つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

罰当たり

2010-11-07 | Weblog
自分のことは棚に上げて、
もっともらしく
あーでもこーでもないとまくしたてる。
人ほど厄介で、醜いものはない。
だから、私は
自分自身も好きではない。
生きているというだけで、消費し汚していくばかり。
他の命を消しながら生きながらえていくものであるならば、
その代償として
くだらなく生きては罰が当たる。
人生が辛く苦しいものであるのは、傲慢で省みることすらできない者への
報いである。この世に生を受けるものは皆
無明である。生きる意味を知らないために起こす過ちだらけの結果である。
全体が暗闇の中での、わずかに灯りをともせて歩まれた人が、「いや、幸せな人生だった」と振り返り言うのだろうが、
闇の中には違いない。
驕り高ぶりを捨てて、自分を下として
あらゆるものに畏怖の念を抱き慎ましくあるなら、地獄にも仏、「生きた甲斐があった」と言えるだろう。
あの世という空白の時を経て、
来世には、そのリセットされた思いを呼び覚まし、更なる戒めを持って生きているなら、
俗世に宿る縁も断てるだろう。一つ一つ魂の向上を図り、来る世来る世に、
与えられた場所において
戒め続けているなら、俗世の縁も完全と絶つものである。
この世に生まれることは苦しみである。が、
地獄にも仏はいるものである。これが生まれてきた一つの救いである。
誰が差し伸べるわけでもない、自分が気づくのみ。
この世には、‘してはいけない’というヒントがある。わかりやすいヒントである。
法則の慈悲である。そのヒントを汲み取り、慈の世界とするのが生きる目的である。
けっして悲の世界としてはならない。
魂の世界、生命は、慈が天国であり、悲が地獄である。絶対世界であるために、
赴いたところが変わらないとなってしまう。救いようのない世界となってしまう。
地獄に仏ということもない世界である。
慎み深く、今ある命を大事に。
気がついた瞬間、人生、遅いということはない。いつかの来る世、
生じる縁を持っているために、苦しみの生を受けるが、
仏もいる世界である。

 
コメント
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