つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

精げるという立場の力

2014-01-13 | Weblog
是、この法則にはこれといった目的はない。
だから、生命にもこれといった目的はない。
是がすべての存在を司っているもので、ただ廻る自由としての存在である。
そこに何ら思惑はない。自由というものに理由付けはないのである。
回る変化に対応しての存在となっているもので、緻密な仕組みもエネルギーの質、自由という変化の対応によるものである。
エネルギーというものが万遍なくあった。それは見えないが、陽炎のように見えて見えない揺らぎである。
力であり、引き合う力が離れる力を生んで表裏一体、相対した容を生んで、それが自由からなっている。
その自由に説明はない。そういうものであったというだけである。
片方は引き込み、片方は引き離れてすべての質となっている。
どれが正しいとするものでもなく、そこに応じて成り起ったものからの識として始まりとしている。
そのために、場が違えば識もまた違い、立場に応じての対応となっていく。が、質を知りその理があることを覚れば、
互いの事を思いやり、こうなのでは、あーなのではと互いの立場で考えられていく。
それは、研ぎ澄まされていくといったもので、優れるという自由である。精、精げるというものである。
それが是の質、自由に適うもので、明らかにキラキラと輝いていく存在となっている。
存在が有れば存在が無いという事も、存在から見れば有る。
存在の世界から見ればすべての逆である。
存在の中にも相対して成り立っているように、、その逆の過程も相対して成り立っている。
存在が明らかになっていくものと、無に向かうものと。それは共に同じ場に行きつく。
エネルギーがエネルギーにかえっていくのである。浄化されていないものと浄化されたものとの有無になる。
動きのあるものと動かないものとという有無である。どちらも安泰に行き着く。それを「無事である」という。
コメント
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