つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

愚かな者であるために

2007-02-08 | Weblog
自然は客観である。
人はどんなに客観的に物事を見ようとしても
できない。
客観的に見ようと思うこと自体人の主観。
自然は法である。その法に従い生きて
経験としていく事で智慧となり、
智慧の身についた判断が客観的判断となる。それは
自然の判断であり、法の判断である。そのために 誤りとなることがない。
智慧の身についた判断には迷いがない為に、即断即決である。
あらゆる事柄に瞬時に正しく対応できる。
そのために よからぬことに出逢ったとしても
間一髪で避けられる。すり抜ける。免れていくようになる。

どんなに修行をしていても、世俗の中にいたのでは気が散ってしまう。
そのために山にこもり、誰ともあわずに自然と共に暮らす。
人の知識を排除して、自然に学ぶ己だけの経験で得た識を智慧として、
すべての事柄に智慧の判断で対処する。
それが自然の判断で、法の判断で客観的判断である。
法は浄化の法である。だから自然は浄化されたものとなって美しい。
自然には悪が無いために常に美しく善である。
だから人は自然を見て癒される。
善である自然に学ぶというのは八つの事柄を訓えられる。
其の八つの正しい事柄を
怠ることなく修めて自然となる。
実に簡単な事であって、誠に難しい。
だから極めた人は稀であり、極少ない。
救われる人が極めて少ないことに危惧して、
悟りを開いた人の慈悲によって般若心経が説かれた。
難しい修行をする事なくして、誰でも救われていく術を訓えている。
まさに信じがたい事であるが、
厳しい修行をして、悟りを開いて菩薩となった人の死後の世界から語られたものであるために、真実で嘘のないものである。
心経の訓えている通りにしていけば、幸せに直ぐたどり着けるのだが、
さて、悲しいかな、人は正しく心経を解していない。
菩薩はそれを心配したのだが、その通りになっているようだ。

神も仏も、人の心を思い通りにはできない。
ただ諭し示す事だけである。
その人自身が変えなければ変わることはない。
信じるものは救われると、悟った人達は同じく言うのだが、
人は疑って止まない。

コメント
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