 また、信徒の南条兵衛七郎殿が死去した折には、
「故なんでうどのはひさしき事には候はざりしかども、よろず事にふれて、なつかしき心ありしかば、をろかならずをもひしに、よわい盛んなりしに、はかなかりし事わかれかなしかりしかば、わざとかまくらより、うちくだかり御はかをば見候いぬ」
と、わざわざ墓参りをされたのである。さらに、南条七郎五郎殿の四十九日忌の供養には、南条家から御供養の品々が大聖人のもとに届けられ、大聖人がその志によって回向された文が残っている。『上野殿母御前御返事』に、
「南条故七郎五郎殿の四十九日・御菩提のために送り給う物の日記の事、鵞目両ゆひ・白米一駄・芋一駄・すりだうふ・こんにやく・柿一籠・ゆ五十等云云・御菩提の御ために法華経一部・自我偈数度・題目百千返唱へ奉り候い畢ぬ」
とお示しの通りである。
 したがって、大聖人は、決して葬儀・法要等をおろそかにされてはおらず、むしろ仏法の上から、それらを大切にされていたといえるのである。


1.小島氏の基本姿勢に対して

 今日まで行われてきた本宗伝統の化儀に対して、異なった見解を示す場合は、まず御法主上人の御指南を仰ぐことが大切である。
 日興上人の『佐渡国法華講衆御返事』に、
「このほうもんはしでしを、たゞして、ほとけになるほうもんにて候なり」
と、当宗の信仰が、師弟子による法門であることを御指南されている。法門を離れての化儀はないのであるから、当然、現今の化儀について、御当代上人に御教示を賜るということが、日蓮正宗の僧俗にとって重要なのである。それを、自らの都合に合わせて曲解して、勝手に『聖教新聞』紙上に発表したり、大勢の前で話したりすることなどは、それ自体が日蓮正宗信徒として、あるまじき行為なのである。
 本宗の化儀の中には、時あるいは所により変わっていくものもある。しかし、全て御法主上人の御指南を仰ぐということが、本宗の信仰化儀の根幹なのである。
 『太田左衛門尉御返事』には、
「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば強ちに成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用ゆべきか」
と仰せである。本宗の化儀は、世界・為人・対治・第一義の上から、御法主上人が今日の化儀を決定されているのである。こうした道を外しているところに、今日、創価学会が誤りを犯している大きな因があるのである。


2.本宗における寺院と信徒の関係

 小島氏は、
「江戸時代においてなされた、キリスト教禁制を契機とした寺院による庶民の掌握という幕府の宗教政策によって、はじめてすべての庶民が仏教との関係を持つようになったのである。すなわち、寛永十二年(一六三五年)の寺請証文(寺院が作成した、キリスト教徒でないことを保証した証文)の作成を手始めに、庶民は特定の寺院の檀家として掌握されていった。」
と、寛永12年の寺請証文のよって、初めて檀家として掌握されたと述べている。
 しかし、日蓮正宗において、果たしてそうであったろうか。
 本宗においては、日興上人時代に、既に特定な僧侶と信徒の密接な結びつきが示されている。『弟子分本尊目録』に、
「南条兵衛七郎の子息七郎次郎平の時光は、日興第一の弟子也」
「一、富士下方熱原郷の住人神四郎兄。
 一、富士下方同郷の住人弥五郎弟。
 一、富士下方熱原□□□□□郎。
    此の三人は越後房下野房の弟子廿人之内也」
と示されている。
 当然、これらの信徒は、直接の師のもとへ参詣したであろうことは想像にかたくない。
 日興上人が大石寺を創建されて、日目上人をはじめ、他の弟子方も坊を造られたのであるから、その坊と信徒との特別な関係もできたであろうことは、充分に考えられる。それは、末寺においても同様であったと思われる。
 また、総本山第9世日有上人の『化儀抄』の第8条に、
「実名、有職、袈裟、守、漫荼羅、本尊等の望みを、本寺に登山しても田舎の小師へ披露し、小師の吹挙を取りて本寺にて免許有る時は、仏法の功徳の次第然るべく候、直に申す時は功徳爾るべからず」
とあって、僧侶における日号、阿闍梨号、御本尊の下附願等は、必ず末寺の住職を通して願い出なければならない、と記されている。まして、信徒の日号や御本尊下附等の願い出においては、当然のことである。
 日達上人は、同抄の『略解』において、
「信者が日号や御本尊の下附を願うのもその通りであります。もし、そういう手続きを経ないで、自分勝手に、直接、本山へ申し出た場合は、正式の手続を経た時のようには、功徳はありません。」
と御教示されている。
 この『化儀抄』は、日有上人御入滅の翌年、すなわち文明15年に浄書されたものであり、寺請証文が作成された寛永12年より、150年以上も遡る文献である。
 こうしたことから、日蓮正宗における寺院と檀家の結びつきは、小島氏が主張するような、江戸時代以降のものではないことが判るのである。


3.年忌法要・塔婆供養・戒名について

 小島氏は、
「こうして寺院は宗教的かつ社会的自立を奪われたが、一方で、年忌法要、塔婆供養、戒名を独占することが認められたので、経済的には安定していき、その結果、徐々に堕落していった。」
と述べ、あたかも江戸幕府の檀家制度によって、年忌法要、塔婆供養、戒名の命名等が認められたかのような論を展開している。
 しかし、『中興入道消息』に、
「去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に丈六のそとばをたてて其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕して・をはしませば」
とあり、また『内房女房御返事』に、
「内房よりの御消息に云く八月九日父にてさふらひし人の百箇日に相当りてさふらふ、御布施料に十貫まいらせ候」
とあり、さらに『新池殿御消息』に、
「八木三石送り給い候、今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢んぬ、いとをしみの御子を霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり」
等々と記されているように、大聖人御在世当時に、既に御供養の品々をお届けして、追善供養を願い出ていた旨が、御書中に残されている。
 また、『曽弥殿御返事』に、
「故尼御前二七日の御ために米二升・ゆふかほ三・はしかみ・牛房一束給い了ぬ・聖人の御見参に入まいらせて候」
と、日興上人の時代にも、追善供養のなされていたことが明らかである。
 戒名独占に至っては何をかいわんやである。大聖人御自身が、御両親に「妙日」「妙蓮」とお付けではないか。また、総本山大石寺開基の大檀那である南条時光殿は、「大行尊霊」と付けられているではないか。
 邪宗における戒名料云々に当て付けて、本宗の戒名の命名が、あたかも商業意識のもとになされているかのごとき発言は、大聖人すらも侮辱するものである。


4.葬式について

小島氏は、
「鎌倉・室町時代には、庶民の仏教信仰が盛んになってはいるが、すべての人々が寺院の檀家であったわけではないし、また寺院も今日のように主として葬式や年忌法要などを執り行うために存在したのでもない。」
と述べ、もともと鎌倉・室町期における庶民信仰の中には、葬儀や法事等は行われておらず、江戸時代の檀家制度によってそれらが定着したのであるから、現代の葬儀や法事は檀家制度の名残りであるというような論を展開している。
 また、中野氏は、
「一方仏教寺院が一般民衆の葬式を執り行い、死後に戒名を授け、法要を行ったり、寺院の境内に墓地を設けて管理する慣習も中世末期からのことであり、特に檀家制度の確立と同じ過程で広く定着してきます。」
と述べ、より具体的に述べている。
 それでは、『宗祖御遷化記録』に、
「一、御葬送次第
   先火     二郎三郎  鎌倉の住人
   次大宝花   四郎次郎  駿河国富士上野の住人
          左 四条左衛門尉
   次幡
          右 衛門大夫
   次香     富木五郎入道
   次鐘     大田左衛門入道
   次散花    南条七郎次郎
   次御経    大学亮
   次文机    富田四郎太郎
   次佛     大学三郎
   次御はきもの 源内三郎  御所御中間
   次御棺    御輿也
            侍従公
            治部公
          左
            下野公
            蓮花闍梨
   前陣 大國阿闍梨
            出羽公
            和泉公
          右
            但馬公
            卿公

            信乃公
            伊賀公
          左
            摂津公
            白蓮阿闍梨
   後陣 辨阿闍梨
            丹波公
            大夫公
          左
            筑前公
            帥 公
   次天蓋    太田三郎左衛門尉
   次御大刀   兵衛志
   次御腹巻   椎地四郎
          亀王童
   次御馬
          瀧王童            」
と記されているのを、いかに拝するのだろうか。
 『化儀抄』第41条に、
「仏事引導の時、理の廻向有るべからず、智者の解行は観行即の宗旨なるが故なり、何かにも信者なるが故に事の廻向然るべきなり、迷人愚人の上の宗旨の建立なるが故なり、夫れとは経を読み題目を唱へて此の経の功用に依って成仏す等」
と仰せではないか。江戸時代の檀家制度以前より、葬儀は厳として行われていたのである。そして、葬儀は大切な儀式であることを、『化儀抄』第43条に、
「霊山への儀式なるが故に、他宗他門自門に於ても同心なき方をばアラガキの内へ入るべからず法事なるが故なり」
と示されている。葬儀は、決して檀家制度によって派生したものではなく、元来、霊山浄土に入る大切な儀式なのである。
 これらから、当宗は昔より寺院を中心とした教団であることが証明されるのである。


   結び 

 こうした論調の底意はどこにあるかというと、小島氏は、
「教線が広がるにつれ、大聖人から直接ではなく弟子の教化によって檀那となる人々が生まれていくが、この弟子と檀那の関係は決して封建的な上下関係にあったわけではない」
と述べ、中野氏も、
「最近の日蓮正宗のように、僧俗の区別を必要以上に厳しく立て分け、僧が信徒を見下すような態度をとり、また、“寺院に参詣しなければ先祖も成仏しない”という儀式を強要するような体質、そして寺院中心の信仰形態が、どのようにして生まれたのでしょうか。」
と述べているように、日蓮正宗の僧俗の区別、寺院の重要性を知らないところにある。
 僧俗の区別の根本は三宝にある。三宝とは仏法僧である。このうち、本宗の僧宝とは、『当家三衣鈔』に、
「南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。
 此の如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え」
と仰せの通り、日興上人を随一として、代々の御法主上人を僧宝と仰ぎ奉るのである。なお、広くいえば、御法主上人に信伏随従する本宗僧侶は、全て僧宝に入るのである。
 この僧俗の区別について、『日興遺誡置文』には、
「若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事」
と、若輩たりといえども、いかなる高位の信徒よりも、末座に座らせてはならないと戒められている。さらに、また、『化儀抄』第1条には
「貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」
と、竹の上下の節のごとき僧俗の礼儀を教えられている。
 また、本宗の信仰が寺院中心であることは、当然のことである。彼の阿仏房が、はるばる佐渡より大聖人のおられる身延山に参詣したことは、登山の重要性を述べるときに、よく話されることである。
 さらに、本宗の三大秘法を考えれば解るはずである。三大秘法とは本門の本尊、戒壇、題目である。本門の本尊は総本山の大石寺に厳護されている。したがって、総本山大石寺を中心とする信仰であって、しかるべきではないか。
 『依義判文鈔』に、
「戒壇に義有り事有り」
と示され、それを具体的に同抄に、
「義の戒壇を示すに亦二となす。初めに本門の題目修行の処を示し、次ぎに若経巻の下は本門の本尊所住の処を明かす。故に知んぬ、本門の題目修行の処、本門の本尊所住の処並びに義の本門の戒壇に当たるなり」
と義の戒壇を示され、
「是中皆応の下は正しく事の戒壇を勧むるなり。三大秘法抄十五に云わく、戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に三秘密の法を持ちて、有徳王、覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是れなり。霊山浄土に似たらん最勝の地とは応に是れ富士山なるべし」
と、弘安2年の御本尊安置のところが、未来における事の戒壇と示されている。
 『化儀抄』第10条に、
「本寺直檀那の事は出家なれば直の御弟子、俗なれば直の檀那なり」
と、寺院と信徒の結びつきを述べられ、第62条には、
「諸国の末寺へ本寺より下向の僧の事、本寺の上人の状を所持せざる者、縦ひ彼の寺の住僧なれども許容せられざるなり、況や風渡来らん僧に於てをや、又末寺の坊主の状なからん者、在家出家共に本寺に於いて許容なきなり」
と、本山への登山参詣も末寺を通すことの必要性を述べておられる。
 こうしたことを、正しく理解していないために、三宝破壊、寺院軽視の発言を行なうのである。
 大聖人以来七百年の、正宗の化法・化儀を踏みにじる小島氏の発言は、それだけで大罪を犯しているといわざるをえない。ましてや、大勢の前で発言したり、『聖教新聞』紙上に掲載して、信徒を誤った方向に走らせることは、自身の犯す罪よりも重いのである。
 『化儀抄』第58条に、
「門徒の僧俗の中に人を教へて仏法の義理を背せらるゝ事は謗法の義なり、五戒の中には破和合僧の失なり自身の謗法より堅く誡むべきなり」
と仰せである。
 この文を恐れるならば、一日も早く反省懺悔をして、正宗の本来の信心に立ち還ることである。小島氏、そして創価学会首脳の猛省を求めるものである。

  以  上

 


