つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

・・・間に合わない

2011-11-13 | Weblog
常に謙遜、常に謙虚で、
快い言葉をもって誉めることをする。
どうあれ、
人は、誉められて悪い気はしないものである。
嬉しいものである。お世辞と知りながらもである。
ただ心にも無いお世辞では煙たがれてしまう。
人皆こころあるものとして生きているものであるために、
まったくの心無しでは心なしかわかるのである。
人は、
誉められて生きられ、誉めて生かされるものである。
そのようにして生きる者の人生は賢明となる。
厭味なものが自然とはじかれていき、幸せに生きられる。

人の欠点は見ず、よいところをみて誉めて、とにかく、
人は誉められてよく育つものである。然るに、自分の欠点は見て、
よく省みることをする。そうすれば、誉め言葉にも正されて、
善い人に努めるようになっていく。

難しく生きていけば、実に難しいのが人生である。
単純にして、この世があるわけでないように、計り知れないほど難しいものである。が、
私達は、簡単にして、この世にあり、この世を見ていられる。
自分の計らいが何一つ無く、
御陰様で!
あまりにも難しく得がたい唯一のものとして誉められ、あるものである。
それだから、難しく生きずに、「まっいいか」と簡単にしていくも、難問の答えが導き出されていくものである。
感謝にあずかって、ゆえに、無闇に自害してはいけないものである。
生きる切符を手にしていることが、最大の救いの鍵となっているものだから。

苦しみに打ち拉がれているのなら、こそ、生きている間に問うのです。
問いながら問いながら間を埋めていくのです。
死ぬのが怖い、それが道理です。まだ死ぬなという。
間を埋めていくことによって、死なないでよかったという時が必然、来るのです。

善悪も無く恐怖も無いのが法則である為に、
善悪も恐怖も人の判断の誤りの存在なために、恐怖を無理やりに押さえ込んで死ぬ人の恐怖は、
絶対となり、死んでからも恐怖となってしまい救いようがなくなってしまう。
死んでからは間にあわないのである。

人は、自然に死が訪れれば恐怖とならなくなっていくものとなっている。
それが自然の慈悲の慈であるために。
無理やりとなれば、自然の慈悲も悲となってしまう。
慈悲の慈は天国であり、悲は地獄である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする