つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

省みる

2011-11-06 | Weblog
命は、それなりに知らなければならないことがあるための
環境に生まれてくる。不遇に生まれたとする人が、
過去の悪行によってそのようになっているということではない。
今生が幸せな環境にあるとしても、それが前世の行為によるのではない。その身の立場によっての心の知るところによるものである。
その心が知らねばならないための置かれた環境である。その環境にあって、
何を思い何を為したのかに
命の養いがかかる。無知であるためを利として徳と為したか、不利となしたか魂は問われた。

美男美女に生まれたものは得であると見てしまえば、金持ちに生まれたものは得と見てしまえば、
平等に欠ける。自然はどれも等しく偏りが無いものである。偏らないものである為に正確に回り存在となっているのである。
狂い無く明日がやってくる。だから信じられて生きていられる。歪であれば狂いが生じ、何もかもが正確でなく、信じられなくて生きていけなくなる。
存在とならなくなる。平等でないということはそういうことである。
平等である為に、醜さが美しさが貧困が裕福が等々、諸々が相反してある。それらは共に入れ替わり、
心の糧に使われる。ある人生はとして。
その立場、環境に於いて、謙虚さを欠いたり、過度に卑下したりして、堕情
であれば、いつの世もそぐわぬ思いとなって苦しむ。
俗世にさらりと因果応報はあるけれど、生命の真実の世界は、因果応報の世界である。
地獄は地獄、極楽は極楽、それを当たりまえとする世界である。
地獄であってもそれを正当としてしまう世界である。

今が幸せだからといって、今が不幸せだからといって
何も省みなければ、正されることも無く、
そぐわぬ思いに常に苦しみ、抜け出すことが無い。
地獄が当たりまえとなっていく。
苦しむことが当たりまえとなって、疑問を抱くことすらなくなる。
たとえて、汚物に群がり生きるむしたちのように。
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