創価学会における池田名誉会長への個人崇拝の誤りを破す①

1991-06-10 | 時局資料

 創価学会における池田名誉会長への個人崇拝の誤りを破す

              時局協議会文書作成班5班  

1.三宝への帰依が仏徒の在り方

 イ 三宝とは

 富士大石寺を総本山とする我が日蓮正宗は、日蓮大聖人の正法正義を今日に正しく伝える、唯一の正統教団である。その大きな理由は、「日蓮大聖人より唯授一人の血脈相承をもって、宗祖建立の三大秘法の宗旨を正しく付嘱・伝持している」ということと、もう一点は「宗祖入滅後の三宝の立て方」による。
 仏徒(仏の教えを信じ実践する者の意)の仏徒たる所以は、三宝への深い帰依・尊崇ということに存する。このことは、信仰していく上での根本であり、また全てである。三宝とは、仏と法と僧の三つをいう。いかなる仏に帰依するか。また、その仏が説いたいかなる教え・法を信じるか。さらに、その仏の説かれた法を修行し、伝え弘めている、いかなる僧を敬っていくか。このことが、仏徒にとって、最も大切な問題なのである。
 この三つを宝という所以は、世間の真実の宝も希にしか存しないように、清らかで威徳があり、最上・不変をもって、よく世間を清浄にし、荘厳するからである。このように、仏法僧は、不変・最上にして一切衆生を救い、世を清浄に導くために宝と称し、恭敬するのである。
 この三宝には、小乗教で立てる三宝、権大乗経典を所依の経々として立てる各宗派の三宝、さらには実大乗経(法華経一経のみを指す)で立てる法華経文上・法華経文底の三宝等がある。また、一体三宝・理体三宝・別体三宝・住持三宝という四種の立て分け等もある。
 この中の一体・理体は大乗の三宝であり、後の別体・住持は大小乗に通ずる三宝の義である。仏の教えを受持し信仰するということは、単に教義のみを学問的に学ぶということではない。根本的には、仏法僧の三宝への帰依・尊崇という形の中によってのみ、信仰していることが表明されるのである。また小乗教・大乗教の教法の勝劣・浅深・高低等は、そのままその経典を依りどころとして立てる、三宝の勝劣・浅深・高低ということでもある。ちなみに、小乗・大乗・法華経本門(文上脱益)の各三宝について、判りやすいように図示しておきたい。

(1)小乗の三宝
  仏宝  丈六の劣応身仏
  法宝  四諦・十二因縁
  僧宝  四果の聖人(声聞)・縁覚

(2)大乗の三宝
  仏宝  諸仏の三身
  法宝  六度(六波羅蜜)
  僧宝  十聖(釈尊の十大弟子)

(3)法華経本門文上脱益の三宝
  仏宝  多宝塔中の両尊(多宝仏・釈迦仏)
  法宝  法華経一部の教え
  僧宝  本化上行菩薩等

 特に、今ここで、(3)の法華経本門文上脱益の三宝を挙げたのは、日蓮大聖人を同じように宗祖と仰ぎながらも、身延日蓮宗をはじめ、ほとんどの日蓮教団で立てる三宝の義だからである。つまり、日蓮正宗で立てる三宝とは大いに異にすることを比較するためである。
 これら身延等の日蓮宗各派で立てる三宝は、本宗の立場からいうならば、宗祖日蓮大聖人の御聖意を拝することができないものと断ぜざるをえない。すなわち、釈尊という歴史的かつ仏教的な常識に執着して、久成釈尊(法華経本門寿量品において本地を顕わした釈迦仏の身)をどこまでも末法の仏宝と拝するところに、根本的な違いが存するといえよう。
 文上脱益とあるのは、釈尊の説かれた法華経本門の教えそのものは(これを文上の法華経という)、釈尊の在世の衆生を得脱利益するところにある。これは、ちょうど春に種を蒔き、夏に育成して秋に収穫するように、過去に衆生の心田に蒔いた仏種の芽を育て、成就して得脱させる中の、最後の得脱に当たる。つまり、法華経文上(釈尊の説いた法華経そのもの)脱益の教えの意であり、末法下種のための仏ではないのである。このことを知らずに、末法の時代に移っても、釈尊在世の三宝に著して立てているのが身延日蓮宗の各派なのである。いうならば、脱穀した籾殻の中に、米粒があると思って尊んでいるような、また去年の暦を今年になっても使っているようなもので、末法では無益の三宝なのである。

 

 ロ 日蓮正宗で立てる三宝

 しからば、我が日蓮正宗で立てる三宝はどうか。まず、日蓮大聖人の御聖意を仰せのままに素直に拝さなければならない。すなわち、日蓮大聖人が御自ら、末法における主師親三徳具備の仏(仏宝)である旨を顕わされた『開目抄』や、さらには末法の衆生が帰依する本尊(法宝)の相貎を十界互具の曼荼羅として顕わされた『観心本尊抄』等の深意によって、正しく拝さなければならないのである。
 これらの御指南から、仏宝とは末法における下種の本仏と拝する宗祖日蓮大聖人であり、法宝とは十界互具の曼荼羅中、本懐・究竟として顕わされた、弘安2年の本門戒壇の大御本尊である。また、僧宝とは、御本仏日蓮大聖人より唯授一人の血脈相承をもって、本門戒壇の大御本尊をはじめ、宗祖御弘通の仏法の全てを付属・伝持された第2祖日興上人を随一とし、以下第3祖日目上人等嫡々付法の御歴代上人とするのである。
 以上の三宝を、末法下種の三宝と称する。我が日蓮正宗においては、この三宝を立てて帰依・恭敬することをもって、信心修行の根本とするのである。これを図示すれば、次のごとくである。

本門文底下種の三宝
  仏宝  宗祖日蓮大聖人
  法宝  三大秘法惣在の本門戒壇の大御本尊
  僧宝  第2祖日興上人、以下嫡々付法の御歴代上人


2.信仰と組織の在り方

 イ 信仰の目的と組織の役割

 日蓮正宗の僧俗が信仰する主体は、宗祖日蓮大聖人より唯授一人の血脈相承をもって、正しく伝持してきたところの「三大秘法(本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目)」の宗旨と、その本尊の当体である「末法下種の三宝尊」である。
 この信仰の主体と、組織の在り方・関係等について述べることとする。
 宗祖日蓮大聖人の仏法を信じ、行じていく中に、二つの目的が存する。一つは、個々人が「一生成仏」「即身成仏」を成就することである。また、二つには、『立正安国論』という御書が存するように、個々人の成仏ということからさらに発展して、一人でも多くの人に、最勝・最尊の正法たる三大秘法を持たしめ、社会全体・国家全体、さらには世界全体へ流布してそれらを浄化し、真の平和な仏国土を現出せしめることである。すなわち、個の上からは、成仏を目指すことであり、全体の上からは、三大秘法を広く流布して、正法によって国家・社会を安穏ならしめていくという、二つの目的が存するのである。
 この個と全体における目的達成のために、仏教で説く「和合僧団」としての組織を、本来的に必要とするのである。もし、これを人の立場からいえば、善知識と称して、自分に益を与え、自分を善導してくれる外護・同行・教授等の朋友を意味する。大聖人は、この善知識ということについて、『三三蔵祈雨事』の中で、
「夫れ木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけをかひぬれば・たうれず、本より生いて候木なれども根の弱きは、たうれぬ、甲斐無き者なれども、たすくる者強ければたうれず、すこし健の者も独なれば悪しきみちには・たうれぬ」
と仰せのように、善知識の組織的必要性を説かれている。特に、法華経の教えは、仏の随自意の教えであるから、信じ難く解し難いのであり、また唯一の正法であるから、弘通するには難が多いのである。その中で、自己の成仏と、正法の広宣流布を成就していくために、互いに励ましあうことは大切である。あるいは、また導きながら信心を深めて向上させ、不退転の信行を確立していくことも大切である。そのために、組織を必要とするのであり、また組織の役目もその点に存するのである。


 ロ 日蓮大聖人御在世の教団について

 日蓮正宗の和合僧団のあるべき姿は、僧俗の関係も含めて、教団の源・草創となる、宗祖日蓮大聖人・2祖日興上人の御在世当時に求めなければならない。
 大聖人は出家せられ、袈裟・衣をまとわれた事相(実際の姿・事実の相)の出家の僧形において、立教開宗をなされ、衆生を折伏・教化されている。開宗後、間もなく(7箇月後)、まず直弟子の僧として日昭が入門し、翌年日朗が得度し、さらに日朗の4年後、日興上人が入室している。同時に、信徒である富木常忍氏や四条金吾氏・工藤吉隆氏・池上宗仲氏等も、大聖人の開宗から2・3年には入信している。
 教団形成の当初から、日蓮大聖人は、自ら直弟子である出家僧を薫陶・教育しつつ、傍で外弟子である在俗の信徒を教化・善導されている。
 それでは、日蓮大聖人が身延に入山された以降の、晩年の教団はどうであったかといえば、やはり御消息(お手紙)等をもって、各地に在住の信徒を教化されることが多かったのである。時には、身延まで参詣して、大聖人に御目通りを願い、直接御教示を請う信徒も少なくなかった。また、注目すべきことは、お手紙を信徒に与える場合、出家である内弟子を使いとし、その手紙を読ませ、講義し理解させる、という出家の内弟子による信徒の教化・指導が行われたことである。例えば、『松野殿女房御返事』の、
「委くは甲斐殿申すべし」
また、『新池御書』の、
「此の僧によませまひらせて聴聞あるべし、此の僧を解悟の知識と憑み給いてつねに法門御たづね候べし」
さらに、『上野殿御書』の、
「一つ棟札の事承り候書き候いて此の伯耆公に進せ候(中略)委しくは此の御房に申し含めて候」
等の各御文から知ることができる。すなわち、根本の師は日蓮大聖人であるが、大聖人の遣わされる出家の内弟子を通して、信徒に深甚なる仏法を教化・指導させていたということである。
 また、日蓮大聖人は、特に身延での晩年において、末法万年尽未来際に向かい、広宣流布と令法久住(仏法を正しく護り後世に伝えていくこと)への基礎づくりのために、多くの出家の内弟子の育成に力を注がれている。すなわち、信心・信仰を根本としながら、1信・2行・3学という筋目のもと、弟子の教学研鑽のために、法華経を講義されている。その様子は、『忘持経事』に、
「法華読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞ゆ」
と、身延の天空にまで響くような、情熱を込められての講義であったと仰せである。また、聴講の内弟子の数は、『兵衛志殿御返事』に、
「人はなき時は四十人ある時は六十人」
と仰せられていることから、内弟子のほとんどが、講義を拝聴されたものと考えられる。
 また、弘安2年(1279)9月中頃、富士熱原地方において、門下最大の法難が惹起し、翌10月15日に、信徒神四郎・弥五郎・弥六郎の3名が、鎌倉の平左衛門の私邸の庭で処刑されるという大事件が起きた。この時、日蓮大聖人の御指南を賜わりながらも、直接的には日興上人の指導や対応によって、熱原の信徒等は、この大難を乗り越えている。また、この時に大聖人の出世の本懐として建立図顕あそばされた本門戒壇の大御本尊の願主に「弥四郎国重法華講衆敬白」とお認めのように、日蓮大聖人は当時の信徒に対して、「法華講衆」と呼称されていたことが判る。


 ハ 日興上人の「教団の在り方」についての御教示

 さて、第2祖日興上人は、教団の在り方をどのように示されているであろうか。日興上人は、元亨3年(1323)6月の『佐渡国法華講衆御返事』の中に、
「じこんいごは、しをさだめて、かうしうにも、一とうせられ候べし。このほうもんはしでしを、たゞして、ほとけになるほうもんにて候なり、(中略)しでしだにもちがい候へば、おなじほくゑをたもちまいらせて候へども、むげんぢごくにおち候也。うちこしうちこしぢきの御でしと申やからが、しやう人の御ときも候しあひだ、ほんでし六人をさだめおかれて候。そのでしのけうけのでしは、それをそのでしなりといはせんずるためにて候。あんのごとくしやう人の御のちも、すゑのでしどもが、たれはしやう人のぢきの御でしと申やからおほく候。これらの人はうぼうにて候也。御こうしうらこのむねをよくよくぞんぢせらるべし」
と仰せである。宗門本来の教団の在り方を説く、極めて重要な御文であるため、少し長く引用した。
 要するに、一つは日蓮大聖人の仏法(法門)は、師匠と弟子の関係をきちんと明らかにして、はじめて成仏していくことができる教えであるということである。この師弟子の関係を違えたり、弟子が師匠を信仰の上から超えることがあれば、同じように法華経を受持していても(当宗の信仰をしていてもの意)、無間地獄の苦を受ける果報を招くのである。
 二つめは、日蓮大聖人の時代に既にみられたが、自分が折伏・教化を受けた師を通り超して、直接、日蓮大聖人の弟子であるという出家・在家の者が現われたということである。もともと、このようなことをなくす上から、日蓮大聖人は本弟子として6人の高弟を定められたのである。その6人の本弟子が折伏・教化した僧侶や信徒は、全てそれぞれ6人の僧の弟子となるという、師と弟子の筋目関係を明らかに説き置かれたのである。
 したがって、これを無視して「自分は大聖人の直弟子である」などという者は、そのまま日蓮大聖人の仏法に違背し、断仏種の業因となる謗法の義に当たるのである。法華講衆は、この師弟の筋目をよくよく守っていくべきである。


