自分のことは棚に上げて、
もっともらしく
あーでもこーでもないとまくしたてる。
人ほど厄介で、醜いものはない。
だから、私は
自分自身も好きではない。
生きているというだけで、消費し汚していくばかり。
他の命を消しながら生きながらえていくものであるならば、
その代償として
くだらなく生きては罰が当たる。
人生が辛く苦しいものであるのは、傲慢で省みることすらできない者への
報いである。この世に生を受けるものは皆
無明である。生きる意味を知らないために起こす過ちだらけの結果である。
全体が暗闇の中での、わずかに灯りをともせて歩まれた人が、「いや、幸せな人生だった」と振り返り言うのだろうが、
闇の中には違いない。
驕り高ぶりを捨てて、自分を下として
あらゆるものに畏怖の念を抱き慎ましくあるなら、地獄にも仏、「生きた甲斐があった」と言えるだろう。
あの世という空白の時を経て、
来世には、そのリセットされた思いを呼び覚まし、更なる戒めを持って生きているなら、
俗世に宿る縁も断てるだろう。一つ一つ魂の向上を図り、来る世来る世に、
与えられた場所において
戒め続けているなら、俗世の縁も完全と絶つものである。
この世に生まれることは苦しみである。が、
地獄にも仏はいるものである。これが生まれてきた一つの救いである。
誰が差し伸べるわけでもない、自分が気づくのみ。
この世には、‘してはいけない’というヒントがある。わかりやすいヒントである。
法則の慈悲である。そのヒントを汲み取り、慈の世界とするのが生きる目的である。
けっして悲の世界としてはならない。
魂の世界、生命は、慈が天国であり、悲が地獄である。絶対世界であるために、
赴いたところが変わらないとなってしまう。救いようのない世界となってしまう。
地獄に仏ということもない世界である。
慎み深く、今ある命を大事に。
気がついた瞬間、人生、遅いということはない。いつかの来る世、
生じる縁を持っているために、苦しみの生を受けるが、
仏もいる世界である。
もっともらしく
あーでもこーでもないとまくしたてる。
人ほど厄介で、醜いものはない。
だから、私は
自分自身も好きではない。
生きているというだけで、消費し汚していくばかり。
他の命を消しながら生きながらえていくものであるならば、
その代償として
くだらなく生きては罰が当たる。
人生が辛く苦しいものであるのは、傲慢で省みることすらできない者への
報いである。この世に生を受けるものは皆
無明である。生きる意味を知らないために起こす過ちだらけの結果である。
全体が暗闇の中での、わずかに灯りをともせて歩まれた人が、「いや、幸せな人生だった」と振り返り言うのだろうが、
闇の中には違いない。
驕り高ぶりを捨てて、自分を下として
あらゆるものに畏怖の念を抱き慎ましくあるなら、地獄にも仏、「生きた甲斐があった」と言えるだろう。
あの世という空白の時を経て、
来世には、そのリセットされた思いを呼び覚まし、更なる戒めを持って生きているなら、
俗世に宿る縁も断てるだろう。一つ一つ魂の向上を図り、来る世来る世に、
与えられた場所において
戒め続けているなら、俗世の縁も完全と絶つものである。
この世に生まれることは苦しみである。が、
地獄にも仏はいるものである。これが生まれてきた一つの救いである。
誰が差し伸べるわけでもない、自分が気づくのみ。
この世には、‘してはいけない’というヒントがある。わかりやすいヒントである。
法則の慈悲である。そのヒントを汲み取り、慈の世界とするのが生きる目的である。
けっして悲の世界としてはならない。
魂の世界、生命は、慈が天国であり、悲が地獄である。絶対世界であるために、
赴いたところが変わらないとなってしまう。救いようのない世界となってしまう。
地獄に仏ということもない世界である。
慎み深く、今ある命を大事に。
気がついた瞬間、人生、遅いということはない。いつかの来る世、
生じる縁を持っているために、苦しみの生を受けるが、
仏もいる世界である。