つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

曖昧の別離

2013-01-20 | Weblog
俗世、善い人でも悪い目にはあう。
悪い人でも好い目にはあう。不条理に思うが
人生はそういうことが多々ある。だから、生き辛い。
しかしながら、人の世に努力があり辛抱があり、我慢して耐え抜く過程があるのは、
必ずや報われるからである。
報いというのは、良くも悪くも絶対報う。正で報われると言い、負で報いと言われる。
行いの善し悪しによって善業は倍に報われて、悪業は倍々の報いとなる。
絶対報いるのであるが、それは一人生にとどまらないものであるために、理解されにくい。
だから、不公平だと思ったりもするが、そうはならない。
道理というのは、火のないところに煙は立たないものである。不条理というのはない。
悪い事はするな、悪い事はするなといわれるのは、法則に善悪がないために、
絶対善となっているためである。
これが法則であるために、法則に反して、摩擦となって消滅してしまう。
合わないのははじかれていくのである。それが苦しみである。
悪い人、悪い事の顛末は苦のみである。
死を免れる人はただの一人もいない。その時は絶対訪れる。
悪い事をして、他を困らせた人の死後は、それはそれは悲惨。言葉に表せないほどの苦である。
なぜ分かるのか。道の理は一本道だから、一を知って十が知れてくるからである。
その一は、善悪がないための絶対善となっている道の理、法則である。廻る法則である。
単純にして難しく、そのために、悪い人でも良い思いをする道すがらがあり、して、
難しくして単純である事を知り、悪い人は悪い目になる。善悪の善からはじかれて、
悪のみの世界になるために。「信じないよ」と思ってもかまわない。
ひたひたとその時は近づいてくる。法則は止まる事がないのだから。
必ず知る時が訪れるのだから。しまった、ごめんなさい。と謝っても取り返しは付かない。
道理は絶対である。曖昧がない。正負どちらかである。
この世は、正負入り混じったいわば階段の踊り場である。曖昧にある。
上るも下がるも自由である。 
上れば天上、天の国。下がれば地下、地の獄。
自由に踊れる踊り場は、狭くてただ曖昧に満ちている。だから、
付けなさい
コメント
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