 ニ 大聖人・日興上人の「教団の在り方」についてのまとめ

 以上、宗祖日蓮大聖人・2祖日興上人の時代における、僧俗を含めた教団の在り方をみてきたが、これをまとめると、
(1) 宗祖日蓮大聖人自ら、出家の僧形をもって立教開宗さ
    れていること。
(2) 宗祖日蓮大聖人は、在俗の信徒を教化されるとともに、
    出家の内弟子を多く募られ、広宣流布・令法久住のた
    めに薫陶・育成されていること。
(3) また、出家の弟子を、仏法解悟のための善知識として、
    信徒に対して大聖人の御書の講義、信心の指導に当た
    らせていること。
(4) 宗祖日蓮大聖人一期における御弘通の仏法(三大秘法
    を含む)は、唯一人、内弟子たる日興上人に血脈相承
    をしていること。(以下唯授一人の血脈相承を受ける
    法主を未来永劫に惣貫主として仰いでいくべきことを
    厳命されている。また唯授一人の血脈を受ける日興上
    人、以下嫡々付法の上人に背く出家在家の者は非法=
    謗法=の衆であることも厳誡されている)
(5) 日興上人は、宗祖日蓮大聖人を根本の師(本師)と仰
    ぎながら、常々の信行学は、大聖人の定められた本弟
    子の僧を直接の師(小師)として、信心・修行・教学
    に励むという、師弟子の筋目を正していくことを厳し
    く教えられていること。

 以上の五つのまとめからも判るように、日蓮大聖人の仏法における教団は、今日の仏教系の新興宗教が指向するような「在家仏教」、もしくは「在家中心主義」の教団ではない。その信仰を求めていく姿勢においては、「信徒→小師→日蓮大聖人」の形となるのである。また、信心の指導・教化においては、「日蓮大聖人→小師→信徒」、もしくは「日蓮大聖人→信徒」という、師弟の筋目をただしながら、出家者の指導のもとに信仰していく、純粋な「出家中心の仏教教団」ということである。ここに、日蓮正宗の在るべき教団の原点がある。


 ホ 日有上人の「教団の在り方」についての御教示

 この宗開両祖の示された僧俗の関係、また教団の組織の在り方は、さらに後の第9世日有上人の『化儀抄』の中で、宗門の化儀として確立されていくのである。すなわち、同抄第4条に、
「手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけられたる故に師匠の所を能々取り定めて信を取るべし(中略)此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云ふなり」
とあるように、出家僧であれ信徒であれ、「直接の信仰上の師となる末寺住職(手続の師)のところには、三世の諸仏、さらには宗祖日蓮大聖人以下御歴代の魂魄がぬけてきている」ということである。つまり、「大聖人より代々の御法主上人を通して、信心の法水・血脈が、直接の師(末寺住職)のところに至っているので、よくよく直接の師を選んで信心していくべきである」という意である。これは、「どこまでも師匠に信順して信心していく」という(これを師弟相対という)、本宗の信仰の根本的な在り方を説いたものである。
 この信仰を貫いていくときにのみ、宗祖大聖人からの生死一大事の血脈が通うため、師匠も弟子もともに、日蓮大聖人の悟られた妙法蓮華経の本法が、色心(身体と心)に顕現して、即身成仏の大益を成就していくことができるのである。生仏一如(衆生が仏と同じように妙法の色心をあらわし仏と一体となること)・能所一体(教化をする仏・師と教化される衆生・弟子が一体となること)・師弟不二(師匠と弟子が妙法の顕現によって一体となること)等の功徳を成じていくためには、ただただ小師(直接の師・末寺の住職)への信伏・信順の信仰姿勢をもつことが大切なのである。
 これは、信徒もしくは末寺の弟子が、直接の手続の師である住職に信順するとともに、住職はまた、直接の師となる御法主上人に対して信順していく、という筋目である。このことをさらにいえば、各末寺の弟子・信徒は、直接的にはその寺院の住職を信仰上の師匠としながらも、根本では日蓮大聖人の代官たる、時の御法主上人を本師として仰いでいくということである。すなわち、日蓮大聖人・日興上人時代の「弟子・信徒→小師→本師」という、師弟・僧俗の筋目をただした信仰の在り方を、そのまま成文化したものなのである。
 さらに、この「手続の師(末寺住職)を通して本師(御法主上人)を仰ぐ」という、師弟相対の信仰の在り方は、末寺の弟子・信徒が、総本山や御法主上人に対する様々な願い出に関する実際上の化儀においても適用されている。すなわち、日有上人は『化儀抄』の中で、次のように仰せである。
「実名、有職、袈裟、守、漫荼羅、本尊等の望みを、本寺に登山しても田舎の小師へ披露し、小師の吹挙を取りて本寺にて免許有る時は、仏法の功徳の次第然るべく候、直に申す時は功徳爾るべからず云云」
「末寺の弟子檀那等の事、髪剃を所望し名を所望する事、小師の義を受けて所望する時望みに随ふ云云、彼ノ弟子檀那等が我レと所望する時は爾るべからず云云」
 前文は、特に末寺の弟子が、僧侶として日号や阿闍梨号・袈裟の免許などを願い出る場合、並びに弟子・信徒が、御守御本尊や導師御本尊・常住御本尊などを願い出る場合について述べられたものである。すなわち、これらの願い出をする場合、直接本寺(総本山のこと)に登山参詣して願い出ても、それは許されず、仏法上の功徳は備わらない。それに対して、地方の小師からの推薦や、口添えの手続の書(これを添書という)をいただいた上で本山に願い出た場合に、はじめてそれらの願い出は許され、仏法上の勝妙なる功徳が顕われるのである。このように、この条目は、小師を通して本師に願い出ることの大切さをもって、師弟相対の厳とした化儀上の信仰姿勢を教えられたものである。
 また、後の文は、出家得度、並びに道号(出家の僧名)の命名に関する化儀について述べられたものである。すなわち、前条と同様に、小師である末寺住職を通して願い出た場合に、はじめてその願いが叶うというもので、直接総本山に願い出ることを、仏法の筋目の上から、戒められているのである。したがって、これも、師弟相対を重視する信仰より生まれた化儀である。この師弟相対の化儀の上から、以上の外にも、本門戒壇の大御本尊への内拝や、御秘符の申請などをはじめ、総本山への願い出は、全て末寺の住職を経由する化儀形態となっている。
 大聖人の御在世から、今日に至るまでの700年間、日蓮正宗においては、末法下種の三宝尊を敬い、常に血脈付法の御法主上人を本師と仰いで、信伏随従の信仰姿勢を貫いてきた。と同時に、また末寺住職を手続の小師と仰ぎ、寺院を中心に信心修行に励んできたのである。このように、どこまでも総本山・末寺を根本として、異体同心・僧俗和合し、広布の道を切り開いていくのが、日蓮正宗という教団の、伝統的な在るべき姿なのである。
 以上、日蓮正宗の信仰と教団の在り方を、判りやすく整理すれば、
信 仰  本師(御法主)⇔小師(末寺住職)⇔信徒
教 団  総本山⇔末寺⇔法華講信徒
となる。信仰面で矢印が左を向いているのは、それぞれ「仰ぎ、信順する」師弟相対の道を示したものであり、矢印が右を向いているのは、それぞれ信心の「指導・教示」を指す。また、その信仰の在り方は、そのまま教団の維持・運営等の在り方となり、矢印が左に向いているのは、様々な「願い出・申請」の行方を示したものであり、矢印が右を向いているのは、その「下付」等を示したものである。この信仰と教団の在り方は、そのまま本宗信仰の命脈・伝統として、宗祖日蓮大聖人以来、つい最近まで乱されることなく、また破られることなく、700年間続いてきたのである。


 ヘ 学会の法人設立と3原則の遵守

  ところが、いま宗門は、700年来続いたこの信仰と教団(組織)の本来の在り方が根本から覆えされるような、まことに憂うべき一大時局を迎えている。この信仰と組織の在り方は、日蓮大聖人が「末法万年尽未来際」と広布への時間を示されているように、万年のみならず未来永遠に護り伝えていかなければならないものである。それは、一つには、特に本宗が大聖人滅後における唯一の正嫡門流として、大聖人の御遺命と付属に対してその責任を果たしていくためであり、二つには、令法久住といって、未来の衆生救済のために法を正しく伝えていかなければならないからである。
 その憂うべき問題とは、かつて宗門にはその数といい、内容といい、みることのできなかった創価学会名誉会長個人に対する、絶対的な個人崇拝である。個人崇拝といえば、いままで長い宗門の歴史の中にも、江戸時代前期の三鳥院日秀、江戸時代後期の堅樹院日好、更には近年(昭和49年に解散・破門)の元妙信講・浅井甚兵衛父子等の、個人崇拝に起因する異流義化(宗門本来の教義に異なった義を立て、宗門から分立し一派を形成していく)がみられた。しかし、今回のように、新聞・テレビ・ビデオ・口コミという、あらゆる言論報道機関を駆使し、公称1千万人といわれる膨大な会員を洗脳しての個人崇拝は、宗門史において、おそらく後にも前にも見られない規模のものであろう。それだけに宗門にとっては、ゆゆしき問題なのである。
 牧口常三郎氏は、昭和3年6月頃、法華講の三谷素啓氏の折伏によって入信し、はじめ千葉県市川市の彈正教会(現彈正寺)の法華講信徒として所属した。そして、昭和5年に、牧口氏が教育者のグループとして「創価教育学会」を創立し、自ら初代会長に就任したのである。
 その後、昭和18年には、戦時中の軍部の思想統制のため、治安維持法違反・不敬罪ということで、初代会長牧口常三郎氏・2代会長戸田城聖氏他学会幹部が投獄された。牧口氏は獄中でなくなったが、戸田城聖氏はこの難局を乗り超え、昭和26年5月3日、東京・常泉寺において、第2代会長の就任式を挙行し、創価学会を再興したのである。
 この会長就任式後、間もなく学会は宗門に対して独立した別個の教団として、宗教法人の設立を願い出た。そして、同年 12月18日、戸田会長以下数名が、総本山に登山して宗務院の許可を得、翌27年8月に、東京都知事より「宗教法人創価学会」として、正式に認証を受けたのである。
 この学会の法人設立には、二つの主張がある。
「一つは、これからの全国的な大折伏戦を展開していくにあたり、難が及ばないように総本山を守護して、会長が諸難を一身に受けていく為であり、二つには、将来の折伏活動の便宜の上から宗教法人でなければならないこと。」
というものである。
 もちろん宗門としても、この申し出を、ただちに快く受理したわけではない。「宗門とは全く別個の独立した宗教法人を設立する」ということは、日蓮正宗と包括・被包括の法人関係を結ぶことではない。どれほど正しい教えを持った人及び組織とはいえ、将来、一歩間違えれば在家教団として、全く別個の宗教団体に変遷していく可能性も充分含んでいる。
 また、「法人を別個に持つ」ということは、そのまま「信仰的な依り所が別になる」ということも意味する。現実的な問題として、運営・維持・布教・指導等においては、どうしても学会組織がその依り所として優先され、従来の信仰と組織の在り方が根本的に崩れてくる可能性がある。
 このような重大な問題を孕んでいるため、宗門としても慎重にならざるをえなかった。結局、戸田会長の信心と互いの信頼関係に基づき、3箇条の条件を約束することによって、学会の宗教法人の設立が許可されることとなったのである。その3箇条とは、
1 折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
2 当山の教義を守ること
3 三宝(仏・法・僧)を守ること
というものである。すなわち、学会が法人を取得しても、他の新興宗教のような、1人の教祖的人物を崇拝することのないように、帰依の対象である本宗の三宝を必ず守ること。信仰の命脈となる本宗の教義を守ること。また、学会員である前に、本宗の信徒として各末寺寺院に所属すること。このように、個人としても、また組織としても、どこまでも道を誤ることなく、日蓮正宗の信徒、及び信徒の団体として歩んでいくための条件を提示したのである。当然、学会としては、この3箇条を未来永遠に遵守し、日蓮正宗の信徒団体として存立していくことを、宗門に対して公式に誓ったのである。


※②へつづく


創価学会における池田名誉会長への個人崇拝の誤りを破す②

1991-06-10 | 時局資料

3.学会における個人崇拝の実状

 イ 池田氏の第3代会長就任と学会路線の変遷

 今日、学会問題が生じた根本の原因は、一つには「同じ御本尊を拝んでいながら信仰的な依り所が異なる」、すなわち1宗教2法人という構造的な問題と、二つめに「その別法人によって結果的に生じてくる組織の長=池田名誉会長=に対する絶対化」に伴う信仰的な個人崇拝の問題にあると考えることができる。
 特に、個人崇拝については、既に戸田会長に対しても「地涌の菩薩の棟梁である」とか「大聖人の再誕」などという表現がなされていた。しかし、今日の池田氏への個人崇拝の度合は、その内容の強大さといい、崇拝者の数といい、戸田会長の比ではない。池田氏への個人崇拝の実状を述べる前に、池田氏が会長に就任してから、今日に至るまでの、信仰上の変遷を概観しておきたい。
 池田氏が戸田前会長の跡を受けて、第3代の会長に就任したのは、昭和35年5月3日である。この就任式における氏の決意は、
「申すまでもなく、わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。したがって、私どもは大御本尊様にお仕え申し上げ、御法主上人猊下にご奉公申し上げることが学会の根本精神であると信じます。(中略)恩師である戸田城聖先生の、総本山に忠誠を尽くされた、その心を心として今、私は全学会員を代表して、日達上人猊下により以上の御忠誠を誓うものでございます。」
というものである。つまり、「本門戒壇の大御本尊」と「血脈付法の御法主上人」を根本とした、宗門700年来の正しい信仰に基づいて御奉公していくという決意である。
 しかるに、その後、池田会長の指揮のもと、全国的な折伏に伴う信徒の増加と、新寺院を建立しての宗門への寄進等によって、池田氏は少しずつ宗門に対する自己の影響力を考えるようになったのか、仏法で誡めている 慢の心が生じてくるようになるのである。
 その最も顕著な例は、昭和40年11月10日、東京・品川区の妙光寺における事件である。当日、日達上人の御臨席のもと、正本堂建設委員会が行なわれる予定であった。ところが、池田氏は座配の問題(池田氏を日達上人と並べなかったことが気に入らなかった)で、当時、宗門の総監であり、妙光寺の住職であった柿沼広澄師(大東院日明贈上人)を罵倒し、流会にしてしまったというものである。
 また、この頃より、会員の池田会長に対する個人崇拝が、盛んにみられるようになった。昭和41年2月の『大白蓮華』には、学会の教学試験(講師)の優秀答案の例が掲載されている。その中で、
「主師親の三徳を現代生活の上から説明しなさい」
という問いに対して、
「池田会長のみがこの主師親の三徳を備えている」
というものが、模範答案となっている。日蓮正宗の教えにおける主師親の三徳具備のお方とは、本仏宗祖日蓮大聖人ただ御一人のみである。この基本的な教義を承知の上で、このような解答を優秀なものとして掲載していることの裏には、「池田会長を仏と仰いでいる者がいる」ということを知らしめる意と、「皆さんもそのように崇めていきなさい」という洗脳の意との、二つの意図があるということである。
 また、昭和42年2月号の『前進』では、
「私から幹部の任命を受ける事は、記別を受ける事」
「私を中心にして御本尊を信ずる事によってこそ(中略)
幸福境涯を確立することが出来るのです」
と、会員に教えている。記別とは、仏が弟子に対して将来の成仏の予証を与えるものである。それを「私を中心にして御本尊を信ずる」というのは、自らが既に仏であるか、それに近い尊い立場であると慢心しての発言であろう。戸田前会長には、後々の会員が神格化するようなことがあっても、池田氏のように「自らが自らを神格化する」というようなことは全くなかったのである。
 昭和43年11月度の本部幹部会における池田氏の発言は、一般新聞での「葬式の合理化運動」を取り上げ、「坊さんを呼ばないとか、死亡通知だけでよい、という様な考えです。これも、私は大賛成です。」
「日蓮正宗は葬式仏教ではなく生きるための仏教です。葬式に必ずしも御僧侶を呼ぶ必要はない」
等と発言し、宗祖大聖人の御在世の時代から執り行われている葬式等の仏事を否定している。これは、仏法を信奉していながら、日蓮正宗の化儀(儀式・法要・行体等)を否定する考えである。このように、本宗の化儀を無視し、軽んずるという姿勢は、既にこの頃より池田氏の本心として存していたのである。したがって、今日の学会の方針は、この池田氏の化儀否定、形式無視の具体化ともいえよう。
 以上のように、池田氏には、第3代会長に就任して間もなく、自分を仏と思わせるような不遜・驕慢の言動が表われ、洗脳教育をし始めたのである。
 ただ、特に宗門・僧侶に対して、顕著に軽視・敵視するようになったのは、正本堂が落成した昭和47年以後である。その理由について、日顕上人は、平成3年1月6日・10日の教師指導会において、
「池田氏の正本堂に対する意義付けとそれにともなって、自分が宗祖の御遺命を達成した」
という、大きな慢心による旨を明らかにされている。
 もともとそのような人柄であったことは、前述の通りであるが、池田氏は正本堂の建立をもって、宗祖日蓮大聖人の御遺命の「本門事の戒壇」であるとしたのである。また、そこには、そのための広布達成と御遺命の達成を、「全て私がしたのである」という大きな慢心も窺われるのである。さらに、正本堂の建立によって、宗祖日蓮大聖人の三大秘法の全てが成就し、宗門への奉公は終わったとしたのである。そして、いわゆる学会でいう広布第二章が始まり、学会独自の在家教団としての路線を、より鮮明に敷いていくことになったのである。
 池田氏の本質的な考えに基づく「在家中心の教団」という流れの中から、昭和52年の逸脱謗法路線が現われた。さらに、それを反省懴悔したにもかかわらず、わずか10年で反古にし、再び在家中心の路線が姿を見せたのである。現在、学会は信徒団体であることを忘れ、一教団として、宗門利用の目的を達すべく、宗門にあらゆる誹謗中傷を繰り返し、攻撃しているのである。
 52年路線における信仰的な、また教団的な誤りを指摘するならば、戸田2代会長、または池田会長を、仏もしくは久遠の師として敬い、帰命することを教えたことである。
 また、当時の池田会長は、「大聖人への直結」を唱えた。そして、第2祖日興上人・第3祖日目上人以来の御歴代上人を、「途中の人師論師」といって、高僧から高僧への血脈相承は必要ないとして、宗教の命脈である重大な付嘱の義を否定したのである。これは、宗祖日蓮大聖人よりの唯授一人の血脈相承、及び仏法付嘱の義を否定するとともに、さらに僧宝としての御歴代上人をも否定するという、二重の重罪を犯したことになるのである。大聖人直結の信仰姿勢は、今日の多くの日蓮系新興宗教が主張するところである。本宗が、正統・正嫡の門流たる所以は、宗祖日蓮大聖人より唯授一人の血脈相承をもって、今日まで法統連綿と、正しく法を護持してきたところにあると知らなければならない。
 また、このように、宗門本来の御歴代上人を僧宝と拝する義を否定しながら、現代の僧侶として、学会幹部、もしくは学会員全体を有髪の在家僧と立てたのである。また、「総本山──末寺──信徒」という本来の教団の在り方も廃し、「学会の会館は現代の寺院である」という意義付けの上から、「会館──会員(信徒)」という流れをつくり、会館で葬儀・彼岸法要・結婚式といった大切な儀式・法要を行ないだしたのである。
 池田氏は、はじめ「大御本尊と御法主上人」にお仕えすることを宣し、誓ったのであったが、会長に就任してわずか8年後には、化儀としての大切な葬儀等には、正宗僧侶の回向は必要なしという「在家仏教主義」を、既に指向していたことが判る。同時に、会員に対して、池田崇拝を巧妙に仕組み、長い時間を費やして洗脳し、自らは御法主上人を超え、宗祖大聖人にも値する存在であるかの印象を人に与えたのである。否、それ以前に、だれよりも自分自身が、本気でそのようなことを信じていたのかもしれない。そういう「一切が自分中心に動いている。全てが自分中心でなければならない」という大きな慢心と執着心が、在家である池田氏をして、自分を中心にした在家教団の設立実現ということにつながったのであろう。
 もともとの尊大な人柄にも由来するとはいえ、結果的に日蓮正宗の信仰からは大きくかけ離れ、信仰心もなくなり、総本山と正宗の御本尊という仏法を利用し、かつ多くの会員を犠牲にして、自らの支配欲・権力欲・名声欲を満たしているのが、氏の今日の悲しむべき姿である。少なくとも、今日、池田氏をみて、三宝を敬い、三宝に帰依する仏徒とは思いがたい。すなわち、仏宝たる日蓮大聖人を蔑ろにして、戸田前会長もしくは氏自らを仏であるとし、また僧宝たる御歴代上人と血脈を否定して、在家有髪の氏自らが、学会員に対して、自分を通して御本尊を拝する信仰を強要している。
 さらに信じがたいことは、いわゆる御本尊模刻ということである。一分でも信仰心のある者ならば、御本尊をいろうなどということは絶対に出来ないことである。そのことは、たとえ昨日入信した人でも、御本尊への信仰心があるならば、いわれなくても判ることであろう。
 このように、池田氏は、日蓮正宗の三宝の義を故意に無視し、学会を日蓮正宗の信仰とは異質な信仰集団として形成してしまったのである。すなわち、その異質な信仰とは、今日の在家における新興宗教によくみられるような、池田氏個人への崇拝を中心とした信仰で、御本尊と御書と池田名誉会長という図式の中での信仰である。25年間の長きにわたって、「広宣流布」という言葉と日蓮正宗の御本尊を利用して、池田氏自身が形成してきた池田氏への個人崇拝は、当然、学会法人設立時の三原則にも大きく違背し、さらに「誤れる三宝」への帰依は、当然、本宗の教義・信仰に背いた謗法といわなければならない。
 なお、平成2年12月末以来の学会の宗門批判は、52年路線のむし返しであるため、ここでは省略する。前回と違う池田氏の対応は、自分は一切表に出ず、幹部を駆使しながら、多くの洗脳された会員を道づれに、徹底して御法主上人や宗門に反逆・攻撃していることである。


 ロ 池田氏への個人崇拝の実状

 既に、昭和41年頃からおよそ25年の長きにわたって、他の者をして自らを絶対化させ、あるいは自らをして神格化させるという洗脳教育の中で、公称1千万人といわれるほとんどの学会員は、日蓮正宗で説く下種三宝尊への帰依・恭敬という本来の信仰から離れ、ただひたすら池田氏への個人崇拝に終始し、これをもって信心・信仰としてしまった。これは、前にみてきたように、日蓮大聖人の御在世より、昭和の初めに至るまで、700年間続いた日蓮正宗本来の「本師──小師──信徒」という、師弟子をただした正しい信仰の在り方ではない。本宗の信仰は、学会という組織の長であろうと、法華講という組織の長であろうと、その信仰における尊敬・敬愛の念を、組織の長に向けてはならない。信仰的尊敬・敬愛の念は、つねに僧宝たる御法主上人へと導かねばならない。そのためには、今日の法華講連合会の委員長のように、自らも敬い、他にも敬わしめることでなければならないのである。
 今日の多くの学会員の姿をみると、特に信仰の在り方について、会員各位が全て組織の言いなりであり、「自分で考える」ということが果たしてあるのだろうかと疑うほどである。
 例えば、今回の問題でも、「お寺にお参りに行くな」と指示が出されれば、実際には迷っている人・悩んでいる人もたくさんいるはずなのに、ほとんどの人は参詣しない。「寺院からのパンフレットや週刊誌は読むな」といわれれば、自分で読んで考え、判断しようとしない。寺院からパンフレットが送られてきても、寺院まで出向いていって、ことの真実を住職等に尋ね、自ら判断しようとする方は少ない。ただただ、大本営の発表たる「聖教新聞」等の学会の出版物や幹部の話しか耳に入れようとしないのである。「右を向け」といわれれば全体で右を向き、「左を向け」といわれれば皆で左を向くというのが、各自の主体性を殺している学会の姿である。
 池田氏は、会員には自分を仏のように崇めることを教えるが、会員には仏法でいう「無疑曰信」という信仰姿勢をダブらせ、「愚直であれ」と説いて洗脳する。「無疑曰信」とは、御本尊に対する絶対の信をいう。また、宗祖日蓮大聖人御建立の三大秘法の宗旨は、一往外相の上からいえば8宗10宗とある中で、いずれが正しいかを究明せられた上で立てられた仏法である。したがって、むしろ真実を究明し尽くした仏法であり、本尊である。はじめから考えることを止め押さえた宗旨ではないのである。
 今日の、特に婦人部や青年男子・女子部等はまことに愚直であり、仏法や世法の道理の上から考えて、学会の体質に不信を抱くということが全くなく、事の善悪・邪正を分別していく批判力が皆無といってよい。「愚直であれ」という言葉は、会員の盲従化を計っていく意味ではなかろうか。
 この学会組織に対する会員の無批判な態度は、どこから生まれてくるかといえば、ひとえに神格化された池田名誉会長に由来している。池田名誉会長が「絶対」であり、「偉大」であり、常に「誤りが無い」ために、学会という組織そのものも「絶対」であり、「偉大」であり、「間違いが無い」のである。したがって、幹部の指導も絶対であり、間違いないという構図なのである。
 問題なのは、池田氏への絶対化・神格化が、宗祖大聖人の最勝・最尊の仏法と信仰、すなわち「人の信ずる行為」とダブらせ、そして池田氏に対する、より強大な崇拝が形づくられているということである。同じ日蓮正宗の信徒とはいえ、法華講は自由でのびのびとした信心、個人の人格が尊重された自主独立の信仰をしている。この在り方に比べ、学会員の信仰は、画一的・統一的であり、そして全体主義的である。したがって、組織に対する批判はもとより、池田名誉会長に対する批判は全く許されない。また、第三者からの批判も、「一切が正しいことを行ずる為の法難」として、聞き入れる耳を持たないのである。まさに、信仰を利用した独裁者・池田氏の君臨する、不自由で不平等な息苦しい一種独特の体質をもった組織なのである。故に、学会の体質は、そのまま池田氏の性格の表われともいえよう。しかも、その洗脳教育のしからしむるところか、学会組織にいる人達の多くは、これを当たり前として、少しも違和感を感じないのである。
 昭和41・2年頃からの信仰の変遷に伴い、今日、結果的に仏法を利用して、自ら思うがままの支配・権力・名声を得ようとしていることと、尊い広宣流布のために精一杯御奉公しているということとが紙一重のため、なかなか見分けがつきにくい。しかし、少なからず多くの会員は、ただ純粋に池田氏を信じて、後者のために活躍していると思って疑わないのである。ただし、問題は池田氏である。池田氏自身の信仰の根本・大本に狂いがなければ、当然、後者であると判断されよう。しかし、池田氏の、三宝をことごとく蔑ろにし、破っている姿勢をみれば、前者の仏法利用と指摘されても、やむを得ないことであろう。
 いま、池田氏の側近の幹部・地方の幹部は、池田氏の在家仏教教団指向という誤れる謗法路線を守り、歩み、また正当化しようとしている。そのため、会員の葬儀を、正宗僧侶に依頼しないで、幹部の導師のもとに行ない始めた。これは、もちろん正宗700年の化儀を破壊する謗法行為であるとともに、つねに「大聖人の御精神のままに」といいつつ、その宗祖大聖人の示された化法・化儀の在り方に背く大罪である。
 何よりも伝統仏教の常識を無視し、信徒・会員が一番してほしくないことを、強引に押し通そうとする恐るべき行為である。これらは、全て池田氏への個人崇拝の徹底による、池田氏の日蓮正宗の仏法・化儀の私物化である。この個人崇拝は、また多くの会員の犠牲の上に成り立っているのである。池田氏への、この強大なる個人崇拝がこのまま続くならば、氏の願う在家教団として独立する可能性は大きい。


4.個人崇拝の誤り

 イ 人法一箇の御本尊と三宝一体

 本宗で拝している御本尊は、「人法一箇」の御本尊と称する。末法出現の宗祖日蓮大聖人を人の本尊として拝し、大聖人が久遠元初に証得せられ、また所持される南無妙法蓮華経の本法を法の本尊として拝するのである。すなわち、この御本尊には仏宝と法宝が、一体不二として既に具備されているのである。御本尊はそのまま御本仏の命であり、大聖人の御当体である。大聖人の御当体を離れては、妙法は存しないのである。
 ところが、特に学会員が御本尊を拝する場合、法宝たる南無妙法蓮華経の法本尊のところは拝しても、仏宝たる日蓮大聖人を正しく拝せてはいないのではないか。または、大聖人に戸田前会長・池田名誉会長を重ねて拝しているのではないか。このように御本尊を拝する基本的な誤りが存する故に、戸田・池田会長の本仏論がしばしば唱えられるのではないかと批判するのである。
 また、仏宝・法宝の一体不二がぼんやりと理解できていたとしても、さらに大切なことは、「帰依・帰命する仏法僧の三宝は常に一体である」ということを、心から領解できているかどうかということである。僧宝、すなわち日興上人以下御歴代上人への信順・信伏随従という姿勢をもって、人法一箇の御本尊を拝することが、三宝一体という拝し方である。特に御歴代上人は、本仏大聖人の仏宝の内証を付嘱・伝持遊ばされるただ一人のお方である。この事実の上から、特に本宗では、『御本尊七箇相承』に、
「代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」
とあるように、内証の上から代々の御法主上人を、即日蓮大聖人とまで拝し、信順して仏法の教導を賜るのである。このような大聖人の相伝・遺誡を無視して、ただ法宝としての御本尊のみを拝し、仏宝・僧宝を蔑ろにすることは大きな誤りである。つまり、仏法僧の三宝を、等しく同じように尊崇・恭敬していくことが、三宝への帰依ということである。

 

 ロ 二頭の信心の誤り

 もともと法華経は、仏の随自意の教えなるが故に、法・仏に対する絶対の信心と、「不受余経一偈」という純粋な信仰が求められている。故に、宗祖日蓮大聖人は、『日女御前御返事』
に、
「日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故によつて・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり」
とも、『上野殿御返事』に、
「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、(中略)此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり」
とも仰せられているのである。すなわち、宗祖御建立の三大秘法に対して、さらには三大秘法の本尊に含めた仏法僧の下種三宝尊に対して、余事をまじえない絶対・無二の信心こそ、成仏の直道なることを教えられている。大聖人の教義に対して、権迹のみならず外道の余事まで含めて敬い、まじえて玉石混交して、我見・計我の講演をしているのが、池田名誉会長の昨今である。
 「南無妙法蓮華経に余事をまじえない」ということは、ただ法宝のみについてばかりではない。帰依・尊崇する対境として、三宝は一体なる故に、仏宝・僧宝についても、同じく余事たる他仏・他僧をまじえないのが、日蓮大聖人の仏法である。
 「南無妙法蓮華経」の御本尊を受持し、題目を唱えていても、もし本宗で立てる仏宝・僧宝以外の仏・僧を敬い、崇めるならば、御本仏日蓮大聖人に対する絶対の信を失い、邪義謗法となるのである。このような誤った信仰姿勢を、「二頭の信心」といって、古来、本宗では厳に慎み誡めるところである。すなわち、日有上人の『化儀抄』第39条には、
「法楽祈祷なんどの連歌には寄り合はず、其の故は宝号を唱なへ三礼を天神になす故に、信が二頭になる故に我宗の即身成仏の信とはならざるなり云云」
同じく第40条に、
「帰命の句の有る懸地をばかくべからず二頭になる故なり」
と仰せのように、菅原道真を和歌の神として祭る連歌の寄り合いに集まり、神の名を唱えたり、礼をすることや、「南無観世音」とか、「帰命頂礼釈迦牟尼仏」等と、「南無=帰命」の文字のある他宗の仏・菩薩の掛軸を掛けたりしてはならないのである。それは、本宗で立てる三宝に対して、その信仰が二つになるからであり、余事をまじえない純一無雑の法華経の信心から外れるからである。
 「帰命」とは、仏法僧の三宝に、身命を捧げて帰依し、信ずることをいう。本宗の御本尊を拝し、題目を唱えていても、よく学会員がいうように「池田先生のリズムに合致したい」とか、「池田先生に命をかけてついていく」という姿勢は、まさにこの二頭の誤った信心のあらわれである。つまり、三宝に正しく帰命していないという、多くの学会員の否定できない現実の姿でもある。
 僧宝たる御法主上人の御指南・御指摘を、素直に拝することができず、池田名誉会長を護るためには、むしろ御法主上人すら軽蔑し、誹謗・悪口をしてしまう。このような今日の学会の姿は、ただ「心情的に敬愛しているだけ」ということだけではない。池田氏を「絶対者」、もしくは「絶対善」として崇めている証拠である。すなわち、学会員は、池田氏に対して、信仰の次元における仏・僧宝として崇拝していることに気づかなければならない。
 昭和55年11月26日、御当代日顕上人は、学会創立50周年記念幹部登山の折、
「もし、その会長に対する信頼と尊敬が、いわゆる神格化につながるようなことがあれば、それは明らかに日蓮正宗の信徒団体としての在り方から逸脱することになるのであります。」
と御指南されている。それにもかかわらず、この10年間、個人崇拝への大きな信仰上の誤りは、少しも改められなかったということである。
 このような池田氏への個人崇拝をする学会は、「釈迦仏」や「観音菩薩」を崇めながら本宗の信心をするという、誤った二頭の信心の姿を如実に物語るものである。すなわち、本宗で立てる三宝の中でも、とりわけ仏宝・僧宝を軽んじ、蔑ろにし、さらに破壊する、という信仰上の大罪であると断じなければならない。


 ハ 仏法の師弟と人生の師の誤り

 本宗の信徒団体の長たる者は、自らつねに本宗の三宝を敬い、さらに他をして、本宗の三宝を敬うことを教える立場でなければならない。ところが、自ら三宝を蔑ろにし、他には己に帰命し、己を敬うことを洗脳するとは、仏罰をも信じぬ恐れ多い破仏法の因縁・所行である。多くの会員に、絶対的なこととして己に帰することと敬うことを、本宗の信仰に結びつけて教えたのが、池田氏の師弟論である。
 我々が生きていくためには、世法のことから仏法のことに至るまで、様々な師を得なければならない。と同時に、その師に対する恩の大小・軽重・厚薄をも、弁えなければならないのである。世法のことを教えてくれる師よりも、三世にわたって出離生死の成仏を教えてくれる仏法の師の恩は、まことに大きく、厚いのである。したがって、成仏を目指して信仰をしていく者にとっては、世法の師よりも、仏法の師がより大きく重いことを知らなければならない。同じ仏法の師でも、直接の手続の小師よりも、本師たる御歴代上人の恩は大きく重い。さらに根本の正師たる本仏日蓮大聖人を、最も大きく重い仏法の師として仰いでいくのが、本宗本来の信仰である。
 細かい論証はここでは省略するが、戸田前会長も師と弟子については種々言及している。しかし、重厚なる仏法の師弟と、軽小なる世法の師弟の在り方は、いささかも乱すことなく、明確に区分されていた。ところが、池田氏は、世法と仏法の師弟関係を全て一緒にし、仏法の重厚なる師弟論を用いて、己を神格化してしまったのである。
 会長といえども、仏法の師弟の筋道からいえば、「解悟の善知識」でなければならないであろう。また、本宗の本来の信仰と教団の在り方からいえば、池田氏は、信徒会員を地元の末寺の小師に親近すべきことを教え、さらには総本山嗣法の本師たる御法主上人を仰ぎ奉ることを教える立場でなければならない。ところが、この本来の師弟の在り方を、根本から壊乱して、己に帰することを説き、永年にわたって会員を洗脳してきた悪書が、小説『人間革命』である。その最たるところは、第3巻の「結実」の章と、第10巻の「脈動」の章である。「結実」の章には、
「この若い革命家の『妙法への帰命』という理念は、具体的な実践でいうならば、希有の師への帰命、すなわち『戸田城聖への帰命』でなければならぬことを、彼は知ったのである。」
 これは、人生の師を、仏法における仏宝・僧宝と混じ、人生の師に対して、使用してはならない「帰命」の語を用いて、会長に対する会員の思いを絶対化したものである。すなわち自分が戸田会長に帰命してきたとすることをもって、そのまま自分の弟子である全ての会員にも、自分に帰依しなければならない、ということを示すものである。すなわち、会員に対する自分への帰依の強要である。
 さらに、「脈動」の章においては、
「師の意図が脈動となって弟子の五体をめぐり、それが自発能動の実践の姿をとるとき、師弟の連結は、はじめて師弟不二の道をまっとうすることが辛うじてできるといわなければならない。師弟に通ずる生命の脈動こそ、不二たらしめる原動力である。」
 ここでは、師の道を弟子が実践していくという「師弟不二」を説いている。文中、「脈動」とか、「五体」とか、「生命の脈動」等の語は、恐れ多くも唯授一人の血脈相承たる「血脈の次第日蓮日興」に模した、人生の師に対する師弟不二論である。つまり、人生の師弟関係に、仏法の大事たる「血脈」の義を盗み入れたのである。そして、「唯仏与仏」という仏の境界における師弟関係にまで持ち上げ、己を絶対化しようとしているのである。人生の師・世法の師と仏法の師とは、どこまでも一線を画し、同じ次元において論じたり、扱ったりしてはならない。それを、あえて同次元に扱って、仏と仏、もしくは御歴代上人における唯授一人の血脈相承のような師弟論を牽強付会し、池田氏自らの神格化・絶対化を計ってきたのである。
 師が仏法を信じ行ずるからといっても、それをただちに仏法の血脈相承に基づく師弟論にまで持っていってはならない。唯授一人の血脈相承は、我々僧俗が帰依する信仰の主体であり、我々はその信仰の主体に帰依し、信順し、弘通していくのみである。いかに帰依し、いかに信じ、そしていかに実践弘通していくか、それを教えるのが、組織の中での師弟論でなければならない。
 池田氏の場合、宗祖大聖人の絶対的な血脈相承に基づく師弟論を立てた所以は、ただ師匠への、すなわち自分への絶対度・崇拝度を高めるためである。その絶対度・崇拝度の大きさは、例えば「師が地獄に行くならば、自分も地獄に行く」という言葉によって表現される。学会内では、池田氏に対するこのような姿勢・生き方が尊ばれているのである。これでは一体何のための師弟論なのか。信仰の目的である成仏をするための師弟論ではなかったのか。学会でいう人生の師、とりわけ池田氏と、仏法の教導の師たる御法主上人、さらには根本の正師たる日蓮大聖人とを、同じ次元では絶対に論じてはならないのである。
 本宗においては、宗祖大聖人を仏と崇め、血脈付法の御法主上人を本師と仰ぐのである。その上で、地元の寺院住職を直接の小師として、本仏と本師、本師と小師、小師と信徒という縦の信仰の筋目を重んじるのである。このように、師弟子をただし、それぞれ超えることなく、師に随従していくことが、成仏の直道であり、師弟相対の本義である。故に、31世日因上人は『有師物語聴聞抄佳跡』に、
「当宗の即身成仏の法門は師弟相対して少も余念無き処を云ふなり」
と仰せられ、更に65世日淳上人は、
「師弟の関係を整へることが最も大事であって、此れを無視するところに聖祖門下の混乱があり、魔の所行が起ってくるのである。」
とも仰せられている。つまり、宗祖日蓮大聖人、2祖日興上人以来、本宗に伝えられてきた師弟相対の信仰が、いかに重要であるかを御教示されているのである。この師弟相対が重んじられる所以は、ひとえに本仏日蓮大聖人からの法水・血脈が、「本仏→本師→小師→信徒」という縦の次第で流れ通い、即身成仏の大功徳を成就していく、という教義に基づくからである。

 創価学会の伝統的な考え方の一つに、広布至上主義というものがある。つまり、「広宣流布するものは全てに勝れて尊い」という考え方である。日蓮大聖人の「広宣流布」という御遺命達成のためには、何をやっても、どんなことをしても、許されるという考え方である。むしろ、広宣流布という大義名分の名を隠れ蓑にした上で、世法の悪事や不善も、また仏法上の逸脱や謗法も、全て正当化されるという感さえある。
 また、今の創価学会の体質は、そのまま池田氏の性格が表われたものといえる。「広宣流布、広宣流布」といっても、もっと大事なことは、その流布していく根本・主体となるものである。つまり、「何をどう弘めていくか」ということが、一番重要なのである。
 今、学会でいう広宣流布とは、大御本尊と血脈を護持する唯一正統門流たる日蓮正宗を利用し、学会の組織を拡大していくことに、変質してしまっている。しかし、それは、日蓮正宗で伝える三大秘法の宗旨、さらには末法下種三宝尊、日蓮正宗の化法・化儀の広宣流布ではない、ということを正しく見極めなければならない。御本尊を拝み題目は唱えるが、仏宝・僧宝は蔑ろにするという、三宝破壊の学会の今日の誤れる姿勢は、当然、本宗本来の信仰ではない。池田氏自ら長年にわたって計ってきた、池田氏への絶対的な個人崇拝によって生じた異流義といわなければならない。すなわち、池田氏の、日蓮大聖人の仏法の私物化であって、まさに魔の所行と断ずるものである。
 どれほど、世法において名声を得ようとも、成仏を説く仏法に違背するならば、池田氏の「世界の偉大な識者たらん」とする言行は、単なる名聞名利の世事であり、本宗の教義とは無縁のものであることを知らなければならない。
 三宝に帰依し、三宝を護持する清信の僧俗は、どこまでも本門戒壇の大御本尊と、血脈付法の御法主上人を厳護申し上げ、富士の清流を未来永劫に流れ通わさんとするのみである。

     以  上 


葬儀について

1991-06-10 | 時局資料

        葬儀について      

              時局協議会文書作成班1班  

     はじめに  

 最近、創価学会では、各種会合において「冠婚葬祭について」なる文書を配布し、葬儀・法事・結婚式等の法要が、信徒のみで執行できるとして、僧侶不在の葬儀等の執行を、組織的に呼び掛けている。そして、各地において、実際に「学会葬」「同志葬」「友人葬」と称する葬儀等が、公然と執行されているのである。これは、信徒(その“一番の元”は池田氏)自らの勝手な都合によって、本宗伝統の成仏得道の化儀を、故意に改変するものであり、本宗の信徒としての身分を、自ら放棄する大罪行為である。したがって、本稿では、このことが破仏破法の因縁であり、まさに堕地獄の因縁となることを述べるものである。


1.学会の目指すもの

 (平成3年・1991年)4月上旬、池田氏は、
「学会教学部の師範を増やす。圏クラスまで広げる。準師範を新たに作る。師範・準師範が冠婚葬祭をやる。」
という旨の発言をしたといわれている。その後、5月3日に行なわれた「創価学会の日」記念式典で、実際に多数の教学部師範・準師範の認定授与式が行なわれた。これは、先の発言を組織的に具体化したものである。
 現在の池田創価学会には、宗門から離反し、新興宗教としての創価学会教、あるいは池田教として独立したいという願望が、あちらこちらから滲み出ている。しかし、池田創価学会が宗門から離反し、独立するためには、いくつかの必要不可欠な条件がある。
 その根本となる本尊問題は別として、その中には、会員の葬儀や法事・結婚式等の諸法要を、学会独自で執行しなければならないという問題がある。そのためには、在俗の背広を着た法要執行人、すなわち学会僧(仮称)をもたねばならない。池田氏はじめ学会首脳幹部は、この学会僧のポストに、学会教学部の師範・準師範を宛てたのであり、その認定授与式が5月3日だったのである。したがって、この学会僧の認定は、池田教として独立するための、教団の機構整備の一環にほかならない。


2.学会の葬儀等に対する意識

 学会の葬儀等に対する意識には、概ね二通りがある。一つは、中野毅氏小島信泰氏などが主張するもので、葬儀等は江戸時代の檀家制度によって一般社会に定着したとし、本来、大聖人の仏法とは何ら関係ないとする葬儀不要論である。これは、既に時局協議会文書作成班3班によって破折されているので、追ってみるべきである。
 もう一つは、
「大聖人の時代、信徒の葬儀は必ず僧侶が執行したのでしょうか。私どもの知る限りそのような例はありませんが、この点、ご教示を宜しくお願い致します。」
という質問書(東京第一・第二教区に対して、学会青年部から出された「謝罪要求書」の撤回を求めた理不尽なもの)などにみられるもので、葬儀はする(多くの会員の意識の上からせざるをえない)が僧侶は不要、すなわち学会員のみで執行するというものである。
 これは、おそらく海外や離島等において、僧侶不在の葬儀が行なわれてきたという事実を根拠とし、信徒のみで葬儀を執行しても成仏できると主張したいのであろう。このことの是非は後に述べることとして、彼らの本音が、池田創価学会の宗門からの独立願望にあることは、この質問の文面からみて、決して否定できないであろう。現在の池田創価学会の首脳幹部の葬儀等に対する意識は、この点から出ているといっても、過言ではない。
 さて、学会が独自に葬儀等を執行することについては、池田氏の謗法体質が、宗内一般に露呈した昨年末(平成2年・1990年)において、既に「今後の対応についての『Q&A』」という問答形式の文書を配布し、一般会員に指導を行なっている。すなわち、
 「Q.お葬式は、どうしたらよいでしょうか。
A.私たちは信徒であり、私たちがつくったお寺なのです
  し、それがお寺の仕事なのですから遠慮しないでどん
  どん依頼すればよいと思います。
   仮に、イヤだとか、お葬式はやってあげないとか言
  われれば、その時考えればよいのではないでしょうか。
  皆で清々しく題目をあげて、送ってあげてもよいと思
  います。
  ※35日忌、49日忌法要、結婚式等も、同様でよい
   と思います。」
 学会では、この頃(平成2年暮・1990年)、“突然の総講頭解任”“宗門の理不尽な措置”などと、あたかも被害者であるかのように、大声で宗門を非難しておきながら、葬儀や法事等について、この時点で、既にこのような指導をしていたのである。それまでの宗門に対する数々の挑発的な発言や態度と、このような対応の早さとを合わせてみるとき、実際のところ、創価学会では、このような状況を予め想定し、万端の準備をしていたのではないか、と思われてならないのである。
 換言すれば、学会員の葬儀等の法要化儀は、今まで、全て各寺院に願い出ていた。この伝統的事実に対しては、池田氏といえども、うかつに手を出すことはできない。そのために、予め書面を準備し、昨年末の学会問題表面化以来、それらを小出しにしながら、数箇月の期間をかけて、うまく根回しをしてきたのである。
 因みに、上記引用の内容からみて、この時点では、葬儀等の法要儀式は、一応、各寺院に願い出るが、寺院側より拒否されるようなことがあれば、その場合に限り、必要に迫られて、信徒間で葬儀等を執行するのもやむをえないという体制であったことが判る。
 しかし、現在(平成3年・1991年)、いわゆる学会葬を実際に執行する場合も、上記の条件を満足してはいない。例えば池田教への盲信から寺院に願い出ないケースもあるにはあるだろうが、中には、“寺院に葬儀を依頼すると、20万円ないし100万円の御供養を要求される”と、今までありもしなかったことを幹部から聞かされて寺院に願い出ないケースがあったり、幹部が恐いので、はじめから寺院に願い出ないケース、あるいは願い出ても幹部の脅迫まがいの説得に屈してか、喪主自らが辞退するケースもあるやに聞いている。これらは、確認こそしていないが、学会の異常な体質を知る者ならば、少なからず首肯できる情報であるといえよう。
 いわゆる学会葬を執行する人たちは、その原因はともかくとして、このようにして寺院に願い出ることもなく、悩乱した学会員らの手によって、本宗の化儀を勝手に改変し、葬儀等を執行するのである(このようなことを、平気で行なうことができること自体が、悩乱の現証であるから、“悩乱した学会員”というのである)。
 ともかく、現在の池田創価学会における葬儀等の諸法要に対する意識は、どのように与えてみても、本宗本来の化儀にのっとった純粋なものであるとはいえない。彼らは、本宗の化儀など、どうでもよいのである。要は、総本山や末寺、宗門・僧侶から、一般会員を離反させればよいのである。つまり、池田教独立のためには、その手段として、いかようにでも化儀を改変していくことができる体質なのである。したがって、この葬儀等の問題も、いわば池田創価学会の無信心体質の一分を露呈したにすぎないものといえる。
 所詮、1億7千万円入り金庫遺棄事件やルノワール絵画疑惑などをみても判るように、池田創価学会には、信仰を求める姿はなく、財源の確保に努めることに、その基本体質がある。このような団体は、到底、本宗の信徒団体とはいえまい。
 その証拠に、“正しい信仰を守るため”“宗門の権威的体質を改める”などと心にもないことを述べ、『聖教新聞』で虚偽・捏造で固めた悪辣・破廉恥極まりない記事を掲載して、宗門攻撃のキャンペーンを張ってきたものの、多くの会員等がみるに耐えず、発行部数が激減するや、たちまち『聖教新聞』における宗門攻撃キャンペーンを取りやめてしまったではないか。そして、5月3日には、池田氏自ら、
「『聖教新聞』を、最近若干減ってるらしいからねぇ、青木社長がねぇ、心配してるから、今日はあのぅ、約70万人の人が聞いてるわけだから、70万人の人、これから11月18日まで1部ずつ応援してください。いいね!(拍手)みんなも、みんな読むんだよ。」
と、会員に対して、さらに1部余分に『聖教新聞』を取るよう、強要している始末である。
 さらに、6月に入って、「『悦びの財務』を推進」などという活動方針を打ち出したのである。そして、「創立70周年の開幕を飾る財務」「広布万代の基礎をつくる財務」「自己の境涯革命に挑戦する財務」などというモットーを掲げて、特別財務が、あたかも本宗の基本的な信仰活動であるかのように宣伝し、一般の純粋な会員から、莫大な金銭をかき集めようとしているのである。このような池田創価学会に対して、本宗の純粋な信仰を求めるのは、もはや無理というものかも知れない。


3.学会の「冠婚葬祭について」の内容

 いわゆる学会葬は、本年2月、奄美大島で執行されたものが、その最初として報告されている。無論、地域差もあろうし、また葬儀の導師をする者もされる者も、それが本意であるかどうかは別として、現在では、かなりの地域で行なわれていることは事実である。
 池田氏は、4月11日の第40回本部幹部会において、「これから葬儀はどうしたらいいかな?心配しなくてもいいから。いくらでも会館があるから。OK?(はい)心配ない、そんなものは。(一部拍手)みんな、お経読めるから(笑い)。知んない人が拝めるんだから。ぜんぜん、心配ない。」
と発言し、また4月26日の第39回本部全体会議において、
「昨日、兵庫である人が亡くなった。家が狭いのでといって会館で葬式をやり、幹部が中心で勤行をやり、そして最後は『母の歌』で送った。」
旨の発言をしているが、これらの発言によって、大きく影響されていることも間違いない。同時に、この池田氏の化儀改変の指導を具体化すべき「冠婚葬祭について」なる文書が、B長クラスまでに配布された。これは、いわば学会僧のための、冠婚葬祭用マニュアルテキストといえるものである。
 少々長い引用となるが、現況を把握するため、全文を挙げておくこととする。
 「(1)通夜について
『題目三唱』引き続き『方便品』『寿量品』『自我偈』
『自我偈』『自我偈』『唱題』『題目三唱』で終わり。
(2)葬式について
故人もしくは遺族の要望で決定してください、組織で強制
しないこと。
学会組織で行う場合は『司会』をたてて、故人もしくは遺
族の御意向で『同志葬』または『友人葬』で行う旨紹介を
してください。
その場合は『戒名』はありません、本名で行います。『故
○○○○○殿』(大聖人の時代のままです、大聖人の時代
は戒名はありません、戒名がありますから俗名があります、
戒名がありませんから本名で行います)
『位牌』が必要な方は本名を書きます、その場合は『妙法
蓮華経』の文字は入れません(位牌は葬儀社が持ってきま
す)
葬儀の仕方について
『題目三唱』引き続き『方便品』『寿量品』長行が始まっ
たら『導師』『遺族』『親族』『参列者』の順で焼香を始
める、長行の『而説偈言』でお経をやめて、導師はそのま
まの姿勢で御書を拝読する、(参考)弥源太殿御返事(1
227頁)
『南無妙法蓮華経は死出の山にては・つえはしらとなり給
へ、釈迦仏・多宝仏上行等の四菩薩は手を取り給うべし日
蓮さきに立ち候はば御迎にまいり候事もやあらんずらん、
又さきに行かせ給はば日蓮必ず閻魔法王にも委しく申すべ
く候、此の事少しもそら事あるべからず、日蓮・法華経の
文の如くならば通塞の案内者なり、只一心に信心おはして
霊山を期し給へ、ぜにと云うものは用に・したがつて変ず
るなり、法華経も亦復是くの如し、やみには灯となり・渡
りには舟となり・或は水ともなり或は火ともなり給うなり、
若し然らば法華経は現世安穏・後生善処の御経なり。』
拝読が終ったら、司会より『弔辞』『弔電』の案内紹介を
する。終了したら『導師』は『自我偈』『唱題』『題目三
唱』で終了する。
(3)『過去帳』について
自分で本名を記入するか、もしくは字のきれいな方に書い
ていただく。
(4)『法事』について
導師(家族とか)を立てて勤行をされたら結構だと思いま
す、朝晩の五座、三座で常時供養を行っております。
(5)『結婚式』について
挙式だけは***会館で執り行うことができます。
申込みの方法・・・式の1ヶ月前までに***会館に申込
をして下さい、但し予定日に衛星中継とか会合が開催され
る場合は事前に変更がありますので了承していただきます。
式の内容・・・原則として媒酌人が導師をして勤行を行い
三三九度の盃を交わし終ります。司会と三三九度の役目の
方が必要になります、なお盃のセットは会館で用意をして
あります。
色々と判らないことがありましたら遠慮せずに***会館
等でお聞き下さい。」
 以上が「冠婚葬祭について」の全文である。
 この文書をみると、葬儀に関して、この文書がどこに出されてもいいように、「故人もしくは遺族の要望で決定してください、組織で強制しないこと」と規定している。しかし、4月25日、県長会の後で行なわれた全国事務局長会議では、「葬儀について具体化するように」との指示がなされたという。そこでは、「学会本部の指示ではないこと」と前置きした上で、
  会員の葬儀は会館で行なう。
  あくまで末端会員が学会葬を強く希望する声があった
  ということにする。後は、地元の自主性に任せる。
と、いわゆる学会葬についての極秘指令が出されたのである。すなわち、「冠婚葬祭について」でいう「故人もしくは遺族の要望で決定してください、組織で強制しないこと」という規定は、いわばダミーだったのであり、実際の状況は前述したとおりである。
 なお、このように学会組織の手で葬儀等の法要儀式を行なうことの根底は、いわゆる52年路線において、盛んにいわれた「会館は現代の寺院」の思想であり、何が何でも会館を中心としなければならないという、誤った思想によるものである。つまり、個々の化儀の改変は別として、全体を通して明らかなことは、やはり宗門離れ、否、宗門からの独立を目論んでいることにほかならないのである。
 昭和54年、池田氏はじめ当時の首脳幹部は、52年路線に対して、表面上、反省の素振りをみせた。しかし、近来の実際の行業が、52年路線と何ら変わっていないことは、このことからも充分に判る。日蓮正宗の一切の僧俗は、この学会の無反省の虚偽的体質を、もっともっと追及し、池田創価学会の首脳幹部に対して、徹底的な反省懴悔をするよう求めていかなければならない。なぜなら、もしそれができなければ、学会は、もはや日蓮正宗の信徒としての資格を、永久的に失うことが目に見えているからである。


4.臨終の正念と葬儀

 同志葬、あるいは友人葬ともいわれているが、その学会葬の誤りを指摘する前に、本宗の葬儀の在り方の基本を、まず述べておく必要がある。
 葬儀は、もともと臨終における厳粛な即身成仏の儀式であり、法事とともに、故人に対する追善成仏にその基本がある。大聖人は、『兄弟抄』に、
「仏になる道には・あらねども・はぢを・をもへば命をしまぬ習いなり、なにとなくとも一度の死は一定なり、いろばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ」
と仰せのように、死は人生の一大事である。『大智度論』に、
「臨終の一念は百年の行力に勝れたり」
と説かれているとおり、臨終の一念は、その人の人生における一大事である。しかし、この臨終の一念が正念となるためには、常日頃からの、たゆまぬ信行をもたなければならない。このことは、日寛上人の『臨終用心抄』に、
「臨終の一念は多年の行功に依ると申して不断の意懸けに依る也」
「先づ平生に心に懸け造次顛沛(ぞうじてんぱい)にも最も唱題すべし。亦三宝に祈ること肝要也」
等と御指南されていることからも深く拝される。
 したがって、臨終の正念を遂げるためには、僧俗各自が、日頃から、正しい三宝への信仰を正しく拝し、正しく行じていくことが大切である。もし、現在の池田氏はじめ学会首脳幹部のように、下種三宝の御意に背き、身勝手な信仰をしていたならば、絶対に臨終の正念など遂げられようはずはない。否、必ず三宝誹謗の罪によって、地獄に堕するであろう。よくよく心得なければならない。
 この臨終の正念の有無は、個々それぞれの信心の厚薄による。それに対して、葬儀とは、故人の信心の厚薄にかかわらず、遺族縁者の信仰心や報恩の意志によって、追善成仏のために執行するのである。この観点からすれば、故人の信心の厚薄と葬儀の営みとは、その主体性の上から区別されよう。そのために、また故人が信心堅固にして、臨終に正念を持ちえたならば、葬儀は不要であるとの論議も出てこよう。
 しかし、我々凡夫には、故人の生涯にわたる信心の厚薄など、到底、判断することができない。したがって、故人の信心の厚薄にかかわらず、追福作善をもって臨終の一念を助けて成仏得道せしめ、真の霊山浄土へと導くことが大切なのである。それが葬儀のもつ厳粛な意義である。
 このように、葬儀とは、まさしく人生における一大事の儀式である。したがって、この葬儀を軽んじたり、その化儀を改変したりすることは、三世を説くところの仏教を信仰する者としての資格が全くない。


5.仏教における葬儀の事実

 中野毅氏や小島信泰氏にいわせると、本来、葬儀は仏教の中に説かれていないようであるが、葬儀が釈尊の在世より行なわれていたことは、『仏説浄飯王般涅槃経』に説かれる浄飯王の葬儀や、『大般涅槃経後分』に説かれる釈尊の葬儀等によって、広く一般に知られている。あるいは、また阿難が釈尊に対して、滅後における葬儀の儀礼の在り方を問訊した『長阿含遊行経』も、また有名である。
 因みに、『仏説浄飯王般涅槃経』には、浄飯王を火葬した後、収骨して金函に盛り、塔を起てて供養したことが説かれている。このことは、釈尊の時代において、既に墓や塔婆につながる起塔供養が行なわれていたことを意味する。
 さて、周知のとおり、日蓮大聖人は弘安5年10月13日、武州池上の宗仲の館で、不滅の滅の妙相をお示しになられた。翌14日、本弟子6人が中心となって、戌の刻に入棺され、子の刻に葬送・火葬申し上げた。その時の役割次第等を、第2祖日興上人が『宗祖御遷化記録』に、克明にお書きになっている。
 また、日興上人は、正慶2年(元弘3年)2月7日、御遷化遊ばされた。その葬送の模様については、保田日郷が、『日興上人御遷化記録』に記している。それをみても、第3祖日目上人以下、僧侶が中心となって執行せられたことが、明白に判る。
 また、日有上人の『化儀抄』には、
「親類縁者一向に一人も無き他宗門の僧俗近所に於いて自然と死去の事有らば念比に訪ふべし、死去の後は謗法の執情有るべからざる故なり」
と、たとえそれが他宗門の僧俗であっても、その人に縁故者がいない場合には、ねんごろに葬儀を執行し、引導をわたすべきことを記されているのである。
 仏教儀礼の中に、葬儀が説かれているかどうか、これらの事跡をみれば、おのずと明らかであろう。下衆の勘繰りはすべきでない。


6.信徒の葬儀を僧侶が執り行う理由

 大聖人御在世中の信徒の葬儀についてみた場合、御書中には、故人への追善回向に関することは多く説かれているが、葬儀に関する御指南は、特別に見当たらない。しかし、それに近いものは説かれている。
 例えば、『忘持経事』によれば、富木常忍氏は、母の没後、間もなくその遺骨を抱いて、下総の地よりはるばる身延へと参詣し、大聖人にその追善を願い出ていることが判る。また、南条兵衛七郎氏の死去の報を聞かれた大聖人は、わざわざ上野の地へと赴いて墓参をされ、後年には代参として、日興上人を上野に遣わされてもいる。さらに、六郎入道の死去の折には、大進阿闍梨を代参として遣わされているのである。
 なお、日興上人の『曾根殿御返事』には、
「故尼御前二七日の御ために米二升・ゆふかほ三・はしかみ・牛房一束給い了ぬ、聖人の御見参に入まいらせて候」
と、曾根氏の尼御前の二七日忌の法事を行なったことが記されている。二七日忌の法事を行なっているにもかかわらず、2週間以前の葬儀を行なわなかった、などという本末転倒のことは、常識的に考えてありえない。
 これらの事跡をみるに、当時の葬儀の形態作法はいかようにもあれ、信徒の葬儀が執行されていたことは確かである。同時に、死後間もない法事ですら、大聖人や日興上人に願い出ているのであるから、葬儀においても、当然、大聖人や日興上人等の直弟子ないし各地域にいる門下の僧侶に願ったであろう。
 このように、法華経を持つ僧侶に、その追善を願い出たことは、誰人も否定できないことである。それを、日蓮大聖人の時代、信徒の葬儀を僧侶がしたか、しないかなどと、低劣愚昧な質問を弄するとは、それ自体が偏頗な邪見であり、愚の骨頂である。日蓮正宗の信徒であるならば、日蓮大聖人の御金言を根本として、御歴代上人の化儀に関する御指南を、忠実に守っていくのが、成仏のための在るべき姿である。
 これを本義からいえば、日有上人は、
「親の為には僧を供養すべし、其故は仏事とは無縁の慈悲に住する所なり、無縁の本体が出家なり、されば仏事には僧を供養するなり」
と、葬儀・法事等には、必ず僧に願い出て、僧を供養すべきであると仰せである。また、日因上人は、これを敷衍して、
「無縁慈悲の本体の出家と云うは、当宗出家の当体即仏法僧三宝なるが故、又本理を以て法と為し、智慧を以て仏と為し、慈悲を以て僧と為る故に、僧宝を供養すれば自ら仏界の供養となる義なるべし」
と、三宝一体の上から僧宝供養の意義を仰せである。
 もともと、仏法においては、何事をなすにも三宝の加護を願い、三宝への報恩供養をすることが、その基本である。この基本を心得れば、このような問題は、おのずから氷解するであろう。
 ところが、池田創価学会では、この三宝、特に僧宝をわきまえず、あるいは僧宝は日興上人御一人のみ、あるいは総別の二義を愍じて、信徒も直ちに僧宝である等と、両極端の僧宝論を立てているのである。これは、三宝破壊の大罪であり、僧俗師弟の筋目を失う大謗法である。
 日興上人が僧宝にましますことは、当然である。しかし、僧宝が、日興上人御一人のみとすることは、唯授一人の血脈家である本宗からみれば、大きな落ち度があるといわなければならない。日寛上人の『当流行事抄』や『当家三衣抄』を拝すれば判ることだが、また、『三宝抄』では、
「吾日興上人嫡々瀉瓶の御弟子なること分明也。故に末法下種の僧宝と仰ぐなり。爾来日目日道代々咸く是僧宝也、及び門流の大衆亦爾也」
と、明解にお示しである。すなわち、本宗の僧宝は、日興上人をその随一として、御歴代上人の全てを含むのである。また、総じていえば、門流の大衆、すなわち一般僧侶も、全て僧宝に含まれるのである。つまり、僧侶は師匠、信徒は弟子なのである。このことは、末寺の住職を僧宝と立てる住持三宝の在り方からみても、容易に首肯されるところであろう。
 故に、日有上人は、
「私の檀那之事、其れも其筋目を違はば即身成仏と云ふ義は有るべからざるなり、其小筋を直すべし、血脈違は大不信謗法也、堕地獄なり」
と、師檀の筋目を糾すべきことを仰せられ、日因上人も、
「私の檀那の筋目之を糺すべき事、此は師檀の因縁を示す檀那は是俗の弟子なり、故に師弟血脈相続なくしては即身成仏に非ず、況や我が師匠に違背せるの檀那は必定堕獄なり乖背は即不信謗法の故なり」
と、末寺住職と信徒との関係を、師弟子の筋目において示し、僧俗の関係を乱す信徒は、即身成仏はおろか、必ず謗法堕地獄であると決判されているのである。
 また、池田氏が、「宗門の御先師」と讃歎する日淳上人も、
『講中制度に就いて』の中で、
「講頭並に講中の役員は決して教師の意味を含むではいない筈であります。(中略)もとより布教等の場合には一分教師の役目を為すも差し支えないが、若し講員に対して純然たる教師のことを為すならば、あまり分をしらないことと考へます。」
と、僧俗の筋目・信徒間における筋目を御指南されている。論ずるまでもないが、創価学会の首脳幹部はもとより、たとえ池田氏といえども、日蓮正宗の教師僧侶の資格はない。にもかかわらず、教師僧侶のマネをするならば、あまりに自らの分を知らない、大増上慢といわざるをえない。
 現在、多くの日蓮正宗の信徒を撹乱し、この僧俗の筋目を乱して、破和合僧の大逆罪を犯しているのは誰か。まさに池田大作氏その人である。このような体質であっては、願業の成就など、到底、ありえようはずがない。同時に、このような学会の体制に従って葬儀を執行したならば、必ず地獄へ堕ちるのである。
 さらにいえば、大聖人の御在世であれば、大聖人に対する渇仰恋慕の思いから、葬儀に限らず、全ての祈念等を、大聖人ないし大聖人の直弟子等に願い出たであろう。それが、信仰というものである。法事もしかり、安産祈念もしかり、厄払い祈念もしかり、棟札もしかり、みな御書中にあるではないか。信徒は、皆、僧侶を師匠とし、僧侶に諸事を願い、僧俗和合して、その願業を成就したのである。それが、大聖人の仏法における規範である。このことは、『新田殿御書』の、
「経は法華経・顕密第一の大法なり、仏は釈迦仏・諸仏第一の上仏なり、行者は法華経の行者に相似たり、三事既に相応せり檀那の一願必ず成就せんか」
との文によっても明らかであろう。


7.信徒が葬儀等の導師を務めることの誤り

 前述したとおり、学会では、既にいわゆる学会葬を執行している。葬儀を執行するためには、必ず故人を引導する導師がいなければならない。池田氏は、その導師に学会教学部の師範・準師範を宛てたのである。
 現当二世にわたる人間の尊い生命の葬送を、浅はかな人間の凡智で安直に考えること自体が、増上慢の証拠である。まして、無理やりそれに従わせようとする学会首脳幹部の暴挙は、第一に大聖人以来の日蓮正宗の法灯を受け継がれた御歴代上人の遺訓を冒涜するものであり、第二に親や兄弟を成仏の道から引きずり降ろすものである。
 かかる己義を、平気で人に勧めていく罪障の深さたるや、到底、量り知れるものではない。学会首脳幹部、あるいは師範・準師範等の学会僧、さらにはこのような学会の葬儀観に迎合する学会員は、親や先祖はもとより、子孫末代をも、永久に地獄の淵に沈めることになる。その罪の深さを、まことにもって恐れなければならない。
 日蓮正宗の僧侶は、皆、必ず唯授一人血脈付法の御法主上人のもとで修行し、免許を蒙って法衣(素絹・袈裟)を着するのである。『出家功徳御書』や『当家三衣抄』を拝してみれば判るであろうが、本宗の法衣には甚深のいわれがあり、その功徳力は莫大である。僧侶は、その法衣を着するがゆえに、大聖人の代理、血脈付法の御法主上人の代理として、葬儀等の諸法要を営むのである。
 僧侶の資格もないのに、その資格があるかのように振る舞い、葬儀の導師を務め、引導をわたす学会僧は、まさに悪鬼入其身の私度僧というべきである。三宝を失い、師範・準師範という私度僧を立てて葬儀を執行しようとも、そこに即身成仏の功徳など、全くあろうはずがない。かえって、故人も導師も、もろともに悪業の因縁を増し、無間の業火に苦しみあえぐだけである。
 保田妙本寺の日継師の著『当家引導雑雑記』に、
「仰に云く不知案内にして亡霊の引導は悪道に堕すべし、是は法然弘法に超え過ぎたる罪障なり、彼れは謗法の衆生を悪道に引く、是れは持経者として其の霊を悪道に引き入れん事浅間敷き事なれば、我が檀那なりとも智者を頼み引導さすべきなり」
とある。たとえ妙法を受持している信徒であろうとも、その資格にない者が、自身の不徳を顧みずに葬儀の導師を努め、引導をわたしたならば、その罪障は、法然や弘法にも過ぎるというのである。まさに無間の業因にほかならない。ゆえに、いかに高位の信徒であれ、必ず血脈正系の出家僧に、引導を願わなければならないことは、理の当然であろう。
 富士の傍系たる保田郷門ですら、このように心得ているのである。いわんや富士の正系においてをやである。それを、自らの都合で、富士の傍系であるから当たらずという者がいれば、それは愚直というものである。そういう者は、天台大師の、
「明者は其理を貴び、暗者は其文を守る」
との言をよく思うべきである。
 また、即席の学会僧には知る由もないであろうが、葬儀において導師を務め、引導をわたすことは、大変な心構えが必要なのである。その心得について、『化儀抄』には、
「仏事追善の引導の時の廻向の事、私の心中有るべからず、経を読んで此の経の功用に依つて当亡者の戒名を以つて無始の罪障を滅して成仏得道疑ひなし、乃至法界平等利益」
とあり、また『当家引導雑雑記』には、
「引導師は智者に非らずんば叶ふべからず、其の故は死人は無心にして草木の如し、而も無心の者に心を入るゝ事は且らく導師の心地に有るべきなり、色々の心持ち相伝之れ有りと雖も初心の行者にては無二の道心に住して余念を絶し三世の諸仏御影嚮と祈念し、大聖人の御引導にて先師の取次ぎをし其の間の使と心得べきなり、其の時以信得入非己智分の文肝要なり」
とある。すなわち、僧侶は法衣を着し、私心なく導師を務めるゆえに、大聖人の代理として、故人に引導をわたすことができるのである。
 なお、離島や海外において、実際に僧侶不在の葬儀が執行されていることについて、その是非を、ここで若干述べておきたい。なぜならば、池田創価学会における、僧侶不在の葬儀を執行する最大の根拠が、この点に存するからである。
 現在、僧侶が導師となっての葬儀が執行不可能な場合、学会幹部が導師を代行している。その是非をいえば、是である。それは、僧侶が導師を務める葬儀が正式な化儀作法であるのに対し、僧侶の代理として学会幹部が執行する葬儀は略式の化儀作法に当たるからである。このとき、僧侶がその権能を学会幹部に依託するから、血脈の筋目の正しきによって、成仏が許されるのである。
 時局協議会で作成した『外護について』の中で、この「略」について述べているので、ここで引用しておく。
「略には、化儀は略式でも、意義は欠けることなく存する『存略』と、意義において欠けるところのある『闕略』がある(闕とはケツと読み、欠けること)。
 当家の方便・寿量の二品読誦などは存略であり、法華経一部二十八品を読む意義を存する。このことは、日寛上人の『題目抄文段』に、
 『“略”は闕略にあらず即ちこれ存略なり。故に大覚抄に云く“余の二十六品は身に影の随い玉に財の備はるが如し、方便品と寿量品とを読み候えば自然に余の品は読み候はねども備はり候なり”」
と御指南されている。
 このように、正しい筋道と信心の上から、略式の化儀が行なわれることを、『存略』というのである。」
 すなわち、上記のように、離島や海外の場合で、僧侶の導師による執行が不可能な場合には、略式とはいえども、そこには一体三宝の意義が存するのである。これに対し、現在の池田創価学会のように、我見で僧侶不要とするならば、それは『闕略』であり、僧宝の徳を欠くのである。このことは、前述したとおりであり、三宝一体の道理からみて、仏宝・法宝をも滅するのであるから、まさに三宝破壊という大謗法と断ぜられるのである。
 辻副会長をはじめ、現在までに葬儀の導師を務めた学会僧の面々は、以上のことをよく思慮して、2度とこのような大謗法を犯すことのないよう、自らの犯した大謗法を深く反省・懴悔し、速やかに本宗本来の正信へと立ち戻るべきである。


8.戒名・塔婆について

 葬儀に関連する中に、戒名・塔婆等がある。学会では、これらについても種々疑難し、大聖人の時代には、これらの習慣がなかったなどと、盛んに触れ回っているのである。
 まず、戒名についていえば、大聖人の御在世から存するのに決まっているではないか。大聖人の御父が妙日、御母が妙蓮、南条時光殿が大行、曽谷教信殿が法蓮である。そのほか御書を拝せば、いたるところにみられることである。
 池田氏のスピーチばかりを学習して、御書を拝さないから、このような愚直なことをいうようになるのである。真に日蓮正宗の信仰をしたいのならば、『新池御書』に、
「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし」
とあるように、現在の学会組織の体制に背いてでも、自らの所属寺院へと足を運び、僧侶から大聖人の仏法の正しい法理を学ぶべきである。それが本当の求道であり、池田氏や学会組織に対する本当の報恩というものである。
 さて、先にも引用したが、『化儀抄』の第6条に、
「仏事追善引導の時の廻向の事、私の心中有るべからず、経を読んで此の経の功用に依つて当亡者の戒名を以つて無始の罪障を滅して成仏得道疑ひなし、乃至法界平等利益」
とあるように、故人の無始の罪障が、戒名をもって消滅される意義が存するのである。故に、日亨上人も、
「亡霊への廻向には・其導師たるもの少しも私の意志を挟むべからず、御経の功用に任すべし、此時は蓋し、戒名に意義ありと意得べしとなり」
と仰せられ、日達上人も、
「追福作善の法事、あるいは葬式の引導の回向には、導師をなす人は、虚心坦懐いささかも私心を持ってはいけません。ただ読経唱題して、『妙法経力即身成仏』の功用にまかせる時、その亡者を戒名によせて、その亡者の無始いらいの謗法罪障を消滅し即身成仏は疑いないのであります。」
と仰せられているのである。このように、故人の無始以来の罪障を消滅させ、即身成仏へと導くことに、戒名の大事な意義が存するのである。
 したがって、「戒名はいらない」などと、自らの都合や我見をもって、一般会員に吹聴することは、それ自体、本宗の戒名の深義を冒涜する大罪なのである。
 次に、塔婆についていえば、池田創価学会は、「回向に塔婆を要しない」などという己義を掲げて、最高の孝養である精霊回向の道を閉ざし、宗門伝統の法義を失墜せんとしているのである。
 大聖人は、『中興入道消息』に、
「去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に丈六のそとばをたてて其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕して・をはしませば、北風吹けば南海のいろくづ其の風にあたりて大海の苦をはなれ・東風きたれば西山の鳥鹿・其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生れん」
と、塔婆に認められたお題目の功徳により、九界即仏界、仏界即九界の、当位即妙の成仏がかなうと仰せである。
 また、最蓮房に与えられた『草木成仏口決』にも、
「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり」
と、塔婆供養が、まさに死の成仏であると仰せである。
 学会青年部の中枢の面々が、これほどまでに御書から離れていたとは、呆れて開いた口が塞がらない。と同時に、今後、このような者たちが、創価学会を背負っていくことを考えると、本当に身の毛のよだつ思いがする。
 彼らは、自らの人生の師匠と仰ぐ池田氏が、サンパウロの一乗寺において、
「塔婆供養の意義について述べておきたい(中略)塔婆供養による唱題の回向によって諸精霊に追善がなされ、生命の我を悪夢から善夢へと転換していけるのである。」
と述べたことを知らないのであろうか。また、辻副会長も、
「父親が邪宗教をやった方であれば、ねんごろに塔婆供養をして回向することが最大の親孝行になるのです。」
と、述べているのである。
 本来、このような一切衆生の成仏、不成仏を決定づける法義は、どこまでも普遍的なものでなければならない。普遍であるがゆえに、信仰も成り立つのである。ところが、学会で説く教義は、目まぐるしく変わっているのが実状である。こうしたことを、学会員は、何も不思議に思わないのであろうか。はなはだ不思議でならない。
 このように、指導内容が極端に変わる根源は何かといえば、それは、池田創価学会の、日蓮正宗の信仰自体に対する、捉え方の変遷にある。すなわち、池田氏の名誉欲・権力欲・金銭欲等を満たすことが一切の中心となって、信仰と組織との比重が逆転し、仏祖三宝尊を根本とすべき信心が欠如してしまったのである。
 池田創価学会における本宗の信仰は、もはや池田氏の願望を満たすための手段でしかない。このような体質の学会組織では、いくら指導を受けようとも、御本尊の本当の功徳を得られようはずがないのである。創価学会の一般会員は、ここのところをよくみて、冷静に判断しなくてはならない。


   むすびに  

 以上、葬儀を中心として、池田創価学会の化儀改変の大謗法を破折してきた。
 結論的にいえば、池田創価学会の迷妄は、ひとえに池田氏一人の慢心にある。この慢心が原因となって、悪しき僧俗平等論を唱え、本宗本来の三宝を破壊して、多くの純粋な本宗信徒を悪道へと導き入れようとしているのである。換言すれば、三宝に対する池田氏の信心が欠如しているからこそ、慢心・欲心が燃え上がって僧俗平等を掲げ、かえって僧宝の捉え方を改変して、血脈付法の御法主上人までをも蔑如し、本宗の三宝を破壊するに至ったのである。
 かかる体質だからこそ、僧侶不在・三宝不具足の誤った葬儀を執行することができるのである。しかし、そのような葬儀を行なえば、そのまま導師も故人も、もろともに阿鼻大坑へと堕するであろう。同様に、三宝が整っていなければ、結婚式や盂蘭盆会・彼岸会をはじめ、いかなる冠婚葬祭を執行しても、そのよってきたる悪業報は同じく阿鼻大坑である。
 このような池田創価学会の似非信仰の体質では、到底、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布は、達成できない。否、たとえ池田創価学会による広宣流布があったとしても、それは、決して大聖人の仏法の広宣流布とはいわないのである。
 ともかく、創価学会員といえども、学会員である前に、日蓮正宗の信徒(※但し、平成9年11月30日以後は自動的に檀信徒の資格を失うことになりました)なのである。日蓮正宗の信徒である以上、正しい日蓮正宗の信仰の在り方を正しく心得て、正しく貫いていかなければ、本当の即身成仏の大仏果は得られない。今後は、謗法堕地獄の学会葬を執行しようなどと思うことなく、大聖人、日興上人以来の血脈付法の御法主上人のもと、日蓮正宗伝統の化儀化法に基づいた、立派な葬儀を執行していただきたい。
 日寛上人の『臨終用心抄』に、
「先づ平生に心に懸け造次顛沛にも最も唱題すべし。亦三宝に祈ること肝要也。又善知識の教を得て兼て死期を知り臨終正念証大菩提と祈るべき也。多年の行功に依り三宝の加護により必ず臨終正念する也。臨終正念にして妙法を口唱すれば決定無有疑也」
と仰せである。こうした正しい三宝への信とたゆまぬ行の在り方をしっかり心に留められ、未来永劫の成仏のために、正しい信心を貫かれることを切望するものである。

    以  上 

 

時局協議会シリーズ